朝食の後に

 朝が来て、ラーと呼ばれる太陽は部屋に光を広げていく。曇りと言う日も少なく、雨もほぼ降らないこの地の空は毎日が変わらない。吹き込んでくる涼しげな朝の風に髪がなびくのを感じながら、俺はオレンジに似た果物をひとつ頬張った。


 赤ワイン色の二つのソファーに挟まれた床には、パンを主とした盛りだくさんの朝食が並べられている。足元に置かれた杯の水模様を、差し込む朝陽が撫でるように照らし出す。食事を摂る俺の隣には小さなワイン樽を抱えて控える侍女、周りには丸坊主の神官が数人壁に沿うようにして立っていた。


「ファラオは反アメン派に手を焼いていらっしゃるようだな」


 俺の向かい側で食事をするアイが、パピルスに目を通しながら何やら太い眉を吊り上げている。


「この私を後見人から下ろし、改革など行ったからこうなったのだ」


 アメンからアテンへ宗教改革を行った今、少数ではあるがアテンを崇拝する者が反乱を小さいながらに起こしているという。それに加え、下エジプト・メンネフェルあたりでも海賊の侵入が後を絶たないらしく、ホルエムヘブはラムセスを連れて毎回下エジプトへ行くことが多い。


「なかなか難しい問題ですね」


 伸ばしかけていた手を胡坐をかいた膝に戻して、向かいの男を一瞥した。


「私が宰相の位置にあればこのようなことにはならなかった」


 国内反乱と国外反乱。どちらも小さいものであることに変わりないが、同時に勃発しているのなら王家の脅威になっているのは間違いない事実だろう。それらを含めて考えるとこの国は案外不安定であることが窺えた。もし何か大きな事態があれば、一瞬にして崩れるくらいの脆さ。それを気づかれないよう隠し通せているあの王は、やり手ではあるのだ。


「私の手も借りず、あの若造だけで何が出来るというのか。何も知らぬくせに」


 薄ら笑いを浮かべたアイは隣にいた神官にパピルスを放り投げた。投げつけられた相手が自分の身体に当たって落ちたそれを、さも神聖なものを扱うように頭を下げて両手で受け取る。普通なら文句の一つや二つありそうなものなのに、穏やかな表情のまま静かに後ろへと下がっていく。媚を売っているとか、怖くて何も言えないとか、そういうものではない。この神官にとってはアイそのものが神として映り、すべての敬意の対象にある上での行動なのだ。こういった光景を目にするたび、最高神官の権威というものを実感させられる。毎回のことではあるが見ていていい気分はしなかった。


「アテン派の者は、私を後継者に推していると言う」


 ごくりと喉仏を動かして水を呑み干した相手は、薄ら笑いを浮かべた。空になった杯を床に置き、背もたれに寄り掛かって、腫れぼったい瞼に挟まれた眼で俺の顔を覗く。


「そうですね」


 視線を感じながら浅く頷いた。現在圧倒的に信者の多いアメン派ならば王を支持し、その王に消し去られたアテン派ならばアテン信仰において最高権力を手にしていたこの男を支持する。アイは彼らの支持を集め、失われた自分の地位を取り戻そうとしているのだ。賢い王の最大の悩みと言えるのは義祖父、この他にいないのは歴然だろう。執着心が強く、粘り強い。敵にするには一番厄介な性格だ。


「ヨシキ、お前が今頃表立ってその腕を動かすことが出来ていたならと思うと、こうして匿わなければならぬ存在になってしまったことが惜しくてならぬ」


 向かいの俺を見て、老人は深いため息を落とした。


「神の業とも呼べるお前の医術があったならば、私の名声はもっと上がっていただろうに。この私に大きく貢献できていたのだぞ、それほど嬉しいことはあるまい」


 自分の役に立てることが喜びであり、役に立てないのは哀れなこと。ここの連中にはそういう思想が普通のようだ。そもそもこの男が俺を娘であるネフェルティティの情夫として認めたことも、この宮殿に置くことを決めたのも21世紀の医術と知識があったがため。

 俺が王宮直属の医療施設で伝染病の治療やここで確立されていない手術をアイの名の下で行うことによって、少しずつではあるがアイを支持する貴族と民を集めてきた。だが、追われている身ではそれも無理な話。そもそも胎児をこの手に掛けてから医療に携わろうという意欲が全くと言っていいほど湧かない。

