後悔など

* * * * *


 寝台に寝転ぶわけでなく、椅子に腰を埋めるわけでもなく、扉の前の綺麗とは言えない床に脚を伸ばして力なく座り込み、じっと宙を見つめていた。


 メアリーが薬剤を入れると言ったのは今日の朝だ。終わればすぐに来ると思っていた彼女は、俺のもとに姿を現さないままだ。アイから危険視されているせいで、彼女がいないとこちらには一切情報が入ってこない。

 失敗したのか、成功したのか。弘子の身は無事なのか。腹の子供はどうしたのか。気にかかることが多く、眠気を感じる暇がなかった。

 一度瞼を閉じればメアリーに手渡したアラバスタの入れ物が青白く浮かんでくる。無臭であり、溶けてしまえば分からない現代の薬剤。毒の匂いに敏感だというあの男があれを見破ることが出来るかどうかがこの賭けの要だ。


 ただ気がかりなのは、薬に侵された弘子の身体のことだった。あの量の薬は普通の出産以上の痛みを伴う。女性が味わう出産の痛みは、男性という人類の半分の種族が味わうとしたらそのほとんどが死に至るというほどのもので、それ以上の負担が弘子の身体にかかる。

 メアリーが間違いなく薬を投与したのなら、胎児がどうであろうと弘子の身体への打撃は相当のものだろう。痛みと言う感覚現象は生物における危険信号であり、ある閾値、つまり限界を越えれば最悪ショック死だ。限界を超えない程度の計算でメアリーに渡したはずだが、何も知らせがないとなると居ても立ってもいられなくなる。とにかく弘子が無事なのかどうなのかを知りたかった。


 夜になった今、扉一枚を隔てた向こうの兵士たちの話し声が聞こえてくる。数時間前から兵士の会話から情報を取れないかとこうやって扉の前にいるのだが、いくつかの足音と、交代する掛け声、槍を床に突く音だけしか聞こえない。これほど情報がないのはここが西の宮殿であるが故か。それともメアリーが思い直して、実行しなかったのか。このどちらかが思い浮かんだ。

 どれだけ弘子を恨んでいようと、彼女も人の子だ。毒だと分かっているものを混入することに、躊躇ってしまったのかもしれない。今も弘子は腹を抱いて、あの男の隣にいて、変わらず古代の王妃アンケセナーメンとして座っている。それならばそれでと、あの薬が何の役にも立たずに捨てられたかもしれないという可能性に、無意識に胸のつかえが下りた気がした。


 ふと、気づく。自分の目的から大きく外れるのに、そうであってほしいと願っている自分がどこかしらにいることに。

 何を今更。良心の呵責かと、前髪を掻き上げて自分を嗤ってやった。でもその嗤いは寂しい響きを残して闇の黒へと消え去ってしまう。


 俺は馬鹿か。あれほど悩みに悩んで、決意して、メアリーを呼び、その憎しみとこちらに向けてくれる恋慕の情に付け込み、これは道理の下だと言い聞かせて自分が起こしたことだと言うのに、何だこの様は。

 ──畜生。

 声に出さずにそう呟いて近くにあった椅子の足を思いっきり蹴ってやった。ガタンと一瞬だけバランスを崩したそれは揺れて、立ち位置を数センチ変えただけで倒れることはない。所詮俺の力などこの程度なのだ。俺の起こした影響とは、この小さな空間においてもあまりにも小さい。この古代という広すぎる時空の中で、己が動かせるものなどどれだけあるだろうか。現代の薬があるからと言って、思った通りに物事が進むという保証はどこにもないのだ。どんなに大きなことをほざいても、結局は何も出来ない一人の人間。ここにおける自分の存在を思い、虚しくなった。


 俺の居場所はどこだろう。俺は今どこにいるのだろう。分からずにいる俺は、まさに迷子だ。

 伸ばしていた片脚を引き寄せ、抱くようにしてその膝頭に額をつけた。髪と膝の皮膚が擦れ合う音を聞きながら、拳を床に落とす。その行動が何からくるものなのか、自分でも分からなかった。

 失敗、しただろう。時間が経つにつれ、こんな亡霊のように彷徨う俺の企みが成功したとは思えなくなっていた。


「おい!」


 いきなり背後から大きな声が飛んできた。


「聞いたか!」


 俺を見張る二人の兵の他に誰か一人がやってきたのだろう、三つの声が聞こえる。扉の向こうから、随分と興奮しているような兵士と思われる男の声が響いてきた。これまでにないくらい落ち着きを欠いている。


