第11話
大尉は答えなかった。
晴臣さんの方を時折眺めて動向を伺っているようだった。
それから僕が、右腕が余りに痛いので緩めてくれるよう手を振ったが、それが木下大尉の感情に障ったらしく、右腕を離された途端に強く右頬をはたかれた。
どっと壁際に叩きつけられた僕は運悪くというか受身を下手に取ったからというか、左の二の腕を廊下に積んであった足場材で傷つけてしまった。
浅い傷から血液がとろとろこぼれるのを、木下大尉ははっとした表情で眺めた。
慌てふためく木下大尉はいつもの正義漢にすっかり戻っていた。
「大丈夫か、すまない、頭に血が昇ってしまった」
傷は血液の割りに酷くはなかった。
瞬間的に頭に血が昇った木下大尉はすでに血の気の引いた少々青い顔で僕を見ていた。手加減の利かない衝動的な行動に驚いたのは木下大尉自身だったのだ。
僕はすぐに立ち上がり少し腕の出血を目に止めただけで大丈夫です、とだけ言った。本当に何の事はなかったからだ。しかし事実的に暴力を振るってしまったと感じたのか木下大尉は尚も青ざめた顔になり僕の右腕を眺めた。それから背を後から控えめに叩き、「ちゃんと食べなさい、ふらふらじゃあないか」と言った。
「少佐にはなるべく近づくな。見かけたらどうにでもして逃げるんだ。そうでもしないと君はいつまでもこの生活から逃れられないぞ。」
僕ははい、と答えた。それから晴臣さんが通る事のない道筋を辿って自分の部屋に帰ったのだった。今更ながらに左二の腕はじりじりと痛み始めた。
しかしその程度の痛みを耐えることなど今更、変わり映えの無い日常のことだった。
翌日も、僕には晴臣さんの訓練が待っているのだ。早く寝なくてはと思うのに痛みが感覚を鮮明にさせた。
僕は一人暗い部屋に起きだして備え付けの小さな冷蔵庫から炭酸のなにやらというジュースを飲んだ。
これはとても飲めた代物でなく、けだるい甘さが後引く不味さだった。二・三度口に含んでから、その缶を冷蔵庫の上に放ると僕はまたたたみの上に寝転がった。くるくると目が回っていた。疲労がそうさせていたのだった。僕は静かに目を閉じた。暗闇の中にただただ残ったのは、さっきのジュースのいやみな甘さと、それから腹に何かがたまったようなどす黒い重みだけだった。
翌朝の寝覚めはいつものごとく気分のすぐれぬまま訪れた。
僕はその体を無理やりのように起こすと、ようやく上がったばかりのような太陽を窓越しに眺めてから、それを大して目のうちに焼き付ける事無く支度し部屋を出た。
日課の掃除を終えてから、朝食の時間に食堂に集まる隊員たちの群れに飛び込むといいも言われぬ朝の香がただよってくる。僕は何を考えるのも忘れてただそのなんの変哲も無い平凡なあさげをすばやく綺麗に平らげた。
そうしてすぐに訓練が始まる。晴臣さんは昨日となんら代わらない様子で朝礼台の前にいた。数人の隊員と共に駆け足でその定位置につくと、今日の訓練の開始となった。隣のクラスが右目に見えた。隣のコートで訓練中の準隊員第12連隊は、今日、木下大尉が仕官の予定なのだった。
幼い頃、晴臣さんを始めてみたとき、まるで同じ人間とは思われなかった。
晴臣さんの特異ともいえる目髪の色は特別異端に写った。恐怖心を覚えるほどのインパクトは、僕の心に今も深く根ざしている。
こうしてただ訓練を続けているだけでも、晴臣さんの顔が目に写るたびそのときの匂いや、感情、温度などが一瞬自分を通り過ぎていく。
そうしていつも気味の悪い生暖かいような気分になって、それを思い出すのを止めるのだった。僕は晴臣さんの気になるべく触れないようにこの日も全力をつくした。しかしそれでもやはり体は思うようには動いてくれない。僕の足は途中から岩をくくりつけたように動かなくなり、もつれ、果ては言うことを聞かなくなってしまった。
それどころか、がくりと意識が遠のいてゆく。
うすれ始めた意識の中で遠く木下大尉の声を聞いた。それが自分を現実世界へと連れ戻してくれることになったのだが、僕にとってそれはありがたいようでとても恐ろしいことであった。その為か、ぼんやりとしか景色という現実を捉えることの出来なくなった僕の目は、もう少しで閉じるという刹那で耐えている。
晴臣さんの瞳が木下大尉を睨むのが僕のうっすらと開いた瞼の間から見えた。
僕はもつれさせた足をそのままに転がって、あろう事か気を失いかけていた。その僕を晴臣さんが髪の毛を掴むことで起こしているのを僕の背から木下大尉が止めているのだ。しかし奇妙なことにその気配は分かるのだが木下大尉が何を言っているのかわからない。でもただただ必死の様相だけは伝わってくる。
そこまでで、僕の意識は落ちきってしまった。
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