隙
* * * * *
「シトレ」
呼び声に振り向く一歳になるその子は、床に座りながら「きゃっ」と声をあげて手を叩いた。誰かを探しているようで、澄み切った瞳をあちらこちらに向けている。
言葉と呼べる言葉を発することはないものの、人を判別できるようになり、喜怒哀楽の感情表現がしっかりしてきた。首が座り、身体付も乳児から幼児へ変わり、何よりよく動く。指差して何かを伝えようとしたり、言葉に成りきれない声を必死に発していたりする。今は四つん這いになってあちらこちらと動くものだから、ゆっくり書物を読むこともできない。
「ああ、また」
椅子から立ち上がって、母の形見を口に入れてしゃぶり始めたシトレを抱き上げた。少し力を加えて小さな手を振り解けば、涎に
「これは食いもんじゃないの」
何度そう注意しても、シトレは首を小さく傾げてにこりと笑うだけで反省の色を垣間見せたことは今までに一度たりともない。それでいても、シトレという名の他にあの母親が残した唯一のものを取り上げる気にもなれなかったし、危険にならないのならそれでいいとも思っていた。
「また、しゃぶっちゃったの?」
涎で濡れた口元を拭ってやっていると、神殿へ出向いていたティティが戻ってきた。彼女の声がした途端、小さな頭がそちらを向いて、また明るい声が跳ねる。
「今ので何度目だと思う」
「そうね……5回目くらいかしら」
「残念、4回目だ」
「あら、昨日より少ないじゃない」
くすくすと肩を揺らした彼女がシトレに手を伸ばすと、その子も両手を伸ばして俺から彼女の方へと移っていく。彼女もシトレの額にキスをして、愛おしげに頭を撫でてから寝台の上にその子を下ろして自分もそこに座った。
寝台の上に陣取っていたあの猫に対し、シトレは伸し掛かるようにして行く手を阻む。諦めて伸し掛かられている猫を見て、俺とティティは思わず笑いを零してしまった。
「もう1年になるのね」
猫と遊び始めるシトレを見て、彼女がしみじみと呟いた。
名無き人がシトレを産み、この世を去って、己の手で育てようと決めたあの頃から1年。あっという間だった気がする。いや、長かったか。
夜泣きが酷く、眠れない日もあった。危なっかしいこともあった。だが初めて寝返りを打ってくれたあの時が嬉しかった。初めて笑顔を見せてくれたあの時が嬉しかった。この子の成長を、ティティと肩を並べてどれだけ喜んできただろう。
生まれてから今までの日々を振り返って、幾度となく母の気持ちを想う。歩いたと言って喜び、喋ったと言って抱きしめ、泣いた時は寄り添い、側にいて変わらぬ愛情で見守っていくはずだった、たった一人の人。シトレにその存在がいないのだとしたら、育てると決めた俺がその代わりにならなければならないだろうことは知れていた。そんな俺よりも、実質母親のような無償の愛を注いでいるのは、今隣に座ってシトレを微笑んで見守るティティで、彼女にはどれだけ助けられたか分からない。シトレが何かをするたびに、嬉しそうに俺を見て美しく笑う。「見て」と俺に何か新しいことができるようになったシトレを見せてくれる。
多分、そんな彼女に俺は愛情を抱いているのだろうし、彼女も俺にそれに似た感情を多少なり持っているのだと思う。ただ互いに口に出さないだけで。
そろそろ遊ばれている猫が哀れに思い、シトレを抱き上げた時、わっと歓声のようなものが遠くに響いたのを聞いた。ナイルの氾濫もまだであるはずなのに、何かの式典でも催されているのだろうか。
歓声にびくりと驚いたシトレを抱き寄せながら、ティティは意味ありげな視線を俺に向け、その口を開いた。
「王女ご誕生を祝う式典よ」
発せられた言葉に、すぐに納得した。
弘子が産んだ王家の子供の誕生を祝う式典。一瞬で肩に籠った力がふっと抜ける。
