ミタンニの血
闇と星が戯れる頃、何もしないまま今日がまた終わっていくのだと思いながら寝台に寝転がって天井を仰いでいた。
くり抜かれた奥の部屋からは浴場の白い湯気が漂って、距離を置いて徐々に透明さを取り戻す。風呂から上がって香油を全身に塗りたくっているのだろう、ティティの愛用する百合を使った香油の匂いがこちらへと流れて充満していた。香水よりかは、重たい香りだ。それでも今の俺にとっては、匂いが強まるのは彼女がいるという証拠であり、その匂いが鼻を掠めると無意味な安心感が大きくなった。
独りではない。彼女がいる。
気づけばこの環境を無意識に確かめていて、いると分かると母を見つけた迷子の幼子のようにほっと胸を撫で下ろしている。安堵に瞼を閉じて深く息をすると、隣に並べられた葡萄の香の方が濃くなったのを感じた。
情けないことに、ティティの姿を探した後に脳裏には一人の後ろ姿が現れる。我が子を奪ったこの俺に、淡々と恨みを積み重ねているのか。それとも、あまりにも惨いことをした俺を忘れようとしているのか。記憶にいる弘子さえ、こちらを振り向いてはくれない。
舌打ちをして小さく頭を過った痛みを、右手で押さえた。前に垂れた短い髪が指の間に挟まって掠れた音を鳴らす。
ナクトミンの示した可能性に翻弄される自分が嫌になる。彼女を腕に抱いているのだろう男に憎しみをひたすらに重ねて、馬鹿のひとつ覚えのように嫉妬に胸を焼く。身体の脇にあった腕をぎこちなく動かして胸に置くと、掌へ伝わる規則的な卑しい鼓動に吐き気がした。
「また、考えているの?」
柔らかさに嗤いを乗せた声が響き、湯気特有の生暖かさを右隣に感じて、ティティが来たのだろうと分かった。
「王妃のこと」
億劫に思いながらも瞼を持ち上げると、濡れた髪をこちらに垂らした美しい顔がこちらを覗いていた。暗さに揺れる向こうの炎の色がその妖艶さの上でせめぎ合っている。
「いつもそう」
俺の傍に置いた手で身体を支え、彼女は笑みを湛えて消え入りそうな声を転がした。今更言い当てられて嫌だと思うことはないが、「そうでしょう?」と眉を上げてくる態度が嫌味に感じて、少し睨みを利かせて見返すと、相手は俺の胸に身を乗り出しながら緩やかなカーブを口に描いた。
「あなたの中にはいつもたった一人しかいない。この腕に私を抱いている時でさえね」
指が俺の鎖骨をゆっくりと確かめるようになぞって行く。徐々に顔の顔との距離が縮まって互いの鼻先が擦れる。肌についた彼女の長い髪が冷たかった。
「あんなに憎まれてもまだ好きだなんて。でもその一途さが私は好きよ」
「それはどうも」
どちらかともなく口付ける。さり気なく彼女の熱を持った手が俺の頬を包んで、俺の冷たい手が濡れた後頭部と滑らかな背を抑えた。唇から唇に吐息が伝い、離せば得た温もりはどこかへ辿り着く宛もなく消える。消えて失くすのが嫌で、一度離れた彼女の身体を伸ばした腕で絡め取って引き寄せ、噛み付くように荒々しく唇を奪った。
こういったことをしながら、愛してるだとか、そんな言葉はこの口から吐いたことは無い。彼女も同じで、俺のことを好きだと言いつつも、愛してると言ったことは無かった。
自分たちは犬のようだとも思う。犬より酷いかもしれない。
ともあれ、人間同士が謳う恋愛によるものではない。彼女にとって俺などは行き場を失くし、生きる意味を見いだせないでいる哀れな子供。胎児を殺した事実だけは許せないようでいながら、いつも俺に手を差し伸べる。俺が女で、もし自分のような男がいたらとしたら絶対に御免だ。だと言うのに、こちらが求めればそれに応える。餌でも与えるかのように。よく分からない女だった。
「……でも今日はちょっと違うかしら」
弱く抗って、自分の半身を起こしながら彼女は言った。こちらの腕を払い、姿勢を正して首を傾げる。
「何が」
「いつもなら抜け殻みたいなのに、今日は何かを深く考えてるみたいだった。王妃の他に何か悩むことでもあったの?」
