王無き宴
起きて着替えて、空席の隣でご飯を食べることが数日続いたその日の朝は、夏独特の午前中の涼しさが宮殿奥の私にまで届いていた。
朝食として並ぶ、パンと肉料理と古代のシチュー。デザートはザクロの実と蜂蜜やゴマで風味付けした固めのケーキ。ネチェルやメジットを含む侍女に囲まれながらそれらを口に含む。
最後に水を飲もうとして、ふと走った感覚に、杯を口元に運ぶ手を止めた。一滴も含むことなく、両手で円柱状の杯を包み、上からそれを見下ろす。
息が当たって揺れる水面。杯の底まで見えるほど透明な、ナイルから汲まれた水。ああ、と音の無い声を吐き出し、一瞬だけ動きを止めてから杯を朝食の皿の隣に戻して腹部に左手を添える。
ほんのりと感じる自分の体温は、そこだけいつもより高いような気がした。
あの時だという心当たりがある。数えれば二月ほどだろう。順番は違っていても前と一緒だ。無臭であるはずの水に臭いを感じる。前回の妊娠では強い吐き気に襲われ、突然水に臭いを感じるようになってから本格的につわりが始まった。
確信の色が自分の中で色濃くなっていく程に涙腺が自然と緩んでしまう。感動と嬉しさが相まって、胸が詰まる。
もう少し。もっとはっきりなものがあれば、間違いない。
「それでは王妃、ご報告を」
食事の手が止まったのを見計らって、扉の前に立っていたナルメルが一礼して咳払いを落とした。数歩前に進み、腰を屈めて少しだけ頭の位置を低くする。
「本日夕暮れを過ぎた頃、ファラオがご帰還なされます」
予定通りであることに頷きつつ、気づかれなくらいの浅さで胸を撫で下ろした。下エジプトへ視察に行った彼が帰ってくる。
「加えて本日早朝、我らの空にソティスが現れました。今夜の宴は非常に大きなものとなります」
そして時計神官の予告通り、朝早くに現れた青い星。この星の出現が理由で、朝から宮殿全体が熱を帯びていた。
「貴族の人たちも呼ぶのよね」
「左様に御座います。神の星の出現を祝うべく、多くの者たちが宮殿へ集まることでしょう」
毎日のように催される宴であっても、ナイルの氾濫が起きた日と、ソティスが現れた日には比較にならないくらい盛大に行われる。歌い、祈り、踊ることで今年も豊かな恵みをもたらしてくれる神に感謝するために。
「神なる星が現れたその日には、ご自分がご帰還されているか否かに関わらず宴を催せとのファラオよりのお達しです。その際、あなた様にはファラオの代理としてその場に赴いて頂きたく思います」
「分かりました。ご帰還なされるまで私が宴の席に出向きます」
膝の上で絡ませた両の手を腹部に近づけて了承する。誰も気づかないくらい細い、緊張の糸が身体の中で張り詰めていくのを感じた。
「補佐として私めとカーメスが付き添わせていただきますので、ご安心を」
「ありがとう」
神を祝う席で王族が現れないなんてことは、あってはならない。体調も胸にむかつきを感じるだけでそれほど悪くは無い。食事もまだ十分に取れる。宴の席に顔を出すくらいは難なく熟せるだろう。
「王妃様!」
扉が元気よく開き、パピルスを手に持った子供がそこから飛び出してきた。その様子にナルメルが髭を撫でながら、ホッホッと愉快そうな声を奏でる。
「いかがしたのだ、イパ」
「宰相様、おはようございます!それより王妃様、ヌビアの王妃様からお手紙が!」
にこにこしたイパが一礼してから腰を屈めて私に差し出したそれを見た途端、自分の顔が自然と笑顔を象った。受け取るなり、この手紙を送ってくれた相手の明るい笑顔と笑い声が頭の中に吹き抜けて行く。
彼女とはいくつか文通をして、他愛の無い会話を交わすくらいの仲になっていた。内容は愚痴であったり、世間話であったり。国の話であったり、ヌビア王の話であったりだ。エジプトとヌビアの文字が一緒だから、イパに読んでもらう必要がないのが嬉しい。同じ立場を持つ彼女からの話はとてもありがたいものだった。勉強にもなる。
