No.2 夜

 目が開いた。

 同時に襲い来る覚醒と半覚醒の間をユラユラと彷徨うなんとも表現し難い感覚。大体一週間ぶりだろうか。気持ちが悪い。


 枕元に置いていたデジタル時計を確認する。夜の1時。俺はゆっくりと包まっていた毛布から出る。

 不意に胸騒ぎがした。


 この胸騒ぎはおそらく昨日の昼に聞いた『クロノヒト』の話が原因だろう。

 病院での入院生活は、精神的にかなり不安定になるものだ。それが幼い子供なら尚更。特にあの手の都市伝説はそういった者に思わぬ作用を引き起こす。下手をすれば自分のように自殺を図ることもあるかもしれない。


 心配だ。

 そう思った時には既にアパートから飛び出していた。




 ◆同時刻、クロノ病院201号室にて



 カーテンの隙間から忍び込んできた月光を頼りに、恭二は漢字練習帳を眺めていた。正確には数えていないので分からないが、かれこれもう3、4周はしたのではないだろうか。練習帳は手垢で黒ずんでいた。

 結局、充は何を自分に伝えたかったのだろうか。最近はそればかりを考えている。


「クロノヒトに気をつけろ」


 あの時の充のように声に出して呟いてみる。消え入りそうな声で。悲しそうな声で。

 しかし夜に沈んだ病室の中では恭二の声に反応する者もおらず、ただ芽衣子とリュウイチの寝息が聞こえるだけだった。


 気をつけろ、というのだから何かしらの危機が自分か、それとも201号室の二人に迫っているのだろう。しかしその危機の正体が一体何なのか、恭二にはさっぱり分からなかった。


 言葉通りに取れば、クロノヒト(=あの世からの使者)が視察に来るので気をつけろという意味だ。しかしそんな超常的な者がもし存在するとして、その手から逃れる事など不可能なはずだ。警戒しようがない。

 次に考えたのが、ここクロノ病院の人(=医者か患者)に気をつけろ、ということ。しかしそれはあまりにも安直すぎる気がするし、何より最後に充が自分に渡してきた練習帳の説明がつかない。先に考えていた超常的な者の襲来を警告したものと比べるなら、幾分現実味のある話だが、こちらも見当違いだと恭二は思う。


 いや、そう思いたいだけなのかもしれない。仮にもここは人生の大半を過ごした場所だ。そんな第二の我が家ともいえるこの場所が、友人達を殺したなんて誰も思いたくはないだろう。

 甘さを捨てろ、そう自分に言い聞かせてみる。犯人は病院の関係者だ。何度もそう思い、先に進むのを躊躇った。その領域に足を踏み入れる。吐き気がした。けれど思考は止めない。


「うん、そうだ」

 恭二は苦笑いした。どうやら最初から頭の中では分かっていたらしい。



 犯人は病院の関係者だ。

 しかしその中でも誰が?


 ここで思考は暗礁に乗り上げた。おそらくそのヒントが、充に貰った練習帳にあるのだろう。

 恭二にとって充は優しい兄のような存在だった。将棋が得意で、よく相手をしてもらったものだ。充は様々な戦術を知っていて、いくら玉を囲ってもスイスイと攻めてくる。こちらも負けじと入院していた老人に教えてもらった戦術で対抗するも、ついには一本も取れることはなかった。懐かしい記憶に頰がほころぶ。


 不意に静かな病室に冷たい冬の風が吹いた。すると漢字練習帳は開いていたページから、パラパラと捲れ、何度か行ったり来たりを繰り返して、あるページでピタリと止まった。ふとそこに書かれていた漢字が目に映る。



 画数も少なく、かといってバランスが難しい訳でもない。あまりにも簡単だったので何故この漢字が中学生で習う漢字なのかと初めて見た時は首を傾げたものだ。もちろん自分は知っていたし、おそらく頭の弱いリュウイチでも知っているだろう。



 練習帳を閉じようとした時、頭に電撃が走った。

「......え?」

 あまりにも突然のことだったので、自分の思考が理解できなかった。いや、理解しようとしなかったのだ。理解を拒絶した心をなだめながら、もう一度先ほどの思考を辿る。


「............嘘だろ」


 半年間考え続けてきた答えが出た。


 ◆


 リュウイチの枕元に漢字練習帳を置いておく。次に真相に辿りつかなければならないのはリュウイチだ。比較的頭のいい芽衣子の方が回答を導き出す可能性は断然高いが、こればかりは最年長のリュウイチに解いてもらいたい。芽衣子はまだ9年しか生きていないのだ。リュウイチは11年も生きている。と言っても自分は8年しか生きていないが......