 居場所があるのならそれでいい。医療が出来ようが出来まいがどうでもよかった。


「まったく、一体誰がお前の功績を露見させたのか」


 アイは弘子の流産を功績と呼ぶ。露見させたのは言うまでもなくメアリーであるのは分かっていたが、この口からアイに言ってはいなかった。殺されたら困るやら、可哀想だとかの感情は感じていない。彼女が暗殺されようが、苦しめられようが知ったことではなかった。軽々しく懺悔して終えた彼女を疎ましく思うことはあろうとも、今更殺して口を封じたとて過去のことでしかないのだ。牢に入って使い道のない女官に突っかかって何になると言うのか。


「お役に立てず、申し訳ありません」


 尤もな口調で小さく頭を下げて言うと、アイはまるで謝る息子を諭すように微笑んだ。


「お前は私の傍にいれば良い。そして力を使えるようになった時に我が力となれ。それだけの価値があるからこそ私もこうやって危険も顧みず匿っているのだ」


 出世払いということか。この老人は自分の時代が再来すると確信しているのだろう。これからどうなっていくのかも分からないと言うのに、よくもまあそこまで言い切られるものだと密かに呆れた。


「まあ、ここに居る者たちは全面的に私を支持する者だ。この西の宮殿にいれば問題は無い。ただカーメスとラムセスには決して見つかってはならぬ。あれはファラオの忠実な犬だからな」


 ええ、と老父の顔を見ることなくナンに似たパンにタレをつけて口に入れながら頷いた。塩が効いたヨーグルトのような風味が口全体に広がって喉の奥に落ちて行く。


 カーメスとラムセス──東の宮殿で仕える、癖毛でいつもにこやかな長身の男と、燃えるような赤毛と緑眼を持つ男。この二人が中心となって俺の行方を草の根を掻き分けるようにして探していると言う話は前々から聞いている。見つかれば直ちに殺されるだろうということは目に見えていた。


「アイ様、そろそろお時間かと」


 奥に立っていた少し身分の高そうな神官がアイの傍に跪いて告げた。


「とにかくティティは先々代の未亡人。あれは私より表向きの権力があるからな。情夫として傍にいれば問題は無かろう。子を成そうが構わぬ、取り入れ」


 馬鹿馬鹿しくて口が歪みそうになった。俺が取り入れるほど彼女は簡単な女ではない。今では放したくないと心から想うまでに、俺が彼女から離れられなくなっているのだ。

 どんなに見栄で覆おうとも、自分が正しいと思い込もうとも、どれだけ目を瞑って自分を嘘偽りに飾っても、人の温かさには何も敵わない。温もりを目の前にした途端すべてが剥がれ落ちて丸裸になる。それを思い知り、俺は彼女に自らこの手を伸ばして縋り、彼女もそんな俺をすべて知った上で受け入れた。今こうして自分を保っていられるのは彼女がいるからだ。あの美女が俺をどう思っているかなど知らなかった。まず聞いたことがなかった。彼女の真意を聞くのが、自分は怖いのかも知れない。


「どうだ、ヨシキ」


 椅子から腰を上げたアイは、神官たちに身支度を整えさせながら鈍い光をこちらに向ける。


「神殿に来てみるか?東の者が来ることは無い。気分晴らしにはなるだろう」


 金の杖を握り直した老人は誘った。王族が通い詰める東の神殿ではなく、西の神殿。アイを筆頭にした神官集団の聖域であり、そこで元アメン派の神官たちが毎日のように神に祈りを捧げている。言うなれば、アイのためにあると言っても過言ではない場所だ。


「いえ、遠慮させていただきます」


 目を合わせず、断った。


「ナクトミンに弓を習う予定になっておりますので」


 キリスト教やイスラム教の原型になったとも言われるエジプト信仰ではあるが、神に本気になって祈ったことがない俺にとっては行っても時間を持て余すだけだった。そもそも追われている身なのだ、無闇に足を運ばないのが賢明だろう。


「そうか、ナクトミンと仲良くしているのか。結構、結構。ならば気が向いた時にでも顔を出すが良い」


 何だか嬉しそうに笑い、神官を連れてアイは俺の前から去って行く。その後ろ姿を見送り、自分と侍女だけになった部屋で一息落としてまた背もたれに寄り掛かった。背もたれの上に後頭部を乗せ、天井を意味も無く仰ぎ見る。


 ナクトミン。あんな掴みどころか無い奴と誰が仲良く出来るというのか。唯一東と西を行き来できる、アイに気に入られた猫目の隊長。十代のような幼さの残る表情で、案外冷酷なことや意味深なことを口走る。

