第12話
目が覚めたのは旅館の自室だった。
なんだか見慣れぬ天井が、目が覚めた僕をいくらか辟易させた。
部屋の真ん中にしかれた布団は僕がひいているのより行儀良く、そして見知らぬ他人のような顔で静かに並んでいる。
頭はふらりとまだ睡眠の中にあったが、僕は外の空気が吸いたくて部屋を出た。
自動販売機がならぶロビーはすでに電気が消えていた。
壁にかけてある時計を眺めるとすっかり深夜の時間帯であることがわかった。しんと静まり返った建物、そして廊下からは空気清浄機の音しか響かず、ただただその他には闇が支配しているだけだった。
暗闇のロビーは、自動販売機の光だけが寂しげに発光している。ボタンを押したコーヒーが乾いた音で取り出し口に飛び込んでくるのを、僕はけだるい体で取り出した。薄明かりを受けているソファに腰掛けて、苦味濃いそのコーヒーを二三含む。
と、静けさを徐々に近づく何かが消し去ってゆく。僕はロビーのすぐ目前にある階段にぼんやり目をやった。
暗闇から現れた明らかに人間の影は特別に見慣れた姿ではなかった。しかし、その姿が次第にほのかな明かりに照らされてくるにつれて僕の胸はざわざわと騒ぎ始めた。相手側は階段を上りきったところでソファにいる僕に気付いた。そうして人がいたことへの驚きを隠しきれない表情で表した。
その場に立ち止まり、一瞬僕を見た。
一方僕のほうも飲みかけのコーヒーどころではなくなりただただ、階段上で固く立ち止まった相手を見ていた。
辺りはまたしんと静まり返った。自動販売機がブンと鳴った。それからいくらか外界の音も入ってきた。
立ち尽くしていたのは、晴臣さんの新しい直属部下である清水達也であった。
細い切れ長の目が青く腫れていた。
それから口の端から真新しい血液がきらきらと輝いていた。
前髪が汗でへばりついていた。なによりこの深夜にまだ隊服を着込んでいる清水は少しバツが悪そうに目を背けた。その隊服もはだけた胸元から痛々しい青あざが覗いている。
ようやっと頭が体を動かすことを思い出したのか、清水はそのまま、逃げ隠れるように自室に駆けいった。僕はその背を呆然と追いながら、それが消えてしまうまで眺めていた。
暗闇が突然、ざわざわと音を立てて崩れていく。
もちろんそんな事はありえない。
しかし確かにざわざわとした感覚が僕の心を逆立てた。清水がさっき駆け上がってきた階段をゆっくり何者かが上ってくる気配がする。
その気配というのが尋常でない。
背がとたん粟立ったかと思うと案の定僕はその柱の影に晴臣さんの姿を見つけた。
晴臣さんは僕と目が合ってもさして気にも留めない様子で自動販売機まで歩くと、硬貨を二三放りこんで一つ飲み物を買った。
僕はただ恐ろしくて空気を吸うのも怖いように、ゆっくり肩を上下させた。
晴臣さんは僕の前をすっと歩いて過ぎていった。僕の肩から途端力が抜けた。しかし晴臣さんは僕の目前から通り過ぎたところでぱたりと歩を止めた。恐る恐る顔を上げると僕と晴臣さんの対向線上には逆光でいくらか表情の読み取れない、しかし激しい怒気の漂う木下大尉が立っていた。
あ、と声をあげた僕を制するみたいに木下大尉は僕の右腕をがしりとにぎりひっぱっていく。晴臣さんの姿が見えなくなっても木下大尉はその手を緩めない。それどころか更に力がこもって右手はひりひりと痙攣さえした。
どん、と見慣れぬ広い部屋に投げ入れられたと思うと、まず左頬に鋭い平手打ちが入った。
はっとして見上げても、それは間違いなくあの善良な木下大尉の顔だった。
それが今、息を荒げて、まるで親の敵を見るみたいな目で僕を見下ろしている。思いもよらない衝撃に僕は歯をうまく食いしばることができず、口内をかんでしまった。
だらだらと流れる血液を手で押さえながら、しかしそれを現実と信じることが出来ない。そう呆然としていたら間もなく左頬に二発目が入った。そのままどんと胸を押され、踏ん張れなかった僕は玄関扉に背中から激突した。
圧迫感のある痛みが、息苦しさに変わり、それからどんどんと切羽詰る恐怖へと移行していく。僕はただただ起き上がり立つことだけを思い必死に体をうかせた。
木下大尉は息を荒くしていたが、さっきよりすこし冷静になった瞳をこちらに向かせている。ようやく起き上がった僕を、肩を揺らしてにらみつけると大尉は、一つ大きく息を吐いた。
それからどうやら気がすんだらしく目をしょぼしょぼと瞬かせてからさっきの怒気が嘘のように部屋に招き入れ、まず、洗面台に連れて行かれ、切れた口をゆすぐことを勧められて、それから畳敷きの、自分の部屋より心ばかり広い居間に通されて、そこに胡坐を掻いた大尉の目前に僕も倣って正座した。
左頬が少しぼおぼおとかすんだ痛みをにじませていた。
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