葡萄を一粒摘まみながら色っぽく口に運ぶ彼女に、ああと声を漏らした。今日はどちらかというと他の方が考える時間としては多かったと思う。自分にとってはかなり衝撃的な事実だったのだ。
「ナクトミンのことを、考えてた」
俺の言葉に、彼女はやや目を見張った。
「知らなかった。あなた、そういう趣味があったの」
「は?」
見返した俺に、彼女は驚きながらも視線を上げて何やら思考を巡らせ始める。
「まあ、あの子は可愛らしい顔してるけど……多分相手はそう言う目であなたを見たことは無いと思うわよ。残念ね」
「違う、ナクトミンがアイの息子だったってことだ」
彼女が男色のことを話しだしたのだと分かって、身体を起こすと同時に片手を前に出して否定した。さすがにどれだけ堕ちようとも男に縋る癖は起きていない。
「あら、本人から聞いたの?」
今度は平然とした顔で、葡萄酒を一口含んだ。
「どうして言ってくれなかった」
「言わないも何も、あなたには全く関係ないことじゃない。知ってどうするの?」
詰め寄るこちらをあしらう様に言って、彼女は杯を机の端に置いた。
正論だ。知って、自分にとって利益にもなることはない。アイの息子がいようがいまいが、それが公認だろうが非公認だろうが、自分に何らかの影響が来るとも思えなかった。
「まあ、そんな隠すようなことでもない。ヨシキの言う通り、あの子は私の腹違いの弟よ」
あっさりと肯定しながら、その目はテーブルに用意された食事の方を泳いでいる。何を食べようかと選んでいるようだ。
「あの子が一人の有力貴族の息子から宮殿へ入り、神官や書記官としてではなく、隊長として実力で上がってきた時に素性を調べさせてみたらそうだった。驚きはしないわ、私の父はそういう男だもの」
まるで他にもいると示唆するような言い方だ。葡萄を余計に一つ取って、俺の方に食べるかとよこしてくる。それを受け取って口に放り込みながら、彼女の顔を見返した。
「他にも腹違いの兄弟いるのか?」
「ええ。副女官長として王妃の傍に仕えているムトノメジット。あの子も私の片親繋がりの妹よ」
時折名前だけ耳にするムトノメジット。東に仕える彼女もアイの娘でナクトミンとティティの血を分けた兄妹だったのか。
「私が把握しているのはこの二人。母親が違うだけの兄弟なんてきっともっといるはず」
「あの顔で、随分沢山の女に手を出せたもんだな」
嫌味を言ってみたら、
「アイはもともと貴族生まれの男で身分もそれなり。若い頃は女に困らないくらいの色男だったと聞いたわ。あなたも気をつけなさいな。醜いことばかり考えてるといつか顔に出てくるわよ」
指を指されてぎょっとする。あれが、色男。何度かあの老父の顔を浮かべてみるが、どんなに美化させてみてもその単語には程遠い面持ちだ。人の顔とはそれほどまでに変わってしまうものなのだろうか。
「この話に興味があるの?」
目配せして彼女は尋ねてきた。
「アイや私たちの話を、知りたい?」
素直に頷いた。興味はある。アイに関しては、王の座を狙う陰湿な最高神官、ネフェルティティという先々代正妃の父親ということしか知らない。関わってきた女の話になるのなら、あの老父の経歴にも触れることが出来る。どうやってあれほどに醜くなっていったのか、知りたかった。
女の口元が妖艶にひずむ。
「なら教えてあげる。あなたが興味を持つなんて久しぶりよね。ちょっと、長くなるけれどいいかしら」
「別に構わない」
彼女は寝台に深く座って杯に葡萄酒を注いでこちらに手渡した。
「貴族は持っている土地の大きさで地位が変わるのは知っている?」
言われて頷く。エジプトで言う貴族は、ヨーロッパのような「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」と呼ばれる固定的な爵位はない。王であるファラオから土地をもらった時点で小麦の収穫が多くなるため、余裕ができることから貴族と呼ばれる身分になるだけで、もしナイルの氾濫等で失えばその時点で簡単に一般市民に戻る。逆に土地を買ってそれなりの税を納めれば貴族になることができる。