 そんないけ好かない男と何故洋弓などやるかと言えば、ネフェルティティがナクトミンに弓と槍と剣術を教えるようにと命じたのが始まりだった。万が一見つかった時、自分の力で振り切れるようにと。今日も会うと思うとしんどさが募った。


「ヨシキ様、お水のおかわりはいかがでしょうか」

「いや」


 身体を起こし、立ち上がる。


「下げてもらって構わない」

「畏まりました」


 ふと、名前の後ろに「様」を付けられる呼称に慣れている自分に気づいた。男妾など、以前の自分なら死んでも嫌なものだったはずなのに、今では普段のものになりつつある。

 まったく、変な話すぎて自分を貶したくなる。自分はこんな人間だったのか。自分の存在が卑しく思えるのは今の自分に失望しているからだろうか。


「……ティティは?」


 振り返りざまに今朝から姿が見えない彼女のことを、傍の侍女に尋ねた。

 父親を毛嫌いしている彼女が朝食を共にしないのはいつものことだが、今日は化粧をさせているわけでも入浴しているわけでもなく、どこにもいないらしいというのに今になって気付いた。


「ネフェルティティ様なら、陽の出ている間はお出かけになられると仰せでした。今日は東方より多くの商人が我が国に参上しているらしく、その者たちの売り物をご覧になられるそうで」


 東と言うと、現代のイランあたりからの商人か。この時代でどのような文明が栄えていたかは知らないが、エジプトとはまた違った風潮のものが流行しているのだろう。

 彼女は新しい物好きだ。兵に輿を運ばせながら悠々と商人の間を進む姿が目に浮かぶ。


「夕暮れ頃にはお帰りになられるかと」

「分かった。ありがとう」


 踵を返し、奥の部屋へと向かった。寝台を越え、机を越え、ずっと放置したままのドクターバッグを視界の端に、サンダルの音だけを聞いて進む。彼女の香油の香りが進むほどに濃くなっていく。ほぼ一緒に過ごす部屋は、彼女が不在でも未だにその香りを残していた。


 部屋の中へ流れ込んでくる風の源を探すように足を動かしていると、外に開けるところまで出てきた。出た瞬間、ぐわっと風が下から上へと吹き荒れ、俺の髪を撫で上げて乱す。突風に思わず閉じた瞼を開くと同時に、どこから来たのかハスの香りが横を過ぎていく。


 広い宮殿だ。王家の強大さを肌で感じる。随分高めに位置するこの場所からは、アイの言っていた西神殿や、足も踏み入れたことが無い建物や、初めて存在を知る像の背中が見えた。命の無い、感情を持たないものだけが俺を取り囲み、ひっそりとした空間を浮き立たせる。今いるこの場所が奥まった所とういうのもあって、人の気配がひとつも感じられないのが寂しさを増していた。自分が追われる身だと思えば正しい光景か。


 目を閉じ視界を黒に投じると、静寂に潜むかすかな音たちが聴覚を支配する。

 遠くの砂。ナイルの細波。蠢く風。遠くで花を摘む女官たちのか細い歌声。

 雲の無い裸の空が俺を見下ろし、傍を吹き抜ける風は何も答えをくれることは無く、言葉が枯れ果てた世界に俺を取り残す。この先に何か希望を見つけられる予感もない。


 息を殺すように存在を消して過ごし、まだ生きているのかと自分を嗤いながら残酷に続いていくこの時間の中、いつもふと考える。

 もしこの時代でネフェルティティの情夫として死んだのなら俺はミイラにされるだろう。臓器を抜き取られ、炭酸ナトリウム漬けになり、情夫の肩書と共に棺桶に入れられ、墓に埋められて。それでもし、墓泥棒の目を逃れ、数千年後の未来に発見されたなら、人々はその時ミイラの俺に何を見るだろうか。

 感情があったと思うだろうか。愛のために動かしたこの想いを知ろうとする者が現れるだろうか。生きた日々を想い、涙を流してくれる者がいるだろうか。

 ないな、と独りで結論を吐き出した。

 発見した奴らや博物館を回る観光客の目を思い出せば分かる。ほとんどが気味の悪い死体、もしくは歴史的資料。何故断言できると聞かれたら答えは簡単、自分がそうだったからだ。

 古代人が感情を持ち、誰を愛して、誰を憎んで、誰のために涙を流したかなんて、ひとつも考えたことがなかった。ガラスケースに閉じ込められるそれが痛々しく、想いを馳せるなんて行動など思いつかなかったのかもしれない。