「もう怒ったりしないのね」
なんだか怒りっぽい奴だと言われているようで苦笑してしまう。
「……無事、催されたのか」
自分が一度殺すと言った、弘子の子供が無事誕生を迎え、民に祝福されているのだ。
寝台から降り、東の空へ開く方に足を進めた。柱の間から風が流れてどこか花の匂いが乗ってくる。歓声が聞きたかった。それを聞いて、この身に感じる風が空気が、弘子に繋がっていることを感じたかった。
柱に手を乗せ、拳を握る。不意に、自分の唇が「良かった」と紡いだ。
弘子の出産を知ったのは、御子誕生の翌日だった。女児、王女だったという。
──弘子。
幸せを感じられる、ずっと続いていてほしいくらいの生活を送っていても、俺は未だに忘れたことはない。愛おしく想う。会いたいと思う。
ティティのこともシトレのことも愛していると感じていても、それでも自分が抱く弘子への想いはやはり特別なものなのだと思い知らされる時がある。
だが、今回無事に生まれたからと言って、俺の心境に変化があったからと言って、弘子が俺を許すことは決してない。
俺は殺めてしまった。どれだけ願っても、もう昔に戻ってやり直すことはできない。
「……大丈夫?」
シトレを抱いたティティが俺の隣に立ってこちらを覗いていた。彼女らしからぬ心配そうな顔だ。そんな表情をする理由は痛いくらいに分かるし、そんな風に思わせてしまう自分もまだまだ情けない。
柔らかい笑顔を浮かべるシトレが俺に手を伸ばす。その温もりを取って、軽く握って、自分でも笑ってしまうくらいの弱々しい笑みを返した。
「少し、歩いてくる」
そう言うと、何もかも分かっているというように、彼女は眉を下げた笑みを返してくれる。「気を付けて」の声を背に、俺は部屋の外へ向かった。
柱に沿って歩いて行くと、庭だった風景はやがて見下ろす風景へと変わっていく。外は美しい。まだらに白い雲を浮かべる青い草原を思わせる空に、ナイルの涼しさを運ぶ風、それに混じる植物の香り。ハスのレリーフで飾られた柱の間に見え始める神殿の平らな屋根部分と、セクメト神像の頭部。所々に見える緑は映えて鮮やかだ。
頭の隅でそう考えながらも、自分の中は疑問で溢れていた。このままこの生活が続いても自分は構わない。シトレの成長を見守って、ひっそりと暮らし、弘子も弘子の生活の中で、自分の娘を見守り育てていく。──だが、歴史はどうなったのか。
歴史は変わったのか、そうでないのか。これが問題だった。
変わってないのなら、これから必ず何かが起こるだろう。何かとは何なのか。空白だらけの歴史と記憶の中には、皆目見当もつかない。
ふと顔を上げた時、離れた先に見知った姿を見つけた。1年ぶりと言ってもいいだろうか、背中を壁に預けて立つ青年は、下に広がる景色を無言で見下ろし、交差させた足の爪先を繰り返し床に打ち付けている。
「ナクトミン」
近づいて声を投げると、相手は首を起こして俺を見た。こちらの姿を捉え、また前に戻った目はどこか獣のものを思わせる。
「前はアイを言いくるめてくれたって聞いた」
子供は殺せないと命令を断った俺の前から怒ったように無言で立ち去ったこの青年は、アイをどう言いくるめたのか、俺は今の今まで何の罰も与えられず済んでいる。
「感謝してる」
アイの信頼は失っただろうが、何も言わず俺の好きなようにさせてくれたこの男には謝意を示すべきだと思っていた。
「僕はヨシキに興味があるんだ。あんなことで殺されちゃたまんないよ」
前を見据えたままの目元に、以前あったはずの少年の面影がないのに気づく。会わない間に顔つきが少しばかり大人になったようだ。隣にいてもいいかと尋ねると、ナクトミンは黙って浅く頷いた。
