名無き人

 一通りの手当てを済ませてから額に滲んだ汗を右手の甲で拭う。傍の椅子に腰を下ろし、疲れ切って眠る女の顔を見やった。

 「助けて」と縋ったこの妊婦を、ティティに言ってどうにか王宮に連れてきたのは数時間前のことだ。聞こえてくる音は少なく、陽はもう沈みかけている。


 女の肌を蝕む色は、を呈していた。安定した寝息を立てている頬には微熱程度の熱。もっと熱が上がる病であるのに関わらず、この程度であることから潜伏期6日、発症5日頃、解熱期が来ているくらいか。数日も経てばまた高熱が続き、この重症度からすれば内臓出血を引き起こし、いずれは死に至る。本来なら血液から特異抗体でELISA法を用いてウイルスを検出し、感染が断定できる病ではあるが、この黄色を見ればそんな診断など不要だった。

 都市型黄熱A95.1。ウイルス感染症の代表格、通称黄熱病。


 眠りながらも彼女が大事そうに抱える腹は、おそらく臨月を迎えている。だが黄熱の感染から死亡までの平均日数を考えれば、彼女が死ぬ前に生まれることはない。母子共々助からないというのが結論だった。


 疲れを覚え、椅子に深く座り直す。横たわる女の手先から肩まで視線をゆっくりと辿らせ、そこに浮かんだ小さな切り傷に目が留まった。黄熱病のことばかり目が行っていたが、自分が今まで手当していたものは暴力によりできたであろう傷がほとんどだ。深いものもあれば、傷が浅く完治が容易なものもある。あの追手にやられたのだろうが、身重の女にここまで手をあげる必要がどこにあったのか。あるいはこの女が追われるほどの大罪人なのか。


 腕を組み、瞼を閉じて考えを巡らせてみる。そう言えば、気を失った女をティティの方へ連れて行った時、彼女は何かを察したような神妙な表情を浮かべていた。何か知っているのかもしれない。この時代における価値観や感覚について、俺にはまだ知らないことばかりなのだ。

 思い立った俺は、椅子から立ち上がって自分の部屋を出た。



 ティティの部屋に足を踏み入れて一斉に向けられた侍女たちの物々しい視線に、一瞬たじろいだ。恐れているような、怒っているような。思い返せば、女の傷の他にも異常に感じたことがあった。侍女が誰一人として手伝いに来なかったことだ。あれだけの傷の手当ならば助力してくれても良さそうなものなのに、声もかけず、手伝う様子も見せず、その代わりにこそこそと何か汚らわしいものを見るように、傷だらけの彼女を物陰から眺めているだけだった。


 嫌な空気だ。異様な雰囲気に眉を顰めながら、俺は外に目を向けて猫を撫でている彼女の方へ向かおうと前へ進んでいくと、ティティの乳母が素早くその道を遮った。


「あの病を患ってる女を姫様の宮殿に連れてくるなど、なんということを!」


 表情は怒りを呈していた。もともとティティの情夫としている俺が気に入らなかった乳母兼侍女の長であるこの女は、我慢できぬと言わんばかりに眉を吊り上げている。


「姫様に匿っていただいている身でありながら、なんという問題を持ち込むのか!」

「おやめなさい」


 何と言い返すかと悩んだ俺の代わりに声を響かせたのはティティだった。猫を抱いた彼女がこちらを振り返る。


「私が許したのだから」


 猫を床に放って、こちらへしなやかに歩いてくる。


「しかし!」

「下がりなさい」


 主に逆らう選択肢を持ち合わせていない侍女たちは、何か言いたげな様子をしながらも俺たちと猫だけを残してぞろぞろと出て行った。扉が閉まったのを見計らって、彼女は再び俺に視線を戻す。立ったまま、俺たちは向かい合った。


