神の駒

* * * * *


『──王女様、ご夭折ようせつ


 この知らせを受けたのは、欠けた月が夜の闇に映え始める頃だった。

 弘子の子供が死んだ。この前生まれたばかりの子供が。タシェリ・アメンと名付け、幸せに過ごしていると噂で聞いていたというのに。

 疑問視してしまうくらいにその知らせは簡単で、驚きと同時に人の命とはそれだけ呆気なく終わってしまうということも俺に突きつけた。


 何故命を落としたのか。聞いてすぐに湧き出た可能性を確かめるため、複雑な心境のままひたすら夜に包まれた廊下を西の奥へ向かって歩いていた。複雑とは言っても怒りに似た感情が大半を占めている。残りは戸惑いと疑念。一度子供を殺めた自分を思えば嗤ってしまうが、赤ん坊が死んだことに対して痛む想いも心なしか混じっている気がした。それを感じる程に前へと進む足の速度が上り、それによって生まれるサンダルの音が耳の奥にこだまする。

 向かう先に、歩む廊下の果てが見えた。兵士二人によって守られる大きな扉がぼんやりと姿を現す。夜更けだからだろうか。兵の真横に立つ、大きめの松明二つの火が異様に不気味だった。


「大神官殿に用がある」


 喉には水を欲するような渇きがある。俺を見た兵二人は戸惑いの表情を浮かべ、その内の一人が小さく首を横に振った。


「大神官様は誰も中に入れるなと仰せです」

「通せ」


 一刻も早く問い質したくて声を荒げた時、後ろに気配を感じた。


「何をしてるの」


 背筋を電気のような何かが渡って行く。振り返ると澄ました表情の青年がいた。


「何してるの、ヨシキ」


 兵たちの返答を待つことなく、ナクトミンは俺の方へ一歩足を出した。すっと細められた目に、俺の背後にある松明の色が小さく灯る。


「あの部屋から出てくるなんて珍しいね」

「アイに会いたい」


 そもそもここまで来たのは、この青年の言葉が頭に住みついて離れなかったからだ。


『──何かが起きる、だから見ているといい』


 ナクトミンはそう吐き捨てて俺の前から去ったのだ。アイが弘子の子供を毒か何かで殺したのではないか、というのが夭折の話を聞いてすぐに浮かんだ可能性だった。あの男ならやりかねない。あの男の権力ならばやれるのだ。

 あの命令を拒み、1年ぶりにあの神官と対面していい扱いを受けることはないと思っていたが、どうしても真実を確かめたかった。


「いいよ、通してあげる」


 向かいの猫目は据わっている。


「僕も呼ばれてここに来たんだ。一人くらい増えたって、嫌味は言われても殺されはしないでしょ」


 その決定に、話しを傍から聞いていた兵士が慌てた様子を見せた。


「しかし、隊長殿!」

「責任は全部僕が持つ。ほら、開けてよ。待たされるのは嫌いなんだ」


 俺や兵たちの間を音も成さずに通り抜け、ナクトミンは扉の前へ立つ。有無を言わさぬ雰囲気に兵たちは口を噤み、一度俺に目をやってから、狼狽しながらもほぼ同時に扉に手を掛けてその重たい音を響かせた。


 現れるは黒い闇。それは蠢いているようにも見える。その中で柱の濃い影が入ってくる者を威圧するように立ち並んでいた。西の奥に位置する最も広いこの部屋は入口から奥が見えない。強いてあげるなら、入口と同じような火の色が4つ、点になって見え、楽器の音色がか細く流れてくるくらいだった。決して好んで入るような場所ではない。この押し潰すような空気が嫌いだ。

 こちらに声かけることなく、踏み出したナクトミンの跡を追って中に入ると、空間の影が自分の顔に落ちるのを感じた。


 踊り子の鈴が高い音を転がす。酒の匂いが漂う。男の野太い笑いが聞こえる。無言で自分たちの足音だけを聞いていたせいか、他に感じられる気配に対して自分が敏感になっているようだった。

