クロノヒト
ういろう
No.1 昼
僅か4000字程度に登場人物がホイホイ出てきます。
ーーー
「あつっーー」
暑い。
とにかく暑い。
中天高く昇った太陽は髪をジリジリと焦がし、毛穴からは玉のような汗が流れ出る。
終わりの見えない坂道に俺は舌打ちを一つ。ギアをもう1段階軽くしてサドルから尻をあげた。以前なら「3」のままでも楽々坂を登りきることができたのだが、最近は平坦な道でも「2」だ。坂道なら「1」である。
ペダルを漕ぐ両足を鼓舞しながら坂道のてっぺんを見あげると、うっすらと緑色の文字でクロノ大学病院と書かれた看板が見えてくる。途端に胸の奥から懐かしい気持ちが込み上げてきた。
この場所には思い出したくなるような記憶など一つもない筈だ。殺風景の部屋を無理に飾ったような小児棟の病室。塩気のないメシ。重くて熱い体に、揺れる視界。食事のたびに付き合わす6つの土気色の顔。そして彼らの口からこぼれる赤い血。
辛い治療に耐えられずに屋上の転落防止柵を乗り越えたこともあった。
そんな記憶があるにも関わらず、この場所を通るたびに懐かしく思うのは一重に俺が今生きているからだろう。
横から排ガスと熱風を引き連れてタクシーが追い抜いていく。ちらりと見えた後部座席に座る老人は顔を真っ赤にして咳をしていた。
風邪か......それともインフルエンザか。
今年は感染しやすいウイルスなんだとか......俺は昨日のニュースを思い出した。
◆
自転車を駐輪場に留めて病院の中に入る。扇型に並べられたソファーの脇を通り、受付の方へ足を運ぶとそこに座っていた看護士に声をかけられる。
「き、今日はどのようなご用事でしょうか?」
静かな待合室には似合わない恐怖と焦燥が入り混じった声。よくよく顔を見ると、俺が入院していた頃に何度か働いている姿を見かけたことがある。
なるほど、通りで知っているはずだ。
「ホスピタルクラウン......医院長先生とかに聞いてませんか? 今日は小児棟にピエロが来るって」
「え?」
ポカン、と口を開ける看護士に背負っていたザックから取り出した赤いボールを鼻につけて見せる。
そこで看護士は合点がいった様子で、面会と書かれた名札を恐る恐る手渡してきた。
「まいど」
俺はそれを首にかけて、踵を返す。腕時計で時刻を確かめると、長い針が12の数字を指していた。遅刻である。
奥義型に並べられたソファーの横に備え付けられているテレビの横を横切り(テレビではつい最近起こった猟奇殺人事件についてのニュースが流れていた)東棟ーー小児練へと足を早める。
クロノ大学病院は地方の病院では最大級の規模を誇るらしいが、さすがは元入院患者と言うべきか、足が覚えている。お陰で一度も足を止めることなく目的地である201号室に辿りついた。
「半年ぶりにやっぽい、ピエロだよ」
ファンシーな声と共に勢いよくスライドの扉を開けると、部屋の住人達の視線が一斉に突き刺さる。この視線には覚えがあった。
よく自分も、いつ母親が見舞いに来るのかと首を長くして待っていたものだ。そしてその見舞い客が他人のものだと分かった時にはかなり落胆する。
今回は、部屋にいる者の全てがガックリと肩を落とした。
「なんだ、ゲンノか」
ため息混じりに悪態をつくのはこの部屋の最年長、リュウイチである。テーブルの上に広げられたトレーに箸を置いて、もうメシの時間も終わってるじゃねぇか、とゴチる。
どうやら遅れたことに対して怒っているらしい。
「いや、悪いな。ちょっと用事で......あと、玄米ご飯残すな」
一切手をつけられていない茶碗をビシッと指差す。
「おい、遅刻して来て説教かよ」
「それとこれとは別だろ。玄米はな、血液を浄化してくれるらしいぜ。つまりいい血になれる......とりあえず食っとけ」
「前はレバー食えって言って、今日は玄米......オレ、血液は別に悪くないんだけどな」
「体が悪いだろ」
悪態を吐くリュウイチの口元に玄米をぐいぐいと持っていく。お節介かもしれないが、こうでもしないと食べないので仕方があるまい。
それでも中々食べようとしないので......
