第5話
ちきちきちき、
カッターナイフが鳴いた。
僕はその音にさしても驚かず、だんだん細くなってくる息をようやく今一度大きく吐き出した。
それからカッターを握っている右手をそのまま晴臣さんの首もとに伸ばした。
だんだん慣れてきた目が晴臣さんの表情を多少見えるように照らし始めていた。
そうしておもちゃのような刃とはいえ、鋭いカッターナイフをつきつけられても、当の晴臣さんは動揺はおろか他何の変化も表さなかった。
そして反対に僕はというと、差し出した右手が伸ばした途端激しい痙攣を初め、今自分が誰に刃を向けているかわからなくなり、更に混乱していった。
刃を自分に向けないようにするのが精一杯だった。
がくがくと震える僕の右手をじっと眺めていた晴臣さんが突然、がしりと僕の右手首を掴み自らの首もとにひたひたとゆっくり押し当てた。
「刺すならちゃんと刺せ」
まるで怒号のような、しかし静かな渇が入り僕の体は更に大きな緊張が走った。
右腕の痙攣は治まるどころか更に激しさを増し、もしもその痙攣で晴臣さんの喉もとに血が流れたらと思うと不思議と背に汗がたまった。
それは、恐らく、
僕はただ、もう自分の思いが指し示すまま、コンビニで刃物を手に入れ
それで晴臣さんを殺すなどという計画を企てた、
もちろんそんな事が事実成功するはずはなく、
むしろ失敗した暁には、自分の死というものが待ち受けている
それがわかっているからこんなにぶるぶると震えているのだった
何度も何度も、僕は頭の中で晴臣さんの喉下を切り裂いた。皮膚をぷつりと通ったその先は、魚の様にうまくは切れず、されど米や餅のように刃すべりが悪いとは言いがたい。
しかしそれらの妄想は大量の血液が噴出す一瞬手前で打ち切れ、またカッターナイフが皮膚をちぎる感触から繰り返された。何度も何度もその感覚を味わいながら、僕は更にじっとりと濡れだした背を気にする余裕もなく、そのうえ冷や汗を額にも浮かべ立ち尽くしていた。
そしてその呆けている僕を尻目に晴臣さんはぐいと握っていた僕の右手を引っ張って、晴臣さん自身の右手に、自分で、深くカッターナイフを突き刺した。
見ていられず僕の目がぐっとそれたのを見て、そこで初めて思い出したように晴臣さんが笑い出した。自分の右手に刺さった刃物の事など少しも気にとめない、額に汗すら出ていない涼しい顔だ。
僕はそれに半分以上の恐怖を感じながら、体中にひろがった痙攣を止めることが出来ず狼狽しきっていた。
混乱で視界が真っ黒だった。それくらいに視覚が麻痺していた。
ナイフに伝って滴る鮮血すら恐ろしく、僕はそのカッターナイフを離そうとしたが、晴臣さんはそれすら許してはくれなかった。
その背を強く掴まれて部屋の中に押し込まれるのを、僕は抗うことも出来なかった。
僕は晴臣さんの左腕でその身体を扉に押し当てられてただガタガタ震えているだけだった。それから、晴臣さんはカッターナイフが刺さったまま、その右手首を僕の目前に持ち上げると、手指をゆっくりと動かした。
血の気の僅かに抜けたような、青白い指先が、確かに動いているのが神経を切っていない証拠であった。
それを、手首から肉がついていかないようにうまく抜き取ってみると、一気に右手首から血があふれ出した。
さすがに晴臣さんもカッターが身から離れた瞬間、顔を歪め一瞬苦痛に耐えたような表情をしたが、それから刃がすっかり離れてしまうと、また何食わぬ顔で自分を貫いていた刃を眺めた。
鮮血が、玄関部分にぽたりぽたりと滴っている。
すうと、僕の隊服にカッターナイフが添った。何度か上下に行き来して隊服を血で染めると、そこから腹・横腹辺りの布をざっくり裂いて、身まで薄くそがれてしまっ
た。
うっと声を堪えたが、後から後からひりひりと痛みは増した。それから左わき腹に垂直に刃をあてられて、刺さるか刺さらないかのところでまたひたひたと晴彦さんは刃を素肌にあてがった。
右のわき腹から、すべての内臓のありかを一つ一つ確かめるように刃を添わしていく。
刃が、ぴたりと左横腹で止まり、ぐっと体内に入り込んできた。僕はあまりの衝撃と混乱に体をくの字に曲げて腹に力ないような声をあげた。再びぐぐ、ぐ、と深く冷たい刃が入り込む。
「ああ、」
晴臣さんの方に顎を預けるような、半分恐ろしい態になって僕の意識は遠のいた。
遠くで晴臣さんが何か言っているのが耳にうっすらと届いたが何を言っているのかはっきりとは聞き取れなかった。
僕が目覚めたのは、本部の医療室で、精密機械に囲まれた集中治療室の中だった。
ぼんやりと視界が広がっていき、それから瞼の湿り気がだんだんと収まるにつれ、目前の世界もいくらか明瞭になった。
僕はベッドの上でどうやら助かったらしいことだけ自分の頭の中で整理をつけたのだった。
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