19章 神とは
消えたもの
目前に広がるヤグルマが青い。太陽の光に合わさって視界に色が満ちる。そよいで、その香りを何倍にもして風に乗ってこちらへ駆けてくる。頬を撫でるもの、鼻をかすめるもの、耳に囁きかけてくるもの、目を閉じてこの身に感じられるすべてに、幸せだと感じた。
「弘子」
目を開けた先に、ヤグルマギクに腰を埋めた彼がいる。腕の中には娘が大きな瞳をくるりとさせている。
「どうした、眠いのか」
からかう声が青を跳ねていく。私は笑って、隣の腕を軽く叩いた。
「ここが一番好きだって感じてたのよ」
「私が贈った場所だからな」
当たり前だと自慢げに言ってのける彼の腕の中から、私をじっと見ている幼い視線に気づいた。
「どうしたの?タシェリ」
両手を伸ばして顔を近づけて呼ぶと、可愛らしい声を小さくあげた。ナイルの氾濫が来る頃、あと少しで生後3か月になる。名前を呼ぶと私を見たり、小さな声を上げてくれたりと、些細なことでも何かがある度嬉しくてたまらない。
腕や足がふっくらとしてきて、身体付きが生まれた頃よりも少しだけ大きくなった。比較的に身体が小さく生まれたと知らされてはいたけれど、その心配がないくらいに育ってくれている。
眠って起きて、大きな目をくるりと回して声を上げて私を呼んで、私を見る。そんな動作のひとつひとつに泣き出しそうになる時がある。それを言うと彼は大げさだと笑うけれど、本当のこと。
このままのびのびと育っていってほしい。思いきり笑っていてほしい。幸せになってほしい。まだ幼いこの子に対する願いは尽きない。
「可愛くてたまらぬ」
小さな握り拳を丸々口に入れているタシェリの額にキスをしながら、彼が愛おしげに呟いた。
「どうだ、父の妃になるか?」
可愛いの二言目はいつもそれだ。最初は驚いて必死に否定していた私も、繰り返し聞いている内に今はすっかり慣れてしまった。
「まだ言っているの?」
「弘子は第一、タシェリは第二だ。娘は妻を越えられぬ。見苦しいぞ、今から嫉妬など」
「嫉妬とかそういう以前の問題なのよ」
そもそも娘が自分の夫に嫁ぐなんて考えたことがないから、そこから芽生える嫉妬というのも全く想像できない。
「我が父アクエンアテンも正妃ネフェルティティと側室の他に、実の娘であるアンケセナーメンを妃にしている。この上ない愛情の証だ。問題視する部分などどこにある」
「問題大ありよ。絶対駄目。許しません」
エジプト王家が成立当初から近親間での婚姻を多く行っていたことは知っている。兄妹同士、親子同士、時には祖父母と孫の関係まで及んだ。私自身、アンケセナーメンという彼の姉を名乗っているのだから、公では私と彼の婚姻は兄弟同士のものとして認識されている。
近親婚を行うのは、政治的権力を王家という一つの限定された血族の中で守っていくことや、神を祖先とする血筋を守るためだ。後者はともかく、前者の理由はエジプトが大きな内乱を起こすことがなかった大きな要因でもあるから理解できなくはないが、自分の娘のこととなれば話は別だ。
遺伝子上の問題や心理上の問題。もしかすればこの子も添い遂げたいと思える人に出会う日が来るかもしれない。これらを宗教上の信念がしっかり根付いている彼が納得してくれるように説明していかなければ。
「それほどまでに嫌がるのであれば、弘子は王子を産まねばならぬな」
「え?」
顔を上げた先に、彼の澄まし顔がある。
「王子だ」
私にタシェリを渡しながら、彼は何かを考えるように眉間に皺を寄せる。幼い声を上げてしがみ付くその子に、私は微笑んで背中を撫で、それから胡坐をかいて思考を巡らせる隣の彼を見た。
「弘子が王子を産めば、タシェリは間違いなく弟と婚姻を結ぶ。これならば許せる。王位も我が息子に渡るのだからな」