エジプト貴族は、そんな単純な制度を持った、端的に言えば土地の有無とその広さに大きく左右される身分だ。その中でもある程度多くの富を持ち、収穫などの変化をものともしない一族が有力貴族とされる。ナクトミンはそういった一族の出身だ。
「アイの貴族家はムノという我が国の主要都市の統治を任された、王家と同じくらいの歴史を持つ由緒ある一族だった」
話す彼女の声はややかすれ気味だ。
ムノ。聞いたことがある。現代ではアクミームと呼ばれる都市のはずだ。
「アイの父親は王とともに戦った英雄、軍事司令官。兄も宗教家と軍人として名を馳せ、末の妹はエジプト王家の歴史史上で初めて民間から正妃となったティイ王妃。彼女はファラオの実の祖母に当たる。皆、随分前に亡くなっているけれど」
父親や兄妹たちの経歴は恐ろしいほどに高いものだ。こういう家族をエリート一族と言うのだろうか。
「それだけ大きければその地位を守るのに必死になる。だからこそ、一族の確固たる地位を守るためにアイの兄弟は王宮に入れられた。そうしてアイは兄に次ぐ秀才と呼ばれながら神官見習いとして王宮に入った。けれど、アイの野望はそこでは止まらなかった。実力を持ち、自分より上の身分をもらっていた実兄を妬み、家のためだけではなく自分の権力のために動き出したの」
下っ端貴族が神官として王宮の端に入ることが出来ても、ファラオを含む王族への謁見、言及は夢のまた夢。神官のまま人生を終えることになる。
「ここで父は女を使った」
ティティの声が低まる。
「誰もが惚れこむ眉目秀麗な容姿で、高貴な生まれである私の母、テーベの都の中でも貴族として最高権力を誇っていた貴族長家の娘ナクトミンの母、そして女官長だったムトノメジットの母親に手を出した。勿論同じような女は他に何人もいたと思うわ」
貴族を含む高貴な娘から宮殿内の侍女にまで。
「幅広かったんだな」
「幅広く人脈を広げていくことで、自分の身分を別の位置から確立したかったのよ。民ならば支持をさせ、力のある貴族なら王族に身分を上げるよう進言させることが出来る。女に取り入って強い後援者を得ることで、着々と身分を上げて行った」
現代で言うスポンサー。簡単に言われているが、多くの幅広い身分の女たちに取り入るのは、かなりの頭脳とそれなりの苦労が要るものだろう。今はどうであるか知らないが、若い頃のアイは策士だ。
「その中で自分の子供として公に明らかにされているのは私とメジットだけ。他は認めてない。民であったり、兵であったり。多分たくさんの所にいるんでしょうけれど」
その認められていない存在の一人がナクトミン。
「2人だけの理由は?」
「簡単よ。王家になるための手段として使えるのは子供を産める娘、かつ王家の近くにあること。アイはそれを満たさないとどんなに訴えられても首を縦に振らなかった」
エジプト王家がファラオの名を与えるのは、ほんの少しの例外を除いて昔から男だ。王家でない者が王家に入るには、自分の娘をその王に嫁がせて義父となるしかない。すなわち、アイが必要としていたのは妃となれる女の性を持つ娘。それも王の目に適う王家に近い存在でなければならなかった。
そこまで考えてナクトミンが言った「自分が男だから真実を言えば煙たがれる」の真意を知る。子供の産めない男が、自分を王家に入れることは無い。だから真実など無駄だと言った。息子だと言い張れば感動的な父子の再会などあるはずもなく、逆にあの神官の力で隊長という身分をも失うかもしれない。それをあの青年は知っている。知っているからこそ、息子だと明かすことは無く、アイの死後の切り札として隠し持っているのだ。
アイが自分の娘と公言するのは、高貴な身分の母を持つこの美女と、侍女として東の宮殿で仕えるムトノメジットだけ。他はスポンサーでしかなく、身分を手に入れた後は用無しとなって切り捨てた。
「……アイはいつから王の座を欲していた?」
