息子
張りつめた木製の弓に弦が震え、壁に括り付けられた粘土板の中心に狙いを定めて筋肉が張った右腕を放すと、石製矢尻を先端とした矢が真っ直ぐ力強く飛び出し、中心からは少しずれた場所に跡をつけて地面に落ちていく。
一歩前に出て、眩しい陽光に目を細め小さく唸る。さすがにまだ狙い通りにはいかない。
「十分だよ」
俺の判断とは裏腹に、右斜め後ろの一段上がった所に腰を下ろしていたナクトミンが頷いた。
「この分でやっていけば近いうちに真ん中には行くだろうし、あとは狙いを定めるのをもっと早くするだけかな。そうでないと戦いでは使えないから」
古代エジプトにおける弓は、日本で行われる和弓と何ら変わらない、戦いで使用する不可欠な武器の一つだ。
現代と古代で大きく違うのは戦で使い物になるか否かという点で大きく左右されるところ。いくら正確に的の中心を射ることが出来ても時間が掛かれば役に立たない。
日本の弓道となると一瞬の優雅さや儚さ、それに加え勇ましさが見えたりするものではあるが、この時代での弓はなかなか荒いものだ。野蛮とでも言うべきか。戦争のある時代、それに奉納という文化も無い地域だとこんなものなのかもしれない。
その弓を含めた剣術や槍を習う場所というのが、このナクトミンの部屋の横にある鍛練用の庭だった。高い壁と部屋の一角、そして緑の植物に囲まれたここは、俺と部屋の主以外誰もいない。耳を澄ませれば神官たちの祈る声が微かに聞こえるくらいの静けさで、集中するにはもってこいの場所だった。
「ヨシキは苦手とかないわけ?この前やった槍も剣もそうだけど、飲み込みが早いよね」
部屋の主は感心するように深く笑って、垂らした足を揺らし始める。
「弓なら知り合いがやってるのを見てたから」
アーチェリーが趣味の友人はいくらかいたし、それに付いて行って少しだけやったことがある。それでもナクトミンは、首を横に振って否定した。
「ヨシキは要領がいいんだ。教えればすぐに出来るようになる。僕の形そのまんま、綺麗に真似してたし。盗めるところは徹底的に盗んでる。出来る奴の一番の特徴だよ」
ひょいと俺の隣に立ち、自分の弓と矢を持つと呼吸をするくらいの素っ気ない仕草で矢を粘土板の中心に射抜いた。綺麗な音が空気を振動させ、粘土板に跡をつけた矢は地面に落ちる。
「まあ、これを目指して頑張って」
俺の腕を手の甲で叩き、もとの場所に腰を下ろした。堂々とした様子と指導の振る舞いを目にして、やはりこの男は隊長という身分なのだということが思い知らされる。そこら辺の兵士とは何かが大きく違う。
ナクトミンは武芸に優れているとネフェルティティから聞いてはいたが、本人を目の前にしてその情報がもっともだと分かった。それなりに鍛え、筋肉があるのに邪魔にならないくらいのほっそりとした体格を維持し、さらに身軽と来ている。すこぶる戦闘に合った身体だ。今の俺では確実に足元にも及ばない。
「あー、でもちょっとがっかりさせられたところもあったかな」
不意に、空を見上げていたナクトミンがつまらなそうにぼやいた。空色を映していた目がゆっくりと瞬きをしながら俺へと流れる。
「ほんと、がっかりした」
「何が」
「僕がヨシキを王妃様の部屋へ連れて行ったあの日のこと」
ぐっと、弓を持つ手に力が籠り、喉の奥が締まる。
「てっきり王妃を誘拐するのかと思ってたから連れて行ったのに、何もしないで出てきたからさ。つまらなかった」
思い出したくもない話に痛むはずのない傷が痛んだ気がして、右腕の傷跡を抑えた。
何故、俺を刺激するような話をここで持ち出すのか。こちらの反応を楽しんでいるのだろうか。そうであるなら、こいつは相当
「王妃が誘拐されたファラオのお顔にちょっと興味があったから、失望した」
「そりゃ悪かったな」
動揺したら負けだと、支配する感情に反して口角を上げて返してやった。
「失望されるほどお前に関係あることでもないだろう」
