第1話
この場所は、今はやりの「異世界」だった。「異世界」に来たばかりの新米には、身を守るための防具もなければ、敵と戦うための剣も与えられていない。現実世界の時と同じ服を身にまといっているが、ここではそれらはただの布きれにしか過ぎない。本質的なところでは、新米は心も体も完全に無防備だった。戦う術を知らない、されるがままの存在に過ぎない。しかし、完全に受け身ではなかった。新米といえども、新米にもできることがある。耳を研ぎ澄まして良く聴くことと、目を大きく見開いて良く見ること。耳には何かしらの音が入り、目にも何かしらの映像が入る。それらが脳で統合される。
しかし、わからないことが多すぎる。
新米の目の前にはトマトと人参が雑に突っ込まれたコップが置かれている。新米はコップを手に取った。コップの中を覗き込む。中に入っているトマトと人参は新鮮とは言い難いものであった。新米はそれらがすぐにまがいものだと分かった。朝ご飯はちゃんと食べてきたし、トマトと人参をコップに入れて食べる習慣もない。そんなものよりも、もっと前の方で転がっている青いボールの方が魅力的だ。急いでそのボールを仕留めなくては。しかし、新米に勝ち目はなかった。すぐさま、誰かがボールを手にした。初めて見る誰かである。その誰かはこの異世界に住んで長いのだろうか、何に臆することもなく、自然と立ち振る舞っていた。呆然とすくんだが、新米は諦めるのが早かった。それに、実際のところボールを追いかけている場合でもなかった。まず最初にやらねばならないことは、とにかく「知ること」だ。手足が接触している部分はひんやりと冷たい。しかし空気は寒くも暑くもなく丁度良い。外敵が襲ってくる気配もない。
命が脅かされることはない。
むしろ新米に近づいてくる者は誰一人としていなかった。
どのようにしてこの異世界に入りこんでしまったのだろうか。新米に記憶はなかった。ただ、今ここにこうやって存在しているということだけが、唯一確かなことであった。有名な話では、事故に遭い、意識を失い、気づいたら見知らぬ「異世界」にいた、というのがこの世界では鉄板らしい。正確に言えば、この世界というよりも「異世界」と呼ばれるカテゴリーに属している他の次元世界の大枠でのことであるのだが。
息をしている、この見知らぬ場所で。
生きてはいる。
そう、生きてはいるだけなのだ。そういえば、現実の世界では感じることができたものがここには欠けていることに新米は気づく。何かが欠けているのだ。それが何かは分からないし、思い出せない。床はひんやりとしているし、何の味わいも感じられなかった。
気づくと新米は動きを制御され、口の中に何かを放り込まれた。食べたことのある味だった。ほのかに甘く、口腔内の温度でそれは溶けていった。悪くはない、と新米は思った。むしろ、もっと欲しい。もっとそれを口の中に入れて欲しいとさえ思えた。異世界に放り込まれてから初めて感じた甘くて心地の良い体験だった。新米の望み通り、誰かがそれを言わずともくれた。先ほどまで味気なく無機質な空間で一人ぼっちと思っていたけれど、よくよく耳を澄ませば、カラフルな音が聞こえる。そうか、この小さくてほのかに甘いそれは魔法なのだと、新米は思った。それを口に含めば世界がまた変わるのだ。
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