「皆、怯えているの」


 こちらの言いたいことを察したのか、相手はぽつりと言葉を落とした。


「怯えている?何に」

「ヨシキが連れてきた彼女に。肌が黄ばむ死の病の一つ。彼女がそれを患っているのは一目瞭然だもの」


 肌が黄ばむ病。黄熱病の認知度は古代においては予想以上に高いようだ。


「ここの侍女は、病人やら怪我人に随分と冷たい目を向けるんだな」

「当然のことよ。あの病を恐れない方がおかしい」


 彼女の言葉に眉を顰めると、相手は一度伏せがちにした目を開けて腕を組んだ。


「あの傷だってそう。身重なのにあれだけの暴力を振るわれて怪我を負ったのは、あの病であるため。本人に聞かなくても分かるわ」


 低められた声に、自分の求めていた答えを見つける。周りの空気は重く、足元に寄ってくる猫の気配が鋭敏に感じられた。


「肌がひどく黄ばむ病は血族同士に移って家を潰す。つまり、血を絶つことに繋がるのね。だから家族は自らそれを絶つことをする」

「絶つって……どういう」

「殺すのよ」


 容赦なく放たれた事実に目を見張った。


「それが自分の子供だろうとね。自分の家を、他の家族を守るために一族から出た病人を殺めるの」

「家族が、彼女を殺しかけたのか」

「そういうこと。逃げるなんて彼女も大した度胸だわ。家を出たら誰の援助もない、あとは病のために自分が死んでいく道しかない。そんな中で彼女は生きようとしたのだから」


 ウイルスの存在が発見されるのはここから数千年後の話であり、それ以前のウイルス感染症は様々な説を生み、人々を脅かし、感染者は嫌煙され、酷い差別を受けた歴史がある。

 血族に感染し、家を潰す。これが古代における黄熱病への認識なのだ。殺す勢いで彼女を探していたあの集団は、あの女の血族だった。家族だったのか。


「偏見だ」


 吐き捨てた。

 どれだけの偏見がこの病にあるのか。吐血や内臓出血を来す、確かに恐ろしい感染症ではあるが、彼らは決定的な勘違いをしている。


「この病気は伝染しない」


 あまりに理不尽な扱いを受けたあの女に同情したのか、声が荒くなった。声色に驚いた猫が一歩こちらから後ずさる。


「黄熱病は蚊が媒体で、人から人への感染はまずない。誰にも移らないのに殺す?そんな、馬鹿げてる」


 古代エジプトにおける医学医療の基本的な考え方が、経験と観察に基づいた合理的なものとは言え、体内組織の病気においては聖職者でもある魔術師の祈祷が中心となる。ウイルス関連は無知に等しい。自分たちが無知であることさえ、彼らは分かっていないのだろう。

 この賢い女からしてみても俺の言っていることは信じられないことなのだろうし、証明できない今は信用してくれるはずもない。侍女たちの視線や態度を見れば歴然だった。俺の力では消すことが出来ない、根深い先入観に支配されてしまっている。


「……治せるの?」


 信じがたいと囁く彼女に、俺は首を横に振った。


「俺がいた未来にも治療法は無かった」


 黄熱病は21世紀でもこれと言った特異的治療法は見つかっていない。アフリカ大陸赤道面においての流行地域では免疫が発達し、まだ軽い場合が多いが、流行地域とは言えないエジプトでの黄熱は、感染して重症であれば死に至る確率は50パーセント。古代においてはもっと高いはずだ。


「近い内に彼女は死ぬ」


 こちらの話を聞き、少しの間考える素振りをした彼女は、やがて俺に向かって口を開いた。


「他人に移らないというのなら、あなたの好きにするといい。追い出すなり、死ぬまで治療を続けるなり。私は何も言わないから」


 彼女は小さく息をつき、足元にいた猫を再び抱き上げる。


「ただし、侍女たちの手伝いは無いと思った方が良いでしょうね」


 言う通り、あの女たちが手伝うことは無いだろう。あれだけの差別を、俺一人で打ち破ることは至難の業だ。何も持ち合わせていない自分が、それを成し遂げられるはずがない。


「あなたの医術は私も大きく買っているし、治療を続けたいというのなら彼女を置いておくことを許してあげる」


 ここへ連れてきておいて、出て行けとは言えない。一人での介抱は無理を感じたが、侍女が手伝わないというのなら、手遅れだと勘付きながらここへ連れてきた自分に最期まで見届ける責任があった。


「あなたの自由になさい」




 部屋に戻ると、女は目を覚ましていた。状況を掴もうとしているのだろう。瞳を左右に動かし、丸い目が大きく動くと同時に俺の姿を捉え、ぴたりと止まる。


「気分は?」


 止まっていた足を進めて寝台の隣に行く。瞬きの少ない目が、俺をぼんやりと見つめていた。


「……不思議。吐き気が、無いの」


 胸元に手をやる彼女の発したものは、渇き切った声だった。寝起き、それも自分の状況が掴めず動揺しているだろうから無理もない。


「吐き気を止める薬を飲んだからだ」


 黄熱病に対する対症療法を施したから、病気自体の進行は止まらずとも、気分は前よりよくなっているはずだ。症状を誤魔化せる。


「お医者様だったの?なら、ここは診療所?……随分、広いところね」


 椅子に浅く腰かけた俺に、女は驚いた様子だった。その表情に「一応」と頷いて答える。王宮などと言って混乱を招くわけにもいかない。


「助けてもらえるなんて、思わなかった」


 時間をかけてぐるりと瞳を回してから、再び俺を捉えた。警戒を解いてはいないが、疲れ切った、そんな目だ。


「……殺されると思ってた」


 逃げてきたのだろう。殺されまいと、ただひたすらに。自分の家族から。


「いくらなんでも初めて会った奴を殺したりしない」


 肩をすくめて笑って見せると、相手はやや眉を顰め、腹にやった手の力を強め、真意を探るようにこちらを覗く。

 黄熱病の証である黄疸。理不尽な理由でつけられた醜い傷。視界に流れるそれらを、俺は直視できる。なのに、真面に見ることが出来ないものが一つだけある。女の腹部。胎児がいるのだろう、その腹。視線がそこへ行く前に止まり、別の所へと迷わせてしまう。直視することが憚られた。