 扉の前でもう一度201号室を見渡す。充もこんな気持ちだったのだろうか。お腹のあたりがすごく重い。ここから逃げ出してしまいたい。

 しかし耳をすませば静かな寝息が二つ聞こえてくるのだ。だから自分が行かなければならない。


「......」

 扉を開けようとして思い留まる。すぐさま踵を返し、リュウイチのベッドに置いた練習帳の表紙に「クロノヒトに気をつけろ」と持っていたサインペンで書く。

 そして先ほどのページを開き、裏返して置いた。


「特大サービスだ。さっさと死ね、バーカ」

 リュウイチの寝顔に毒を吐く。死ね。死ね。死ね。バーカ。心の中で何度も何度も毒を吐く。それでもリュウイチは規則正しく息を吸い、そして吐いていた。


 恭二は溢れてきた涙を拭い201号室の扉を開ける。

 するとそこには見知った顔があった。銀プチメガネに能面のように表情の硬い顔が。

「恩田先生......」

 その者の名前を呼ぶ。


「気がついたのか?」

 恩田は廊下の手すりに腰掛ける。

「病院が犯人だと仮定しない」

「回りくどい、病院が犯人だと仮定しろ」

 全く......少しは気を使ってくれてはいいものを、と恭二はため息をつく。この人は人の気持ちがわからないのだろうか。


「病院が犯人だと仮定する。先に亡くなった人たちは夜の間に小児棟から集中治療室に運ばれている。その騒動で僕たちが目を覚まさないのはおかしい。だから彼らは密かに見知った者に呼び出されたかーー」

「ーーこうして自分の意思で行った」

 恩田先生がニヤリと笑う。初めてみるこの人の笑顔は醜悪なものだった。



 涙で。

 これには流石に驚いた。あの能面のような顔がグニャリと湾曲し、目からは大粒の涙滴を流しているのだ。あの恩田が。


「き、キミが行きたくないのであればここから出てもいい。換えの病院は手配する」

「いらないです」

 キッパリと断る。

 所詮この男もあちら側の人間なのだ。今ここで涙を流しているのがこの男の本心だとしても、それに抗おうとしない時点でこの者は敵なのだ。


「僕が行かないと、リュウイチや、芽衣子が死ぬんでしょ」

 恩田は何も言わない。

「裏口の扉が開いている。奴はそこから来る」

 恩田はそう言って地面から崩れて落ちた。暗い廊下に小さな嗚咽が響いた。


 ◆


 深夜のクロノ病院は月明かりに照らされてどこか神秘的な表情を見せていた。

 裏口から中に入ると、扉の前に見知った顔があった。

 瓶底眼鏡の少年ーー恭二である。

「来てよかったよ」

 俺は恭二の青い顔を見て切に思う。

「全部分かったんだな」

「驚いたよ。まさか病院ぐるみだったなんて」

 恭二は呆れたように鼻から息を吐いて踵を返す。内側から開いてるんだもんな、と自分を嘲るように笑った。おそらく裏口のことを言っているのだろう。


「えーと、まずあんたの名前だ。あんたは僕らにゲンノって呼ばれてたけど、あれは違う。正しくはクロノ。下の名前は......ヒトシとかそのあたりだとおもう」

「根拠は?」

「『玄』っていう漢字は『クロ』とも読むって知った。俺らは玄米の『玄』と同じ漢字だったから勝手に『ゲン』って呼んでたけど......

 あんたの名前を『クロ』って読むと仮定して考えてみたら、恐ろしく辻褄が合うんだよ」

 おそらく充に貰った漢字練習帳で『玄』という字を見つけたのだろう。


「まず裏口から入ってきたこと。あれはどう見ても内部の人間の協力がないと不可能だと思う」

「そうだな」

 待合室についた。

 恭二は扇型に広げられたソファーの最前列に座る。俺は受付のカウンターに腰かけた。


「あんたの親か兄弟はクロノ病院では上の立場にいる人だ。病院と名前同じだし......恩田先生を使っていたことも考えると、かなりのランクの人だろう。

あんたはその家族の立場を使って入院患者を惨殺している」

「正解だ。俺の親父はここの院長だ」

「で、充の言ってた『クロノヒトに気をつけろ』という言葉。これもあんたがクロノっていう名前なら辻褄が合う。あんたに気をつけろってことだ。

 充のことだからもっとひねくれた暗号かと思ったらかなりストレートで驚いたよ。以上」

 パチパチ。

 乾いた音がロビーに響き渡る。俺の手と手が合わさる音だ。

 恭二は俺の行動に動揺しながらも鋭い目つきでこちらを見ていた。

「なんで充を殺したか......か?」

 恭二の驚いた顔に俺は軽く吹き出してしまう。

「充もそんな顔してた。その前の綾もそうだ。陸もそうだった。みんな同じ質問するんだな」



「薬は好きか?」

 俺の質問に恭二は戸惑いながらも首を横に振る。

「何故薬を飲む? 症状が良くなるからだろ。俺の場合、それが人の血なんだよ」


 10年前まだ自分がクロノ病院に入院していた頃を思い出す。

 人には必ず転換期というものがある。人生の節目の瞬間だ。俺の場合、それがとなりのベットの奴の喀血が自分の口の中に入ったことだった。


「血を飲むとな、体の調子が良くなる気がするんだ。逆にここ最近はいい血を飲んでいないからか冬なのに体が熱い。日差しすらも肌が焼けてスゲー痛い」

 ここまで自転車で来るの大変だったんだぜ、と付け足す。


「何か言い残すことは?」

「あの二人には手を出さないんだよね?」

 ......全くどいつもこいつも同じことを言う。

「ああ、でもオマエが逃げたらあの二人は確実に死ぬぜ」

 俺は左手を首に当てて、首を切るジェスチャーをする。

「そっか」

沈黙が待合室を支配する。恭二は俺の頭の上をボーッと眺めて立っている。死に直面して今何を考えているのか、知りたいような、知りたくないような。


「死ねよ」

「充にも言われたよ」

 綾にも陸にもそう言われた。

「バーカ」

「ああ、オマエらみたいには生きられない大馬鹿だよ」

 ほどなくして鮮血が舞った。

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