霹靂


「今日はミノア王女が書簡を届けるついでに観光にやってくる。弘子には王女の謁見を頼もう」


 彼から手渡された謁見申請が記されたパピルスを見て、「ええ」と頷き返す。


「ミノアは独自の美しい工芸技術を持った国だ。彼らの持つ芸術の中には我が国のものと通ずる部分がある」


 ミノア。別名クレタ文明。現代のギリシャ南方地中海に浮かぶ最大の島・クレタ島において発展した青銅器文明だ。人種的には美しい白人と記され、イルカや巨大なタコなどの海の生物の多くを神として崇めている民族。エジプトを『砂漠と太陽の国』と例えるなら、ミノアは『海の国』。この国の、クノッソス宮殿やエジプトに似た繊細で優雅な壁画の写真が記憶に新しい。4年以上も経つはずなのに「エジプトと同じ技術があった」と興奮気味だった父の顔が浮かんでくる。


「セテムとイパを付ける。何かあれば頼れ」


 彼の後ろにいたセテムが、変わらぬ無表情で軽く頭を下げ、イパは先に王女を迎えていると教えてくれた。


「ミノアについては書物で読んだから平気よ。それにタシェリが生まれた時に贈り物をしてくださった国よね」


 ミノアを示す文字を見ながら贈られた綺麗な壺の数々を思い出す。エジプトにも勝るとも劣らぬ色彩と、波を思わせる滑らかな描写。明色地に赤や茶色の暗色で水平方向に描かれた渦巻や草花の絵は印象的だった。タシェリが王女であることを配慮してか、女性を守るとされるグリフィンを描いたものを多く贈られてきたことにも、ミノアからの暖かな心遣いが感じられた。

 この時代のエジプトにおけるミノアへの考え方もナルメルに勧められた書物のおかげで頭に入っている。話す言葉は違っても、イパイがいてくれるのなら何とでもなるだろう。


「お前が王女と謁見している間、私はその王女が付き添わせているミノア宰相とこれからの交易について対談する」

「宰相と話すのに、イパがいなくても大丈夫?」

「あちらの大臣は我らの言葉を話してくるはずだ。それが礼儀だからな。それに私もミノアの言葉くらい話せる」


 対談する二人は言葉の問題はないようだった。思えば、王子として幼い頃から英才教育を受けていた彼ならば、3カ国語くらい話せるのは当たり前なのかもしれない。


「ただし、王女はミノアを出るのが初めての箱入り娘、我が国の言葉が話せぬ。それを頭に入れておけ」


 パピルスを持つ手に力を込めて頷き返す。


 彼の話を聞いている間にも、先日のメアリーの発言が頭の中で反芻していた。

 私以上に知識を持っていたはずの彼女から記憶が消え、私と同じ程度の知識しかない。嘘を言っているとは思えなかった。私も同じような感覚を一度現代に戻った時に体感していたのだから尚更だ。

 記憶が、消されている。何かに。誰かに。

 今行方不明である良樹も同じことを感じているのだとしたら、私が歴史を確認する術はすべて絶たれたことになる。自分の行き着いた考えに身震いした。


「熟読せぬとも良い。お前なら容易にこなせる」


 呆れ笑いを浮かべた彼の手が、私の髪を軽く撫でていった。見上げた顔には慰めが入り込んでいて、ミノア王族謁見で私が緊張していると思っているのだろうと察しがつく。


「今までもやってきただろう。今更何を緊張しているのか」


 励ます言葉をいくつかかけてくれた彼は、傍に控えていたナルメルにパピルスを渡し、今日の日程について話し始めた。

 意気揚々とした背中がある。数歩離れたその人の腕を引き戻したくなる。

 失ったら。この人を、失ってしまったら。

 幸せを感じるたび、それが崩れるのを思ってしまうと怖くてたまらなくなる。


「いかがなされました」


 はっとして横を向いた先に、眉根を寄せ私を見るセテムがいた。


「随分、悩まれたお顔をされていましたので」

「何でもないの。ぼうっとしていただけよ」


 平然を繕って口端を上げて見せる。


「顔色が悪いような気がしますが」

「セテムは心配性ね。眉間の皺が取れなくなるわよ」


 私が笑みを作れば作るほどセテムの表情は疑うような険しさが宿った。この積もり続ける不安を吐き出したい気持ちがあっても、ただの私の推測を軽々しく言うわけにもいかない。王家の放つ言葉がどれだけの重要性を持つかは彼の側で過ごして十分なくらい分かったことだ。何も言わずに小さく息をついた私に、セテムも眉を下げて改めて口を開く。