「良樹」


 沈黙がしばらく続いた後、俯いて自分の手に目をやったまま名乗った。


「俺の名だ。そう呼んでくれて構わない」


 薄めの唇が、言葉を追って「ヨシキ」と象る。珍しい名だと、不思議そうな表情が言った先に浮かんだ。


「そっちの名前は?」


 こちらが名乗れば名前を返してくれそうなものなのに、女は黙ったまま答えない。


「あんたの名前」

「そんなもの無い」


 言い欠けた言葉は途中で切られて終わった。天井を見据えた、相手の瞳の瞬きは大きく潤んでいる。


「捨ててやった。そんなもの」


 見た目は疲れ果て弱々しいのに、しっかりと見据えた彼女の視線は病人を思わせぬ強いものだった。


「あんな名前を名乗っていたら、この子共々殺されてしまう」


 名乗れば、あの家族に見つかってしまうということか。見つかったら例外なく殺される。だから名乗るつもりなどない、捨てたも同然なのだと。


「奴らに引き渡すつもりはない。ここに匿うことにしたんだ」


 また驚愕の顔を向けてくる。ここで匿われているくせにと、そんな台詞を吐く自分を嗤ってやりたくなる。そう思いながらも、この女の逃げてきた経緯を思うと言わずにはいられなかった。虐げられ一人で死んでいくなど、どれだけ悲しすぎる最期か。


「連れてきたのは俺だ。俺が最後まで面倒を見る」

「……どういうこと?」

「治すことは出来なくとも、延命はどうにかなる」


 ずっと持ち続けてきた自分の鞄にある薬を用いて対症療法を続ければ、数日くらいは何とかなる。ほんの、数日ならば。


「この病気を知って、言ってるの?」


 上半身を起こした相手が食い入るようにこちらを見つめ、問うてくる。この時代で、黄熱病を俺以上に知っているやつなんてどこにいるだろう。


「私を、追い出さないの?この病気を知って?」


 ああ、と。俺が頷いた後に、彼女は唇を噛んで、今にも零れ落ちそうな瞳に俺を映した。揺れて、揺れて、どうしたらいいか分からなくさせる。

 それでも偏見さえ持たれるこの世界で、この女に手を伸ばせるのは、多分自分だけなのだ。


「俺は味方だ」


 そう言った途端、彼女はぐっと唇を噛み、出来る限り身体を起こすと俺の手を掴んだ。縋るように俺の手に額をつける。長く真っ黒な髪が、その手を巻き込んだ。


「……私に、手を差し伸べくれるのなら」


 熱い息がかかる。彼女の熱が俺の肌へと伝わってくる。これが近いうちに失われるのだと思ったら、無性に儚さを感じた。


「お願いが、あります」


 ナイルの畔の時と同じようにこちらを掴むのは片手だけで、もう一方はその腹に添えられている。


「あと少ししか生きられないことも、私には時間がないことも、分かっています。私の夫が同じだったから、全部知っている。死ぬ覚悟も出来てる」


 家族を敵に回してまで、名前を捨ててまで、逃げた理由。考えつかなかったことではない。


「それでも家族のために死ぬことが出来なかったのは、この子のため」


 腹の子供。その存在のため。

 ティティがこの女の保護を許したのも、胎児の存在が大きかったのだろう。


「この子は私を信じてお腹に宿ってくれている。絶対に死なせる訳にはいかない」


 言葉一つ一つに、忘れかけていたあの記憶が甦ってきて、恐怖に似た感情が湧き上がった。潜んでいた自分の醜い部分を思い出し、身震いする。


「かと言って、こんな病気を持っているせいでお医者様どころか、相手にしてくれる人さえいない。お産なんて初めてで、一人で産める自信もない」


 相手が縋るこの手は、汚れている。汚くて、穢くて、真っ黒だ。


「頼れる人が、私にはもう誰もいないんです。私を差別しなかったのは……人として扱ってくれたのは、あなただけ」


 女は俺の手から顔を上げて、今にも泣き出しそうな強い瞳で俺を射た。断るという選択肢は、その眼差しに掻き消される。共々助からないなど、言えなかった。


「お願いします。私が死ぬ前にもし、この子が生まれることになったら」


 やれと言うのか。


「この子を、この手で取り上げてください」


 弘子の子供を殺し、それを繰り返すかもしれない、俺なんかに。



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