タシェリの次に男の子が生まれれば、王位継承権はタシェリからその王子に譲られる。兄弟婚があるから二人は自然に結ばれ、そうなれば次の王も王妃も王家で固められる。彼としてはこの上ない一石二鳥だと考えているのだろうか。
「それも駄目よ。血縁がないか、血縁が遠い人じゃないと。他国王家から結婚相手を決めた例も過去にあったでしょ?それに倣えば良いのではないかしら」
以前読んだ書物を思い返して返答すれば、彼は口を尖らせた。
「なんでもかんでも駄目駄目と……弘子はケチだな。タシェリには王位継承権がある。夫となった男が私の後継だ。私より賢く強く、由緒ある血筋の男でなくては認めぬぞ」
溜息が出てしまう。私の腕に抱かれるタシェリは、自分の将来が議論されているなんて露知らず、眠たそうにうつらうつらしていた。
「まあ、どこぞの王子だろうが相手は婿だ。私に屈服せぬのなら殺すのみ」
「ほら、またそんな野蛮なことを言う」
口を尖らせたままの彼は傍に咲いていたヤグルマの花を一輪積んで、タシェリに向けた。目の前で振って見せると、
「気に入ったか。母に似て花が好きだな」
にこにこした彼が大きな手でタシェリの小さな手に花を持たせると、その子は不思議そうに眼を瞬かせてそのまま口に入れようとしたために、慌てて私がそれを防いだ。手に持ったものを何でも口に入れようとしてしまうから危なくて仕方がない。首から下げた王位継承の証である指輪もどれだけその危険にさらされたか分からず、結局普段は外してしまい込んでいる。
「食べるものではない。この美しい色や、香りを楽しむのだ」
軽やかに声を立てて、彼その花を近づける。近づく花に目を寄せていたタシェリは、その瞬間くしゅんと小さく飛び跳ねた。
「あら、くしゃみ」
私が笑ったら彼も笑い、こちらからタシェリを受け取って、また「可愛くてたまらぬ」とお決まりの台詞を繰り返す。あやしてもらってご機嫌なその子を眺め、そして空から青い草原へと彼の淡褐色が動いた。風が頬を撫でて、私も彼の視界の先に視線を投げる。
「タシェリの他に生まれたら、もっと楽しくなるのだろうな」
彼が望むように、これから男の子も女の子も生まれたら。この青い空と青い地面の間を駆けていたら。
「私と弘子の子らがここを笑いながら駆けていくのだ。それをお前と私が眺める……どれだけ幸せだろうか」
そうねと答えると彼は嬉しそうな顔をした。
「タシェリ、お前も兄弟が欲しいだろう」
身体を揺らしてくすぐるように指を動かすと、その子の口が柔らかい弧を描く。
あなたたちの笑った顔が好き。あなたたちの笑い声が好き。その笑顔と弾む声の先に、私は明日の夢を見ている。
「やはり母の方がいいのか」
気付けば、彼に抱かれているタシェリは私をじっと見ていた。私はまた手を伸ばす。彼が渡してくれたその子に、私もキスをする。
この暮らしが続くのなら何もいりはしない。守るためならこの命を投げ出すのに迷いなどない。どんな時も自分より大切だと思えるこの二人が、私のすべてなのだ。
彼が目を伏せる私を抱き寄せて髪を撫でる仕草を、娘を抱きながら感じていた。
今を守っていくには、努力が必要だということも知っている。あればいいと願っているだけではいけない。そうであれと行動を起こすこと。安心を得るには、それに相応する働きかけが不可欠だ。
私が不安に思うことは、今という時間が歴史通りであるかどうか、ということだった。それを確かめるには、数千年後に学者たちによってなされる推論と今を照らし合わせることしか術がない。歴史に興味を持っていなかった私の知識は役に立たない。私が接触できる人物で、未来で語られる知識を持っているのは一人だけ。