 やがて点でしかなかった炎が大きくなり、目の前にその熱気を放って現れる。アイとホルエムヘブの前で踊っていた踊り子は俺たちに気づくなり舞うのを止め、女官たちも次々とこちらへ頭を下げた。女官の手には酒樽があり、踊り子は鮮やかな色の衣を身に纏っていた。

 アイとホルエムヘブの手には立派な杯があり、並々と注がれた紫の葡萄酒は何かを祝っていることを強調していた。


「おお、ナクトミン。待ち侘びたぞ」


 ナクトミンの姿を見て、杯を手にして玉座とも思わせる椅子に腰を埋めたその男は言った。声がかかった猫目の男はそれに応じて会釈する。ナクトミンの頭が下がり、アイの視線はその後ろにいた俺へと向いた。


「これはこれは……誰かと思えば役立たずの情夫ではないか」


 口は笑んでいるが冷めた目だ。そう思いながらも、こんな男に喜ばれたいとも思っていない自分を知っている。俺を見るなり、アイの傍にいたホルエムヘブがあからさまに嫌な顔をした。


「ナクトミン、何でそいつをこの場に連れてきた。協力も何もしなかった無能野郎だろう」

「何やら聞きたいことがあるようなので連れてきたまでですよ、ホルエムヘブさん」


 ナクトミンが付け加えた言葉にアイは高笑いする。


「私にか?どこの馬の骨とも知れぬ薄汚い赤ん坊をティティと仲良しこよしで育てていたのではないのか」


 一口葡萄酒を口に含み、せせら嗤ったのを見て、俺はナクトミンの隣へと歩み出た。


「生まれて数か月の王女が夭折したことを耳にしました。勿論、それはあなたもご存知のはず」


 自分を落ち着かせるために敢えて丁寧な口調で尋ねると、相手は耳障りな嘲笑を喉から吐き出す。


「我はファラオの祖父ぞ。知らぬはずがあるまい、一番に知らせが来たわ」


 こうして祝う理由はこの光景を目にしてから大体分かっていた。


「生まれた時はどうしたものかと思ったが、死んでくれて何より。死すべくして死んだのだ」

「あなたが殺したのか」


 単刀直入だった。ホルエムヘブも、杯をもらったナクトミンも俺を静かに見据える。


「大神官、あなたが王女を殺したのかと尋ねている」


 真顔でこちらを見ていた老人は、途端に声をあげて笑い出した。


「そうよ、この私が殺した」


 手がその丸い顎に触れ、相手は口端を上げる。

 誰かに命じて毒でも盛ったのか。それくらいのこと、この男になら造作もないだろう。息が止まる思いがして、俺は拳を握り、睨みつけた。殴りかかってやろうかと思ったが、アイはこう続けた。


「神は私の祈りを聞き届けた。神は私の王位をお望みなのだ」


 神。どういうことだ。


「ソティスも現れ、あと数日もかからずして母なる大河も氾濫を起こそう。このめでたき時を祝わずして何とする」

「赤ん坊に何かしたのか。手を下したのか」


 祈っただけでそれ以外に何もしていないのなら、アイは今回の件に無関係だ。


「してないよ。勝手に死んだんだ」


 答えたのはナクトミンだった。椅子に足を組んで座り、頬杖を突きながら呆れたように俺を見ている。


「王女は病。熱が出て、咳が出て、それが悪化してそのまま。王妃は一睡もしないで看病してたみたいだけどその甲斐なくぽっくり逝った。アイ様は王女が死ぬように祈りを捧げていただけさ」

「熱に、咳……」


 咳と言えば風邪、あるいは気管支炎。乳児が気管支炎から死亡に至る疾患なら一つ、思い浮かぶ──肺炎球菌性肺炎。

 21世紀ではレントゲンを撮って初めて診断される疾患。肺炎球菌による感染症で、大人では放っておいても5日から7日で治癒するが、小さな子どもにとっては重大で命に関わるVaccine Preventable Diseases──VPDに当たる。症状としては咳と急性の発熱、呼吸困難、そして痙攣と昏睡。ある程度の免疫を母親から継いでいるとは言え、とりわけ2歳以下の子どもは肺炎球菌に対する免疫はないと言っても過言ではない。しかも小児の肺炎球菌感染症は重症化することが多く、適切な治療を行わなければ脳を包む膜にこの菌がついて細菌性髄膜炎を発生する場合がほとんどだ。最後に行き着くは死だ。