少し間を取ってそいつの右側に腰を下ろす。
「今更蒸し返す話でもない。過ぎたことだ」
「そうだね。過ぎたことさ」
ごろりと寝転がり、ナクトミンはそのまま目も口も閉ざして沈黙を作り出す。こちらの心理を探ってくるような台詞を叩く口が閉まり、小さな安堵を覚えた。
過去だ。消えない過去だ。変わらないと知って、それにしがみ付いてうじうじしているのは自分自身。いたずらに時だけが過ぎていき、俺を置き去りに変化の少ない季節が無常に流れていくのを確かに感じながら、今まで起きて経験してきたことすべてが悪夢だったならと愚かな願いを密かに唱えている。工藤一家と王家の谷に行くとなったあの瞬間から俺は夢を見ていて、夢から覚める出口を探している。
ここで、溜息をついた。夢ならばどれだけ長い夢だろう。もう覚めてもいい頃だと言うのに覚めないということは夢ではないのだ。むしろ、現代の世界よりこの世界は現実味を帯びている気がする。せかせかと過ぎていくばかりの時間に、追いつめられる現代での日々。そうでない場所もあるだろうが、少なくとも俺の知る業界や世界での人々は時間の貯蓄思想の中で生き急いでいるようにも見える。データや数字に囚われ、人と人とが向かい合わない。あちらで過ごしていた日の俺は、見えないものどころか見えているものさえ、真面に見てなかった。
だが、ここは普段なら目の行かない場所にまで気づき、すべてが息づいているのだと感じられる時が存在する。一分一秒が粒のように成り立ち、穏やかさに溢れている。限られた己の時の果てを、命の終わりを、生きる者すべてがしっかりと理解し向き合っているからだろう。
雄大な美しい自然と、科学に捕らわれない自由な思想。この時を生きるすべてのものが心を通わせ、天と大地を成す自然を尊重し、神とし、共に生きている。現代の人間たちが、自分の命の延長と便利さを追い求めた結果によって失ったもので満ちている。
その穏やかさの中にいるはずなのに、今の自分はその中にいない。自分の時間だけが違う。死んでいるようで、気づけば自分が傷つけた弘子のことばかり考えている。苦しいと知りながら。もう彼女が俺に手を伸ばしてくれることは無いと知りながら。
それを狙ったかのごとくナクトミンから聞かされた、妊娠の可能性。
そうだ。女性の妊娠は一回だけではない。ある一定の年齢が来るまで何も無ければ、男という存在があれば可能なのだ。
自分の身体の一部をもぎ取られるくらいの煩悶を生む流産を経験した弘子を、あの男が慰めている。胎児を失い、衰弱した弘子の傍にいて、立ち直らせている。
俺に涙を落としたあの男の顔が火で焙るように浮かび上がり、何もない宙の一点を睨みつけていた。瞬きを忘れた眼球が渇いていくのに、俺はずっと一点を見つめ続ける。それを止めたのは、何かが軋む音だった。はっとして手から力を抜くと、軋んでいたのはずっと持っていた弓だと気付いた。知らず知らずの内に手にしていた弓を強く握りしめていたらしい。嫌な汗が背筋を流れた。
憎しみという感情は、自分でも感じていてすごくいい気はしないのに、絶えることなく溢れてくる。あれだけ感じながら消えることを知らない。感じるほどに自分が腐敗していく気がしていた。
妊娠したら。あの男の子供を弘子が再び身籠ったなら、俺はどうする。
また、やるのか。この手で。
ぞっとした。あの薬の存在を連想した自分に身の毛が弥立つ。一気に悪寒が全身を襲い、行き場を失くしたこの手で傷跡を擦り、抑え込む。あんな感情をもう一度経験したら、俺は自分を保っていられるだろうか。腐って腐って、いつかは人でなくなるのではないだろうか。
「どうしたの?真っ青だよ」
声に気づき視線を落とすと、呑気に昼寝をしていたはずのナクトミンが下から俺を見上げていた。
とろりと眠そうに垂れている目ではあるが、ずっと奥にこちらの心を読もうとするかのような鈍く光る何かがある。それはどことなく、アイに似ていた。