漠然とした気持ちで尋ねた。これだけのことをして成功させていくには、尋常ではない辛抱と気の遠くなるような計画性が前々から必要だろう。
「アイの目的は神官見習いを始めた十代から、もう50年近く前から何一つ変わっていない。むしろ、子供の頃からそう思っていたのかもしれないわね。神官見習いになるのだって、いくら秀才と呼ばれても相当な勉強が必要だもの」
王となること。そんな漠然とした望みのために、あの老人は幼い頃からやってきた。そう思ったら何だか恐ろしさに鳥肌が立った。
野望のために、生きてきたのだろう。たったそれだけのために。
「でも、アイに捨てられた女たちはどうなった?黙ってはいないだろう」
女の嫉妬は怖い。身を捧げ、相手の身分まで上げてやったのに最後の最後で切り落とされるなど、かなり屈辱的なことのはずだ。だが。
「妻なんて何人いてもいいから子供のいない女は何も言わない。一時的なものだったと思えばいいの」
さらりと言われた言葉に、一夫多妻制を思い出した。一般の民は経済の理由から一夫一妻が多いが、この時代において財力のある王族貴族の男は何人ものの妻を娶る。自分の感覚とは桁外れのものが存在しているのだ。
「問題はアイの子供を産んだ女だった。子供が権力者の血を引くというのに、正式に子供だと認めてもらえないのは納得いかなかったでしょうね」
「それはどうやって」
「力で捻じ伏せたの。利用するだけして終わり。その頃、アイはもうすでに十分なくらいの力を得ていたから捻じ伏せるなんてことは朝飯前だった」
スポンサーを跳ね返せるほど、成長していたということだ。権力は恐ろしいものだと身に染みて思う。恩も義理も何もないなと苦笑してしまうくらいに。
「その頃に生まれたのが私。アイは私が自分を王家に最も近づける娘だと確信していた。これも他の子供を切り捨てた理由だったんだと思うわ」
結局は、この女がアイの王家入りの目的を達成させた。他の女や子供を切って捨ててもいいくらいの家系の女だったと言うことだ。
「そんなに凄い血筋を持った母親だったのか」
「そう言うこと。私の母親の身分が、エジプトの民も納得するものだった。貴族よりも上、そしてエジプト王家に匹敵する血がこの身体に流れていたから」
そう言った彼女は、自分の腕を抱くようにして擦った。貴族よりも上で、王家と匹敵する血を持つ母親。彼女の言う『高貴な身分』とはどういう存在なのか。
「一体どんな身分を?」
尋ねると、彼女は一度目を伏せ、間を置いてから俺を真っ直ぐと見つめ、やがてその口を静かに開いた。
「我がエジプトの今や敵国、ミタンニ国の王女」
淡々と言葉を並べていた彼女の凛々しい瞳が、少しだけ陰る。
「一度も会うことなく死んでしまったその人が、私を産んだお母様」
『ミタンニ』がエジプトの外、外国であるのは大方想像が付く。アイは他国の姫君にまで手を出したということになるのだが、その国のことをあまり知らないのもあって微妙な反応しかできなかった。
「エジプトとミタンニが強い関係にあることは知っている?」
そんな俺の返答に、彼女は念のためと尋ねてきた。
「いや、名前しか……」
言葉を濁すと、相手は息をつく。名前だけのレベルでは話にならないらしい。
「変なことは色々知ってるのに外の事になるとからっきし駄目なのね」
仕方ない。ここで役立つ俺の知識は、医学と弘子の父親から聞いたものと、弘子が行方不明だった時に調べたものだけだ。エジプトの外の国の知識など、ほぼ無いと言っても過言ではなかった。だが、相手の話の内容からして、ミタンニはエジプトにとってよほど重要な関係に位置する国なのだろう。
「ミタンニはヒッタイトの隣、東側の国。エジプトとは古来、王家同士の交わりが多かったの」
ティティが初歩的なことから話し出してくれてどうにか掴めた。ミタンニは知らなくとも、ヒッタイトと言えば黒海を含む現代のトルコ、ボアズキョイ遺跡付近にあったとされる国。何となく北方の国だろうという認識でしかないが、古代のトルコ付近の地域ならば人種的にヨーロッパ系白人、つまりコーカイソイドが多いはずだ。ミタンニ人はヒッタイト人と同様、白人種の民だと考えて大差は無いと思う。