「何だよ、いきなり。交代の時間じゃないだろ」

「東の奴から聞いたんだけどさ!」


 東の宮殿の兵士からの情報ということか。身体を動かし、木製の扉を見つめる。


「驚くなよ?」


 はあはあ、と切れた息を整える兵士の次の言葉を、耳を澄ませて待つ。数秒の間に胸の心拍数が一気に跳ね上がった。


「王妃が」


 弘子が。


「御子を流してしまわれたそうだ」


 聞いた途端、喜びでも悲しみでもなく、俺の中で何かが落ちていったような感覚に襲われた。

 時間が止まる。ぴたりと、自分の中の秒針が凍結したかのように。


「流れたってことは、御子は?」


 子供が流れた、つまりは流産。


「お亡くなりになったそうだ。東じゃあ、もうこの話題で持ちきりだぞ」


 弘子が、流産した。

 全身が硬直する。脳内に、葡萄園での弘子の姿が美しいくらい生々しく思い浮かんだ。


「何でまた……そんな兆しなんてなかったんだろ?順調だって聞いた」

「さあなあ。朝食の場で何か起きたってのは聞いたんだが、俺もよく知らねえ」


 朝食。ならばメアリーは計画を実行したのか。


「朝食となると、毒か?それじゃあ、王妃の御身も」

「それが無事なんだってよ。驚きだよな」


 間違いない。俺の薬を、弘子は飲んだ。あの薬がこの事態を引き起こしたのだ。

 扉に添えていた手が、いきなり小刻みに震え始め、咄嗟に反対の手でその腕を抑え込んだ。


「毒じゃ、王妃も御子もどちらもやられるってのが普通だろう。先々代の御世もそうだった……なのに王妃が無事ってことは」

「毒じゃないってことか」


 ここまで聞いて、止めてしまっていた肺を大きく動かし、息を吐き出した。生ぬるい自分の吐息が右手の甲に掛かる。


「王妃のお身体が悪かったってことになるだろうな」


 やはり未来で生まれた薬物。この原始的な世界において、あの毒は名前すら存在し得ないものであり、その可能性はすぐさま捨て去られる。毒ではないとされるのなら、犯人の存在も自動的に消滅する。すべての責任は母体へと転嫁するのだ。


「気の毒になあ」

「王妃は取り乱して大変だったらしい。今はどうにか落ち着いてるっては聞いたが……立ち直れるかどうかって侍女たちが心配してるのを聞いた」

「子供を失くしたんだ、仕方ないだろ。結構腹も大きかっただろう」

「まあ、珍しい話でもないが、王子誕生の話もあっただけに落胆は大きいだろう」


 計算では妊娠5カ月。胎児はそれなりに人間の形になり、多くの臓器、器官が形作られる時期だった。

 弘子の中に宿っていたのは。俺が憎んだのは、そんな人間になり切れていない子供。命だった。それを思ったら、また身震いが増した。

 自分を抱き、腕を擦る。そして何度も言い聞かせる。これは弘子を歴史から守るためなのだと。自分が正義なのだと。決して、嫉妬だけの醜いものではないのだと。


「とすると、また後継はアイ様の可能性が高いわけか」

「お世継ぎがいらっしゃらないのなら、まあそうなる」

「あの方に付くホルエムヘブ将軍あたりについていた方が無難だな、今は」


 兵士たちにとっては弘子などよりも王権の行方の方に気が行くらしい。彼らにとって大事なのはこの国の頂点、ただ一つだ。


「まあ、一応知らせておこうと思ってさ。じゃあ、これで」

「交代の時間、忘れるなよ!」

「おう!」


 会話が遠くなる。一人が去っていく足音を聞き届けるや否や、扉に寄り掛かっていた俺の身体はずるずると滑り落ちた。魂がどこかへ抜けたような感覚。口から漏れ出た息は、歪みながら俺の乾いた唇を濡らしていく。

 消えた。なくなった。弘子とこの時代を繋ぎ止めるものが、無くなった。石化したような両手を開き、それで顔を覆う。未来の薬品を、あの男は見破れなかった。所詮、あの男もただの古代人。神の化身と言われながらも、何の力も持たない、自分が愛した女を守ることも出来ない男なのだ。


「……ああ」


 雪崩れ込むように、俺はその場に仰向けに寝転がった。黒い天井が広がる。汗が額に滲む。取り巻く感覚すべてがいつもと違って感じた。


「……終わった」


 望んだことが、そうであればよいと願い、行ったことが実を結んだ。弘子はあの男の子供を産めずに終わったのだ。それなのに感情というものを一切感じなかった。嬉しいだとか、安堵だとか、これで弘子を取り戻せるという希望とか。言葉にならない嫌な静けさだけが残る。この企てを思いついたその時から、成功したことに飛び上るほどの喜びを想像したかと聞かれれば、そうではない。心のどこかで分かっていた。穏やかさなどはきっと、感じることはないのだと。


 投げ出した腕に力を籠め、ゆっくりと上半身を起こす。暗闇だけを映していた眼を部屋の向こうのくり抜かれた窓へ動かしたら月が見えた。煌々と、そして静かに、俺を見下ろしている。まるでこちらに何かを問いかける様だった。


 後悔はしない。

 いや。後悔など、してはいけないのだ。

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