持ってきてくれたことにお礼を言うと、イパは私の方に身を乗り出して首を傾げた。
「お返事はどうされますか?僕が書きますか?」
「いいわ、自分で書かないと上達しないでしょ?これでも段々上手くなってきてるのよ」
うふふ、と肩を揺らして「分かりました」と返してくるイパは、私のヒエログリフが下手なのを十分に知っている。私と比べたら側近兼書記官のイパの字はハイレベルで輝いて見えるくらいだ。
王族ならば、書記官に書いてもらうというのが普通でも、これからのことも考えて自分でしっかり書けるようにしておきたかった。ヌビアのキルタ王妃も、読めなくはないと言ってくれているから大丈夫なはずだ。
手紙を胸に抱き、私はソファーから腰を浮かした。
「お部屋に戻られますか」
ナルメルから放たれた言葉に、手紙も読みたいからと頷いた。
侍女を連れて部屋に戻り、こちらを覗く太陽の位置から大体の時間を見る。太陽の方角は時計の代わりだ。彼が帰ってくるのは夜だと思うと、その太陽の進みが遅いことへの心もとなさがますます大きくなる。目を射るくらいの光を手で遮ったら、逃れたそれらが指の間から漏れて私の網膜を焼いた。
「いかがいたしました?」
私の様子が気になったのか、ネチェルが声を掛けてくれた。
「大丈夫、何でもないのよ」
微笑んでそう返し、手紙に返事を書くから一人にしてほしいと頼んだ。了承したネチェルは他の侍女を連れ、一度頭を下げてからサンダルと床が擦れる音を鳴らして去っていく。
誰もいなくなった部屋に包まれて、張り詰めていたものがようやく緩むのが手に取るように分かった。ネチェルたちに言うべきだったかと一瞬悩みながらも、直ぐに自分の考えを否定する。
本当は、手紙の返事を書くどころか手紙を読む余裕さえ今の私には無い。この身に起き始めている変化を自分では確信していても、彼以外の誰かにこのことを告げるのは気が引けた。言えば、これが間違いであれ、事実であれ、周囲に広まるのは必然だろう。そうなったら誰がどう動くか分からない。誰に、どう狙われるか。彼がいない今、その状況を作りたくはない。
嬉しさと感動と同時に巣食う、消えない恐怖がある。前に失ったものの大きさを、この前のことのように思い出す。変に警戒心を持ってしまう。
私の生理が遅れていることを知り、この事実に勘付いてはいるであろうネチェルとメジットは、以前のような誤診がないようにと、確定的なことが無い限り口火を切らないでいるようだった。彼女たちは私の傍で神経を研ぎ澄ましている。そして、彼が心から信頼を置く宰相ナルメル。彼らなら問題は無い気がしていても、説明しようのない不安の方が勝っていて言えなかった。何より、誰よりも先に彼に言いたかった。
奥の部屋に入るなり、寝台に腰を下ろして身を小さくする。両腕を数回擦って、抱きしめて蝕む不安をどうにか薄めようとする。この一日だけ、持ってくれさえすればいい。
どうか。どうか。彼が帰るまで、誰にも気づかれないままで。
息を潜めるように部屋に閉じこもり、侍女たちに囲まれて宴の準備をする私のところまで、宴のために走る女官たちの忙しい足音が、床を伝わって響いてくる。
「さあ、出来ましたよ」
「お綺麗に御座いますわ」
正装よりも軽めの装飾をつけた自分を、メジットから渡された鏡の向こうに見て、着替えを含めた準備がすべて整ったことを知る。あとは宴の席に向かうだけだ。
「宰相殿をお呼びして参りましょう」
「お願い」
返事を返しながら鏡を放した手を、それとなくお腹に添えた。ひたすら気になって何度も目をやってしまう。何も無い風に装える余裕はあっても、宴に参加する中で誰かしらに勘付かれないかが酷く心配だった。
準備を整えてもらっていて気づいたのは、自分が化粧の匂いにも敏感になっていたということ。以前なら気に掛けていなかった、むしろいい香りだと感じていたものを今はそう感じられない。それでも我慢できないほどではなかった。