彼が建築中の神殿を見に行っている間に、私はナルメルを従えてある部屋へと向かっていた。
「あちらの間に控えさせております」
柱の並ぶ廊下に見えた小さな一室を前に宰相が恭しく告げる。
「ここからは私一人で大丈夫よ。ありがとう」
頭を下げるその人の横を通り、兵士が開けてくれた先へと足を踏み入れた。
机と椅子、書物を積み上げた木製の棚。彼と私の過ごす場所と比べたら比較にならないほど狭い、少人数による会議のための空間だった。四角にくり抜かれた窓からの明かりは細く、そのせいで中はやや暗い。その中で跪く女官姿の人が、扉が閉まると同時に顔を上げ、柔らかな笑みで迎えてくれた。「メアリー」と声を落とすと、彼女も立ち上がりながら私の名を呼び返した。
「いきなり呼び出してごめんなさい」
「ううん、いいの。私もちょうど弘子と話したかったから」
二人だけの部屋は声が籠もる。
「座って」
机を挟み、向かい合って腰を下ろした。セテムの側で働いているという彼女は、前会った時よりも朗らかであるような気がした。
「王女様は?お元気?」
セテムの話が少し続いた後に、彼女から出てきたのはタシェリの話題だった。
「ええ。とても元気よ。日に日に大きくなってるの」
「もう3ヶ月くらいだよね?」
「そう。あと少しで3ヶ月。あやすと笑うようになったかな。私たちの顔も分かるようになったみたいなの」
「そっか」
胸をなで下ろす彼女に、私もなんだかほっとした。
「良かったら、またあの子に会ってあげて」
後ろめたさが消えないと言う彼女は相変わらず弱々しく微笑み、「いつか」と返してくれた。
「それで、今日はどうして私を?」
話題を変えたメアリーの声がそっと私にかけられる。いきなり呼び出したから、驚かせてしまっただろう。私は本題に入ろうと身を乗り出した。
「……メアリーは、エジプト史に詳しかったよね?」
私よりエジプト史に詳しかったのは彼女。少なくとも、有名なツタンカーメンのことは私よりもずっと知っていたし、私の父の話に熱心に耳を傾けていた人でもある。父が話してくれたことを、途切れ途切れにしか思い出せない私には、彼女が持っている知識こそが頼みの綱だった。
「一緒に遺跡へ遊びに行って、お父さんの話をよく聞いてたじゃない?私より興味も持っていたし」
虚を突かれたような顔をした相手の表情に、緊張のせいか自然と手に力が籠もる。
「その中で私たちがいる今の時代……第18王朝、紀元前1300年付近の歴史について知っていることがあったら教えてほしいの」
少しの沈黙があってから、相手の口がゆっくりと動いた。
「弘子のお父さんの話……凄くおもしろかったこと覚えてる。私、よく質問してた。おじさんも呆れた顔せずに全部丁寧に答えてくれて……」
当惑したような表情をしながらも、メアリーは話を続けていく。
父は小さなものでも発見すれば、必ず私や一緒に遊ぶメアリーに自分の考えを話して聞かせてくれた。熱心に話を聞くメアリーに対して、私は反対で早く遊びたくて仕方がなかった。
「私が知っているのはツタンカーメンが殺人か病気か事故で早くに命を落とすことだけ。もしかしたら戦争でのこと、ということもある。この時代に起こる戦争と言ったら何かあったかと思って」
「ううん、この時代はアクエンアテンの宗教改革を除いて、大きな戦争や内乱はなかったと思う」
戦争が起きて、そこで彼が戦死するのでは、という私の不安にメアリーは首を振って否定した。
「比較的に外国とも友好的で安定していたし、あの敵国ヒッタイトとの仲も良好だった。記録されている大きな戦争は19王朝。確か、紀元前1285年のカディシュの戦いで、その前には……」
