4人の男

 暗い部屋だった。西の宮殿の最奥、そして最も広い場所。初めて踏み入れる、何も見えないこの空間も、軽い足取りで前を行くナクトミンの後ろを歩いている内に慣れていき、周りの様子が次第に分かるようになった。


 奥まった所にあるせいで時計代わりである陽光が一寸も存在しない。足を進めていくほどに床に澱む何かに飲み込まれていく、そんな感覚。細々とした日常生活を感じさせる物は何も無く、幾何学的に配置された太い柱が天井へ伸びているだけの殺風景さ。日常を送る部屋というよりかは、神殿を丸ごと暗い世界へと引きずり込んだような印象を受ける。だと言うのに、神聖さが微塵も感じられない奇妙な場所だ。


 そもそもここへ呼ばれること自体が奇妙なのだ。アイは自分の部屋に人を呼びたがらない。なのに、今回はここで皆に話があると言うのだから余程の内容が語られるのだろうとすぐに察しがつく。

 色々と考える内に前を行く足が止まり、こちらの足もつられて止まった。


「ヨシキを連れて来ました」


 ナクトミンが頭を下げた先に、男はいた。玉座と言わんばかりの豪勢な椅子に腰を掛け、俺の様子を細められた眼で凝視している。名の無いあの女を匿ってから会っていないことを考えると、この男と顔を合わせるのは数週間ぶりだ。何かを考えているのだろうか。訝しげな視線を向けたまま、アイは「うむ」と頷いた他に何の声も発しなかった。


「おせえな、何してた」


 代わりに吐き捨てられた声がある。ナクトミンに隠れていて気が付かなかったが、俺たちから少し離れた斜め前にホルエムヘブが腕を組んで立っていた。組まれた筋肉質の腕に乗る指は苛立ち気に揺れている。


「ネフェルティティ様に匿われている分際で卑しい女なんかを連れ込みやがって。身の程も分からねえ下衆野郎が」

「そう怒らないで下さい、ホルエムヘブさん。悪口ばかり吐いてると良いことありませんよ」


 くすくすと場に似合わない笑い声を立て、ナクトミンが俺とホルエムヘブの間に入った。


「ヨシキも睨むのやめようよ。アイ様の前なんだからさ」


 思わず睨み返したが、病人とは言え女を宮殿に連れ込んだ俺に悪態をつくこの将軍の気持ちも分からないでもない。それに、どちらかと言えば悪いのは俺の方なのだ。罵声ならば構う必要はないと目を背け、そのまま伏せて息をついた。


「ほんと、二人って仲悪いね。もうちょっと仲良く出来ないものかなあ」


 飄々としたナクトミンの声が跳ねる。この場所で言い返す気になれないのはあちらの将軍も同じようで、への字に曲げられた相手の口は開かなかった。


 改めて沈黙に満ちる部屋を見渡してみる。広いながらも閉鎖的に感じられるこの空間。高い天井の下に、男が4人。長い時間一緒にいたいと思えるような組み合わせではないことは明白だった。

 いつまでこの気味悪い無言の時間が続くのかと思い始めた頃、杖を突く音が鼓膜を弾き、集められた3人の視線を一点に引き寄せる。


「今から私が話す」


 徐に開かれた口から、重たい老父の嗄れ声が発せられた。老人は手に握っていた杖で再び床を軽く突く。広い部屋には小さすぎるその音は、予想以上に響いて僅かな振動をこちらの脚に伝わせた。


「今日この場で、お前たちに話すのは王妃に関してだ」


 王妃──弘子。

 その名を思い描いて自ずと拳に力が入る。驚きよりも納得の気持ちの方が大きかった。アイが俺を呼ぶ時は大体弘子が絡んでいる。


「王妃が最近姿を現さないことについてですね」


 隣に立っていたナクトミンが一歩踏み出して、待っていたとばかりに口を挟んだ。猫目がこちらに向けられたのを何となく感じ取る。


「何だそれ。王妃は王族、ファラオの妃。そう簡単に表に出るようなもんじゃない。おかしなことでもないだろうが」

「それが明らかにおかしいんですよ。気にして見てないと気付かないくらいのことですけれどね」


 当たり前だと吐き捨てたホルエムヘブに対し、ナクトミンは素早くそちらに身体を向けて言い返した。

 普通に聞いていれば俺もホルエムヘブと同じ反応を示しただろう。しかし、弘子のことを言い出したのは堂々と王を敵に回すこの老人であり、鼻で笑うほど当たり前のことを話すような人物ではなかった。


