第17話
再び髪をつよく掴んで起こされ、それから浴衣のあわせを開いたところにある、いまだなまなましい傷跡をそのカッターナイフで指されるたび、体はあの時の恐怖と今、たった今差し迫る恐怖とでびくりびくりと痙攣を繰り返す。
晴臣さんは、それを知りながら、存分に時間をとった後で、その刃を僕の右腹に埋めた。
俯くと、信じられないが、自分の腹に刃物が突き刺さっている。それが、何故だかかえって現実味を薄めている。
が、次第に、血が逆流するような、押しも引きも出来ない、不条理な痛みを伴って実感がやってくる。恐らく、まだ肉を切っている段階のその刃は、内臓を破損する一歩手前で堪えていた。
そのせいもあり、うまく動くことの出来ない僕は息も出来ぬほどの緊張の中にいる。それなのに晴臣さんは少しの余裕があれば更に押し込んでくる態なのだ。ぐいと腰をひきつけられ、僕はもはや空ろになってきた意識を、おざなりに現実にひきつけるのに精一杯で、とてもじゃないが、腹をうまく保護しようとか、そういった事は思いつかない体になっていた。その間も浴衣には血がどんどん滴っている。晴臣さんはぐい、ぐい、と次第に深く刃を埋めていく。
一瞬ぱっと世界が白くなった。
かと思うと、晴臣さんに左頬をはたかれてこちらに戻された。
気を失いかけていたのか、僕は腹を刺されたまま小さく首を横に振って意識を確かめた。そんなものは気休め程度にもならないが。
途端、ぐっ、と刃が持ち手まで体に滑り込んだ。
僕は、ほとんど痛みより何よりその衝撃とショックで叫んでいた。カッターの柄をつるりつるり自分の血液がこぼれていく。そのまま、カッターから手を離しても、すっかり安定した様子で落ちる気配を見せない。
それを確認してから晴臣さんは乱暴に僕の膝を持ち上げ肩に担ぎ、一気に欲望を僕の身体に押し入れてきた。強い律動で、深く入ったとはいえ不自然な状態で刺さりそのままにされているカッターナイフは、晴臣さんが腰を強くうちつけるその度にがくがくと揺れた。そうすると当然の如く、傷口は無遠慮に開き、次第に溢れ出る血液も尋常でない量になる。
それも晴臣さんの拍動とともに、だらだらと流れ出す。
狂ってる。そう思ってももう止まらない。
僕はもう、血液なのか、小便なのか、それともまさか精液なのかわからないがとにかく、何ものかを、晴臣さんの腹の上に吐き出した。
晴臣さんが僕の失態を両手で髪を鷲づかみにし顔を無理やり引き上げることで償わせて、それから間もなく自分も俯いて、暫く愉悦に体を震わせた。
カッターナイフはそれでも刺さったまま、僕の荒い息と共に、脆弱に震えていた。
それを少し見た後で晴臣さんがその刃を一気に抜き出した。
赤黒い血液が今ぞといわんばかりに飛び出して、僕はその場に倒れこんだ。
そこまでうつろだが意識のあることには、自分でも驚愕の事実だ。
それでも瀕死の魚よろしく、ぱくぱくと口を開閉しながら、僕はたたみに倒れていた。それをさっきと変わらぬ、無遠慮な手で持ち上げると、晴臣さんは、とても信じられないけれど、
強く抱え上げながら、片腕に僕を抱きしめた。
「………
晴彦さんが僕の名を呼んだ気がした
目が覚めたのは、以前と同じで真っ白い病室だった。
ぼんやりとした視界から見えるのは以前と変わりない、整った世界で、今しばらく漠然とした、暗闇にいた自分にはまぶしすぎる白さだった。
そのまま何度かきょろきょろ見える範囲を見渡して、それからどうやらこの前より状態の悪くない自分の体が、血液をこれでもかというほど出したのだということが信じられない。
しかし、少しでも動くと、これは自分の体なのかと思うほど重いので驚くことになるのだが。左半身の方には自分の左腕につながっているらしい点滴がつるされてある。それからそのすぐ後は古ぼけた窓で、そこからはイチョウや桜が植わっているのが見えた。
どれもこれも盛りの過ぎた老木で、静かにそこに立っているといった風情でたたずんでいる。僕はそれをあまりうまく動かない首で横目に盗みながら、眺めた。
右手側には小机と、それから小さなカード式のこれまたレトロなテレビが置いてある。数ヶ月前に入ったときと何ら変わらない。
変わったのは僕の腹に一つ傷が増えたという点だけだ。
二三日、僕は以前と同じく無為に過ごした。
何を見るでもなく聞くでもなく。
ただただ時間に任せて移ろっていた。
僕はただ、最後に聴こえたあの声のことばかり考えるようになった。
果たして、あれは晴臣さんの声だったろうか。
それとももしかしてあれは僕が幻想で作り上げた妄想だったのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます