第9話

頸部から圧力が一気に緩んで僕は狂ったように、激しい堰を何度も繰り返した。

それで晴臣さんが許してくれるはずがない。

僕はそのまま晴臣さんに髪の毛を強く掴まれた。それから頬を何度か打たれ、顔が重たくなったところで晴臣さんの蹴りが腹に入ってようやく互いの体が離れた。

すうすうと通る風が嫌に気持ち悪い。今の今まで炎の中にいたような、薄ら寒さすら感じる。僕は上半身を急いで起こし、晴臣さんの乱暴から逃げることが出来るように腰をあげようとした。しかしそれはすぐに打ち倒された。腰を少し浮かしたところで晴臣さんの蹴りが僕の胸を捕らえたのだ。また畳の上に転がった僕に晴臣さんは跨り、右手で首を掴み、左手で前髪を掴んだ。僕の鼻や口はもはや血の匂いや味しか感じなくなっていた。鼻からするする血液が零れ落ちるのを止める術が見つからない。ふとした瞬間に胸元が湿っていると感じたが、それはTシャツの首もとから胸辺りまでぐっしょりと自分の血液が濡らしているからだった。真っ赤に染まったそれが自分の頭ではもう確認できない。喉もとからじわじわとこみ上げる熱がとうとう器官を上りきって僕は畳の上に嘔吐した。真新しい緑色のイ草の上にぶちまかれたそれは大体にしてつるりとした胃液だけで、食物らしきものは一切まぎれていなかった。胃液を出してしまうと、後出すのは血液だけだ。鼻から出ているだけで十分だというのに口からも豪勢に、その赤黒い液体は飛び出した。僕はもうそこまでいってしまうとそれが自分のものだとはとても思われず、ただただそれを痛みも感じず眺めていた。それで僕は、再び意識を失ったのだった。

 

目が覚めたとき、部屋は暗く晴臣さんはいなかった。自分の吐いたことをはっきり覚えていた僕は、それを確かめようと暗闇を手さぐりで畳を這ったが、それはついに確認できなかった。玄関まで歩き扉を開けると、闇に慣れていた目が廊下の淡い光さえまぶしく映した。ふらりふらりとよろめきながら、自分の部屋にたどり着いて時計をようやくみる余裕が出来たころには、もう夜が明け始めていた。僕はそれから数時間とも無い睡眠をむさぼった。


それからいつものように6時過ぎに起きだし、体がいつにもましてばりばりと音を立てるのをうっちゃって朝の用意を進める。

鏡の前に立って僕は初めて自分の顔を確かめぎょっとした。

口もとの左端はいつもの事だが赤青く腫れ上がり、それに生々しく血液がこびりついている。それから右目瞼が腫れ、自分の目にはとても思えない。青赤く膨れた瞼の下に隠された右目は少しだけ充血していた。

それでもまさか雲隠れするわけにもいかず、僕はそのまま隊服を着込んで朝の隊礼会に出た。当然木下大尉は僕の顔を見るなり近づいてきて、周りの友人達が見る中で人目のつかないところへ連れ立った。


「おい、これはもう暴力だぞ、体罰どころじゃないだろう、」

「何のことですか、」

「とぼけなくてもいいんだ、何をそんなに怖がってる。君には全面的に非は無いのだから、せめて上官の俺には話してほしい。おい、俺は君が所長の息子だからこう言っているんじゃあないぞ、上級隊員が一種の権力で逆らえない部下に暴力を振るうのはこの部隊の忌まわしい歴史なんだ。君も知っているように、殴られても蹴られても、大抵の部下は逆らわないし、何しろ逆らえないように教育されているしな。そういう上官もそうして育てられてきた隊員だからそんな事悪いことだと思っちゃいない。俺はそんな悪循環はくそくらえだ。どれだけ仕事ができても、人間の本質を忘れちゃおしまいだ、そうだろう。だから俺を疑うな。誰に告げ口するわけじゃない。君を助けたいんだ。」

 肩をゆすぶって、木下大尉は必死に熱く諭した。僕はそれを呆然と聞きながら、それでも最後、助けるという単語だけにはっと反応した。

恐らくは、僕はずっと自分自身を助けてやりたかったのだろう。

だから、あの日晴臣さんに無謀だとわかっていながら刃を向けたのだ。

僕は木下大尉のぎらぎら輝く瞳を見ながら、首をただただ人形のようにぼんやり縦に振っていた。


木下大尉の思う答え方ではなかったかもしれない。

それでも木下大尉は満足した表情で僕の背を優しく叩いた。


そもそも、僕はもう次に会った時には本当に、今度こそ晴臣さんに殺されてしまうような気がしてならない。それは昨夜の熱からであり、言葉からであり、あの首を絞めた圧力からであった。



何が キスだ、


僕はふつふつとこみ上げる笑いを、痛みの走る腹筋でようやく抑えた。

あれは明らかな殺意だった。自分でも分かった。

僕が晴臣さんの事をどうしても怖いのは相手が自分を殺そう殺そうと考えているからだ。

それで僕はいつでも肉食動物の目に怯える草食動物よろしくびくびくと体を震わせているのだ。



僕はその事実に更に呆然となりながらも、何もかもどうでもいいことだと気付いてそれらを一切自分の頭から消した。


 

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