予感

* * * * *


 青い世界が、すぐ真下に迫っていた。目を凝らせば円形の波紋の先に一匹の魚の影が見える。手を伸ばしたら届きそうな位置にいるのに、あっと思った時にはすでに影は無い。──行ってしまった。


 溜息に似た呼吸を落とし、水面から顔を上げる。私を乗せた母なる河は静かに歌いながら流れていき、弱まっていた陽射しは着々と夏へ向けての勢いを付けて降り注でいる。それを反射させる水面は波打つたび煌めき、両岸を埋め尽くすパピルスの緑の茂みに映える。水面を撫でて波を生んだ風は、辺りの植物をかさかさと鳴らし、侍女たちの歌声を震わせた。


 そんな中で、一体どこまで行ってしまったのかとそわそわしながら、私は舟の縁を握り締めて広いナイルの水面を繰り返し見渡していた。私の乗る小舟の他に、幅広いナイルには同じような小舟が数隻が浮かび、そこで侍女たちが宮殿から持ってきたハスを川に放っている。楽器を鳴らす人。歌う人。背が高いパピルスの向こうには蟻の行く隙間がないくらいに立ち並ぶ兵士たち。どこを見ても、いない。

 彼が鴨狩りを止めてナイルに飛び込んでからもう結構経っていると思うのに、セテムが慌てて追いかけてくれたのを最後に、一向に上がってこない。


「ご心配なさらずとも大丈夫ですよ」


 同じ船に乗っているメジットが私の様子を見かねて声をかけた。


「幼き頃よりナイルに来るたび潜られていらっしゃいました。セテム殿も付いていらっしゃいますし、ここはナイルです。ハピ神がいらっしゃいますもの。危険なことは何も御座いません」


 にこりと微笑み、私の前の水面に手を伸ばす。水面に近づいた彼女の手に、白いハスが見えた。濃い青色の背景に引き立つ雪に似た白さが彼女の手から放たれ、川の流れに抗うことなく左へと流れて行った。

 彼が幼少期から水泳が得意であることを知ってはいても、これだけの時間姿を見ていないとなると何かあったのではと悪い方向に思考が行ってしまう。わにがまったくいない訳でもないだろうに。


「うわあ、すごい!魚が沢山泳いでるよ、見て!」


 私の隣に乗るイパが、興奮気味に船下の魚を覗いている。水に手を伸ばし、水飛沫を空気中に弾かせては、隣の侍女に嬉々とした声で水面を見るよう促していた。


「すっごくきらきらしてる!」


 側近として日頃は雑務を熟すイパは宮殿から出ること自体が珍しい。子供らしくはしゃぐ姿が微笑ましくて、連れて来れてよかったと思える。


「ねえ、王妃様も覗いてみて」


 頷いて身を船から乗り出すと、縁に置いた自分の左手薬指の指輪が、陽に当たって淡い緑に光った。


「さあ、王妃様もナイルにハスを。さすればハピ神もお喜びになりましょう」

「ありがとう」


 メジットが差し出してくれた一輪のハスは、真昼の下の白さが目を細めるくらいに眩しい。


「イパもどうぞ」

「うん!」


 イパに花を渡しつつ、ナイルを讃える歌を口遊むメジットは、こちらから数メートル先にある別の船に目をやって大きく息を吐いた。


「隊長とあろう者が、あのようではいけませんわね。注意してまいります」


 隊長というのは言うまでもなくラムセスのことで、私とは別の船に乗り、心ここに非ずといった表情で項垂れていた。項垂れている理由は、ナイルに入った彼を追いかけてナイルに飛び込む気満々で頭巾を外したまではいいものの、セテムに待っているよう命じられたからだ。主である彼について行けなかったことがかなり堪えてしまった赤毛の隊長を、メジットが眉を顰め戒めている。その様子をイパがおかしそうに小さく笑う傍らで、私はハスを受け取った右手を指輪に重ね、そっと撫でていた。

