第16話
僕は半分寝ぼけたような眼を必死になって覚醒するが、追いつかないほど急速に晴臣さんが間を縮めてくる。
僕はもう、上半身をその布団の上に起こし、右手で眼の覚醒を促すために目頭を抑え、その反対の手で体を支えていた。
晴臣さんの腕が僕のほうに伸びてきたので僕は反射的に身構えた。怯える犬よろしく尾を足の間に挟んで。
でも
晴臣さんはその手を宙に浮かせたまま、どこにやろうか迷うようにきょろきょろと移動させ、それでも決まらなかったらしく、結局自分の体に戻した。
晴臣さんは無言のうちに僕が今の今まで横になっていた布団の掛け布団の足元に胡坐を掻いた。
それからじっと僕を見た。にらまれるように、もちろん今更ながら説明するのもうとましいが、優しさや愛おしさなど微塵も感じられない瞳でだ。
僕はあの時の事を思い出していた。
晴臣さんが僕の部屋にやってきたあの日。
僕が無謀にも晴臣さんに刃を向けたあの夜だ。
外はもう秋の終りで、もう、すっかり冬の様相を呈している草木には虫はもう隠れておらず、ただただ冷たげな風の唸りと木々のざわめきが聞こえるだけだ。
なのに晴臣さんが僕の部屋に来ている事実だけが、僕をあの秋の夜に引き戻していた。
僕はあの時思った。
もしかして何か用があって晴臣さんは僕の部屋に来たのではないだろうかと。
それは今この瞬間には全く信用できない疑問ではあったが。
どうしてか今回ももしかしたら晴臣さんが何か僕に言うことがあってここまで足を向けたのではないかという淡い期待交じりの疑問が僕の心に軽く引っかかってはいたのだった。
しかし、晴臣さんはあの時のカッターを取り出して、僕の目前で刃を引き出すと、それを憎らしげに眺めてから僕に視線をもどした。
ゆっくりと晴臣さんの右手が伸びる。僕はびくりびくりと痙攣みたいに体を弾ませながらも、自分が今いる場所から逃げ出すことがとても出来なかった。
そのままその右手は僕の首をゆっくり、しかし異常に力強く握った。片手だというのに、気道をしっかりとつぶされているせいか、しだいに呼吸が困難になってくる。
あっ、と自分でも苦しげな声が出たと思った瞬間、扉が豪快に開く音がして、どたどたと足音が部屋に響いた。
さすがに晴臣さんも、すこしはっとした表情でふすまの方に振り向いた。
そこには木下大尉が息荒く立っていたのだった。
「やはり、あなたでしたか。用心のために盗聴器をつけていて良かった。」
晴臣さんは、暫く沈黙した後、口を開いた。しかし、いつものように嗤ってはいなかった。
「へえ、なんと隊長殿は警察の真似事までなさる。こいつは驚きだ。」
「なんとでも言ってください。何を言われても、私には部下を守る権利と義務がある。」
「部下を守る、ね。たいした大義名分だ。」
「こんな深夜に、一体何の御用で私の部下の部屋に少佐ともあろう方がいらっしゃるのかお聞かせ願えませんかね」
「それに答えたら開放されるんですね」
「答えによってはです。」
木下大尉のそれを聞かないうちに晴臣さんは、呆然としていた僕の首を掴んで壁に激突させた。
がんっと強い衝撃が頚部と後頭部にあって、それから白黒する眼の顔面を二、三度強くはたかれた。
そのあまりの急な激昂振りに暫く木下大尉は驚き何もいえないで居たが、それでもはっと思い出したように、晴臣さんを止めに入った。
しかし晴臣さんの力は抑制の気配を見せず、木下大尉の頬も何度かその腕で払われてしまった。
ぐっと首を絞める手に力が入るのを感じて僕の意識が遠のいていく。しかしそれでも僕は今ここで落ちるわけにはいかなかった。必死に晴臣さんの腕と自分の頚部の間に指を挟みこませ気道を確保する。しかしそれに気付かないわけのない晴臣さんは首を圧迫する手を弱め、自由な足で僕の腹をこれでもかと蹴りつけた。
ぐたりとなった僕の体を起こしてしっかり立たせようと、髪の毛をひしと握り壁に押し付ける。何度かがんがんと後頭部を壁にぶつけられながら、それでも必死に意識を保とうと僕はやっきだった。
「少佐、あなたは自分が何をしているかわかっているのですか」
「出てってくれませんか。あんた激しく邪魔だ。今からこいつを犯して弄ぶんで、消えてくれませんかね」
木下大尉は何も言えず、立ち尽くしていた。恐怖で足ががくがくわなないていた。それが僕のかすれかけた視界からでもよくわかった。
がんっと左わき腹に今までにない強烈な蹴りが入り、僕はそのまま右に倒れ掛かった。
「消えろ」
うずくまる視界から、僕は木下大尉の後ろ背を見た。
ふすまから消えたその影は戻ってくる気配を見せなかった。
その時今まであった鈍痛でなく、鋭い痛みが左わき腹に走った。はっとして見るとあのカッターナイフが壁に突き刺さって僕のわき腹をかすっていた。
わき腹に出来た新たな切り傷は次第にじりじりといやみな痛さを響かせる。
寝巻きである浴衣が次第に血に染まっていく。
「部下に…盗聴器だ?」
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