「リュウイチ......アーンしてやろうか」
死ねーーとでも言おうと思ったのだろうか? 僅かに開いた口に玄米を無理やり押し込む。
「わぁ、リュウちゃんアーンしてもらってる」
背後で囃し立てる声が聞こえた。
振り返るとベットの淵に腰掛けて足をブラブラと動かす少女ーー名前は確か芽衣子といっただろうかーー骨が浮き出た顔で朗らかな笑みを作っていた。しかしその笑みはすぐさま醜悪なものに早変わりする。
「リュウちゃんはね、ホントは玄米ごはん食べられるんだよ。だけどねー構って欲しいんだよねー」
「は、はぁ!? き、今日は食いたくなかったんだよ」
「どうして?」
「なんとなくだ!」
顔を真っ赤にして弁明するリュウイチと、悪代官顔負けのゲスな笑みを浮かべる芽衣子。ここが教室なら他の子供も囃し立てるなどして更に騒がしいものになっていたはずだ。
「うっさいんだけど」
ピシャリ。
二人の高い声を飲み込むような落ち着いた、それでいてどこか寂しげな声が病室に轟いた。
「あ、ごめんな。恭二」
俺はすぐに声のした方向ーー窓際のベットの住民である少年、恭二に頭を下げる。恭二はなんでもないという風に手を左右にヒラヒラと振った。溜息混じりに。
しかしその際も瓶底のような厚いメガネを通して見ているのは俺ではなく、テーブルの上に置かれた漢字練習帳である。
俺はその姿に違和感を感じた。
この前来た時は、恭二はリュウイチと芽衣子が騒いでいるのをニコニコしながら一歩下がって見ている、そういう大人しい子だったはずだ。しかし今はなんだか違う、一目見てそれが分かる。
ひとまず話を聞こう。
ガリ勉野郎、と吐き捨てるリュウイチの耳を引っ張りながら、俺は病室の外に出た。後ろから芽衣子も付いてくる。
「プレールームにいるから、まぁ暇だったら来てくれ」
恭二は何も言わない。
具合でも悪いのかと聞こうと思った時、
「ーーねぇ『クロノヒトに気をつけろ』この意味分かる?」
俺の言葉を覆い被すようにして恭二はなおも言葉を紡ぐ。
「なんかの暗号みたいなんだけどね。よくわからないや。何か分かる?」
有無を言わせないような重量のある言葉。俺は何故か身震いする。
「わ、分からない」
その言葉を絞り出すまでにかなりの時間がかかった。
◆
プレールームの中央に鎮座している丸机に座ると、芽衣子がおもむろに口を開いた。
「充くんのこと覚えてる?」
頭の中に爽やかで利発そうな少年の顔が思い浮かぶ。確か最年長のリュウイチと同い年だったはずだ。
「充......病室にはいないと思っていたけれど退院できたのか」
おそらくこの話の流れからして違う、それが分かっていたが敢えてそう言った。そう言わざるえなかった。
「死んだ。この前ゲンノが来た3日後に」
芽衣子が口をつぐんだのを見て、リュウイチがぶっきらぼうに訂正する。
「朝起きたらあいついなくてよ。そんで先生に聞いたら夜の間に発作が起こって緊急治療室に行ったって。んで、昼には死んでた」
「そっか」
淡々と放たれる言葉に相槌を打つ。
小児棟の連中は皆、死と綱渡りの状態を余儀なくされている。それは今いるリュウイチも、芽衣子も、恭二も例外ではない。以前俺が来た半年前と3日後の日がたまたま充の日だった、それだけの話なのだ。
「で、亡くなった充と恭二にどんな関係があるんだ?」
言葉を濁さずに率直に聞く。
たしかに充の死は彼らに多大なる影響を与えたことだろう。しかし彼らは小児棟の子供。多くの死を見ながら、自分を保って生きていかなければならない。彼らはその強さを持っている。いや、持たないと生きていけない。
「充は殺された、恭二はそう思ってる」
「殺された? 飛躍しすぎだろ」