 アンケセナーメンの名を王家の証として輪で囲む窪み。王位継承の証であるこれを譲れる子は、産まれていない。ついこの前、懐妊の誤診があった。生理があるはずの時期になく、ネチェルがもしやと侍医を呼び、懐妊だという判断を受けて喜んだ矢先の生理だった。メジットが普段より気遣う素振りを見せるのはそのことがあったからだ。

 この時代の妊娠に対する判断要素が生理の有無と、身体の変化、そして医師の勘。前のように自分の身体に感じていた微かな変化がなかったのだから、私もすぐに診断を鵜呑みにするべきではなかった。だが、ずっと望んでいた言葉だったために、違うと知った時の落胆は重いものだった。彼も同じに違いなかった。誤診だと知った時の彼は「残念だった」と笑ってくれてはいても、肩を落としていたあの姿を思うと今でも堪らなく胸が痛む。


 ハスと一緒に指輪のはまった指を、強く握った。

 どうして駄目なのだろう。こんなにも望んでいるのに。


「王妃様、一緒に流しましょう」


 はっとして、向かいのイパの手を追いかけてナイルにハスを持つ左手を近づける。


「せーので、流しますよ?いい?」


 くりくりとした相手の瞳に微笑み、頷く。


「いつでも」


 もしかしたら、私の身体が駄目なのかもしれない。一度守れず死なせてしまったから、もう来てくれないのかもしれない。

 ハスの下から届く淡緑をぼんやり眺めて思う。

 このまま授かることができなかったなら。このまま宿ってくれることがなかったなら。次もまた生理が来てしまったら。

 そう考えて彼の側室の女性たちが思い浮かんだ。王家にはどうしても王家の血を継ぐ子供が必要となる。国さえ巻き込むこのことに私情は持ち込めない。誰も口にしなくても、次の懐妊を誰もが待ち望んでいる。子を成すことは私の重要な使命でもある。でもこのままそれが果たせないのであれば。


「せーのっ」


 その時はその時。潔く身を引こう。

 意を決し、ハスをナイルに放したその瞬間、突然ナイルから水しぶきと共に飛び出した何かに、水面から引き戻そうとしていた左手が捕まれ、引かれ、ぐらりと足場が揺れるのを感じながら前のめりになって、悲鳴を上げる間もなく真下にあったはずの青く透明な世界が鼻先にこれでもかと迫り、ついに私はその青い膜を頭からぶち抜いた。


 反射的に目を固く閉じた後、冷たさが頭から身体に走り抜けて、強張る。さっきまで考えていたことが瞬く間にどこかへ攫われる。口から大きな気泡が出ていくのが見え、水の中だと言うのは分かったものの、どうして自分がそこにいるのか全く分からない。

 自分の状況の成り行きさえ有耶無耶なまま恐る恐る目を開けたら、世界は深い青だった。


 空に、河が流れていた。

 人の声も、動物の鳴き声も、楽器の音色も絶えた空間に、水のせせらぎに似た音が彼方に鳴っている。いつも宮殿で聞くそれとは違って、どこかくぐもり、遠い。

 右腕だけが何かに引っ張られて、私は吸い込まれるように色の深い方へと沈んでいく。自分が流れてきた方向に左手を伸ばしながら、その先の光景に目を奪われていた。

 ほんの数秒。けれど、それが永遠に感じられるくらい、その世界の一秒はゆっくりと進む。私が破った水面は透明な飛沫を広げて、陽光をカーテンのように緩やかに波打ちながら群青の中に白いオーロラを造り上げる。

 透明で、どこまでもが青くて、果てしない。始まりも終わりも無い。小さい頃よく読んだアンデルセンの人魚姫が見ていたのは、きっとこの世界なのだ。人魚にとっての空は、きっと陽を浴びて白と青が混じったこの水面なのだろう。涙で視界を霞ませたような光景でいながら、光と周りの鮮やかな色はしっかりと瞳にまで届いて、幻のような美しさを伝えてくれる。