「そうですよね、アイ様?」


 問いかけに、アイは説明をすべてナクトミンに任せたと言った様子で首を縦に振って答えた。


「アイ様はナイルの祝福の宴へ赴かれた際も、王妃やその周囲の様子が妙だったと仰っていました。その時同行されていたホルエムヘブさんはどう思われました?」

「……そう言えば、やけに緊張していたと言うか」


 確かにおかしいと、ホルエムヘブも悟ったらしい。剃り残した髭のある顎に手を当てて悩む素振りをする。


「翌日の獅子狩りにも来なかったな。どこかしらで見ているんだろうとは思ってたが最後まで姿は見なかった」


 獅子狩りと言えば、古代エジプトにおいて大きな儀式の際に必ず行われるものだ。あの男の身を何より案じる弘子ならば、危険である獅子狩りには必ずついて行くに違いない。それも重要なナイルの氾濫への祝い事の延長線で行う狩りだ、王族は全員出席が普通だろう。


「加え、近頃神殿にも王妃は姿を見せてないんです。ナイルの氾濫の直後までは欠かさず来ていたのに最近はさっぱりで、ファラオだけがいらっしゃる。最後に姿を見た時は顔が真っ青だったなあ。随分と気分が悪そうだった」


 ナクトミンの目が笑う。俺を見て笑う。これだけ言っているのだから分かるだろうと言うように。唾をのみ込む音さえ雑音に聞こえるほど、自分の周りの空気が張り詰める。


、だったりして」


 嫌な静けさへ放たれた発言は、自分の中にぼんやりと浮かび始めていたものと無残にも一致した。視線に胸元を雑巾のように絞られる気分になる。やはりと思う自分と、そうであってほしくないと願う自分がせめぎ合う。


「王妃がか?俺はそんな話聞いてない」


 訝しげに眉根を寄せたホルエムヘブに、猫目は迷うことなく頷き返す。


「ずっと隠れるように宮殿の奥に籠って、公の場にさえ顔を出さない。これは何か王妃にあったとみて間違いないでしょう?」


 ぺらぺらと流暢に、自分が述べた可能性の根拠を並べていく。


「それにファラオのあの表情を見ていれば分かるよ。隠してるつもりなんだろうけど警戒丸出しだ。ずっと何かを気に掛けてる。そう考えたら王妃のことしかないだろうね。いつもは感情を表に出さないファラオも王妃のことならばすぐに顔に出る。ファラオは何より王妃が大事なんだ。弱点であるとも言える」

「待て」


 焦りに似た感情で飛び出して、俺はナクトミンの演説とも取れる声を遮った。相手の流れるような言葉の羅列を止めて全否定してしまいたい衝動に駆られる。聞いているのが嫌だったのだ。


「王妃が何かの病気だってこともあるんじゃないのか」

「無いよ」


 ナクトミンの低い声がその先を妨げた。


「王妃の存在はヨシキが匿ってる女とは訳が違うんだ。もし病気なら王宮に仕える医師たちが総動員させられてるはずだし、次の王妃候補だって出てくる事態になる。何せただ一人の王妃しか持っていないファラオには世継ぎがいないからね。でも、そうじゃない」


 現実を見なよと、ナクトミンが俺の肩に手を置き、耳元に囁いてくる。


「それを踏まえたら、王妃の体調は万全だということ。だけど外には出られない、周りに姿を見られたくない理由があるんだ」


 俺から離れ、椅子に座るアイの隣まで優雅な足取りで歩む。


「王は警戒していて、王妃付の侍女たちも表情は硬い。その上、何度も毒見を繰り返させて食事を運んでいる……つまり、」


 足をぴたりと止め、そしてくるりと向いて、俺を見据えた。そしてはっきりとした口調で告げる。


「王妃はんだよ。王位継承権を持つ、ファラオの二人目の御子をね」


 言葉を失う俺をよそに、ナクトミンは一人で肩を揺らした。


「王妃はご懐妊すると体調を崩すんだ。酷いくらい食べて吐いての繰り返し。これは前回で僕も目の当たりにしたし、それが今回起きても何ら不思議じゃない。公に出られない理由の一つがそれ。勿論、膨らんだ腹を見られて懐妊が知れ渡るのを避けたいってのもあるだろう」


 そいつの口は止まらない。


「平然を装えないほどに体調を崩して、御子が順調に育って腹も隠せないほどに大きくなっているから、儀式にはファラオだけが出席されてる。出なくちゃいけないはずの獅子狩りも欠席だった。ほら、ご懐妊を理由にすれば全部説明がつく」


 薄ら笑いを含んだ言葉が脳内に反響する。不愉快にしか感じない。自分の耳を切り落としたくなるほどに。


「ファラオがヨシキのことを血眼になって探しているのだって、これで合点がいくじゃないか。あちらはヨシキがあの時の赤ん坊を殺したって気づいてるから今度は殺されないようにって警戒してるんだよ。それ以外の理由がどこにある?」


