グミ

かゆかおる

プロローグ

 ニュースによると明日は晴れるそうだ。きっと明日の晴れは貴重というべきだろう。というのも、もうすぐ梅雨がやってくるからだ。美代子は、去年の梅雨は笑顔でいっぱいだったことを思い出していた。この一年は美代子にとって、色では例えられない、無色ともいえる素朴な幸せで一杯だった。それがもうすぐ終わろうとしている。アジサイの絵が描かれた6月のカレンダーを見ながら、しんみりしていた。夏休みの最終日のような気分に浸る美代子であった。

 美代子の夫のタカはすでに眠っていた。グミもタカの隣ですやすやと寝息を立てている。起きているのは美代子だけであった。運動会や学芸会の前日ではない。明日提出の宿題に追われているわけでもない。ここ一年はグミを寝かしつけたあと、10時には一緒に布団に入っていた。しかし、今日は12時を回っても美代子は寝つけなかった。明日の準備は万端だった。忘れ物がないかどうかもチェック済み。明日の夕飯の下準備も済ませてある。スマホのアラームも5時にセットしてある。美代子が最後にやるべきことは、寝ることだけであるのにもかかわらず。

 


 このような感情は今になって頂上に辿り着いたのであって、前から徐々に登ってきたものである。美代子は他の人に比べると不安を感じやすい、というか、真面目に考えてしまうタイプなのである。しかし、ここまで登ってきては、後は下るだけである。そう、下るだけ。もう、幸せなんて……。自分で決めたことなのに、本当ははりきっていた、はずである。何を後ろ向きに考える必要があるのだろうか。美代子はカレンダーから目を背け、台所で湯を沸かした。どうせ眠れないのなら、もういっそのこと今晩は起きていようと思った。鍋の湯が沸騰した。ティーポットとか、湯沸かし器とかいったものはこの家にはない。味噌汁を作る鍋で湯を沸かすのだ。湯が沸いたらコップにそれを注ぎ入れて、スティックのコーヒーを振りかければ完成する。床に正座して、熱いコーヒーをずずっとすすった。セットしてあるスマホのアラームが鳴るのは4時間後。美代子はしばらくぼーっとしていた。早く夜が明けてほしい。ピアノ発表会で順番を待っているときのようだ。心臓がドキドキして、手に汗をかき、前の人が弾き終わるのを待つ。何故こんな思いしなくてはならないのか美代子は疑問だった。しかし、自分で決めた以上、やるしかない。いざ出陣の思いであった。

 


 こほっと、グミの咳が聞こえた。

「まんま、まま、まんまぁ」

 咳をしながらグミは泣いている。

 美代子は急ぐ風でもなしに、ゆっくりと立ち上がり、さらにコーヒーを口にひと口含んでからグミのところへ行った。タカがグミの背中をさすっている。

「美代子、起きてたんだ」タカが小さい声で言った。

 タカは美代子が起きていたとは思わなかったようだ。

「全然寝られなくて。ただの緊張よ。誰でも起こること」

 美代子はそう自分に言い聞かせるように答えた。

 グミの咳は止まる気配がない。美代子はグミのおでこに手の平当てた。じわりと手が温かく湿った気がしたため、美代子はグミの体温を測ることにした。体温計を取りにいく間、美代子は来たるべき朝のことで頭がいっぱいであった。今はグミの体調を気にしなくてはならないのに、美代子はグミの熱が高くなっていてもいいとでさえ思ってしまっている。いや、本当は熱があったら、だめなのだ。でもそれはグミの体の具合ではなく、美代子自身の心の葛藤にかかわることなのである。グミに熱があるのか、ないのか、どちらに転んでももやもやした気持ちは変わらないだろう。

 グミの体温は37.2度だった。

「微妙だな。まだ小さいからあまり無理させない方がいい」タカは言った。

「咳もまだしているけれど、これくらいの熱ならなんとかなるわ。朝になっても咳が続いていたら薬を飲ませることにする」

「くれぐれも美代子にも無理しないでほしいと思ってる。グミはまだ小さいんだから」

「ありがとう。分かってる。タカももう寝て。グミのことは私が見てるから」

 タカは気を使ったのか目を閉じた。グミは泣きながら咳をしている。スマホで時間を確認すると午前3時になっていた。無理をさせない方がいい、というタカの言葉が美代子の頭をぐるぐるとまわる。

 グミの咳が止まり、寝息が聞こえてきたと同時に美代子も眠りについた。


 昨夜セットしたアラームが鳴った。一瞬で美代子の目は開いた。起きなければ! という気持ちが美代子の身体を奮い立たせた。グミはすっかり咳もなく穏やかに眠っている。タカも目を覚ました。