「王家同士の交わり……婚姻とか?」
「ええ。例えば現在ファラオの祖父君アメンホテプ3世殿下の母君はミタンニ王女。その父君トトメス殿下の寵姫も、その前の代々ファラオたちの第二王妃、第三王妃が、皆ミタンニ王家の血族よ」
エジプト王家の家系にミタンニ出身の女性が多いことに驚く。
「我が王家にはミタンニの血が強い。おそらくファラオの御身にもミタンニの血が流れているはず。大げさに言えば半分くらいかしら」
あ、と思った。だからあの容姿なのだ。
今俺の前にいる美女を含め、憎いあの男もエジプト人とは言い切れない容姿を持っている。ツタンカーメンはエジプト人特有の褐色の肌に、それと対を成すようなヨーロッパ人に多い淡褐色の瞳。ティティの場合は髪や肌はエジプト人だが、顔立ちが西洋人よりだ。前々からエジプト人とヨーロッパ人が合わさったような外見だと思っていたが、それが理由。エジプト王家はハーフの一族、混血人種なのだ。
一定の頻度で異なる人種と交わることで、あの独特な風貌を手に入れた。21世紀において現代エジプト人と古代エジプト人では根本的DNAが違うという研究結果が出ていたのは、これが大きく影響していたためか。
「でも、今やミタンニとはあまり良好な関係とは言えない。兄妹婚を繰り返しながら王女を妃として貰い受けていく歴史の中で、徐々に両国の間に歪が出来るようになった。これはミタンニが我が国以外と交易を始め、いくつもの王家と政略結婚を行うようになったからよ」
長い間エジプトとだけ政略結婚をしてきたというのに、別の国々とも関係を持ち始めた。ずっと付き合ってきた相手が多くの国に浮気して媚を売り始めたのだ、さすがのエジプトも八方美人なミタンニをあまり良く思えなかったのも頷ける。
「我が国はミタンニへの反感を強めた。ミタンニ国の王女を母として持っていたアメンホテプ3世殿下がそれを恥じ、自分の母の存在を隠すために自分は太陽ラーから生まれたという文書を国中に知らせたりしたほどに。テーベのナイル沿いの神殿を見てみれば分かるわ。その文書が残されているから」
自分の母が疎ましくなるほどに、国の関係は悪化を極めていたということだ。そう考えれば、案外異国間の繋がりはとてつもなく弱い。
「数年後、我が国はミタンニと決定的な亀裂を生むことになる。その元凶が私の父、アイ」
最高神官のその名に、緊張が走った。嫌な響きだ。
ティティは残りの葡萄酒を一気に喉へと流し込んでテーブルにその盃を置く。
「まだ30代であったアイは、もっと決定的な関係を王家と持つために、ミタンニの血筋が王家に多く嫁いでいることを利用しようとしていた」
ミタンニ王家の血を引く子供が出来れば、前例に倣いエジプト王家の妃に出来ると踏んだのだろう。
「それと同じ頃、エジプトとの交易復活を望んでいた一人のミタンニ王女がいたの。エジプトとミタンニは共に兄弟、共に有るべきだと訴えた、それはそれは美しい人だったそうよ」
彼女の瞳が急に俺を越えて、遠くを見つめ始める。手を伸ばしても掴めない月を眺めているかのようだった。
「名はタドゥキパ。その王女がエジプトのナイルの氾濫を見にやってきた。彼女を見たエジプトの民は口々に言ったわ、『美しき者来たり』と」
「神官だったアイは、そのミタンニ王女に手を出した?」
先に逸って出た言葉に、彼女は呆れ気味に鼻で笑う。
「それが強姦だったのか和姦だったのかは分からないけれど、結局王女はアイの子供を身籠ってしまった。それが、私」
周りは静かだ。静かで気味が悪く、何でもいいから音が鳴ってほしいと願うくらいに。
嘲るように自分がミタンニの血族だと発した彼女は、向こうの揺れる炎の色に染まっている。
「まさか大事な娘が身籠って帰ってくるなんて思いもしなかったミタンニ国王は激怒した。王女は別の国の王に嫁ぐことが決まっていたから、戦争までやると言い出したわ」