 ワクチンもないこの時代では、予防どころか何の処置もできないまま死を待つだけに終わる。言葉も話せない、泣いたりぐずることしかできない乳児の異変を感じるのは難しく、発見が遅れて手遅れになることも少なくはない。


「子供は弱いね。病に侵されたらいちころなんだから」


 黙り込んでいると、アイは踊り子に「踊れ」と命じた。女官が縦笛で曲を奏で始め、追って鈴が鳴り始める。まるで俺など存在しないように。


「ヨシキは何を怒ってるの」


 音楽に楽しげな声が混じり始めたのに、猫目の男の声だけはまっすぐと向かってきた。周りに聞こえないくらいの声で俺に囁く。


「アイ様が殺したって言ったなら、どうするつもりだったの?責めた?殺した?……でもね、ヨシキはすでにやってるんだよ、何も言えないじゃないか。ここでアイ様を非難したって馬鹿が自分の馬鹿を非難しているようなものでしかない」


 返せる言葉がなかった。アイが弘子の子供を殺したと言っていたなら、自分はどうしていたのか。怒っていただろうし、許せないとも思っただろう。しかし非難する資格も持ち合わせていないのだ。


「帰りなよ」


 ナクトミンは微笑んだままに言った。思いついた可能性を確かめたのだからここに居続ける必要性がなくなったことに気付く。酒の匂いと鈴と楽器の音が自分を追い出そうとするかのように背後で響き渡っている。


「ヨシキがここにいてもいいことないよ」


 胸に蟠る複雑な感情を持ったまま、俺はその部屋を後にした。








 戻る道もまた暗かった。月明かりだけが白い雪道のように伸びて、俺の行く手を横切っている。来た時と違い、足取りは泥に突っ込んだように重かった。

 アイがやっていないというのなら子供の命は失われるべくして失われたということだ。祈りを神が聞き届けたという訳ではあるまい、神などいないのだから。なのに何だろうか、この遣る瀬無い思いは。どこにも遣れない。

 東を見やった。ずっと遠くにその巨大な宮殿の影が浮かんだ。ずらりと並ぶ兵たちの影は目を凝らさなければ見えず、見えたとしても蟻のように小さい。

 あの中で弘子は泣いているのだろう。声をあげて、泣いているのだろう。寝ずに必死になって看病しただろう彼女の姿など、嫌なくらい鮮明に思い浮かべられた。

 出産からたった3か月。それだけしかいなかったとは言え、生まれた王女がどれだけ弘子にとって大切な掛け替えのない存在だったか。自分がシトレに抱く気持ちや、シトレを抱くことなく死んだ母親のことを思えばよく分かる。それも我が子を失ったのが二度目となれば尚更だ。