あと数時間だけ。ほんの短い時間だけ、大勢の前に顔を出して食事をした後に下がらせてもらう手筈だ。やり切らなければ。
「王妃」
背後から静かに呼ばれたのを合図に、メジットの手を借りて足に力を入れた。振り向くとナルメルが恭しく立っており、その半歩後ろにカーメスがいた。
「行きましょう」
深々と頭を下げる彼らに微笑み、扇を手にした私は足を前に踏み出した。
ナルメルとカーメス、そして侍女たちを後ろに付けて、部屋を抜けて宴の席へと続く廊下を行く。東の神殿の方角から、聖歌とも取れる神官たちの祈りが聞こえてきた。進むにつれ、祈りの歌は風に乗って遠くなり、やがて幻が生んだ音だったのではないかと思うくらいの静けさがしたたり落ちてくる。
外に面する方まで来ると、風が夜空の薄い雲を押しやっているのが柱の間から見えた。
太陽を失った東の空。無数の星が疎らに散った光景は、水中の気泡が大気へと上がっていくようで、どこかナイルの下で見たあの空に似ているような気がする。今日はそれが一段と澄み渡っていた。
そして、煌々と光る月から離れた黒の上。ついに現れた神の星が瞬く。一つだけ青く、透明に輝く星は、歩きながら眺める私の目にも十分に特別で神聖なものに映った。
歩みを止めると、後ろに従う人々も足を止めてその星に視線を注ぎ出す。ナルメルが惚れ惚れとしたような息をつき、カーメスは潤んでしまいそうなくらいの瞳でその青さを見つめ、侍女のため息の後に誰かが「神よ」と呟いた。
女神ソプデトが宿るソティス星。きっと、国の多くの人々も彼らと同じように感動し、安堵し、自分たちの幸福をあの瞬きに祈っているのだろう。
「王妃、参りましょう」
小さく打たれたナルメルの杖の音に頷き、再び足を前に出す。私や彼の部屋は宮殿の一番奥にあるものだから、ほとんど表側に位置する宴の席までには相当の距離があるはずなのに、微かでしかなかった人々の賑やかな声の束が、鼓膜を大きく叩き始めていた。めでたいと言わんばかりの賑やかさが迫る。
宴の席に向かいながら胸元をそっと抑えた。違和感が徐々に確実に増している。宴の席に着くまでに彼が帰って来てくれやしないかと思っても、世の中がそんなに上手くできているはずもない。
今だけだ。王の代理として座り、皆が祝う様子に笑顔を向けて見守っていればいい。それだけでいいのだから出来ないはずがない。出来なければ困る。視界にはっきりと映った入口を、唇を結んで見据えた。
数メートル先にまで近づいた入口は、目を射るくらいの光で満ちていた。部屋からの長い距離を、小さな炎を頼りに歩いてきた私にとっては、目を覆いたくなるほどの目映さがあった。その明るい場所から、暗すぎるこちらへ顔を向ける人はいない。誰もがめでたいと歌い、神の出現を祝っているのが、入口から漏れる音と楽しそうに踊るいくつもの影から容易に想像できた。
「さあ、こちらへ」
ナルメルが私の前へ出て、先導してくれる。一呼吸置いて数歩進んだその時、鼻孔を掠めた空気に、進みかけた足が止まった。何かを嫌がるように全身が前に進むのを拒絶し、血の気が引く。
匂いだ。いきなり強くなった、あまりにも嫌に感じるこの臭い。ワインとビールの混ざったそれが原因だと察するのに、そう時間は掛からなかった。
「いかがなされた」
ナルメルが振り返り戻ってきて、動きを止めた私に声を掛ける。
行かなければ。進まなければ。立ち止まってはいけない。
「王妃?」
大丈夫なのだと返すどころか、言葉が出てくるはずの口を無意識に手で覆ってしまう。
止めようとしても止まらなかった。突然胸にこみ上げるものを感じて、後ろについていたカーメスを押しやり、堪らなく嫌なその臭いから逃げようと行くべき方向とは逆へ走り出した。走り出したはずの私の膝は少し離れた一番近い柱の傍で折れ、蹲る体勢になる。夕刻辺りから感じていた胃を抑えるような違和感が、行き場を失って逆流してくる感覚だった。
