第2話
預けられた初日の夜にグミは熱を出した。昨夜の咳がこの前兆だったということは否定できない。幸いにも今日は金曜日で明日と明後日は週末で休みである。そして今夜、タカは夜勤で不在である。昨夜、タカは気にしていた、グミの体調を。無理をさせない方がいいと言っていた。美代子はグミに無理をさせたつもりはなかった。というのも、確かに咳は出ていたが朝には治まっていたし、熱も出なかった。ぐずることもなく、初めての保育室での母子の別れ際も泣くことはなかった。全てが順調だし、とにかく仕事復帰の初日を無事に終えることができたことに関して、美代子はほっとしていた。グミの看病は週末にやれる。仕事に支障は無い。
グミは息を荒くして汗をかいていた。体温計で熱を測ると39.7度であった。タクシーを呼んで夜間の救急外来で診てもらった方が良いだろうと美代子は思った。今まで多少の熱でもグミはぐったりすることはなかった。グミだけではなく子どもは皆そうなのだろうが、以前から美代子はインターネットで子どもの急な熱に関する情報も得ていた。熱に限らず、風邪の諸症状や食欲不振なども、子どもに活気があれば大抵の場合心配することはないという知識を得ていた。現在のグミは息を荒くし、ぐったりして見える。水分を摂らせてはいるが、確かにグミの尿がいつもより出ていない気がした。20時をまわったところである。美代子はタクシーを呼んだ。
タクシーに揺られながらの道中、美代子は考えることをストップできなかった。1年間の育児休暇を終え、職場復帰の初日は同僚や上司への挨拶をし、それから引き継ぎで終わった。上司は、徐々に勘を戻していってくれればいいから、と言ってくれた。今日は残業も無く、定時より少し早めに上がらせてもらえた。しかし、いつまでも甘えてはいられないことは美代子にも分かっている。家に帰り夕飯を終えてまったりしていると、グミの体が熱いことに気づいた。保育室に迎えに行ったときには、保育士からグミが一度も泣かなかったことを伝えられた。ぐずることも無く、穏やかだったということを聞いて美代子はほっとした。それもつかの間だったのだが。タクシーの中で美代子の目にはうっすらと涙が出ていた。グミは涙一つせず頑張ってくれたのに、自分は何て弱いのだろう。グミのためにもしっかりしないといけないのに。
「お子さんの具合が悪いんですか?」タクシーの運転手が聞いた。
「ええ、熱が出たもので」美代子は答えた。
「そうですか。夜に大変ですね。もうすぐそこですから」
「ありがとうございます」
美代子は泣いていることがばれないよう平常心を装い、やっとで答えた。窓の外はすっかり暗い。行きかう人もまばらである。
病院に到着した。
「1500円です」
美代子が財布の中を見ると、2千円札が入っていた。今はもう見ることもなくなった2千円札である。美代子はなんとなくそれを大事にとっていた。記念でもないし、思い出があるわけでもないし、レア物を集めているわけでもなかったのだけれど。その2千円札を財布から一枚取り出して運転手に渡す。
「おつりはいらないです。ありがとうございました」
運転手がじゃらじゃらとおつりをかき集めようとする前に美代子は言い放った。
「そうですか。この2千円札、珍しいですね。頂戴致します。ありがとうございました。お気をつけて」
タクシーのドアが開いた。美代子はグミを抱きかかえながらタクシーを降りた。ここは総合病院である。美代子は自分の幼いころを思い出した。美代子がまだ4歳くらいの時に、夜遅くに急な発熱でタクシーで病院に連れてこられたことがあった。ぐったりしていたことを覚えている。母親の冷たい手が心地よかった。幼い子どもにとっては怖い注射を泣かずに頑張れたのは、年配のふっくらとした女性看護師のおかげだった。さすがにもう20年以上も前のことであるため、美代子の記憶も大概ぼやけているのだが、その女性看護師のそのふくよかな体格にどこか安心したということを覚えている。気づいたら注射は終わっていて、看護師が頑張った美代子のことを褒めてくれたことをやや鮮明に覚えていた。それに加え、いつもなら家で寝ている時間に明々とした病院の中にいることに、美代子は内心わくわくしていたのだ。
待合室にはグミと同じような事情の子どもを抱いている母親がちらほらいた。もちろん、成人から老人までいる。日中ほどではないためソファにもゆったりと座れるだけのスペースがあった。グミは泣きもせずにぐったりしている。一方で、おそらく注射をされているであろう子どもの泣き叫ぶ声が処置室から聞こえてくる。美代子は早くグミを楽にさせたいと思っている。万が一変なウイルスをもらっていたりしたら……などと美代子は少し不安にも思えたが、やはりただの風邪に違いないとも思っている。どちらにせよ、熱で苦しんでいるグミを見るのは母親としても辛いことだ。
10分ほど待ってから診察室に呼ばれた。一応採血もされたが、医師の診断結果はやはり美代子の予想通りにただの風邪だった。3日分の抗生物質を処方され、タクシーで家に帰った。
22時近くになっていた。病院で処方された粉薬をお湯で練ってグミに飲ませた。そして、グミを寝かしつけようやく美代子は自分の時間を得ることができた。キッチンで湯を沸かして緑茶を入れた。やっと一息つける、美代子はほっとした。もしタカがいたら、どうなっていただろうか。わたしはタカに責められていたかもしれない、なぜグミの大事をとらなかったのか、タカが夜勤で良かった、と美代子は考えていた。今日は17時に会社を出て、確か17時半までには家に着いた。夕飯は、昨日下ごしらえしたものを温めただけのものだったが、それまではスムーズだった。こういう感じならばこれからも仕事を続けられると美代子は自信を持っていた。しかし、突然の(昨夜の咳が前兆であるといえばそうなのだが)グミの発熱で、自信が揺らいだ。
週末はグミをゆっくり休ませよう、今日一日、グミは頑張ってくれた、こんな母親のために、そう思いながらまた目に涙を浮かべながら美代子は緑茶を飲み干すと、そのまま床で寝てしまった。
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