堕胎の技術がこの古代に発達していないのを考えれば、産むしかない。ここで両国は最悪な関係になった。アイはこれも計算の内だったのだろうか。エジプトという国を戦争に巻き込んでまで、王位を欲したのだろうか。
「王女は隠れて私を産んだ。そしてエジプトに引き渡し、妊娠出産の事実を隠して予定通り他国の王の妻となった。彼女は私がまだ幼い頃に亡くなったと聞いたけれど」
「戦争はどうなった」
戦争となれば笑ってなどいられない。子供を産ませられた王女も、以前のようにエジプトとの友好を謳うことは無かっただろう。
「まだ若き日のアメンホテプ4世……つまり、まだ王子だったアクエンアテン殿下は戦争を勃発させても良いことは無い、戦争を起こせば秘密を持ったまま嫁いで行った王女の環境にも影響が出ると、戦争を回避する書簡を出した。勿論、代償をつけてね」
「代償?」
「アイが王女に産ませたミタンニ王家の血を継ぐ子供に、妃の座を与えること。自分の血が蔑ろにされるほど、ミタンニ王にとって許せないことは無かったから」
血を重んじるという代償を払っての和解策。最早アイの目的が達成されたも同然だ。王は子供を身籠らせたアイを罰したくとも、それをすることは叶わない。すでに神に仕える者として多大なる力を得ていた男に王でさえ口出し出来なかったのだ。今のツタンカーメンの状況と同じ。野放しにしておくしかなかった。
「アイがその王女を愛していたのかは分からない。けれど、まだ赤ん坊なのにも関わらず王妃の座を約束された私に、アイはその母の呼び名を付けた」
ここで、彼女の名の意味を知る。
「ネフェルティティ──美しき者来たり」
これが私の名前の由来だと、彼女は抑揚のない声を闇に放った。
「あらゆるものがアイの思い通りに運んだ。そして私に正妃として相応しくあるよう、何から何まですべてを押し付けた。たくさんの家庭教師を付けられて、自由なんてものは言葉さえないくらいに。……そんな私を憐れみ、唯一の慰めをくれたのが、殿下の母君ティイ様だった。あの方も私が4つの頃に亡くなってしまったわ」
相手は終結に向けて話を繋ぐ。
「年端もいかない間に私はアメンホテプ3世殿下の妃の座についた。そして成長した私は9つの時にミタンニの血を継ぐ理由から正式に王家に入ったわ。アクエンアテン殿下、今のファラオの実父、先々代正妃となった」
「それで同時に、アイも王家か」
「その通り」
彼女の浅い相槌で長い話は終わった。言葉が飛び交わない時間が続く。アイはエジプト王家どころか外国王家にまでをも巻き込み、ミタンニ王女に隠れて産ませた娘ネフェルティティを妃の座につかせることで、王家入りを果たしたのだ。同じような例で日本では藤原家があるが、それより
「アイは、あなたに子供が出来てもいいから私に取り入れと言ったそうね」
急に彼女は言った。この女は朝の会話は侍女からすべて把握していることは知っていたから、それほど驚かなかった。
「……まあ」
内容理解に頭を働かせたせいか、少しぼうっとしたままの頭を縦に振る。
子供か。自分のことでいっぱいで、アイに言われるまで子供のことなど考えていなかったのも事実だった。こんな時代で、どれだけ気を付けようと自分と寝ている彼女に妊娠の可能性は無いとは決して言うことは出来ない。
ふと、思う。突然降り掛けられた彼女の問いはあることを示唆しているのではと。そう察して、ぎょっと彼女を見返した。
「……まさか」
血の気が引いていく気分だった。子供でもできたのか。妊娠などしていたら間違いなく父親は自分だ。引き潮と思える音がどこからともなく聞こえてきた。
「嫌ね、そんな青い顔しないで」
焦燥を浮かべる俺を視界の端に、彼女はふっと笑った。馬鹿ねと囁く含み笑い声が部屋に微かにこだまする。
「安心なさい。何度寝たって私に子供は出来ないから」
彼女は俺から視線を反らし、顔を傾けて肩に流れた長い髪を自分の手で梳いた。声帯まで蝕んでいた緊張がほどけて、大きく息を吐く。