 歴史的にもエジプトのミイラは、その貴重さが定着していなかった19世紀のヨーロッパで解体ショーが行われるほどまで価値が落ちる。シャンパンを片手に持つ貴族たちの真ん前で包帯を剥ぎ取られ、手足を切り取られ、拍手喝采を浴びた後は無残にゴミ箱行き。他には病に効く良薬とか言う迷信のために磨り潰し粉にされ、世界中、日本の大名家にまで売り飛ばされ飲まれたという記録が残っている。

 どれほど神聖なものと謳おうが、見世物や薬の認識になる時代がこの数千年後にやってくる。


 悲しいものだ。でもこれでいいのではないかと思う自分もいる。

 死ねば終わり。悲しみも苦しみも切なさも、自分が死ねば消えていく。ミイラにされて暴かれて解体されようがそれが歴史だと、ふと湧いた疑問はこんなところへ呆気なく終着する。

 このままこうして生きていくなら、ミイラになる覚悟も必要だろう。そう思ったら、自然とどこにも遣れない憂いと自嘲気味な笑みが俺の口角を上げさせた。


「何、黄昏れてるのさ」


 風とは逆方向から声が掛けられた。少し高めの、人をからかうような声色。


「ねえ、お尋ね者さん」


 振り向くと、にっこりと目を線にした男が立っていた。気配というものを感じさせない、例のいけ好かない野郎。

 自ずと自分の眉が寄って行くのを感じた。


「いつからいた」

「今来たんだよ」


 俺より背の低いナクトミンは口元に滑らかな弧を描く。


「時間になっても来ないんだもんさ」


 もう少し独りでいたかったと思いながらそれを口にせず、俺はもとの所に目線を戻した。

 意味は無い。ナクトミンの探るような目から逃れたかったのかもしれない。

 黙っていると相手は俺の隣へと歩み、同じ方向へと視線を投げた。大げさに腰を曲げ、「へえ」と声を漏らして、くるりとこちらに向き直る。


「突き落としてあげようか」


 静かに笑みを浮かべ、そいつは言った。

 別に驚きはしない。この男はこういう人間なのだ。


「自分の生きてる意味、分からないんでしょ?ま、死ぬっていう結論に辿り着くのもありだよね」

「遠慮する」


 今はまだミイラになる覚悟は備わっていない。視線を反らして放った短い答えに、ナクトミンは子供の用に屈託のない顔で「そうでなくちゃ」と肩を揺らした。


「ヨシキのそういうところ、好きだよ。裏切っても酷いことをしても自分を保って、こうして反省もせずに這うように生きてる。ホント、面白いよ。笑っちゃうくらい」


 何も言葉を返すことなく俺は風景を眺め続ける。返答の必要性が感じられなかった。この男に変なことを口走って深層心理を追及されるのは御免だ。こいつに弱みなど握られた終わりな気がしていた。

 俺も喋らないし、相手も喋らない。時間だけが過ぎていく。この意味の分からない沈黙がいつまで続くのか思いきや。


「……ねえ、ヨシキ」


 すっと、隣の男が顔を上げた。


「王妃様、ようやく持ち直し始めたよ」


 突然の王妃の名に、息を呑んだ。

 体中の血液が逆流するような感覚に襲われながら、足元に腰を下ろすナクトミンを見下ろすと、相手は目を細めて再び口を開く。


「知りたかったんでしょ?前は相当塞ぎこんで大変だったみたいだけど、最近は笑うようになったし、外に顔を出すようにもなった。まだまだだけど前に進み始めてる」


 ずっと耳にしてなかった弘子の近状だった。


 弘子が、笑うようになった。俺に憎しみを向け、泣き伏していたという彼女が。

 明らかに動揺する俺に、ナクトミンは満足そうに息をついて体重を感じさせない身のこなしで立ち上がった。


「次のご懐妊も時間の問題だろうね」


 その言葉で彼女の笑みの隣にあの男がいるのだと、すぐに知った。

 俺が彼女に付けた傷を、あの男が癒しているのだ。何よりも憎い、あの男が。嫉妬が混じった寂しさが俺の耳元で潮騒のような音になり、弾け散る。


「そんな怖い顔しないでよ。これはあくまで可能性。一度御子を流したことで王妃には懐妊への恐怖があるだろうから難しいかもしれないし」


 サンダルを颯爽と鳴らしながら俺の横を過ぎ、猫目の隊長は音もなく振り返る。


「行こうか。頼んでた弓の用意も出来た頃だろうから」


 意味ありげな眼差しだった。


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