17章 幸となれ

畔の怪我人

* * * * *


 額から手を離して瞼を開けた。目先には象形文字ヒエログリフがある。今ではかなり慣れてしまったその文字に指を置いて、綴られる文章を読み始めた。


 医学パピルス。数日前、ティティが暇潰しにと渡してくれたものだ。読む気などさらさら無かったのに、今日になって何気なく手に取ったのが悪かった。抜け出せなくなってしまったのだ。理解しきれないところは目を閉じてしばらく考えてから頭を整理し、再度読み直すというサイクルをさっきからずっと繰り返している。


 内容的には、腸疾患、蠕虫病、眼科、皮膚科、産科、婦人科、歯科などの傷病の診断、治療の総論だ。800種の処方と700種の薬剤が取り上げられ、最後に病魔退散の呪文や魔術療法が記載されている。ワニの咬傷、産児制限、糖尿病、喘息、トラホーム、鉤虫、フィラリア症、関節炎の型、鬱病等の処方。外科手術の内容は少々遅れているものの、肌や目など観察しやすい部分の病変においては、現代の医師が見ても納得するような手法が多い。

 それに加えて記されているのは、驚くほど正確な全身の血管や血液供給を中心とした、心臓機能の存在に関する記述だ。記憶では、イギリス人解剖学者ウィリアム・ハーヴェーが血液循環説を提唱したのは西暦1628年のことだ。この医学パピルス自体が今から500年前にまとめられたというのだから、エジプトの医師たちはハーヴェーより3000年以上も前に『血液は心臓から出て、動脈経由で身体の各部を経て、静脈経由で再び心臓へ戻る』ことを知っていたことになる。キリスト教の過剰批判からようやく解放され、大きく進歩したと言われる13世紀から15世紀のルネサンス医学は、まさしくこれに劣る。エジプトの文明が解明されるまで、人類初と記された人体解剖は1300年のイタリア、ボローニャにて行われたものだった。


 これほどの医学を持ちながら後世に伝えることなく滅亡し、人々の記憶から抹消されるのはあまりにも惜しい。人類の医学は、この文明の終焉と共にほぼ振り出しに戻されたのだ。


 自分の思考が、何だか途方もない所へ突入してしまっている気がして、肩の力を抜いたついでに背もたれに寄り掛かった。体重に軋む音が辺りの静けさを一層際立たせる。久しぶりに集中したからだろう、目の奥が鈍く痛んで、膝にある分厚いパピルスを隣の机にやりながら目頭を片手で覆った。

 部屋に風が流れ込んでくる。ナイルから丁度良い冷気を運んで傍を駆け抜ける。頭の中にいつか聞いた、題名の知らないワルツ曲が流れていた。


 視界を塞いでどれくらい経ってからか。足元に気配がして視線をそこにやると、淡い緑の瞳孔が俺を捉えているのに気づいた。

 ネフェルティティの猫だ。いつからいたのだろうと考えながら視線を落としていると、猫は体重を感じさせない足取りで俺の足元までやってきた。音を生まないそのステップは、一風バレエを思わせる。


 ナイルの氾濫が終わった後くらいに、どこぞの商人からティティが買ってきた雌猫。種類はイエネコだろう。細身の身体にアーモンド型の目、白地に灰色という細かい斑点模様。体型は中くらい、丸みがあるくさび型の頭に対し、筋肉が発達しているせいで丸々とした印象は与えない。凛々しい、そんな形容詞が似合う。小動物の狩りや毒ヘビ退治にも重宝されていく中で、権威の象徴として崇拝され始めたのも、この上品さと気高さから窺える。

 エジプトではハヤブサや蛇と同様、猫は主要な動物の位置にいる。それも重要なペットとされ、貴族の娘たちの間では当然のごとく飼われているらしい。貴族では犬と猫なのに対し、庶民では家畜や農耕に役立つ犬が圧倒的に多いとか。ムトたちと暮らしていた頃を思うと、一般人は確かに犬を多く飼っていた。


 肘掛けに肘を立て、その猫を上から眺めてみるが、改めて思う。可愛げがない。犬より誇りというものを強く持つとされるそれは、「撫でてもいいのよ」と言わんばかりの視線を送り、俺の足元に座り込んでいる。姫気質、それに加え神経質。動物を飼ったことがないから分からないが、こんなに早い時期から飼い主に似るものなのだろうか。

 撫でてやるかと腰を曲げて手を伸ばしたら、あと少しというところで猫は尻尾を優雅に立てて歩き出した。どうやら時間切れだったらしい。一瞬止まり、つんとした表情を垣間見せてから別の部屋へと続く方に4本の足を進めていく。馬鹿な奴だと罵られている気分だ。