「いや」
自分に震えていたなど言えるはずもなく、何か言い訳を探す。
「……ひとつ、疑問に思うことがあって」
口にしてから自分の愚かさに呆れた。情緒不安定な子供じゃあるまいし、疑問があるだけで真っ青になる奴なんてどこにいる。
「ふうん」
多分、相手はこちらの考えていることを何となく察している。なのにそれについて問うことは無く、小さな含み笑いを口元に零しただけだった。
「何でも聞きなよ、答えてあげるから」
ナクトミンは身体を起こすと眠そうに目を擦り、欠伸をしてから俺の方に向き直った。明らかに質問を待っている。
質問、疑問。何か。
「……どうして、お前は東と西を行き来できる?」
出来るだけ平然とした様子で問うた。もちろん最初から用意されていたものではなく、何か聞かなければと探して行き着いたのがこれだった。
「聞くほどのことでもないと思ってたんだが、気になって」
ほぼ敵対しているツタンカーメンの東と、アイの西。この二つを自由に行き来できるのは、ネフェルティティとこの男だけだ。
質問に拍子抜けしたのか、そいつは「そんなことか」と呟きながら、「僕がそういう人間だからだよ」といつもの微笑を崩さず答えた。
まあ、そうだろう。
アイの娘であり、実質的ファラオに次ぐ権力を有するティティはともかく、それほどの権力もないナクトミンが行き来できるのは、人格の理由だろうと推測はしていた。
「ファラオにもある程度信頼されて、アイ様にも頼りにされてる。どちらかに極端に嫌われる他の人たちと一緒にしないでほしいなあ。僕の才能、もしくは人柄の成せる業だね」
飄々と猫目の青年は続ける。無論、敵対する二つの間で、ある程度の人間関係を保てているのは一種の才能だ。
「今こっちにいるのが多いのは真っ直ぐで何も隠さない東の奴らと一緒にいてもつまらないから。アイ様やホルエムヘブさん、そしてヨシキ。見ていて楽しいと僕が思えるのは君らなんだ」
言い切ると、ナクトミンは欠伸に続いて背伸びをした。まとめてしまえば西と決めたホルエムヘブや東のカーメス、ラムセスとは違い、こいつはまだどちらでもないということだ。
ならば、もう一つ聞くことがある。
「もしこの先決裂するこがあったらどちらに付く?」
「そんなことを聞くってことは、ヨシキも東西で分かれるって踏んでるんだ?」
覗いて掛けられた言葉に、足元の緑を見やりながら俺は頷くだけの返答を済ませた。歴史を知らなくとも分かる。この先、間違いなく東と西は決裂するだろう。これほど大きく分かれていて決裂しない方がおかしいのだから。
「断然、勝つ方さ」
相手はさらりと答えて鼻を鳴らす。
「普通に考えてそうじゃない?愚問だね」
信念や義理や人情、それを持ってもともと負ける側に付くような奴ではないというのは察していた。ならば、もう一つ。
「お前の予想ではどっちが勝つ?」
ツタンカーメンが若くして死んだのは、それに負けたからか。その推測に基づけるのなら、勝つのは西だ。東西で正面衝突とも呼べる騒動が起き、それで怪我も病弱でもなかった王が命を落とす。
だが、これでは色々と説明がつかない部分が出て来てしまうというのも否めない。ツタンカーメンの死に殺人説、毒殺説、病死説が挙げられているのは、それらを数千年後まで伝えるほどの何等かの出来事がこの時代に起きたからだ。何もないのに死因が3つも挙がるはずがない。
「まだ分からないよ。どっちもどっち」
顎に手を添えて納得する。アイは失脚する機会を逃すまいと狙っているのだろうし、その隙を見せないよう堂々と君臨しているのがあの年若い王だ。どちらがどう動くのかは、今の時点で断定的な判断は下せない。今という時が、歴史通りなのか否かというのさえ分からないのではどうしようもなかった。
書物に文字で記される歴史と、実際こうやって感じる現実は、何だか大きく違うようにも思える。まるでタイムスリップというよりかは、まったくの別世界、異なる時間軸、パラレルワールドにでも来たかのような。もしそうなら、歴史通りに進まないということも十分に有り得るだろう。