 数匹の魚が光の中に黒い影になって私の空を泳いでいく。その影が私の顔に落ちる。


 こんな呑気に見惚れていられたのは、ここまで。口から漏れて水面上へと流れていく小さな私の泡粒を見て、酷い息苦しさをやっとのことで感じ、とにかく自分もそれと同じ方向に行こうと左手を動かし始めた。

 なのに、右手が。右手がナイルの何かに捕まったように、まだ底へと進み続けていた。そもそもどういう成り行きで落ちそうもない船から落ちたのかと考ても、必死に上がろうとする中でそんな思考はどこかに殺ぎ落とされる。ろくに息も吸わずにナイルに入って、よくここまでもったものだ。苦しさに落ち着きを失い始め、ようやく自分の右腕を振り返ると群青の向こうに淡褐色が笑っていた。

 私を掴む、褐色の手。この手だ。ナイルからいきなり出てきて私を引きこんだのは。

 どこにいるのかと探して止まなかった相手が、ナイルの青の底で口端を上げて平然とした様子で私を下から見ていた。悠々と笑んでいるその淡褐色に早く放してと叩いて訴えると、彼は意地悪く笑い、私を引き寄せる。

 行きたいのはそっちじゃない。酸素が欲しい。

 胸にぐっと強く抱き込まれたのを合図に、相手が底を蹴り、水を切るようにして私たちは明るい方へと飛んだ。


 再び青さを破り、ナイルより薄い青の空を仰ぎ、ようやく心地よい空気が私の胸の中に入り込んでくる。気道に入ってしまった水を出そうとする咳が、喉を打ち抜くようにしていくつも吐き出される。「王妃様」と安堵したように叫ばれた声たちが多方向から聞こえてきた。


「ああ、面白かった」


 そんなことを言いながら背中に回される大きな手は叩くように撫でつつ、相手は私を胸に抱き直した。


「ヒロコは驚かせ甲斐があるな」


 燦々とした太陽を浴びて、目先の人はけらけらと笑う。文句も咳に封じられて言えず、その代わりに目の前の黄金で飾られる胸を手で叩いて、私を船から引きずり込んだ張本人を見返した。頭のてっぺんから全身ぐっしょり濡れてしまっている。胸から下はまだナイルに浸かったままで、ナイルの水が私の足を掬おうとするかのように過ぎていく。身を包む麻は肌に引っ付き、水が入った鼻はツンと疼いた。


「どうだ、ナイルの冷たさは」


 濡れて重くなった私の髪をひと撫でして彼が言う。私を引き込んだその人自身も、短い焦げ茶をぐっしょりとさせ、髪先からいくつもの雫を水面に落としていた。


「今の時期には丁度良いだろう」


 春に相当する時期のエジプトは、もう夏に近い。ナイルの水温は心地良いくらいだ。


「……酷い」


 はぐらかされる前に言い返す。次の咳が出る前に言ってしまおうとした台詞だったから、思った以上に短いものになってしまった。もっと言いたいことがあるのに。


「そんな顔で睨んでも私にはちっとも効かぬぞ」


 悪びれない様子で、また咽始める私の背中を擦った。


「ファラオ!お戻りになられたのですね!」


 数隻向こうの船から、ラムセスが船から船へ飛び乗って近づいてくる。「問題ない」と頷く彼の後を追って響いたのは、子供の泣き声だった。振り向くと、弟を抱きかかえるセテムがナイルから上がって来ていた。「側近たる者がこれくらいで泣くな」とセテムなりにあやしながら小さな背中を叩いている。


「イパのことまで引きずり込んだの?」


 聞くと、彼はやってしまったと苦笑いする。


「イパは泳げぬのだったな、すまぬ」


 セテムの傍まで泳いで、泣き顔を覗き込んだ。


「ファラオ、謝られることなどありませぬ。弟はもう少し大人になる必要があります。それより、懐かしいお戯れをなさりましたね」


 セテムの指摘に彼は白い歯を零す。


「急にやりたくなってしまった」

「昔を思い出しました。私もしばしば、引きずり込まれた記憶が御座います」


 弟を呆れ交じりになだめる側近の苦笑に、周囲からも穏やかな笑いが起こった。何だかんだ言いつつ、セテムはとても弟想いの兄だ。無表情のせいで読み取れないだけで、こんな幼い年齢から側近として王家に仕える弟が心配でたまらないでいるのだと思う。


