第10話

二週間経って再び、晴臣さんの訓練の日がやってきた。

訓練が始まると、僕の足はいつものようにもつれた。緊張が体を支配していたからだが、それだけではなかった。僕を助けるとまで言った木下大尉の事を考えると無駄に体が強張ったのだ。

訓練が終わる頃いつもよりも数段疲労した僕に晴臣さんが無言で近寄ってくる。訓練が終わる頃から広場のフェンス越しに覗いていた木下大尉もそれを確認して僕と晴臣さんの方に近寄る。

僕は恐怖で晴臣さんから視線が離せないがそれでも木下大尉が右目の端からどんどん近づいているのが見えていた。


晴臣さんが木下大尉に気付いて僕の目前三メートルほどの距離で立ち止まった。その顔をただじっと木下大尉に向けている。

すると有る程度木下大尉が近づいたところで、横顔でも分かる程に晴臣さんは微笑んだ。それからゆっくり体を木下大尉に向けて軽くかしげるように頭を下げた。


「何か」


晴臣さんが全くの打算も裏意図もない声色で言うので木下大尉も少し気をそがれたように顔を背けて小さく苦笑いした。

「いろいろと手がかかるでしょうが、彼もまだ完全に傷も癒えない事ですし、少し多めに見てやっちゃあくれませんかね。」

「彼とはこの男の事ですか。なるほど、道理です。彼は病み上がりだ。会わない間に足がもつれようが、体力が落ちようが、私には関係の無いことです。」

「…少佐。訓練後、設楽したらを連れ込んで一体何をしておいでですか。必ず翌朝は体中に痣を作ってくるし顔色も悪い。朝一番だというのに体力も無い。隊員達に聞いても設楽は食事後必ず消えると言うし、現に食堂でも自室でも彼の姿は見つからない。これは犯罪ですよ、少佐。隔絶されたこの会社内ではこれまで目を瞑っていられた事案なのかもしれないが、外の世間じゃそうはいきません。」

「訴えますか、結構です、その方がいい」

 そう言い去りかける晴臣さんに木下大尉はもう一度叫んだ。

「少佐、力のみに方向付けられる正義などこの世にあってはなりません」


「その通りです」

晴臣さんが今度は表情の無い顔でそう言って背を向けた。


木下大尉はその背を半ば呆然と見ながら、数秒して悔しげにこぶしを握った。

なんということだろう。

これはなんという感情だろうか。長年の敵を思いのほかあっさりと打ってしまって心にぽっかりと穴が開いてしまったとでも言いあらわしたらいいだろうか。

不思議な気持ちだ。


もちろんそれはそんなに憎悪猛々しいものでは無かったし、ましてや美しい妄執ですら無かった。いくらか気を抜かれたような木下大尉もあるいは一種同じような気持ちなのかもしれなかった。勇み足をくじかれたことで珍しく苛々と下唇をかみ締める木下大尉は僕に顔を向けて一つ自分の気持ちを落ち着けるようにため息をついた。

「全く、聞く耳持たずか、まあいい。最初からわかっていた事だからな。」

 自分にもそれが言い訳のように聞こえたのか不機嫌な表情で木下大尉は去った。僕一人この薄暗い広場で立ち尽くしていた。そうして晴臣さんの目を無事逃れた僕ではあったが、そうした経緯の上で得られる安心感など無いに等しかったのだった。それどころか更に恐怖感が増すほどで、また自分の腹に刃物が刺さるような鋭い痛みが体中を駆け巡った。

その腹を抱えて僕は食堂に行った。食堂はようやく訓練から逃れることの出来た隊員たちの熱気でむせ返っていた。むっとする土と汗が混じったその香が鼻をいつものように刺激したのを僕は無意識に捕らえて放り投げそれからいつも座る入ってずっと部屋奥にある長机の椅子に腰を落ち着けた。


今日の訓練の事を考えても、もう吐き気が来るだけなのでそれはもう忘れたふりをしてとにかく食物を腹いっぱいに食べた。それから動けぬほどの満腹感をじっと堪えながら、疲労のじわじわとひろがってくる体をひっそりと癒す。そうしていると食堂の入り口にはいつもの時間に晴臣さんが入ってくる。

僕は例の如く体を一瞬にして緊張させたが、それはいつもの恐怖に付属してどろどろとした幾分気味の悪い感情が混じっていた。晴臣さんは僕と目を合わせてそれからふと何の事ないようにそらした。


その表情にちりっと身体のどこかが鳴るような感覚がして、僕はいてもたってもいられず思わず席を立った。

それから走り出した。

もちろん晴臣さんに向けて走り出した。

目的ははっきりとはしていなかった。

まずに僕は晴臣さんに何と声をかけるかすら念頭に無かった。

それからもちろん、どう接するのかも決めてなどいなかった。

カッターナイフを取り出すのか、セックスを始めるのかも決めていなかった。


そもそも僕には行動の決定権は無かったのだからそれも当たり前のことだ。しかし僕はこのとき食堂の、たったの数十歩の間で息を切らして全速力で走った。

晴臣さんの瞳がじりと僕を掴んだ。そうして視線だけのその圧力でがつりと体がたわんで足が自然と固まって動かなくなった。

そこで僕の疾走は完全に止まったのだった。

僕は荒い息のままただ立ち尽くしていた。


真っ白な頭で対峙していた僕の腕を突然何かがぐいとつかみ、後ろに引っ張った。

背を後に引き込まれて僕は大方倒れそうになった。見れば、そこには木下大尉がいた。これは一体あの爽やかな木下隊員だろうかというくらい歯をつよくかみ締めた顔が、僕のすくめた頭の丁度右上にあった。

そのまま右腕を握られて、僕は木下大尉に廊下に引っ張られた。強い握力だ。それでも恐怖感は無かった。

それよりも晴臣さんの視線から遠ざかる事の方が恐怖から逃れていく事実のような気がした。



「木下大尉、」

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