「あ、ホルエムヘブさん!」
隣のナクトミンが弾かれたように立ち上がり、ここにはいないはずの将軍の名を呼んだ。ナクトミンの視線を追うと、あまり広くはない区切られた隊長の部屋の入口に、苛立ちを露わにしている将軍の姿が見えた。
「帰ってきたんですね!10日ぶりじゃないですか!」
隣にいた奴は、軽い足取りでやってきた筋骨隆々男に走っていく。駆け寄られた相手は明らかに機嫌が悪く、少々鼻息が荒かった。
「あっちはどうでした?」
あっちというのはホルエムヘブ、ラムセスが任せられている下エジプト、メンネフェルのことだ。
「ここよりは反アメンは少ない。海の奴らがしつこいというのがあるが、それなりだった。まあ、俺がいる限り問題なんて起こさせやしねえが」
吐き出すように言うと、またムスっとした顔に戻る。何かあったのだろうか。
「ラムセスさんは相変わらず気に障ったみたいですね、その様子だと」
少年を思わせる屈託のない笑顔で発せられたもう一人の隊長の名に、将軍は瞬間的に鬼のような形相を浮かべた。原因はナクトミンの察した通り、東の隊長ラムセスのようだ。
「俺を上だと思ってねえんだよ、あの野郎は。いっつも鼻につく口調で俺に口出ししてきやがって。今日も『俺はこんなやり方じゃない方が良いかと思います。ファラオの御望みでは何たらかんたら~』って、俺のすることなすことに一々一々!!」
浅黒い足で傍の柱を蹴りつける。そんな将軍とは正反対に、ナクトミンはくすくすと白い歯を零した。
「ファラオ、ファラオな人ですもんね。敬語使ってても見下された感じがするのも仕方ないですって。僕もあの人は好きじゃないですよ。真っ直ぐ過ぎて、考えてることが綺麗事ばかり。ちょっと気に障ります」
その言葉に何か引っかかるものでがあったらしく、将軍はぴくりと眉を上げて顔をずいと寄せた。
「何だ、俺は綺麗じゃないってことか?あ?」
「違いますって。綺麗事って言うのはまた別の意味なんです」
楽しそうに声を上げて笑いながら、ナクトミンはホルエムヘブの筋肉に敷き詰められた肩をパンパンと叩き、音を弾かせる。
「そうなのか」
「そうです、そうです。そういうものです」
庶民出身で兵士の身分から大抜擢を受けて将軍の身分を得た男ホルエムヘブ。本当に軍事に優れる男なのだろうかと首を傾げてしまう。言葉も礼儀も、同じ庶民だったムトたちと比べたら雲泥とまでは行かないにしろ、かなり酷い。一言で言ってしまえば下品であることこの上ない。
軍師とは古来頭の切れる人間の職だという俺の中の常識は、ホルエムヘブのせいで崩れ去っていた。
「で、どうしたんです?僕の部屋に何か用ですか?」
「そうだ、ナクトミン。お前にファラオからの伝言が……あ゛っ!!」
濃い顔がナクトミンを越え、第三者だった俺に向く。
「情夫!てめえ!ちくしょう!」
隊長を押しやり、素早く近づいてきたホルエムヘブの手に、逃げる瞬間を逃した俺の右腕が掴まれる。抵抗する間も無く引かれ、鬼の形相が目前に迫った。腕を襲う強い握力に俺の表情が歪む。
「よくも俺のネフェルティティ様を!!」
鋭い眼差しを間近くで浴びせられる。殴られるのかと身構えたのも束の間。
「こんな……」
声が、今から泣きますと言わんばかりに震え出す。やがて鬼の形相から絶望の二文字が良く似合う顔に変わり、俺を捕える手から力を抜いてずるずるとその場に屈み込んだ。
「こんな男のどこがいいんだ……ちくしょう!」
くそ、くそと。地面を叩いて悔しがる姿はどこかの漫画でありそうだ。
「こんなひょろんひょろんな奴のどこがいいんだ!それなりにいい体格してても俺の方が抱かれ具合とか、その辺が絶対いいはずなのに!」
ひょろんひょろんで悪かったなと言ってやりたくなるが、ついさっきまでとのギャップに唖然として言葉が出てこなかった。