「ミノアは信用のおける国家です。ファラオが襲撃されることなど考えられませぬ」

「大丈夫、分かってる」


 光の射す方を見やると、柱の間から漏れた朝陽が遠目に見える侍女の陰を長く、濃く、伸ばしていく。ミノアの王族が来ることや、数日前のソティス出現で宮殿内はいつもより騒がしさを持っていた。


「タシェリの様子を見てから行きたいの。大丈夫かしら」

「構いません」


 天幕をくぐり、寝台に歩み寄って愛しい子の姿が見える。私を見るなり小さく声を上げた娘の前に膝をつき、柔らかい髪を撫で、頬と頬を寄せて声を聞く。

 私の子。私の娘。あどけない表情に、胸を這う恐怖に似た感情が陰を潜めていく。


「元気そうだな」

「ええ……昨日よりは楽みたい」


 後ろに感じた彼の気配に頷いた。

 タシェリが2日前から小さな咳を繰り返して、侍医からは風邪だろうと診断されていた。離れたくない思いが強くとも、自分の立場を考えれば仕方がない。それでも思ったより風邪自体が軽く、今は回復に向かっているようで胸を撫で下ろすばかりだ。


「ネチェル、タシェリに何かあればすぐに呼べ」

「畏まりました」


 寝台の側で跪くネチェルと乳母が頭を下げるのを見届け、彼の後に続き、私はセテムと一緒にその部屋を出た。








「ミノアの名は、伝説のミノス王から取られたそうです」


 王女がいる部屋に向かっている最中でも、セテムからの予備知識を頭に詰め込もうと話し続ける。

 現代でもギリシャ神話として残る、エーゲ海を支配したミノス王。実在とされる人物ではあるものの、それがいつの人なのかは未だに判明していない。この時代で伝説とされているのだとしたらミノス王は想像以上に昔の人物であり、ミノアはエジプト同等の古さと伝統を持った国だと言える。


「彼らの水軍は素晴らしい、我が国にはない戦法を持っています」


 さすがは海の国だ。エジプトもミノアも資源豊かな平和な国ではあっても、戦争がいつ起こるか分からない。もしもの場合を考慮して戦争のことも頭の隅に置いておかなければならないと思うと、少し怖くなる。


「また、彼らの持つ宮殿は迷宮のようになっているとも言われ、知らぬ者が迷いこむと二度と出られないという伝説もあり、ファラオはご関心をお持ちのようでした」

「海の生物以外にも雄牛の神がいるのよね……神殿の多くにそれが描かれていると書物で読んだわ」

「ええ、海に生きる神が多いとは言え、ミノアにも同様に多くの神が住んでおりますので。……王妃も学ばれましたね」


 初めてと言ってもいいくらいのセテムの誉め言葉に思わず笑ってしまった。


「どれだけ読み漁ったと思ってるの。隣国のどこの王家がいらっしゃっても大丈夫よ」

「それは結構なことです。さあ参りましょう。ミノア王女がお待ちです」



 対面したミノア王女は文字通り美しい白人の方だった。細かいウェーブを持った明るい茶色の、腰まで届く長い髪とアーモンド型の緑色の瞳。衣装は如何にもギリシャとしか言いようのない白を主調としたロングスカートで、茶色の紐をベルト代わりに鮮やかな石を織り交ぜて結んでいる。大人しく、まだ少女と言っても良いくらいの顔立ちのミノア王女は、初めて訪れる国に興奮を隠せないのか目を何度も瞬かせていた。美しいというよりは、可愛らしいと言う方が合っている。幼い頃から聞いていたエジプトがどのような国か気になって仕方なく、ミノア王である父に無理を言って頼み、今回の旅を許してもらったのだ言っていた。

 イパを通して互いの国について話しながら、数時間掛けて宮殿を回って、明日には帰らなければならないと肩を竦める彼女に、「またいらしてください」という言葉と共にエジプト独特の細工を施した扇と黄金の装飾品を贈った。


 大方の案内が終わった夕方には、イパと女官に部屋へ案内される王女の背中を見送り、白い宮殿内に広がった茜色を眺める。どうにか役目を終えることができた。あとはラーが沈んだ後に行われる宴会の席で王妃らしく振る舞うだけだ。