行かなければという意思に反し、吐き気が強まる。吐き出してしまいたいのに、何も出てこない。
「王妃様!」
メジットかネチェルが私を悲鳴に似た声で呼んだ。それに続いて誰かの手が咽ぶ私の背中を擦る。侍女に囲まれる気配。メジットが何かを命じる声。
「だ、大丈夫……ごめんなさい」
どうにか我慢出来るくらいにまで吐き気が治まり、口元を拭いながら顔を上げると、雷に打たれたようなネチェルの面持ちと克ち合って息を呑んだ。私を映す眼差しがこれでもかと揺れて、目が逸らせない。自分の高まる鼓動が聞こえ、無意識に胸元を握り締める。
「王妃様……」
彼女は、確信したのだと思った。否定なんてものが、無意味だと言うくらいに。
「……あなた様はやはり」
そして、私も同じ。この身に起きていることがはっきりした。
「やはり、御子様を……!」
御子。赤ちゃん。
あまりに愛しいものの名に、目頭が熱を持ち始める。胸がつかえて何と答えていいか分からなくなる。否定の言葉も肯定の言葉も、私の口からは出てくれなかった。
吐いた息が熱い。肌に触れる自分の手が熱い。
「間違いではなかったのですね」
向かい合うネチェルの目元と同じように、私の目もきっと揺れている。何の返事もせずに私は、彼女の涙ぐむ瞳を見つめ返す。
「ああ、王妃様」
悟った彼女は感極まった様子で私の両手を取り、額をそこに付けてさめざめと泣き始めた。
「ご懐妊とは……それは真か、女官長」
寝耳に水だと言う様子のナルメルがネチェルに問うた。カーメスも驚きを隠せないようで、その瞳を今までに無いくらいに大きくしている。
「真に御座います」
ネチェルが額を離して何度も首を縦に振る。
「つい数日前から勘付いておりました。またあの時のように間違いであってはならぬと申し上げずにおりましたが、これで間違いありませぬ。侍医に診せずとも分かります。王妃様はファラオの御子様を身籠っておられます……!」
彼女の紡ぐ言葉が、周りに反響した。
「ずっとお腹を気にされて……ファラオがいらっしゃらない中、どれだけ心細くいらっしゃったか」
ご懐妊。ご懐妊。
彼女の声に弾かれたように、周りの侍女たちが色んな抑揚の上に乗せてその言葉を発する。手を小さく合わせて鳴らし、声を弾ませている。その反復し、繰り返される声たちに走る恐怖がある。
やめて。そんなに騒がないで。最低限の人たち以外に知られたくない。
「静まれ」
私が言う前に止めてくれたのは、ナルメルの鐘の音に似た声と、杖の音だった。
「まずはファラオにご連絡を。こちらに向かわれている最中のはず。カーメス、そなたがこの由を急ぎ伝えよ。お帰りを急いで頂くのだ」
「はっ」
カーメスが真剣な面持ちで頭を下げ、すぐさま廊下の先へと消えた。
「なんと……」
驚いた表情のナルメルは屈み、私の様子を見てから悩むように髭を掴んだ。私自身も、酒の臭いが駄目になった事実に驚いている。今回のつわりは前回より重いかもしれない。
「王妃よ」
しばらくの間を置いてから、ナルメルの呼び声が鳴った。顔を上げると、緊張を含んだ宰相の真剣な眼差しが私に向けられていた。
「席へ、お出向きになられるか」
私が返答する前に、ネチェルが血相を変えて首を振った。
「宰相殿!何を仰るのです。王妃様は身籠っていらっしゃるのですよ?だと言うのに、宴の席に出向いていただくなど、言語道断です。何よりも大切な御身です」
「王家の者が出向かなければ、皆は納得しかねよう」
「ならば、ご懐妊の由をお伝えすれば」
「ならぬ。ファラオはそれをお望みではない。ご懐妊を知られてはならぬのだ」
前回の流産の原因を知っている宰相はネチェルの考えを良しとしなかった。誰がどう動くか分からない、それも彼がいないこの時に、そこらの人々に妊娠を知られる訳にはいかない。
「行きます」