「エジプトを故郷とし生きる者、ナイルを肌で知らなければな」


 諭すように言う彼が、兄にひしと縋るイパの頭を撫でる。反応して向けられたその子の顔は、可哀そうなくらい涙に濡れていた。泳げないのに足場の無いナイルに落とされたのだから当然だ。


「し、死んじゃうかと思いました……」

「何を言う。ナイルには母とも呼べるハピがいるのだ、良き民の命を奪うことなどせぬ。そうだろう?」


 ハピ──青色で表される、女性の乳房を持った男性神。ナイルに住み、神話の中で男性であるにも関わらず乳房で幼かったオシリスに母乳を与えたという、なかなか個性的な神だ。

 こくんと首を振ったイパに満足そうに頷き返し、その淡褐色を今度は私に向けた。


「それより、どうだった」


 ゆっくりと探るように額が近づく。


「どうって?」


 聞き返す私のすぐ傍を、侍女たちが放ったハスが河を行く。


「ナイルの下は美しかっただろう」


 囁くような低めの声に、この目に見た光景を思い返して頷く。青と白に輝き、空を魚が飛ぶ。私の語彙力では伝えられないくらいの美しさだった。


「あれを見せたかった」


 くしゃりと顔を綻ばせ、彼は目を細める。


「でも見せたかったからって、あんな強引じゃ困ります」

「ああでもしなければ驚かなかっただろう」


 驚かせなくてもいいのではと思いつつも、見せようとしてくれたことには変わりない。

 近づく相手の頬に流れる雫を払いながら、微笑み返した。拭ったそばから、水が滴って濡れる褐色のそれがまた緩み、こちらとの距離を縮める。


「エジプトはナイルの流れと共にあり」


 耳元に寄せられた声に首を傾げると、伏せた瞳が私を向く。


「この国はナイルと共に生き、我々もまた、ナイルと共にある」


 母なる大河との共存。エジプト人がこれほどまでに素晴らしい文明を築いたのは、この理由が大きい。ナイルが死ぬ時は、この国がなくなる時。


『──エジプトはナイルの流れと共にあり』


 胸の中で繰り返しながら彼の視線を追って顔を上げると、侍女たちの穏やかな表情がたくさん覗いていた。

 ナイルが無ければ、ここに文明は無かった。ナイルが無ければ、人はこの砂漠の国に住むことはできなかった。今傍にあるすべての命を繋いでいる。人は自然なしでは生きてはいけない。その尊さを痛いくらい思い知る。


「ラムセス、ヒロコを」


 彼が私の身体を水中から抱き上げ、ラムセスの方に引き渡す。ラムセスの手を借り、ようやくナイルから船の上に這い上がると、すぐにメジットが厚めの布で包んでくれて、他の侍女に着替えを用意させるよう命じるのが聞こえた。水を十分に吸ってしまった服はとても重い。


「岸辺へ向かえ。次は船を下りて北へ狩りに行く」


 彼はそう命じ、水から船へと身軽に上がってきた。







 ナイルから離れると緑は徐々に姿を消していく。これはエジプト独特の自然のあり方で、ナイルのほとりは緑で溢れていても、そこから数キロ離れるとあっという間に砂漠の世界になってしまう。その緑と砂漠の境目で、彼は弓を引いていた。