「王妃様!!」


 突然息を切らしたメジットと侍女二人が駆けてきて、私の足下に跪いた。その姿を見たセテムが眉を顰めて口を開く。


「メジット、他国の王家がいらっしゃっている中でそのような」

「すぐにお部屋へお戻りを!」


 真っ青な顔に焦りを露わにして、自分より目上のセテムの言葉を遮ってまで発言したメジットの様子に違和感を覚える。


「何かあったの?」


 常に周りの状況を読み、慎重な発言し行動を取る彼女の取り乱したような様子に、胸がざわつき始めた。嫌な予感に苛まれる。彼に何かあったのではと。


「王女様の、タシェリ様のご容態が!」





 部屋に向かって走っていた。メジットやセテムの足音の他に、自分の鼓動が早くなっていくのを感じる。

 良くなっていた。拗らせたのは軽めの風邪で、もう治りかけだった。朝も笑ってくれたし、私を見て声を上げてくれたのに。


「タシェリ!」


 まさかと何度も胸で唱えながら動揺を隠せないまま、部屋に駆け込んだ。同時に寝台を囲んでいた侍女たちが私を見て「王妃様」と声を発し、疎らに頭を下げる。開けてくれた道を急いで駆け寝台を覗くと、咽せるような酷い咳を繰り返すタシェリがいた。名前を呼びながら触れた頬にあまりに高い体温を感じて、血の気が引く。


「どうして」


 ぐずる姿を見て、娘を胸に抱き上げた。

 一目で分かる。風邪が悪化したのだと。

 まだ首が座っていないタシェリから伝わる熱にどうしたらいいか分からなくなる。


「申し訳ありませぬ、私が症状に気づかなかったばかりに……!」


 ネチェルが泣き出しそうな勢いで私の足下に跪いた。


「侍医を!すぐに侍医を呼んで!」

「今呼びに向かわせております。どうか落ち着きください!」


 タシェリを抱きしめて苦しそうに上下する背中を擦る。これほどまでに苦しそうにしているのは初めてで、頭が真っ白になりそうだった。

 侍医もこのままでならば心配ないと言ってくれていたのに、どうして。


「弘子!」


 扉の開く音の後に黄金が床を叩く音が鳴って、彼が現れた。


「アンク!タシェリが!」


 彼は私の前に来るなり、私の胸にしがみついているタシェリを覗き、その頬に触れて顔を顰める。


「案ずるな、侍医を連れてきた」


 侍医を筆頭にした医師が5人、彼が振り返った先に立っていた。


「姫君を寝台へ」


 侍医に言われ、仰向けにしてタシェリを寝台に下ろすと、すぐさまその子は侍医たちに囲まれる。泣き声と、合間に鳴る小さな咳音。何か薬草を磨り潰す石同士が擦り合う音。そこから生み出される薬草の匂い。議論を重ねる医師たちの声。やがて神官たちがやってきて、祈祷をし始める。心配で押し潰されてしまいそうで、彼に肩を擦られながらも身体に籠もった力は抜けない。

 あれだけ元気だった。治りかけていた。なのに。


 しばらくして私たちの前に来た侍医は、やるせないと言った表情で頭を下げた。


「やれるだけのことはいたしました。ただ、これでご快癒されるかどうかは……」


 思い出す。祈祷させるのは、治療法がない病に対しての最終手段だと。

 この時代にどれだけ手術が発展していようが、解剖学が進んでいようが、細胞の概念も分かっていない彼らには風邪を引き起こすウイルスの存在さえ分かっていない。分かっていない存在への治療法など、無いのだと。


「タシェリ!」


 寝台に駆け寄り、腰を屈めてその子を見る。変わらない苦しげな様子に恐怖した。


「祈祷を続けよ!王女の回復を神々に祈るのだ!」


 私の後ろから息をのみ、大声で命じた彼の声が部屋一帯に響く。


「タシェリ、大丈夫よ。大丈夫だからね」


 神官が祈祷を続け、侍医たちが控える中で、私は女官と一緒に看病を続けた。彼も側で私の背中を擦っては、その子の手を握る。

 ただの風邪ならば治るはず。そう分かっているのに、焦りは増すばかりで泣き声が大きくなるたびに抱き上げた。

 ミノア王女を含んだ宴会出席のために彼は途中数時間ほど抜け、戻ってきてからはまた私とタシェリの側にいた。

 咽せるような酷い咳で眠れないようで食欲もない。夜中に物凄く激しい咳の後に、30秒ほどの痙攣を起こす。時間が経っていくにつれて食欲が一段となくなり、授乳させようとも少量口に含むだけで離れてしまう。明け頃なっても熱は下がるどころか上がる一方で、眠れなかったことも重なり、ぐったりし始める。


 訳が分からなかった。時々覗く目が、助けてと言っているようなのに、「大丈夫よ」と根拠のない言葉しか並べられないでいる自分が憎い。何度も弱々しくくずって泣いてしまう。その泣き声も段々小さくなって。私の声に答える様子も朧気になっていって。

 何もできない。こんなに側にいるのに、変わってあげたいのに何もできない。

 手を握っては声を掛け、飲んでくれない母乳を試行錯誤して少量ずつ飲ませ、鼻水が詰まれば口で吸ってやりながら、ただただ傍にいることを、私は三日三晩繰り返した。


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