ネチェルの手をそっと外してナルメルに向けて答えた。
皆が王妃の姿を待っている。王の不在を、埋めるのが私の役目だ。疎かにはできない。行かなければ。
「皆の前に出向きます」
駄目だと言うようにネチェルは首を数回横に振って私の手を掴み直した。
「なりません、王妃様」
「席に着くだけだけよ。問題ないわ……ついて来てくれますね」
1時間くらいどうにかなる。ナルメルから差し出された手を取り、私は明るく輝く宴の席へと踏み出した。
「今年もまた、ソプデトが宿りし神の星が現れた!」
私の登場と、ナルメルの鐘の音とも取れる声で宴は本格的に幕を開けた。一番奥の席に腰を埋め、車酔いに似た怠さを覚えながらも、一斉に向けられた沢山の視線に扇で顔を半分ほど隠しつつ笑顔を返す。いくつか祝いの言葉が続いて、踊り子たちの舞を眺め、独特な音色が醸し出す音楽に耳を傾ける。
何かあっては困ると、料理にも飲み物には一切手を付けず、時が経つのを待った。こうして落ち着いていられるのは、ナルメルや侍女たちがすぐ傍に控えてくれているからに他ならない。酒が大量に運ばれている招待客たちからの距離もあるおかげで臭いも我慢できる程度に抑えられている。
そして1時間ほどが経ち、ナルメルと侍女たちが私を部屋に戻す準備をし始めた頃、突然賑やかだった空間が静まり返った。権威を持つ誰かの登場だとすぐに分かり、彼だろうと視線を上げて見えた人影に、呼吸が止まる。誰もがその登場に度肝を抜かれ、私の中の安堵が引っ繰り返り、背筋が凍るのを感じた。
注視の的にいる老人が黄金の杖を突きながら、満足げに部屋を左右に分ける道を歩いてくる。踊り子が広間の端にどけて頭を下げ、周りも我に返ったように踊り子たちと同じように平伏した。付き従い、後ろを歩くホルエムヘブ。久しぶりすぎる姿に、状況が理解しきれない。
西の宮殿の人──アイ。
テーベに都を遷してからと言うもの、アイを含む西の彼らは、東の宮殿で催す宴にはほとんどと言っていいほど姿を現していなかった。今日も参加の予定はなかったはずなのに、どうして。
「なんと……お美しくなられた」
私を正面にした相手の、腫れぼったい唇が綴る。
「甦りになられた当初はそこらの娘子のようでいらっしゃられたものを……女とはなんと不思議なものか」
ナルメルがすっと立ち上がり、私を守るように私の前に入り、アイからの視線を遮った。
「あなたにいらっしゃるご予定は無かったはず。何故今ここへ」
「ファラオがご不在と耳にしたのだ」
以前私を殺そうと目論んだ相手。彼に敵意を抱く人。アイはナルメルの低められた威圧のある問いかけなど、屁でもないとあしらった。
「ファラオのご不在時にわざわざ来る必要はありますまい。皆が驚いている」
「元とは言え、私はファラオの後見人であり、祖父である。ファラオの代役として王妃の隣でこの祝いの場を盛り上げるべきであろう」
「どこにお座りになるおつもりか」
ナルメルを鼻で笑い、アイは私の方へと歩み、隣の空席に腰を下ろそうとする。
「そちらはファラオのお席ですぞ」
「構わぬ。私は王家、最も王位に近い人間だ」
アイは、この祝いの席で王の代役として切り盛りをするつもりなのだろう。
神の星が現れた、この神聖な場を。彼がいない間に。
そのようなことを、させる訳にはいかない。
「座らないでください」
閉じ切っていた口を思わず開いた。
「私の隣にお座りになられるのはファラオただお一人です。あなたではありません」
アイは驚いたように私に目を見張った。その舐めまわしてくるような視線に、扇を持つ私の手が汗ばみ始める。
「なんと、王妃に命ぜられては拒む理由もありませぬな」
声を上げて笑い出す老人が席から離れたのを見計らい、ナルメルが男性の小間使いに席を一つ作るよう命じた。
「そのような手間は取らせぬ。私は王妃の前で十分、お話しさえ出来ればそれで良いのだ」