 部屋に戻る気もなれず、そのまま柱の傍に腰を下ろした。側頭を柱につけて東の空に浮かぶ月光を浴びる。そのまま瞼を閉じて視界を全部黒に放り込む。



『──ツタンカーメンには子供がいたんですか』


 誰の声だろう。

 霧の中から這い出したように、その声は頭に響いた。嫌な気もしなかったから、目を閉じたまま耳を傾ける。


『──王墓から2体の子供のミイラが見つかったって読みました』


 誰の声、じゃない。自分の声だ。


『──彼には二人の娘がいたとされているんだよ』


 今度は、弘子の父親の声だ。

 夢でも見ているのかと思えば、そうでもない。目を開けても声は続いた。


『──母親は分かっているんですか』


 次は自分。


『──ツタンカーメンの腹違いの姉アンケセナーメンだとされてる』


 今度は弘子の父親。

 映像を見ているように、台詞が次から次へと頭を過っていく。


『──生まれる前、ですか?顔部分が潰れているところを見ると、ミイラにするには幼すぎたんでしょうか』

『──さすが良樹だ。一人は胎児の内に、二人目は死産か生まれて数か月の頃に亡くなったみたいなんだよ』


 ちゃんとは分かっていないけれどね、と笑う口元が見えた気がして、はたと顔を上げた。

 頭上にはさっきと微塵も変わらない月がある。それは煌々と俺を照らし、腰元から伸びた影をいつもより濃く目に映す。


『──年若いのに二人も子供を亡くしたなんて随分気の毒な王だったんですね、ツタンカーメンは』

『──娘を失うなんて、可哀想だ』


 俺にはとても耐えられないよと悲しげに笑った相手の顔がありありと甦ってきた。思わず片手で髪を毟るように頭を抱えた。


 何だ、これは。突然湧き出たこれは。


 頭痛を感じ、額に手をやったら冷や汗をかいているのに気付いた。いつの記憶かと辿り、弘子がいなくなって、その父親と書斎でツタンカーメンについて調べたあの頃だと思い出す。

 と思っていた記憶。記憶だ。寒くなどないのに、むしろ夏という季節が巡って熱いくらいなのに、俺は悪寒に身を震わせた。背中を丸め、大きく呼吸して肩を上下させる。

 冷静になれ。思い過ごしかも知れないだろう。経験もしていないのに、経験したと勘違いするデジャヴだということも十分にあり得る。会話も映像も、すべて。もしそうでないのなら、何か恐ろしい事実に辿り着くような気がしてならなかった。全部打ち消したくて立ち上がり、俺は逃げるような仕草でその場から立ち去った。


 半ば駆け込んで戻り、閉じた扉を背に荒くなった呼吸を落とす。部屋に戻っても胸のざわつきは止まない。髪を掻き上げて、自分に落ち着けと何度も繰り返し唱える。

 猫が音も無く俺の前に降り立った。夜の猫の目は細く光る。心なしかそれは、思いついただけの考えにあり得ないほど動揺する俺を「馬鹿ね」と失笑しているようにも見えた。じっとこちらを見てから、猫は尻尾を高く上げて悠々と去っていく。いつもと変わらないつんとした態度に理由もなく凪いだ気がした。

 息を落とし、足を動かして奥へと向かう。大きめの寝台が部屋の中心に置かれていて、そこにはティティとシトレが身を寄せて寝息を立てている。それを眺めて、ようやくざわつきが治まり始めた。何を慌てていたのかと自分を嗤って、それから寝台の奥の方に目をやった時に、はっと息を呑む。

 鞄があった。俺がこちらに持ってきた、共に時を越えた鞄だ。何を思ったのか、俺の手は意に反してそれを引っ掴んだ。


 1年ぶりの感触は何だか奇妙だった。きっとこの時代に存在しない化学繊維で鞄が作られているからだろう。手が進むまま、チャックを開け、少なくなった医療品の中を探り、隠れるようにあったポケットに辿り着く。こんな所に収納があったのかと驚きながらも、そこからB5サイズのメモを見つけた。躊躇いも無く、4つ折りにされたメモを開いて現れたのは、箇条書きにされたツタンカーメン年表らしきものだった。書いた覚えはこれっぽっちもないが、ボールペンで綴られた文字たちは紛れもなく俺の筆跡だ。とても綺麗とは言えない走り書きを順に目を通していく。

 

『紀元前1340年頃、第18王朝においてアメンホテプ4世の王子として生まれ、父の死を切掛けに9歳ごろに即位、十代後半から二十代前半で急逝。発見者カーターとスポンサーであるカーナヴォン卿。1922年11月4日発見。王墓KV62。父はアメンホテプ4世。母はキヤ、妃はアンケセナーメン』