「充だけじゃない。先に死んだ連中みんなそうだ。綾も陸も......みんなが寝ている夜に発作が起こって死んだ、って朝になって看護師に聞かされるんだ」
「それぐらい......いや、でも確かに3人は多いな」
最初はドラマの見過ぎだろ、と笑い飛ばそうと思っていただけに、事態の深刻さについていけない自分がいる。
「それに発作が起きて苦しいはずなのに、横で寝ている俺らがその呻き声に気がつかないのはおかしい、恭二はそう言っている」
リュウイチは早口で言い終わった後、俺も最近はそうじゃないのか、って思ったり思わなかったりしている、と付け足した。
芽衣子はというと、困ったような笑顔を浮かべている。
「充くんは亡くなる前日に私達に漢字練習帳を渡したの。それも中学生の」
「中学生って......オマエらにはまだ先の話だろ」
学校に通学することができない小児棟の子供は少しでも体力のある内にできるだけ先取り学習をする。しかし彼らは低学年だ。中学生の先取りはあまりにも早すぎる。
「でも恭二はこれまでにやっていた2年生の教材そっちのけで中学生のやってるんだよ。何か犯人の手がかりがあるはずなんだ、て」
「犯人の手がかり......そういえば病室を出る前に恭二が言ってた『クロノヒト』っていうのは?」
俺の質問に芽衣子が記憶を探るように答える。
「それも確か充くんが亡くなる前に言ってたことなんだよ。『クロノヒト』に気をつけろって」
クロノヒト......スレンダーマンみたいなものだろうか。
「クロノヒトはね、死ぬ間際の人の様子を見に来るんだって。お迎えの時にコウリツよく天国に魂を送るために下見に来るらしいよ」
「都市伝説みたいだな」
信じるか信じないかはあなた次第、みたいな。
「都市伝説だよ、ただの」
その言葉を最後になんとも表現し難い沈黙が三人だけのプレールームにのっそりと覆いかぶさる。どこかでカラスの鳴き声が聞こえる。
気がつくとブラインドの隙間から細い赤色光が差していた。
そろそろ帰ろうか、そう思ったとき、不意にプレールームの扉が開いて、外から一人の医者がやってきた。銀プチメガネが冷たい印象を与える如何にも学者のような風貌をした男だ。確か名前は恩田、といっただろうか。この前ここでバルーンアートを披露した時も、なにかと難癖をつけてきた記憶がある。
「オマエ達、さっさと部屋に戻らんか」
「あ、ごめんなさい」
芽衣子が頭を下げる。リュウイチはというと、明後日の方向を向いてわざとらしく口笛を吹いている。見兼ねた俺が頭を小突くと、いいんだよ、と悪態をついた。
「プレールームの使用は15時までだ。それが守れないなら今後は使用を禁止する」
「すいません」
俺が謝ると恩田はフン、と分かりやすく鼻を鳴らす。相変わらず嫌な人だ。
「じゃあね、ゲンノ」
逃げるようにして芽衣子がプレールームから出て行く。リュウイチもそれに続いた。
途端に静かになった病室で俺も帰ろうか、と散らかしたものを片付ける。
「どうしてあなたはここに来るんですか」
声が上から降ってくる。声をした方向を見るまでもなく、恩田のものだろう。
「子供達の笑顔のためぇ」
なんとなく語尾を伸ばす。自分もどちらかといえばリュウイチ側の人間なので、こういった相手には反発したくなるのかもしれない。
「自分の私欲のためでしょうが」
「別にちゃんとピエロしてるんだからいいだろ」
「とにかく、今後一切病院には近づかないでいただきたい」
恩田はそれだけを言い残すとプレールームから早足で出ていった。
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