第4話

目が覚めたとき晴臣さんはもういなかった。

周りを見渡すと、殴られている間気がつかなかったが畳に血痕が残っていた。

自分の右口端が切れて、血液が流れているのを僕はそのとき初めて知った。


頭がぼんやりかすんでいる。

起き上がろうとすると体中がばりばり音を立てるほど痛んだ。下半身は鈍痛の重い痛みを心臓の鼓動と共鳴して響いてくる。

すぐ拭えなかったものだから、その血痕はいまだ鮮やかで、派手に一畳畳を飾っていた。それを近くに投げていたタオルで拭きながら、どうやら本格的に頭痛が酷くなってすぐに体を横にしなければならなくなった。


僕はそのまま、鉄の匂激しい畳の上に横たわってじっと目を瞑った。

脳髄を貫かれるような激しい痛みは、まるで晴臣さんそのものだった。甘美さも、いやらしさも、何もない。ただただ鋭い閃光のような痛みだ。

僕はそれからふっと目を開くとどこか晴臣さんの姿を無意識に捜した。

もちろん晴臣さんはもうこの部屋にはいなかった。

しかし、僕は空気の中に晴臣さんを尚も捜した。恐ろしい程の怒気がこの空気という空気にまぎれているようなそんな気がした。僕はその、沈黙のような針に、晴臣さんが部屋を出て行ったあとで更にじくりじくりといたぶられているのだ。


重い体をようやく持ち上げてテレビの上に掲げてある時計を眺めた。

深夜の二時三十分だった。


一体何時間前に晴臣さんはこの部屋を後にしたのだろう。僕はそれをぼんやりした頭で考えながら思っていた。

それから、思い切って部屋を飛び出し、夜の街をひたすら歩いた。とはいえども、田舎町にある合宿旅館の近辺に歓楽街のようなネオンはなく、秋の虫が道の脇で涼しげになくぐらいで、いい加減閑散としたものだった。

僕はその暗がりの道をでたらめにあるき、そして痛みを思い出したり、都合よく忘れたりしながら、散歩をした。


暫く行くと田舎町のコンビニが常夜灯のような安心する灯を一つはなっているのが見えた。僕はそれが目に入った途端、一気に目が覚めたような心持になってその光に向けて歩き出した。

店の中は二十歳前後の髭を生やしたひょろほそい男が一人エプロン姿で眠そうに立っていた。店員は僕が入ってきてもさして気にならないという感じに、何かレジ台の下のほうをじっと見つめたままいらっしゃいませの一言も言うのが面倒くさいというように小さくあくびをしている。僕は、雑誌コーナーで大して興味のない漫画雑誌を手に取りやはり興味の持てないままその本をもとの場所に放った。店の時計は午前三時過ぎをさしている。


僕があてもなく店内をうろついて、一通り見て回った後これだけの品数の中で自分の心に残ったものは、たった一本のカッターナイフだけであった。


薄いブルーの取っ手でいかにも少女趣味な明るい色調の比較的軽いものだ。

僕は無心にそれを手に取ると、値段も見ずにそのままレジの方に向かった。

店員の男はそのカッターをカッターとしてみてはいないであろう漠然とした視界でそれのバーコードを機械に通した。ピッと電子音がなり、レジ画面には三百五十八円と表示された。その数字の下では、奇妙なコンビニマスコットがくるくると回りながらキャンペーンの宣伝をしている。画面の中でこれだけ客扱いされているのに、目の前にいる店員にはとうとう帰るまで客扱いされているようには思わなかった。


僕は軽いカッターを袋に入れようとする店員に断ってテープを張ってもらうと、そのまま手に握ってもと来た道を帰った。その道のりは有る意味これまでの人生で一番静かで、それでいて混迷した道程であったに違いない。

僕は道すがら、その固包装を剥ぎ取り、刃が出るか確認してから隊服のスラックス右後ポケットに突っ込んだ。


合宿旅館に着いたのは、午前四時も近づいたもはや早朝であった。僕の足は無意識にもしくは、無心に晴臣さんの部屋に向かっていた。

一隊員よりも少し立派な部屋をあてがわれている晴臣さんの部屋のドアを叩くと硬質な音が響くだけで中からは物音一つしなかった。


そうだ、いくら晴臣さんでもこの時間は寝ているだろう。


僕はその扉に背を向けようとした。

しかし、気配も無いままその扉は開いた。

扉を開けた晴臣さんは僕の顔を見ると電気のついていない暗がりにいるからか、表情のよく読み取れない、しんとした雰囲気のままで立っていた。

それから何故こんな時間にこうして僕がここにいるのかも、何も尋ねることもなく、おそらく睨んでいるその瞳だけが暗闇にじっとこちらを見据えていた。

僕は背を急いで晴臣さんから遠ざけるようにして相対すると、尻に仕込んでいたカッターナイフを探った。軽い手馴れぬ感触が右手人差し指に触れた。

そしてそれを引っ張り出し、ゆっくりと前に持ってくる。


晴臣さんの表情が分からない。

僕はそのままじっと


晴臣さんの様子を窺った。

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