「子供が出来ないって……」
一瞬にしてにじみ出た汗を抑えようと額に片手を添えた。凄まじい緊張の重圧に襲われたからか、彼女の発した言葉の意味がよく掴むことが出来ないでいる。
「そういう身体ってことよ」
不妊症か。
「一度出産に失敗してそれ以来子供が出来ないの、何をしても。だから、アクエンアテン殿下は私から離れていったわ」
過去にナクトミンから聞いたことがあった。ティティは十代でアクエンアテンの子供を妊娠したものの、名前をメリトアテンと付けてまもなく失ったのだと。その後に子供を身籠ることは無く、それを悩んだアクエンアテンが自分の娘アンケセナーメンを正妃として迎えたために、夫の足が遠のき、正妃の座を追われ天涯孤独になった悲しい人だと、そう言っていた。
「私だって端くれと言ってもれっきとした王家よ。そこらの男と子供を作って王家の血をまき散らすほど馬鹿じゃない。こんな身体じゃなかったらあなたとなんて寝るわけがない」
王家らしく胸を張り、彼女は言葉を放つ。
「アイは知らないのか。子供が出来ないって」
娘は妊娠出来ない、それを知りながらアイが俺に子供が出来ようが構わないと言ったとは思えなかった。
「ええ、知らないわ。今まで私のことなんて知ろうともしなかった。私はあの人の駒でしかない。自分を王家にするためのね」
あの老いぼれは、自分の身分にばかり意識が言って娘のことなど一つも気に掛けていないのだ。血を分けた娘でさえ、利用するだけして終わり。生まれた時に自分を捨てた母に、自分を見ようともしてくれなかった父親とも呼べぬ父。彼女の人生はアクエンアテンの妻になった時以外、孤独だったと言ってもいいのかもしれない。
彼女が夜な夜な別の男を連れ込んでいた理由を知った気がした。悲しいからこそなのだ。だから人肌求めて男に手を出していた。誰かにその愛しい人間の面影を求めて縋る。憂愁を深めるその姿に、掴みどころが無かった彼女の何かを垣間見る。
「アクエンアテンを、恨んだことは無いのか」
自分を捨てて他の女の所へ行った男を。
夫に捨てられたという彼女に自分が重なる。結婚をしていたわけでもないが、弘子も俺を置いてあの男を選んであの男のもとへ行った。置いてきぼりを食らった事実は一緒だ。
それでも、俺が弘子を憎めないように、彼女も質問に首を横に振って見せた。顔に刻まれる笑みは痛々しい。
「無いわ。一度も無い。むしろ、年が親子ほど離れていようと捨てられようと殿下が他の人を愛そうと、私は愛していたわ。だからこそ辛かった。悲しかった」
そうだ。弘子を失った自分の悲しさはいつも裏返し。あちらに届くことは無く、自分の上に降り積もっていく。何をしていても会いたくなる。会いたくなるのに、会えない。この声は届かない。愛はもう届かない。
自分の止まっていた感情が動き出すと同時に、彼女が話は終わりだと寝台から立ち上がろうと腰を浮かした。
「こんなことまで話して馬鹿みたい。もう寝ましょ。疲れたわ」
「……ひとつ、聞きたい」
動きを止めた相手の眉が訝しげに動く。
「俺を助けた理由を、教えてほしい」
ずっと、聞けないでいたこと。
この際だから胸にあるわだかまりを聞き出してしまいたかった。命を絶てと剣を手渡しながら、その手を伸ばしてくれた訳を。
俺の心情を汲み取ったのか、彼女は再び腰を戻し、俺を向かい合う体勢で座り、伏せがちの目が動いてこちらを向く。
「私は、子供を失った。だから子供を殺された王妃の気持ちが身に沁みるほど分かったし、子供を殺したあなたのことは理解できないし、今も許せない」
そうだろう。彼女は子供を殺した俺に後悔はしないのかと説いた。この点は俺と彼女の間で何をしても共感できない部分だ。
「でも、だからと言って暴言を吐き連ねながら突き放せるほど、あなたを憎むことも出来なかった」
思わず反らしてしまった視線を上げる。闇に視線がぶつかる。
