第15話
「おい、いつからそんなにえらい身分になった。誰が名を呼ぶ事を赦した」
木下大尉が少佐と叫んだ。僕は、すでに体が硬直して動かない。清水も果たしてそうだろうか。
「この人数の前で暴力を振るったら、委員会に即訴えますよ。それ以外でもあんたには余罪があるんだ」
「へえ、大尉がご存知のことで何か僕は罪を犯しましたかね。それは知らなかった」
晴臣さんは僕の首を引っつかんだまま軽く嗤った。その振動で少しずつ首が圧迫されていくのがわかる。
「それを言っていいんですか。それにあなたは耐えることができるんですか。」
「さあ言ってください。僕には何の事か全くわからない。かえって教えて欲しいくらいだ。さて僕は一体何を侵しているって言うんですか。」
「設楽を放してください。話はそれからだ。」
「こいつに俺が何をしたって知ってるっつうんじゃないんですか。お笑いだ。こいつに懸想を持ってるのはあんたじゃないのか」
「…設楽を、毎晩自室に連れ込んで朝まで出てこない、朝集合時間に来たと思ったらふらふらだ。それどころか体中に無数の痣が出来ている。単に手篭めにされている隊員なら数多く居る、だがあんたがしてるのはそれだけじゃない、変質的なサディズムだ。自分の性癖まで見えなくなっておいでなんですか我が隊の少佐殿は、あんたは自分の自由になる部下を欲望のままに犯して弄んだじゃないか!」
暫く、晴臣さんが黙った。
それでも僕は晴臣さんに首をつかまれたままだった。
それから静寂を破るように晴臣さんが低く嗤った。
その場に居た人間は少なからずびくりと体を揺らした。
「サディズムか、傑作だ。面白いな。 さあもっと教えてくれませんかね、俺が何をしたのか事細かに、もっと深く。そうしたら俺がどれだけ非道い人間か少しは自覚できるでしょうからね、さあ、」
気付くと
僕は両の腕で口を塞ぐように晴臣さんの頭を抱えていた。
あっと、息を呑んでも、呑んでも、沈黙は消せなかった。
どくり、どくりと喉を熱い血脈が通るのが分かる。
晴臣さんのほとんど銀色に近い髪を僕はもう見ることが出来ぬほどに近づいていたのだ。
ただただ必死だった。
しかし何故、と問われればどうしてなのかわからない。
「気でも狂ったか」
晴臣さんの声が耳元で聞こえた。全く感情の無い声だった。暫くじっとしていたが、そうしているうち、だんだんと自分がどうしてこんな行動に出たのか恐怖になってくる。
そうすると熱い、晴臣さんの手のひらが僕の喉を触るので少し顔を上げた時、晴臣さんの右手が僕の左頬に入った。
ぱんと乾いた音で次第に痛みも加わる。
木下大尉がはっと体を弾ませた。周りに居た隊員たちも一様にじっと押し黙って、その険悪な空気に息を詰まらせていた。
晴臣さんはやってしまったという表情をつくろうどころか、全くいつも通りの眼光鋭いまなざしで冷たく僕を見るだけで、決してうろたえたりしなかった。
僕は晴臣さんの首元にかけていた手をその衝撃ではがされて、今は晴臣さんと対峙するような形になっていた。ふいに後に引き離される感覚がして大方倒れるように僕は晴臣さんの目前を退いた。
木下大尉が僕の腕をいつもの力で握っていたのだ。それから木下大尉は「失礼する」とごくごく低い、声で晴臣さんを威嚇すると僕の手を取ったまま部屋を後にした。
木下大尉は部屋をでてからも何も口にせず、木下大尉直属部下の面々もそれに準じて一言も喋らぬまま、木下大尉が気を利かせるように「また、連絡するから、今日は部屋で待機してくれ。疲れただろう」というと一礼だけしてその場を離れていった。
最後まで清水は、俯いたまま何かを考えるようなそぶりで一緒に沈黙を味わっていたのだが、自らの部屋の目前まで来るとそこで立ち止まり、同じように何もいえぬ顔立ちでぺこりと頭を下げた。
僕も、部屋の前まで来て、木下大尉に一礼をすると、木下大尉が僕を引きとめた。
「君は、本当は」
木下大尉はそこまで言うと途端口を噤んだ。それきり何も言えなくなって、とうとう背を向けて帰ってしまった。
僕はその背を呆然と見送りながら、何を思うことも出来ずただただ立ち尽くして、体力が消えるまで立ち呆けるのみだった。
それから僕は風呂に入り、寝床を整えて十一時には床に就いたが、それでも眠りに落ちることはなかなか出来なかった。
うつらうつらしていた深夜二時に、ふと、部屋の扉を誰かが開けた。
そしてそれは静かに閉められて、ふすまから薄明かりに照らされてその何者かは姿を現した。
晴臣さんだ。
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