穏やかな風景を見下ろす目は瞬きが少ない。何かに神経を尖らせているようだ。それを見ている内に、前に交わした話が頭に蘇ってきて、俺は唐突に口を開いた。
「王女が生まれて王位継承はアイから遠退いた。お前はこれからどうなると思う」
弘子が王女を産んだことで、アイが不利になったのは言うまでもない。ツタンカーメンか、それともアイか。どちらに付くか決めかねていたこの青年は、この状況で何と言うのだろう。
「ヨシキは分かってないね」
ずっと向こうを眺めていた猫の目が、ゆっくりと俺へと向いた。
「生温い環境で1年を無駄にしてきた分、頭が鈍ったんじゃないの」
「随分な言われようだな」
細目で呟かれる嫌味に笑った。そういった話から離れていたのは事実で、確実に幸せも感じる時間を過ごしてきた。いかにもその通りだ。
お気楽な俺の様子に腹でも立ったのか、相手はますます顔を顰める。
「今回ファラオは重役にさえ王妃ご懐妊の由を伝えなかった。表面には出さなくてもこれを不満に思う輩は大勢いる。僕や、ホルエムヘブさんのようにね」
本来なら国中に知らせられるはずだった弘子の懐妊は、一切周りに伝えられずに終わった。王位継承権を持つであろう存在が生まれるかもしれない、そんな事実を伝えられなかった重役たちを思えば、不満という言葉が出るのも無理はない。
「伝えなかったなら、後から伝えればいい話だろう」
「勿論王女の誕生後すぐに、ファラオはその由をアイ様や僕を含む重役に伝えたよ。アイ様は噛み付くように質問したし、非難もした。あの人独特の巧みな話術で、周りの不満が確たるものとなったのは事実だろうね」
何を言われようとしているのか分かった気がして、俺の眉間にも皺が寄り始める。
「ファラオは自ら隙を作った」
やけに響く声だった。説得力のある、低めの音が周りに広がっていく。
「隙と言ったって僅かなはずだ。隙と呼べるものだとは到底思えない。そもそも御子の誕生はアイ以外のこの国にとって一番の望みだったはずで……」
「御子が生まれたかどうかじゃない。大事なのは信頼が揺らいだってことだ」
ナクトミンの断言は、俺から続きの言葉を奪う。固い唾を飲んだ。
俺は、何か大事なものを見逃していたのではないか。
「王族は脆い」
吐き捨てるかのようにナクトミンは言い、下の光景を再び見下ろす。
「王族とそれに仕える者たちは信頼の名の下に繋がってる。それは平和ボケしたヨシキにも分かるよね?その信頼が崩れたらどうなるか」
それで崩れ、政権を奪われた王家がどれだけあるかと、ナクトミンは続けた。
「でもファラオという存在は絶対で揺らぐなんてことは……」
「にまにま笑ってる赤ん坊の隣で、ヨシキは時間が止まったように感じているんだろうけど、それは違う。すべては動き続けて止まることは無いんだよ」
壁から背中を離し、腕を組んで俺を見据える。何と返したらいいか分からない表情だ。獣のような目を見つめ返すしかできなかった。
「埋められず残されたままの小さな隙を必ず狙う。どれだけ小さかろうと絶対に見逃さない。あの人はそういう人だよ」
去り際にすれ違いながら、相手は小さく囁いた。
「見てると良い。きっと何かが起きるから」
足音が遠ざかり、余韻を残して静寂が戻ってくる。
風の音と、植物の擦れる音。遠くの歓声。その中で、俺は固まっていた肺を動かして大きく呼吸した。
一人見上げる空は夏色に染められ、俺の嫌いなラーが肌さえも焼くような陽光を放っている。夏色なんて、爽やかすぎる言葉かもしれない。
ナイルの氾濫まで約2カ月。ツタンカーメンの年齢が24と加算される区切りの時は、もうすぐだ。
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