良し、樹

 病に侵される彼女は、黄熱病患者の成りの果てを知っていた。重症の場合、最後は死に至ることも、自分の命があと数日で、出産の日まで持つか分からないことも、すべて。

 それに対して俺は彼女をほとんど知らない。死の病である黄熱病を先に患った夫が、妊婦である妻に「逃げろ」と言い、家族に殺されるかもしれない夫を残して一人飛び出してきたのが彼女であること。夫が殺されて死んだと知り、後を追うことも考えたが、宿った子まで道連れにはできないと死に物狂いで逃げてきたこと。それだけだった。

 自分に頼ってくれているようでも、彼女は未だに「名無き人」であり続けている。

 彼女の名すら、俺は知らない。


 匿い始めてから1週間が経ち、そろそろ症状が重くなるかと思いきや、彼女の病状の進行は思いの外遅かった。吐血や下血を覚悟していたのにも関わらず、時折鼻出血や歯肉出血を来すだけで、それ以上の進行は診とめられない。診断を誤ったのか、それとも特別な症例なのか、何の検査手段もない俺には判断のしようが無かった。


 そんなことを考えながら空っぽのティティの部屋まで行き、自分と「名無き人」の分の朝食を手に取る。誰もいないただ広い部屋に、自分の足音だけが秒針のように規則正しく鳴り響き、こだまになりつつ、ついてくる。

 これからどんな治療をしていけばいいか。自分が持っている薬剤でどれだけのことができるかと頭を捻らせた。


 病人の部屋に差し掛かると、20センチほどの像を寝台の上に置いて、それに祈りを捧げる女の姿が目に入った。白い朝陽が零れる空間に長く伸びた、消えてしまうくらいの薄灰色の影。しっとりと閉じられた長めの睫毛を持った目元。祈りの歌だろうか、子守唄のようにも聞こえる何かを、か細く静かな声で奏でる口元。

 何故だろう。世界は穢れの無い白に満たされていると錯覚させる。祈る「名無き人」の姿を、俺は素直に美しいと思った。


『もし運よく出産まで行き着くことが出来たとしても、腹の子も同じ病気を患っているかもしれない』


 昨日、彼女にそう伝えたことを思い出す。この酷な可能性にも彼女は一切表情を変えず、それどころか微笑んで俺に言ったのだ。


『その時は、その時。私はこの子と一緒に死ぬだけよ』と。


 何も返せなかった。彼女にとって、腹に生きる胎児は自分の命そのもので、己の生きる意味そのものであると。全てを覚悟しているのだと知った。




「先生?」


 こちらの存在に気付いたその人が俺の思考を引き戻した。引かれた視線の先に、穏やかさの根源とも思える女を見た。


「また祈ってたのか。なんだっけ、その神の名前」

「イムホテプ様よ」


 テーブルに食事を置いて、椅子を寝台の傍に寄せながら神像の名を胸の中で繰り返す。


「医学の神様なのに、先生が知らないなんて変な話ね」


 イムホテプとは、ピラミッドが建設されたエジプト建国時代の宰相、神官、そして博学者を担った人物だ。エジプト医学を中心にこの国の主軸を作った者として神格化され、医学を発達させたという理由から病人や妊婦の祈りを聞き届ける神としても信仰されている。『知恵、医術と魔法の神』として崇められていることを考えれば、ギリシャの医神アスクレーピオスと同じ存在と言えるだろう。

 赤茶色の石で造られたイムホテプ神像を、彼女はしかと胸に抱き締めた。


「これを下さった方も先生と一緒……こんな素敵な神像を下さった。私を人として扱ってくれる」


 これを与えたのはティティだ。心の支えになれば、と俺から渡すように言ってきたのだ。他に関してはサバサバしているのに、妊婦や赤ん坊に対しては随分と敏感で自分のことのように考える癖がある。彼女の今までの経験がそうさせているのかもしれない。弘子の流産の時もそうだった。


 二人揃って、木製の食器を鳴らして冷めたスープを口へ運ぶ。誰も寄り付かない部屋は静かで、相手の楽しそうに話す声だけがしんしんと降り注いでいる感覚だった。

 数日前に死んだ夫の話。趣味である料理の話。そして、無事に生まれるかさえ知れぬ子供の話。自分には関係のない、他愛の無い話を俺は黙って聞き続けていた。


 食べ終わり、食器を置いてから相手を見やる。庶民の飾り気のない服に、腕に嵌められている、くすんだ黄金の腕輪。服に似合わないその色は太陽を思わせた。女の腕が動くごとに色を放って揺れ動く。