「初めてなんだ。こんなにネフェルティティ様が一人に固執するのも、僕らに武術を教えるようお命じになるのも。いつも一晩で終わってたから余計にね」
絶望に打ちひしがれるホルエムヘブの背後からナクトミンが肩をすくめて苦笑しながら補足説明をしてくれた。
「ホルエムヘブさんも可哀想に。ずっと一途だったから」
ぐずる将軍の隣に腰を落として、よしよしと背中を擦ってやっている。
「もういい加減諦めて、ムトノメジットにしたらいかがです?ちょっとだけですが似てるし、いいじゃありませんか」
「駄目だ駄目だ!俺にはあの方しかいないんだ!!」
例えるなら駄々捏ねる子供だ。別にティティに執着しているわけでもないからこの男と二股をかけられても俺としてはどうってことは無い。だが、確実に言える。前から薄々思ってはいたが、今では胸を張って言える。こいつはティティの好みではない。むしろその反対だ。俺が彼女に相手としてホルエムヘブを勧めても、絶対に鼻で笑われて「冗談はやめろ」とあしらわれるだろう。
「まあ、ちょうどいい所にいらっしゃったし、ホルエムヘブさんにひとつご質問でもしてみましょうか」
居辛くなった空気を換えるためか、ナクトミンが急に提案した。
「あ?質問?俺に?」
ようやく顔を上げた将軍に猫目が頷く。
「どうしてあなたは西側に付いているのか。ヨシキが僕に聞いてきたんで、あなたにも聞きたいなって思ったんです」
猫目がこちらを向くと、それを追うようにホルエムヘブの目も俺に向いた。間抜けな顔だ。この男に聞かなくても理由は明白のような気がするのに。そうは思ってもわざわざそれを口にすることは幾らなんでも憚られた。
「改めて。ホルエムヘブさんはどうしてこっちに付いてるんです?」
「ネフェルティティ様がいらっしゃるからだ」
筋肉男は姿勢を正し、ふんぞり返るようにして即答する。
ああ、やっぱり。あれだけの美女だ、それ目当てに西に付く奴らも少なからずいるだろう。
何だか萎えて傍の柱に寄り掛かる俺をちらと見やり、ナクトミンは口元の曲線を歪ませることなくホルエムヘブを覗いた。
「他にも、あるんでしょう?」
意味を成すとは思えない質問だと、賢そうなナクトミンになら分かりそうなものなのに止めない。
「だからネフェルティティ様が」
「勿論、あなたがネフェルティティ様にお慕いしているのは知っています。ただそれを除いた時にも理由はあるでしょう?ってことです」
ティティの存在を抜いても理由があるのだろうかと少し興味が湧いた。ホルエムヘブが考える素振りをするということは、あるということだ。
「まあ……あるっちゃあるな」
将軍は悩みながらであるものの、頷いた。
「何です?」
ホルエムヘブがすたと仁王立ちになり、今までにないくらい真剣な面持ちを作る。
「アイ様は一度欲しいと思えば確実に手に入れるお方だ。こちらに付いていれば俺もそれなりの身分が約束される……そして今、あの方が望まれているのは王の座だ」
王の座──ファラオ。
「ヨシキ、分かった?」
ナクトミンも立ち上がり、くるりと俺に身体を向ける。
「西に付く奴らは大体がそれ目的だよ。ファラオに王家を継ぐ王子がいない今、最も王位の近くにいるのはアイ様だからね。みーんな、媚を売ろうとしてるのさ」
世界が時代が、どれだけ変わっても人の気持ちや欲情は変わらない。愛や恋と同じように憎しみも怒りもあり、そして富と名誉を欲する醜さもまた同じく人間の根底に潜んでいる。
「もし西に付く奴らの思い通りになったら、あの谷に自分の墓を置けるかもしれないんだ。わくわくするよね」
あの谷というのは王家の谷だということは容易に想像がついた。王家の者だけが埋葬される、そこに自分の墓が置けるということは随分と意義のあることなのは理解できる。だが、将軍隊長を含む重要役人たちはそこへの埋葬は許されていたのだろうか。王家の血族だけではないのか。