「愛する人を別の人間に取られて失ったあなたの孤独は、痛いほど分かっていたから」
この気持ちを分かってくれるのは、同じ経験をした人間だけ。分かってくれる存在は、ほんの一握りの人間。
「孤独になって遣る瀬無くて、でもどうしようもなくて、恨みも憎しみも行く宛を失くして……自分が可哀そうで仕方なくなる」
彼女の手が、寝台の上にあった俺の手へと、ゆっくりと進む。進んで、ついには包むように温かみが手の甲に乗った。
「寂しくて寂しくて、人の愛がどんな形でもいいから欲しくなって泣き叫ぶ……涙を流したあなたに自分を重ねて、自分でも信じられないくらい同情したわ」
だから受け入れたのだ。手を伸ばして、自分の中に身を隠せと言ってくれた。こんな塵屑のような俺に。
「あなたが私に手を伸ばした時、一緒だと思った。私とあなたは、同じだと」
彼女の指が俺の指に絡む。それをじっと、見下ろす。握り返す。苦みを感じながら口が自ずと緩んでいくのに気付いた。
「……幸せじゃないな」
すべてを聞いて出た言葉が、これだった。
「幸せ、ではないわね」
届いたか分からない声だったのに、彼女も同じような声で返した。俺に抱かれることで彼女は幸せを得ていたのかと思えば違った。俺たちは、抱き合って触れ合って、ただ満ちているだけ。愛もない欲情に浸って満足しているだけ。ただの傷の舐め合いでしかない。
幸せはもっと暖かいものだろう。今の俺たちには、ほど遠いくらいに。そして、とても悲しいくらいに。
「母も無く、父親にも愛されないで育った私を、一時的でもあれだけ愛してくれたあの方こそが私の幸せだった。あの方にとって私が掛け替えのない存在でなくても、私にとって一番掛け替えのない人は、あの方だった」
消え入るような声で、彼女は言葉を並べた。
弘子の傍にいた時が、幸せだった。弘子の傍にいられれば良かった。お前でなければ、満たせない。自分でなければ、許せなかった。その瞳に、俺だけを映していてほしかった。
大げさに言ってしまえば、自分を支配するのはそんな自己中心的な感情ばかり。それでもこれがすべてだ。
「あなたでも私を幸せにすることは出来ない。あの方を失った私は、これから先も幸せに満ち足りることは無い」
ああ、と頷く。同じだ。
頷いた先の彼女の顔は潤んだ目元で笑んでいた。少しばかり赤みを帯びた目尻に、俺も笑っていた。互いに見せたことの無い、緩やかな慈しみに似た表情。諦めと言うか、舐め合いから出る同情と言うか、どんな言葉でも言い表せない笑み。苦笑が、一番合っているだろうか。
「俺たちは同じことを思ってる」
「初めて、同じ臭いの人に会ったわ」
ティティは俺の肩口に寄り掛かって小さく苦笑らしきものを漏らした。俺たちを繋いでいるのは愛やら恋ではなく、仲間意識に似た奇妙な感情なのかもしれない。類は友を呼ぶというが、まさしくこれだろう。
会話が途切れた空間で、自分の呼吸だけが大きく響いている感覚があった。
夜は、秒針が進む速さで暗がりを増している気がするくらい、深まっていく。古代の夜はどこまで暗くなっていくのかと、少しだけ怖くなった。
そんなことを考えながらしばらく奥の炎を見つめているうちに、肩にあった重みが次第に増していくのを感じた。隣を見たら、彼女の頭がうつらうつらと揺れている。寝息に合わせて葡萄酒の香りの濃度が増し、俺の鼻孔を突く。
酒の飲みすぎだろう。ただでさえ古代酒はアルコールが強いのに、よくもまあこれだけ飲んだものだと呆れながらも、こうならなければ話せないことだったのかとも思った。
彼女から視線を外し、俺は自分の足先を見下ろす。確かに俺とこの人は似ている。だが、異なるものもまた存在する。
相手が別の人間を愛したことに対して抱いた想い。許しと怒り。同じ経験をしてもその時に抱いた感情は正反対。
そして決定的な違いは、俺の想う相手は、今もまだ俺と同じ時を生きているということだ。
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