 ため息をつきながらその足取りを視線で追っていたら、猫の行く手にサンダルを履いたほっそりとした足先が現れた。


「あら、ヨシキの所にいたのね」


 細い腕が伸びて、猫を抱き上げる。侍女を連れ、外出用の上着を羽織った彼女だった。抱き上げられた猫と言えば、彼女の腕の中で甘い鳴き声を漏らしてされるままに撫でられている。こちらには姫気質を振りまくくせして、彼女には目を見張るくらい従順なのだ。彼女自身が猫を我が子のように可愛がっているというのもあるのかもしれない。一通り撫で終えてから、彼女は視線を猫から俺へと移した。


「待たせてごめんなさい」


 言われて思い出す。あのパピルスを読み始めたのは、彼女の準備があまりにも長くて暇だったからだ。


「行きましょう。準備は済んでいるの」










 久々に目の前にしたナイルの涼しげな青を、酷く美しいと思った。

 低空を滑る風。足元をそよぐパピルスの緑。青と緑と、波打ち際に現れる光の白が混じり合い、名前も知らない色を織り成す。頭に被っていたフード部分を外すと、髪が揺れて耳を薫風に似たものが撫でていく。耳から首筋へ、そして頭の後ろへ流れて消える。深く息を吸って肺が満たされた途端、生理的な涙が目尻に滲んだ。


「来れて、良かったわね」


 隣に立つ彼女の言葉に、素直に頷く。閉じこもっているばかりでは駄目になると言った彼女が、付き人として俺を外へ連れ出すことが、今までにもほんの少しだけあった。今日がその日だ。

 白い上着で目元以外すべてを隠し、侍女たちとアイの配下にいる兵士を連れ、馬でゆったりと移動して今ここに至る。


「ファラオがあなたの捜索に力を入れているわ」

「知ってる」


 低めに放たれた彼女からの情報に短く答えた。


「ナクトミンから聞いた」


 迂闊に外へ出られないくらい、あの男は血眼になって俺を探しているのだ。最近はナクトミンに武術を教わることさえ難しく、外へ出られるのは巨大な権力を持つ彼女の傍にいる時だけに限られていた。だが、彼女と共に居てもいずれは外出もできなくなると、彼女の様子から何となく察していた。


「知っているならいいの。気をつけなさい」


 心配だとか、そういった類の言葉を彼女は吐かない。淡々と話してくる。


「ここなら兵の目も無いはずだから、ゆっくりしてるといいわ」


 俯くことも、こちらの身を案じる様子も見せず、ナイルの青が眩しいのか目を細めてから踵を返した。後ろに跪いていた侍女が彼女の動きに従って立ち上がる。


「どこへ?」

「舟遊びをしてくるのよ。一緒に来る?」


 船を浮かしてそこからナイルを楽しむ王族貴族の遊びだ。楽しむ感情など、どこかに置いてきた俺には合わない。


「いや、ここにいる」


 そう、と微笑んで返した彼女は、侍女らと共に船が用意されている方へと去った。



 ナイルの水が届くか否かという場所まで歩み、畔に佇む。うっすらとしか見えない西の方向には、王家の谷と思われる渓谷がいくつかそびえていた。角度が違うから断定は出来ないが、多分そうだろう。俺とティティ以外、共にここへ来た侍女や兵士たちは誰もあそこが墓だとは知らない。見えるのに見えない谷。俺たちの始まりの地。緑が一つもない、あの寂しい茶色の荒野。


 眺めている間に、風向きが変わった。先ほど心地よく感じていた薫風とは違うものが流れている。どうやら西から来ているようだ。あの谷の方から吹き流れてくる、物悲しさを湛える風がすべてを攫って行く。

 攫って、何もかもを消して行く。

 砂に、還る。


 佇むのを止めて畔に腰を下ろした。膝を抱えて視線を自由に泳がせる。ナイルの水は透明で、パピルスを支える土は黒色。以前来た時は、もっと薄い色だったが、氾濫期がやってきて養分の多い土がこの辺りにも運ばれたのだろう。

 傍の土を握るように掴みとり、掬い、指の間から風になって逃げていくのをぼんやりと見ていた。

 この大河が大規模な氾濫を起こし、この国に生きる人々は皆一つ年を重ねた。例外なく、俺は26、弘子は21、あの男は23になった。


 幾度目に落としたか分からない溜息の後に、ついこの前から抱き始めた疑問について考える。記憶が、無くなっているということ。

 弘子がいない間、根こそぎ調べてきたはずのエジプト史に関する知識が俺にはあった。彼女が消えたKV62に眠るツタンカーメンその人物を、周辺人物を、その辺りの歴史を俺は一通り調べて頭に叩き込んだ事実は、今も思い出せる。先の王も、その名も、その業績も、第18王朝の歴史の大まかな流れも俺は知っているはずだった。なのに、ツタンカーメンが死ぬと言うこと、そいつには子供がいないこと、その死因の殺人容疑にアイの名が並んでいたこと……それ以外、思い出せない。