 ツタンカーメンが何をした人物かが、俺らしく端的かつ正確に事細かくまとめられている。そして走り書き最後の一文。


『二人の王女のミイラが発見されている。一人は流産、一人は死産あるいは生後数か月で夭折』


 続きは無かった。鞄のどこにも存在せず、まるでこの一文を見せるためのごとく、この文のあるこのメモ一枚しかなかった。

 手が震え出す。目が瞬きを忘れ、肺が呼吸するのを忘れる。


 俺は、知っていた。知っていたはずだ。あの男の子供が二人とも死ぬことを。知っていたなら、自ら弘子の最初の子供に手を下すこともなかった。歴史に任せて死ぬのを待っただろう。俺のしたことは何だったのか。


 ──違う。


 手を下さなかったならば、この通りにならないのだとしたら。俺が抱いた怒りや憎しみで動いたことが歴史通りの事象を引き起こしたのだとしたら。

 何もかもが恐ろしくなる。何かの間違いではと、考え過ぎではと思いながらも、そうだと確信する自分がいる。うっすらと勘付いていたことでもあった。調べた記憶がまるでくり抜かれたように無くなっているのを知った時、言葉では説明のしようのないものが関わっているようだと思っていた。だが今は、得体の知れない大いなるものが、自分を見下している感覚が拭えない。

 視線を上げた先に、くり抜かれた窓があり、そこから欠けた月が見えた。漏れてくる白い月影が顔の上に落ちてくる。


 俺は。俺たちは、歴史通りに動かされていたのだろうか。

 歴史の渦に巻き込まれまいと行ったことが。弘子を歴史から守ろうとしたことが。すべて歴史だったのか。そして今俺が思っていることも、行動も何もかも。

 決められた道を歩んでいる。タイムパラドックスなど、決して起こらない。起こるはずなどなかった。何故ならそうさせまいとしたが働いているから。俺の失われた記憶もそうだ。歴史が俺をそれ以上動かないようにそうしたのだ。弘子の記憶も、現代人が持っているはずの無い、知る必要のない記憶だから。だから、消された。俺も同じ。この時代に持っているはずのない、持っていれば歴史を変えてしまうだろう知識も記憶だから消された。俺も弘子もここに生きる誰もが、歴史によって呼ばれ動かされ、生きているのだ。


 ──神は、いるのかもしれない。


 初めてそう思った。いるのなら俺たちは『駒』だ。歴史をその通りに動かすための『神の駒』。感情で、憎しみで、俺が自ら手を汚したことが歴史であったように、こうであれと行動して起こったものすべてが歴史となる。

 そして弘子や俺が、ここへ来た理由もおそらくはそれだ。弘子が時を越えて古代に来て、あの男を愛したのも。後から来た俺が恨み辛みを重ね、メアリーを使い胎児を殺し、落ちぶれたのも。ようやく弘子が産んだ子供さえ肺炎で死んだのも、すべて必然。

 今までのことが気味悪いほど辻褄が合い始める。


「ヨシキ、帰ったの?」


 神は、いる。この世界のどこかに。冷酷に、冷淡に俺たちを見下ろし、俺たちが嫌だと思いながら歴史通りに動いていくのを、見ているのだ。都合の悪い記憶があれば消して、取り上げて、歴史通りになるよう動かしている。何よりもその心当たりと、そうだという確信が俺の中に巣食っていた。

 俺は呻いた。泣き喚きたくなり、合わせて空に向かって怒鳴り散らしたくなった。


「どうしたの、ヨシキ?」


 なんて残酷なのか。神は救う存在ではないのか。奪った記憶を俺に戻し、歴史に抗えないことをこれでもかとあからさまにしてくる。そしてこのメモの続きが無いように、これからのことは取り上げたまま、何も教えてはくれない。

 息が荒くなる。頭痛が酷くなって掻き毟る。鍵爪のように丸めた両手で床を掻いた。手の下にあったメモが皺を作り、無雑作に折れ曲がった。

 ティティが駆けてきて、俺の背中を擦った。

 腹立たしいのか、悔しいのか。遣る瀬無いのか、悲しいのか。縋って泣きたいのか、無気力なのか分からない。全部だった。

 呻いて、振り絞った声をあげて両腕で床を叩く。痛みと共に振動した虚しく重たい音は、夜に消えた。

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