言葉通り正面に居座った相手に、まるで部屋に帰らせまいとするかのように唐突に腕を掴まれ、私の身体は震え上がった。
「何を……!」
触ってほしくない。触られるのが堪らなく嫌だった。左手にある王位継承を示す印章を薬指ごと強い力で押し込まれ、指がもげるのではないかという錯覚まで覚える。
「何をなさっているのか!立場を弁えなされ!」
ナルメルがますます表情に難色を濃くして叫んだ。
食い入るように指輪を見つめるアイが酔っているのだと、その時初めて気づく。口臭に吐き気がした。
「もう、半年を越えますなあ。折角お授かりになられた御子を流してしまわれたのは」
宰相などの言葉に耳を傾けず、余裕を失くした私に追い打ちをかけようとしているのか、そんなことを言い出した。悪寒が蝕む。
「あの節は実に残念で御座いました」
宰相がアイを止めようとする声も、侍女が私を呼ぶ声もあるはずなのに、一番聞きたくもないアイの声しか私の耳は捕えてくれない。捕まれる腕が痛い。嗤うその表情が怖い。どうして今、その話をするのだろう。想起させるのだろう。
「御子のご誕生は、今や我が国最大の望み。私もこの目で拝見する時を今か今かと待ち侘びておりましたものを」
吐き気と恐怖に苛まれながら脳裏によみがえる映像に、何も返せなくなる。やっと宿ってくれたこの子が同じ目に遭ったら。また、同じ目に遭わせてしまったら。あの姿をもう一度見ることになったら。妊娠を覚ってから考えないようにしていたものが、まとめて雪崩れ込んで窒息してしまいそうになる。
「ご遺体を拝見いたしましたが、何とも痛々しいものかと見ていられませんでした。あれほど小さいまま母親から引き離され、さぞやお苦しみになられたことでしょう」
思い出して、叫びたくなる。急に吐き気が悪化し、どうしようもなくなって掴まれていない手で口元を覆った。
「王妃様!」
我慢の限界を超えたネチェルとメジットが駆け寄り、私をアイから無理に引き離して、ナルメルがそのままアイの前に立ち塞がる。
「なんということを仰るのか!!酔っていらっしゃるとは言え、あなたの真意が分かりかねる!」
ナルメルの杖が強く床を突いた時、何の前触れもなく背後で歓声が大きく鳴り出した。はっとしてメジットたちから顔を上げると、歓声に一段と映える、黄金のサンダルの音が続く。何人も人々を引き連れて歩く、彼だった。
すべての人が敬意を表して平伏す中に、カーメスとセテムを連れた彼は颯爽と現れ、堂々たる足取りで奥の私たちの席まで来ると、一瞬だけ私と目を合わせてからアイを見下ろした。
「何故、お前がここにいる」
低められた声は威圧を秘めている。
「私の催す宴にはこのテーベにおいて一度も顔を見せなかったではないか」
「王妃のお顔を拝見したく思いまして……それにファラオがご不在とならば私がこの場を取り仕切るべきかと」
アイは敵意剥き出しな抑揚で返す。
「仕切ることはすべて妃と宰相に任せていた。お前ではない。見よ、お前の登場のおかげで祝いの席が台無しだ」
淡褐色の眼差しを追った先の光景は、とても騒然としていた。今までの問答を見ていたのだから当たり前で、アイに向かって寄せられるのは、奇異の視線の波。それにアイは唇を噛みしめ押し黙る。
「折角西から東へと足を運んでくれたところ悪いが、妃は私と共に奥に戻る。もともとお前に妃を会わせるつもりなど毛頭無かったからな」
言いながら、アイを見据えたままの彼が私に手を伸ばしてくれた。迷わず取った手が力強く握られ、引き寄せられる。「立てるか」と耳元で小さく尋ねられ、蒼白だと思われる自分の顔を扇で半分隠し、支えられながら立ち上がった。
「ホルエムヘブ、すぐにこの酔っ払いを西に連れ帰れ」
傍観していた色黒の将軍に命じるとすぐに、彼が宴の席へと顔を向け、私を抱く手とは反対の手を高々と天上へ掲げた。
「我が国の蒼穹に今年も神なる星が現れた!このめでたき日だ、私は妃を連れ休めども、皆は存分に楽しめ!」