彼女の声が、何かに奪われたように途切れた。不自然に感じながらも、戦争という大きな可能性が消えたことに安堵を覚える。彼女の言うように、今の外国とエジプトの国交は良好だ。戦争を起こしそうな国はないとナルメルもカーメスも、彼も言っていた。
「それからね、王家の谷のツタンカーメン王墓の位置が違っているの。21世紀でKV57と言われていた場所がこの時代では、彼のお墓だと言われて……メアリーはKV57が誰の王墓だったか分かる?それともこれは歴史が変わっているせいだと思う?」
私も記憶を掘り起こして、彼女に知っていることすべてを伝えようとした。
王墓の位置が違っていることも大きな謎だった。21世紀において、ツタンカーメンの王墓は間違いなくKV62であったはずなのだ。
そしてラムセスという名の、ツタンカーメンの何代か後に出てくる実在のファラオと、私の知っているラムセスの関係性も気になる点ではあった。有名すぎるそのファラオの名を持つ人と、隊長の名を持つ赤毛の彼は全くの赤の他人であるのかどうか。
他にも沢山ある。
私がこの時代に来て、彼との間にタシェリを産んだことで歴史は変わったのか。良樹やメアリーの存在も同じ。未来からやってきた私たちによってタイムパラドックスは引き起こされているのか。
何か、確かなものが欲しい。歴史が変わっていると、信じられる何かが。彼が若くして死なないという何かが。喉から手が出るくらいに、それらを私は欲していた。
「……あのね、弘子」
呼ばれた先に見た彼女の顔は何故か泣きそうで、真っ青だった。机の上で祈るように組まれた手は小刻みに震え、それを見つめる目は何かに恐れるように見開かれている。
「どうしたの?大丈夫?」
「牢にいる間に気づいたことがあるの」
咄嗟に立ち上がろうとした私の腕を、メアリーが掴んで引き留める。表情や震える手とは違って、声は落ち着いていた。
「私、記憶がなくなってる」
見開かれた目は揺れていて、彼女がどれだけ動揺しているのかを物語っていた。
「記憶が?」
「今までも忘れてるんだなって思ったことが何度かあった。思い出そうとしても所々が抜けていて……でも今度は違う。もう何もない、何も出てこない、何も……」
「どういうこと?」
信じられないと言った表情をしながらも、メアリーは一端目を閉じ、それから開いて私を捉えた。はっきりと何かを確信したような、そうでいて愕然とした眼差しだった。戸惑いはそこに揺れ続けている。
「歴史に関しての記憶が消えてるの。おじさんに聞いたこととか、自分が本で読んだこととか、この時代に関する、それもツタンカーメンとアンケセナーメンに大きく関係することだけが都合の良いように、知らないうちに全部なくなってた」
おかしいのだと彼女は言葉を重ねた。机の茶色を見据え、相手の目がゆっくりと細められる。
「白い絵の具に塗りたくられたように消えてて、ぽっかり穴が開いたように、くり抜かれたようになくて……忘れたとかそういうのじゃない。あったと分かっているものが、なくなってる」
白い絵の具に──この言葉に思い当たる節があった。私が一度現代に帰った時に記憶の失い方、それと同じではないだろうか。
「私が今知っている、ツタンカーメンの歴史は彼が19歳前後で死ぬことだけ。場所はKV62。1922年に王家の谷で発見されたファラオで……」
彼女は続ける。
「ツタンカーメンの、アンケセナーメンの何が悲劇だったのか、何が起こったのか、何も思い出せない。私は、何も知らない、分からなくなった」
説明しようのないものが働いているのだと、いつか思ったことが蘇ってくる。生々しく、私の背筋を舐めるように。
愕然とした私を見つめる彼女は、もう一度唇を動かした。
「記憶が、ないの」
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