「ラムセス!そっちへ行ったぞ!逃がすな!」

「お任せください!」


 少年の頃に戻ったとでも言わんばかりに彼らは馬に跨って地上を走り回っている。いきり立ったラムセスが馬から腰を浮かせるようにして、逃げる獲物に矢の先を向けた。

 獲物は大きなロバだ。馬の蹄が緑と薄い茶色が合わさった地面に降りるたび、大きな歯を剥き出したロバが悲鳴を上げながらあちらこちらと逃げ回る。馬を操る彼やセテム、ラムセスの他に、馬なしの数人の兵たちがそれをぐるりと囲み上げ、矢に続き、投げ槍、突き槍、投げ縄が一斉に錯綜して、動物の金切り声が響いた。


「王妃様!ファラオが追いつめましたわ!」


 狩りをしない侍女と私は、狩場から少し距離を置いた、緑が生茂る場所に敷物を敷き、そこに腰を下ろして観戦していた。日傘に似たもので日陰を作ってもらい、果物を楽しみながら狩りを見守る。


「あと少し!」

「惜しい、掠めたのに!」

「セテム様!そこ!そこです!!」


 遠くから見ていても分かるくらい、彼は楽しそうだ。

 正直、狩りの場に慣れていない私にはおっかなびっくりの場所だけれど、狩りと言うのは宴会に次ぐエジプト人の最大の娯楽でもあるため、私を囲んで座る侍女たちは我を忘れるくらいに興奮していた。

 古代エジプトにおける狩りの対象は、鰐やカバという大きな動物から、フェネックという砂漠キツネまで。特にライオンを狩ることは力の象徴であり、儀式の際においては必ず獅子狩りが行われる。その獅子狩りと比べれば危険は少ないにしても、獲物のロバが野生であるに加え、落ち着きを失うとかなり凶暴だった。何らかの衝撃で彼が落馬してしまわないかというハラハラは止まらない。


「ファラオ!おとどめを!」


 セテムの声に、傷だらけのロバに彼が背筋を正して弓を引く。矢が迷うことなく直線を描いて標的を射抜き、ようやく倒れた獲物に、少しの沈黙が落ちてから男性陣から雄叫びに似た声が放たれた。馬上でハイタッチして、ガッツポーズ。それに続き、侍女たちもわっと楽器を鳴らし、声を上げ、私は安堵のため息を吐く。この盛り上がった様子を例えるのなら、サッカーで味方チームがゴールを決めた正にあの瞬間だ。


「ヒロコ!見ていたか、仕留めたぞ」


 蹄の音が一気に近くなり、視線を上げた時には完全に止まり切らない馬から飛び降りた彼が、こちらへ駆けてきていた。それを侍女たちは頭を下げ、私は立ち上がって迎える。


「お疲れ様」

「やはり狩りは飽きぬ。楽しい」


 私の前に来るなり、肩に掛けていた矢の入っていた筒と、弓を私に渡しながら白い歯を見せた。いくらか頬も紅潮している。


「どうだった、勇ましかっただろう」


 これで3頭目。仕留めたロバがずるずると兵たちに引かれ、先に狩ったカバの上に乗せられていた。


「凄かったけれど……少し、可哀想かしら」

「可哀想?何故だ、これからミイラにすると言うのに」


 こんなに捕まえても食糧にする訳ではなく、大きい動物──ライオン、カバ、ワニ辺りはむしろミイラにすることの方が多い。ミイラにして、神として崇めることによって自分たちに危害を加えないようにする。これがこの国の習慣。

 ミイラはエジプト思想において、非常に複雑で重要な意味合いを持つものだ。宗教的な思想が根本にある彼に、私の持つ感覚を理解してもらうには無理があるのも随分前に分かっていることであり、それならば私が歩み寄ればいいだけの話だというのも分かっている。


「水を」


 用意されていた折り畳みの椅子にどっぷりと腰を下ろした。私もその足元に腰を下ろし、メジットから受け取った水入りの杯を彼に手渡す。

 エジプトの職人はとても器用らしく、折りたたみの椅子やらゲーム板やら、持ち運びしやすいようにコンパクトサイズに出来るものが想像以上に存在している。実際に私の手鏡や日陰を作る傘も折り畳み式だ。