わっと再び歓声が上がり、初めの頃と同じ賑やかさを取り戻す。それをしばらく見届けてから平伏される道を戻っていく。
「ご帰還なされて早々王妃と共に奥に行かれるとは、よほどお妃が恋しかったと思われる」
「なんと仲睦まじいことよ」
「申し分の無きことではありませぬか。このめでたき日、何か起こるやもしれませぬな」
そんな会話を耳の端で聞き流しながら、私たちは側近や侍女を連れ、宴の席を離れた。
「ネチェル、ヒロコを」
廊下を過ぎて部屋に着くなり、彼が私をネチェルに引き渡す。彼が戻ってきた安心からか、吐き気が堪らなく酷く、侍医がいる奥の寝台まで行くとその上で咽た。
「セテム、カーメス、ラムセス」
彼の声が三つの名を呼ぶと、三つの返事が返ってくる。
「どのような手を使っても構わぬ。この事実の漏洩を最小限に防げ。西にいる者たちの耳に届かぬようにせよ」
妊娠した時は、民にも大臣たちにも知らせるつもりはない。以前に彼はそう言ってくれていた。
侍医とネチェルに背中を擦られて、どうにか持ち直した私は腹部に手を回す。
──大丈夫。大丈夫だからね。
何度繰り返したか分からない言葉を、宿った存在に胸の中で繰り返し唱えた。
「ナルメル、あの男だ」
彼の声が低まり、一度止まる。押し殺すような掠れを増した音に、身体の下に敷かれた麻を握りしめる。何を言われるか、分かったような気がした。
「あの男の行方を、草の根分けても探し出せ」
あの男。そう聞いて思い浮かぶのはただ一人。私からあの子を奪った、良樹。
そうだ。私が一番恐れているのは、あの人。知れば、きっとまた狙う。殺されてしまう。
一人の命を奪っておいて微笑を湛え私の前に現れたあの人の記憶に、影を薄めていた何かが破裂しそうになる。アイよりも、誰よりも何よりも、私は今あの人が怖い。
「ヒロコ」
気配が侍医とネチェルの他に一人を残して、その数を消した時、肩に添えられる暖かさと共に私の名を呼ぶ声があった。麻から顔を上げると淡褐色が覗く。
咽た際に乱れた私の髪を払う、長い指。耳の上を柔らかく降りて頬に触れる、あなたの手。
動作一つ一つにどうしようもなく胸が熱くなり、言葉も交わさず見つめ合う。何かを言い出したら、声を上げて泣いてしまいそうだった。同時に、身体の怠さが吹き飛ぶくらい、この手の主を、私を見つめるその人を、愛しいと思った。
「……何故、出発の時に言わなかった」
溢れる感情を必死に耐えているのが、掠れ具合から分かった。
「知っていたなら行かなかった。お前を一人で残さなかった」
声を発すことが出来ずにいる私の腹部へ、彼の手が伸びる。
「アイと共にいるのを見てどれだけ私が不安だったか、ヒロコに分かるか」
ずっと添えたままだった私の手を、褐色が優しく覆う。覆って、握った。
「ここにいると、何故」
ここに。ここにいる。
じんわりと届く彼の体温に、一つ涙が零れた。
「……また、間違いかもしれないって、思っていたから……間違いだったらあなた…」
がっかりするでしょう。悲しむでしょう。隠れて悲しそうな顔をするでしょう。だからはっきりするまで言いたくなかった。
ぼろぼろと涙が落ちて、止まらなくなって、伝えたい言葉が続かない。
「ヒロコは、馬鹿だ」
半ば荒々しく抱き締められたが、身体に回る手は優しかった。それが彼の感情が合わさってものだとは分かっている。分かっているから嬉しくて、彼の首元に腕を伸ばして抱きしめ返した。
「子だ」
感情を抑え切れないその言葉に、自分の髪が擦れるのを聞きながら頷く。彼の肩口で目を閉じたら、大粒の涙が落ちて行った。
「私とヒロコの、子だ」
抱き締められるこの身体に、息づいている。生きてくれている。また宿ってくれた。
望み続けた、掛け替えのない、愛おしい命。
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