「男の子だったらきっとやんちゃな子だと思うんです」


 名の無い人は、何かを口に入れるたび嬉しそうに語る。


「女の子でもやんちゃかもしれない。あの人に似ていたらきっとやんちゃな子。真っ直ぐで、ちょっと不貞腐れやすいなの。それでいて負けず嫌い」


 生まれるかどうか分からない胎児への想いを、返事もしない俺に聞かせてくる。胎児を一人殺している男だとも知らずに話してくる。

 胎動を感じると、花開くように輝き出す顔。優しく撫でる手。語りかける柔らかい声。それらを見て聞いて、彼女がいるのは自分の反対側なのだと思った。


「名前も決めておかなくちゃ。何がいいかなあ」


 考えてくれていた旦那が死んでしまったからと、彼女は寂しそうに笑う。


「素敵な名前がいい。自分を好きになれるような、何かすごく幸せな……私がいなくても私たちを感じられるような。あの人が考えていたのも、きっとそんな名前だと思うの」


 夫がたった数日前に死んでいるのに、泣きもせず強く生きようと前を向いていられるのは、腹に宿るものがあるからなのだろう。愛した男が唯一残した忘れ形見。

 だが、それをも遺してこの人は死ぬのだ。


「──ヨシキ」


 空気に沁み入るような、何とも言い現せない透明な響き。伏せがちの目の彼女にそっと放たれた単語が、自分の名だと気づくのにしばらくかかった。


「あなたの名前は、どういう意味を持っているの?」


 柔らかく向けられた視線に、一瞬口籠る。名の意味など聞かれるとは思いもしなかった。


「この子の名前を付けるのにね、参考にしたくて。ヨシキって、綺麗な響きでしょう?」


 同じ台詞を、アメリカにいた時に聞いたことがある。ヨシキの名の響きは美しい、詩を思わせると。日本ではそれほど珍しくもなく、ありふれた名でも、アメリカや日本ではない国では映えるもので、人に会うたびよく言われてきた。そして決まり事のように聞かれる。この響きの中には、どんな意味が込められているのかと。


「……良い、大樹」


 ぽつりと吐き出した声は、何とも拍子抜けな、どうしようもないものとして落ちた。


「木?」


 掠れた言葉の続きを相手は待ってくれる。


「樹は、大地に根を下ろして何百年と続いて、人々の命を繋ぐ」


 樹とは、大地に強く根を張り、太古から命の変遷を見てきた偉大な存在。


「だから、何百年の間でも人々を繋ぐ良い大樹のような人間になるように……人と人の架け橋になれる立派な人間になるように、両親がつけてくれた」


 己の名の意味を聞いて、そうなりたいと願い、誇らしく思った幼い日の自分が、とても遠い。


「それが、良樹」


 俺の、名前。



 母は、この名の響きが好きだった。父も、響きが良かったから意味と合わせてこの名を選んだのだと言っていた。

 死んでいく不思議。産まれ、生きていく不思議。それを毎日のように目の当たりにした父ならば、何百年と生き続け、命の変遷を見守りゆく樹に思いを馳せていたのも今となっては頷ける。


「素敵ね」


 名を聞いた彼女が、包むように腹を撫でながらそう呟いた。こちらへ視線を移し、その微笑を向ける。


「先生のご両親は、美しい祈りをあなたの名に込めたのね。私も、そんな祈りの名前を付けてあげたい」


 良樹。彼女が褒めるこの名の通りの生き方を、自分は出来ていないのだろう。

 今までも、そしてこれからも、この名に相応しくなることはない。両親に顔向けできる生き様を、俺はしようともしていないのだから。


「先生」


 ふと空気が変わり、不安を孕む声が過る。視線をあげると、彼女が俺の肩越しに何かを見ていた。


「あそこに人が」

「人?」


 黄熱病患者がいるここに来客など珍しい。どういうことかと彼女の視線の先を追うと、一人の青年が入口に寄り掛かっていた。遠くにいても分かる。あの男だ。


 椅子から腰を浮かしてその男の方へ行けば、相手は壁に寄り掛けていた身体を身軽に起こし、くるりとこちらに向き直った。隊長の証の白いメネスを脇に挟み、愛想笑いとも取れる表情を見せつけてくる。


「元気そうだね、ヨシキ」

「ナクトミン」


 名を呼ぶと、俺より背の低い相手は笑みを湛えたまま首を傾けた。黒に近い濃褐色の視線は俺を越え、寝台に座る名の無い人へ向けられる。


「あれが噂の人?」


 口元は柔らかいカーブを描いているのに、その上にある猫目は何かを見透かすようで好きではない。どこか冷めている。


「侍女たちが嫌がってたよ。何であんなのを置いておくのか気が知れないって」


 眉を顰めながらも、言葉は返さなかった。こいつに何かを言って黙らせられるとは最初から思っていない。


「本当に身重の人なんだね。あんなに腹が大きい」


 予想では出産まであと3、4日。それまでに取り上げるかどうかの判断を、下さなければならない。

 決められるだろうか。母子共々助からないか、胎児が先に生まれるか。このどちらかが来るまでに何も決められないまま中途半端に時が過ぎてしまうのではないだろうか。


「──殺さないの?」


 突然降り掛けられた言葉に絶句した。前に立つ相手の細められた目を見返す。


「あの子供、殺さないの?」


 唇を噛んだ俺を前に、そいつは面白くて堪らないと言わんばかりに表情を変え、くつくつと、薄い唇が気に障るような笑い声を吐き並べる。


「いやさ、王妃の子供を殺しておいて、他の女の子供を取り出すなんてあまりに滑稽すぎやしないかと思って」


 言う通りだ。自分は矛盾と共にいる。だが、彼女の胎児をこの手に殺める理由はない。俺は、彼女を殺めようとした差別的な奴らとは違う。


「まあ、どうでもいいことだ。あの女と子供に何が起きようと僕には関係ないしね。聞いてみただけだから気にしないで」


 相手は小さく鼻を鳴らして視線を己の足元に落とした。相変わらず何を考えているのかさっぱりな男だが、ここへ来たのは何かしらの用があってのことだろう。決して無駄なことはしない男だ。気を持ち直して問う。


「用件は」


 この声を合図に、宙を眺めていた猫目が素早く俺を映し出し、その口元が再び意味深な弧を描き出す。


「最高神官様が、お呼びだよ」



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