 アンケセナーメンが悲劇の王妃と呼ばれる理由が分からない。他にも殺人容疑に掛けられる名はあったはずなのに頭文字さえ出てこない。何か思い出せたとしても役に立たないことばかりだ。どの題名の本に書いてあったのかも、その何ページのどこに書かれているのかも全て覚えているのに、記憶の本は知りたくて堪らない情報だけを都合よく消してしまっている。べっとりとした白い絵の具で塗りたくられたように、文字が見えない。あるはずのものが隠されている感覚だった。

 忘れたとかそんな単純なものでもないことは分かっている。どういうことなのか。原因は何であるのか。

 1週間ほど考えてきて行き着いたのは、弘子が現代に戻ってきたときに起こしていた記憶喪失だった。一部ではあるが、自分にも起きているのではと思い始めていた。だが、その答えを証明するものはどこにもない。



 自分の身に起きている不可思議さを思い悩んでいる内に、どこからか喧騒が聞こえてきた。反射的に立ち上がり、上着の白いフードを深く被り直しながら腰を落としてパピルスの茂みから様子を窺う。俺を探している人間かと警戒した上での行動だった。緊張に、全身の筋肉が収縮し始める。


 息を潜めているとやがて現れたのは、このナイルの情景とは不似合の声を響かせる数人の男女だった。何やら物騒で、手には武器に成り得る鈍器が握られている。自分を探しているわけではないことは瞬時に察したものの、毛を逆立てる勢いの険しい表情と、殺気立った動きがこちらの緊張を解かせてくれなかった。

 誰かを探しているようだ。「どこへ行った」やら「こっちに逃げたはずだ」と血相を変えて見回しているから、捜索の対象はよほどの重罪を犯した人間だろうと推測を立てる。

 見つけ次第、あの武器で叩きのめすつもりでいるのか。殺すつもりでいる、と言っても過言ではない剣幕だ。彼らは一通り辺りを見渡してから、そのうちの一人が「あっちに行ったのでは」と言い出したのを切っ掛けに、それに従うように集団は畔の向こうへ駆けて行った。


 何だったのかと首を傾げながら、ナイルの方へと歩みを寄せた時、物音が耳を掠めた。引かれるように音の方向に顔を向けると、数メートル先のパピルスが大きくざわめいている。

 何かいるのか。気になり、数メートル先まで歩き、長身の植物を片手で退けると、身体を丸める影が見えた。小さく呻き、それでも前に進もうとしている影。


「……女?」


 何の気なしに漏らした声に気付いたのか、影は跳ねるように動き、ぎょっとしてこちらを捉えた。傷だらけの、二十代後半の若い女。大きく見開かれた眼は若干の潤みを帯び、痛々しい傷を乗せた身体は身構えるように蹲る姿勢を取る。呼吸は荒く、顔は何かの病を患っているように真っ青だった。

 胸下まである長く乱れた髪は、気分の悪さと恐怖で歪んだ表情に黒い線を引き、彼女の怯えという感情をこれでもかと体現していた。

 すぐに気づく。彼らが追っていたのはこの女なのだと。

 そうだろうがなかろうが、この女を捕まえてあの集団に差し出す気は一切なかった。怯えるあの女がどんな罪を犯していようが、自分には掠りもしない出来事でしかない。

 緊張から解かれた俺は、一度視線を落としてから再び彼女を見た。


「追手は行ったよ」


 独り言とも取れるこちらの言葉に、女は度肝を抜かれたような顔をした。強張っていた黒髪をまとう肩が徐々に落ちて行く。相手もこちらが追手ではないことを知ったようだ。


「もう少し時間が経ってから動くといい」


 目を逸らして引き返そうと歩き出す。自分とて追われる身、厄介ごとに巻き込まれるのは御免だ。万が一に備え、ティティの傍へ戻った方が無難だろう。安全な場所など、どこにも無いのだ。


「助、けて……」


 振り絞るようなか細い声に足が止まった。無視できない鬼気迫ったものを感じ、止まらずにはいらなれなかった。振り返ると、彼女は青あざと血の色が滲む身体を持ち上げ、藁にも縋る思いと言った様子でこちらへ歩いて来る。今にも崩れ落ちてしまいそうな相手へ咄嗟に腕を伸ばすと、女の右手がそれを掴み、同時におぼつかない相手の膝が転ぶように折れた。疲れ果て、身体中に付けられた傷の痛みで意識も朦朧としているのかと思いきや、その眼は真っ直ぐで、伝わる必死さに息を呑んだ。


「お願いです!どうか、どうか……!」


 傷だらけの右手の5本の指が、俺を離すことは無い。食い込むほどに強く、掴み続けている。その手を蝕む色に自分の眉根が寄る。

 この女は、病人だ。


「私たちを助けてください……!」


 私たち──その意味が一瞬分からなかった。他に誰かいるのかと思いきや誰もおらず、どういうことなのかと戸惑う。


「ご慈悲を!」


 縋り付くその身体を見て、ようやく理解した。印象的な長い黒髪で隠されていたもの。

 相手は、必死に守るように抱えていたのだ。片手で、その大きな腹を。


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