 俺を。

 弘子が身籠ったから、またそれを殺すだろう俺を探している。それを思ったら、どうしようもなく溢れる怒りに似た感情に拳が震えた。


「ホルエムヘブさん、ご質問があるならどうぞ」


 隣で話について行けて無さそうな男が、顔を上げる。


「王妃が懐妊したならば何故俺たちに知らされない?俺たちだって将軍隊長だ。それくらい知らされるはずだろうが」

「信用されて無いんですよ、僕たちは」


 さらりとした返事だった。腕を組んだまま、鼻で微かに高い音を鳴らす。


「ファラオにとってこの事実を話すに値しない存在ってことです。思えば、今までだってそうだったじゃありませんか。ホルエムヘブさんよりカーメスさんを、僕よりラムセスさんをファラオは身近に置き、明らかに信頼していた。今回は今までで一番顕著な例だと思えばいい」


 ナクトミンの言葉に納得したのか、ホルエムヘブは深く唸って目を伏せた。もしこの事実が本当ならば、二人にとっては相当面白くないことだろう。


「ファラオもファラオだ。僕の目を欺けるとでも思ったのかなあ。僕を甘く見過ぎだよ。もっと賢い人だと思っていたのに」


 小馬鹿にするように、青年は嗤う。

 弘子の懐妊の事実を周りの様子から最初に気づいたのは、おそらくこのナクトミンだ。王でもあるあの男が、容易に緊迫した気持ちを周りに見せるとは思えない。東と西を行き来し、かなりの洞察力を持つこの男だからこそ、掴んだ事実だと言える。

 前々から何でも見透かしそうな奴だとは思っていたが、初めてその心の内を見た気がして、目の前で嗤う男に恐ろしさを覚えた。


「ナクトミンの言う通りだ」


 今まで黙っていた老人が、そのしゃがれた低い声を響かせた。


「あの男はまた妃を身籠らせたのだ。私の王位継承を邪魔する子をな」


 俺を含めた3人がアイの方を向く。


「ナクトミン、お前はよくそれに気づき、私に話してくれた。我が娘ティティより役に立つ」

「勿体無きお言葉です」

「だが、まだ確証は得られておらぬ。他の侍女共を使っても分からぬのだ。故にお前たちに頼むことにした。ナクトミン、ホルエムヘブ、お前たちは王妃の近辺を探り、何か分かり次第私に知らせよ」


 名を呼ばれた二人が了承を示して、深々と頭を下げた。


「そして、ヨシキ」


 こちらの名を呼んだ男と目線がかち合った。悪寒が背筋を舐めていく。喉奥が引き締まる。


「もしこれが真であった場合、以前と同様お前の力を借りたいと思っている」


 俺の力。脳裏に浮かぶのは、鞄の奥底に潜むあの薬。


「腹の子を殺せ」


 


「私のために王妃の子を殺せ」


 この手で。

 あの時の記憶が生々しく甦り、弘子に付けられた傷跡を無意識に掴んだ。


「お前ならば出来るだろう。報酬もお前の望むものを与えよう。その返事を聞くために今日ここへお前を呼んだのだ」


 今もあの男を思うだけで、腸が煮えくり返る。弘子をあの腕に抱いたと思うだけで、今すぐ殺してやりたくなる。この憎しみは何一つ廃れてはいないのだ。迷う理由などどこにも無いままに。

 だが、それに対する返事を躊躇わせるのは、何故か出産を心待ちにする名の無い女のあの穏やかさ。それが瞼の裏にちらついて頷かせてくれない。


「……ねえ、返事しないの?」


 答えられないでいる俺の顔を、ナクトミンが覗いてきた。嫌な目が何かを探るように細められ、冷や汗が背中を伝う。


「まさか、身重のあの女と一緒にいて心変わりするほど、ヨシキの決心が弱かったなんてことはないよね?」


 この男の言う通りだ。あの女のことで左右されるくらいの決意ならば最初からしていない。大体、あの女の子供と弘子の子供とでは、意味が違うのだ。

 頭に浮かんだ映像を振り払い、前を見据える。浮かぶ老人の眼光を瞬きなく見返す。

 憎しみを引きずり、今でもあの男の心をへし折りたいと繰り返し願う俺を、愚かで滑稽と、人は言うだろう。人間の愚かさを体現するような存在だ。

 そうだと分かっていながら、俺は。

 弘子があの男の子供を宿しているのなら性懲りも無く、俺はやる。何度でも繰り返す。弘子を守る目的の下に。

 あの男をどん底へ突き落すそのために。


「……その時が来たならば」


 そう、答えた。


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