 美代子はそっとグミのおでこに手の平を当てた。熱くない。息も荒くないし、大丈夫だ、と確信を持った。それから台所へ行って朝食の準備に取り掛かる。朝食といっても、簡単なものだ。フライパンでトーストを焼き、バターを塗ってお皿にのせる。既に洗ってあるプチトマトを2個添える。

「時間は大丈夫?」タカが聞く。

「まだ6時にもなってないわ。大丈夫よ。味噌汁もあった方がいい?」

「いらない。コーヒーで十分だ」

「そう。じゃあお湯沸かすわね」

 朝の何気ない会話である。美代子は、これからもこんな風に穏やかな朝を迎えられたら、と願う。

 


 美代子は完全に寝不足であった。1時間寝られただろうか。しかし不思議と頭ははっきりとして冴えている。交感神経が優位になり身体が闘争状態になっている。てきぱきといつもの朝するべき家事をこなしていく。

 


 タカは7時に家を出る。電車とバスを乗り継いで1時間のところにある職場へ向かわなければならない。このことに関しては日々のルーティンであり、タカも特に不平不満を漏らしたりはしていない。家庭を持つ男性であるならば多少の通勤時間はかかるであろうし、1時間は長くも短くもないだろうと美代子もタカも思っている。

 問題となるのはタカの方ではなく、美代子であった。実際に問題となるのかどうかも分からないが、おそらく問題となるだろうということに美代子は気づいていた。

 6時になった。美代子はグミの様子を見に行く。グミはまだ寝ていた。時間はまだあるため、今起こす必要はない。咳はしておらず、穏やかな呼吸であった。美代子は一安心して、リビングへ戻った。



「ちょっとばかり早く目覚ましセットしちゃったみたい」と美代子は言った。

「僕もそう思ったよ。でも初日だから、こんなものかとも思ったよ」タカは笑う。

 


 しばらく二人は沈黙していた。もともと美代子もタカもそんなに口数が多い方ではなかった。

 美代子は早く焼きすぎたトーストをかじった。案の定トーストは冷たくなっていた。飼いならされたラットのようにトーストをかじっていく。途中でコーヒーを飲み、喉の通りを良くする。タカだからこうやって静かな、静かすぎる空間も落ち着くことができる。だから、美代子はタカと結婚した。

 タカがテレビをつけた。朝のニュースがやっている。内容は芸能人が飲酒運転をしたというものだった。

「乗るなら飲むな」タカが言った。

「簡単なことに思えるけど、案外、そういうのって難しいのよ。きっと」

「目先のことしか考えずに、怠慢になるのが人間。誰もが法律に従順だったら警察も苦労しないよ。でも、法律に従う人間だけの世界は訪れないし、訪れてはいけない。法律を守る人もいて、破る人もいる。色んな人がいるから『世界』なんだろう」

 タカは時々こういう話をしたがる。美代子はタカのこういうところは嫌いではないが、度がすぎてしまうと、反社会的側にいってしまうのではないかと不安にもなる。そのままぼーっとニュースを見ていると、グミの泣き声が聞こえた。



「グミ」美代子は優しい声でグミに声をかけた。

 普段のグミは寝起きが悪くない。しかし、今日は何かを感じ取っているかのようにぐずっている。

「グミ、もう6時半。起きようか。おはよう」

 美代子はグミのおむつを替えた。それから泣きわめくグミを担いでリビングへ行った。

「おはよう」タカがグミに向かって言った。「グミはいつものでいいんだっけ?」

 美代子は小さく頷いた。

 タカが牛乳をお椀に入れて一枚食パンをちぎり、それに浸した。

「ありがとう」美代子はお礼を言った。「後、トマトとバナナもお願い」

 タカは1個のプチトマトをさらに4等分して、バナナを小さく切った。タカはてきぱきとそれらをこなした。

 グミに朝食を与えたあと、美代子はグミの体温を測った。36.9度だった。ほっとするのもつかの間、今日持っていかなければならない連絡帳にグミの体温と朝食の内容を書いていく。それからグミを着替えさせ、7時にタカを見送った。ここまでは完ぺきと、美代子は心の中でつぶやいた。グミの機嫌も良くなったようだ。



「グミ、今日からにこにこルームへ行くよ」美代子はグミに言った。

 グミが理解しているとは思えないが、一応本当のことを伝えなければと思っていた。グミはまだ何も理解できる年齢ではない、しかし、良くも悪くも感じることには長けている、ということを美代子は来たるこの日まで肝に銘じていた。

 7時半になり美代子はグミをおんぶ紐で背負い、アパートを出た。風がじめっとしているが天気は悪くない。

 美代子はグミをおんぶしながら自転車にまたがった。

「レッツゴー!」美代子は明るい声でグミに聞こえるように声を出して自転車を漕ぎ始めた。




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