「では何を狩ればヒロコは喜ぶのだ」


 口を尖らせながら柑橘系の果物にかぶりつく彼に、小さく笑って返す。


「あなたが楽しいなら、私も楽しいわ」


 何度見ても慣れないし、見ていて気が気ではなくなる部分もあるけれど、彼が無邪気に楽しめるのならそれで良いとも思う。狩りは立派な文化で、私がとやかく言うものでもない。それに何より、彼の笑顔を見て私自身が嬉しく感じるのも事実なのだ。

 彼から視線を外すと、傍にある褐色の肌を包む黄金のサンダルが眩しく映った。


「ヒロコが喜ばねば連れてきた意味がない。何か狩って欲しいものはないのか」


 頬杖をつき、横目で私を見やる。


「何でも良い、言ってみよ。必ず仕留めてやる」


 「本当に?」と首を傾げて問うと彼から間髪入れず返されるのは「無論だ」と言う自信に漲った言葉。じゃあ、と空を見上げてみたら、ずっと高い所に鳥の群れが飛んでいるのが見えた。大きく円を描くようにして空を旋回している。


「あの鳥はどうかしら」


 遠くて、弓が届くかは微妙なところだ。いつも飄々とやってのけてしまうから、敢えてその自信に挑戦状を出してみた。私の指の行き先を淡褐色が追い、遠くに飛ぶ鳥を捕えた瞬間、その人が思考を巡らすように目を細めてから、私の腕にあった弓を取り上げる。


「甘く見るな」


 意味ありげな視線をこちらに向けたのも一瞬で、座ったまま矢筒から一本の長い矢を取りだし、その先を右上に旋回する茶色の鳥に定めた。きりと弦が引きつる音が耳の傍で鳴ったと思ったら、音も無く矢が空気を貫いて雲一つない青空へ、力強く躍り出る。けれど。


「……駄目だな」


 彼がそう呟いて背もたれに寄り掛かった時、放たれた矢は鳥と鳥の間をすり抜け、綺麗な放物線を描き、真っ逆さまに落ちて地面に刺さった。


「あのような所を飛んでいる鳥など……ヒロコは意地が悪い」


 獲物を仕留めることなく落ちた矢を、兵士の一人が丁寧に回収するのを眺めながら不満を零す。


「あなたほどじゃないと思うわ」

「どういう意味だ」


 決まり悪そうに言うものの、微笑む私にそのまま手を伸ばしてきた。若干湿ったままの髪を越え、手が頬に触れる。それがくすぐったくて身を小さくして逃げても、褐色の手はすぐに追ってきて私を捕え、引き寄せる。視線が合わさって二人で理由もなく笑い合った。


「まあ良い。お前があっというくらいのものを狩ってやろう」

「ファラオ!」


 飛んできた声の先に、馬に乗って向こうを指差すラムセスがいた。


「野牛があちらに現れました!」

「行こう!」


 時が来たと言わんばかりに椅子から立ち上がって、矢筒を渡すように私へと手を伸ばす。


「あまり無茶はしないで」


 私も腰を上げ、狩り道具を手渡して告げた。


「これくらい朝飯前だ」

「ライオンが出たらすぐに逃げて」

「そのようなもの狩れば良い。逃げるなど、弱者のすること」


 楽しくて仕方ないと言うように、彼は馬使いに持たせていた馬へ軽々と跨り、手綱を握って獲物がいるというセテムたちの方へ駆け出した。その様子を見送り、また侍女たちが高い声を上げるのを聞く。歓声が響く頭上の青空は、どこまでも青かった。