「俺は……もう墓が決まってる。どう頑張ってもあの谷には無理だ」
そう言ったのはホルエムヘブだった。
「ホルエムヘブさんはもう自分のお墓を作ってるって言ってましたもんね。サッカラでしたっけ?」
サッカラは、現代のカイロ近くにある広大な古代の埋葬地。王家以外の役人や兵たちはそこに埋葬される場合が多い。
「お前みたいに王家になる機会なんて俺にはない。お前以外に初めからそんな機会を持てる奴なんていやしないだろ」
「そんなこと言わずに高みを目指してみてもいいと思うんですよね。実際これからどうなるかなんて誰も分からないんですから」
まるでナクトミンがホルエムヘブよりも王家に近いと思わせるようなやり取りだ。将軍と比べれば隊長は身分が低いはずだ。王家の者ではないにしろ、王家に近いのはどう考えても将軍ホルエムヘブの方になるはずなのに意味が分からない。ただ単に、ナクトミンの方が目標を高めに持っているというだけのことなのか。
「あ、ヨシキには言ってなかったね」
そんな辻褄が合わないことに眉間に皺を寄せる俺に気づいたらしく、ナクトミンがまた意味ありげな眼差しで俺を捕えた。
「せっかくだから僕の秘密を教えてあげる。いや、秘密ってほどでもないけど」
「秘密?」
予想もしてなかった言葉に少し戸惑う。ホルエムヘブも「言っていいのか」と目で尋ねていたが、ナクトミンは無視して俺の目の前まで歩んでくる。柔らかいのに、どこか不気味に見える笑顔はあまり好きではない。掌が、妙に汗ばんだ。
「ヨシキ」
向かい合う中で真っ黒な瞳が俺を映し、その口が声を発するべく開かれる。
「僕はアイの息子だよ」
息が止まる思いだった。驚きに言葉が出てくれなかった。
アイの息子。このナクトミンが。
「あの方は息子だなんて知らないだろうけど、僕の母はアイとそういう関係にあったんだ。これは間違いない事実さ。証拠だってある」
言われてみれば、目が似ている。人を見透かすような、その眼が。
「知ってるのはホルエムヘブさんと……あとはネフェルティティ様が気づいてるかなあって感じ」
なのに父親であるというアイはその事実を知らないと言う。親子だと言うのに。
「……言わないのか」
もっと他に言う言葉があっただろうに、驚愕を抜け出て俺が発することが出来たのは、こんな言葉だった。
「父親に自分は息子だと、言わないのか」
ナクトミンは愚問だとばかりに冷笑する。
「言わないよ。言う必要なんてない。言ったところで何になるのさ。血縁なんて、王家じゃない限り関係ない。男として生まれた僕じゃ、煙たがれて終わるだけだ」
「父親なのにか」
「血の繋がりではね。だけど僕には父という存在は別にあったし、母も母親とも思えない人だった。もう関係ない。今更父親なんて思わないよ」
一呼吸置いて、ナクトミンは「それに」と続けた。
「すべては実力だ。気に入られるか、否か。出来るか、否か……息子だと知ろうがあの方は眉一つ動かさない、そう言う人さ」
ホルエムヘブが同意を示して頷くのと同時に、ナクトミンは腕を組んで肩を揺らす。
「尤も、この肩書が役に立つのは万が一アイ様がファラオになって後継者が誰かとなった時だけ。今は何の役にも経たない。むしろ言えば、煙たがられるかもね。僕は王の子供を産めない男だから」
低めた声。策略を立てる軍師のような表情。
「僕はこの関係を利用するんだ。西が勝つと確信した後に」
アイがもし王位につき、子供が出来なかったら、間違いなく血族として王位候補に堂々とその名を連ねることが出来るだろう。それだけではない、ナクトミンの名が乗るのは候補者の一番上。最有力候補。
「時が来るまで使わない、僕の唯一の切り札だよ」
俺の驚く顔が面白くて仕方がないというように、アイの息子であると自ら名乗った青年は静かに薄ら笑いを浮かべた。
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