 それから数か月、砂漠の国を夏の風が覆うようになった頃。暦でナイルの氾濫を示すソティスがあと数日で現れると言う季節に差し掛かっていた。

 神の星が現れるということで、神官たちの熱心な歌声を遠くで聞きながら、兵士に囲まれた、外へ続く廊下を彼の後ろについて歩いていた。

 外出用の上着に身を包む彼の両端にはナルメルとカネフェルがいて、国の税と、もうすぐ来ると思われるナイルの氾濫に関する事柄が三つの口から飛び交っていく。


「ナイルの測定値が徐々に上昇しております。時間神官たちの話ではあと10日もすればナイルより恵みがもたらされるかと」

「民はもう準備を進めているのか」

「はい。着々と船を造り、ナイルから離れた方へと移動して、神の恵みを今か今かと心待ちにしております」


 時間神官とは、神官を細かく分けた中の一つの役職で、ナイルの洪水に大きく関与するソティス、つまりシリウス星の動きを主に研究し、天文を専門とする役割を持つ専属神官のことだ。言わば、王宮専属天文学者集団。天文の研究の他には、日時計を使っての時間の測定も行っている。

 暦が365日だと導き出した彼らが言っているのだから、間違いなく10日後にはナイルの洪水が始まるのだろう。

 また、一年が過ぎる。そうして私も彼も、また一つ年を取る。


「メンネフェルでの祝賀の準備は良いか」

「先にラムセスとナクトミンを向かわせております。それと合流する予定です」


 この時期、彼は古の都であるメンネフェルへ赴き、そこに住まう神々や過去の王たちを祝福するための行事に参加する決まりとなっている。今回も違わず彼はテーベを離れ、北へ行く。滞在は数日だが、道のりも考えると単純計算で10日前後はかかるだろう。


 私の背後に続く侍女の足音に耳を澄ませながら横を見やると、柱の合間から肌に突き刺さるくらいの陽光が射して、私たちの影をより濃くしていくのが分かった。

 すっかり夏だ。渇いた空気にまで、その光が反射している。燦々と陽が降り注ぐ外では、馬を傍らに連れた数十名の兵士とセテムが階段の下で彼を待っていた。その光景を見てから、彼が振り返り、こちらに歩み寄って口開く。


「今回はメンネフェルから海の方まで回る予定でいる。いつもより不在が長引くが、氾濫が始まる頃には戻る」


 想像より長い時間帰ってこないのだと知って、言うか言うまいか悩んでいたことのやり場に迷った。言った方が良いのではないかと判断が脳裏を過り、思わず彼の上着を掴む。


「どうした?」


 彼の瞳に、淡褐色の私が映るのを見て、思い留まる。

 まだ、確定していないこと。おぼろげでしかないこれを言って、もしもまた違っていたら。

 彼を落胆させたくないと開きかけた口を噤んで首を振った。


「ううん、大丈夫。行ってらっしゃい」


 帰って来てからで大丈夫。短い間だ。その頃にはきっと、はっきりするはず。


「ならば行ってくる」

「ええ、気を付けて」


 彼は微笑み、私の髪を撫でてから背を向けてセテムたちの方へと足を進めた。

 出発する彼を見送り、ナルメルたちと二言三言交わしてから侍女と一緒に部屋まで戻る。やっぱり言った方が良かっただろうかと不安になったものの、もう過ぎたことだと思い直した。


「ヒッタイトとその周辺の国々の記録を運んでくれる?外国のことをもう少し勉強しておきたいの」


 侍女に頼むと、「畏まりました」と頭を下げ、私を一人にしてくれる。ありもしない秒針の音さえ聞こえてきそうな静けさの中で、そっと両手を腹部に当てた。撫でて、息をついて、手に力を込める。それから肩に手を回し、自分を抱き締めた。


 この身体に変化を感じ始めたのは数日前のことだ。何が変わったとか、そんなはっきりとしたことは分からない。生理も未だ不規則で、自分の感覚しか判断要素が無い。侍医に言ってもまだ分からないと言われてしまうくらいだろう。

 だから彼に何も言えなかったけれど。本当に、不確かなものでしかないけれど。この感覚を、確かに私は以前にも感じている。


 もう無理なのかもしれないと諦めかけていた。それでも可能性を思うだけで鼓動が早くなる。泣きそうになる。

 はっきりしたつわりさえあれば、ほぼ間違いない。



 多分。


 多分。



 私は、妊娠している。



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