14章 望むもの

眩しき放免

 白い光が長細い窓からこちらを淡く照らし出す。寝台から床に下した足の影が長く伸びていく。夜という時間が終わったらしいことを漠然と知った。

 すべてを聞いた昨夜、寝台に腰を下ろして俯き、そのまま朝を迎えたようだ。一睡もしてない目元が微かに痛む。

 これからどうしたらいいのか。弘子に会いに行くのは当然として、どうやってここから出ればいいのか。射し込む朝陽が徐々にその明るさを増していく様子を眺めていても思考は一向に働かない。俺の中の時計は弘子の流産を知った時から止まったままだ。

 朝陽が眩しい。俺の嫌いなこの国の神ラーがまた、天へと昇る。太陽から目を逸らすように頭を垂らした。


「……あの薬、子宮収縮作用があったのね」


 いつ、扉は開いたのだろう。耳まで働くことをやめてしまったのだろうか。不意に聞こえた声に引かれるように顔を上げた先に、昨夜ここへ来なかったメアリーがいた。


「あの男とあの子を殺すものだと思ってたのに、あの子だけが苦しんで……流産したの」


 今にも消え入りそうな声が淡々と綴られていく。相手の青ざめた表情は、ラーの陽を浴び、闇にあった俺の視界に鮮明に映えた。


「でも私、すぐに分かった。ヨシキの本当の目的は、これだったんだって」


 子宮収縮作用。これが、たまたま鞄に入っていた薬の作用のひとつだ。弘子の食事に入れるよう彼女に与えた毒の正体。本来であれば妊婦への投与は禁忌となっている抗マラリア薬だ。


「周りは皆、王妃の身体に何かあったんだろうって言ってるけれど……違う」


 陣痛促進作用とも言う。自然の陣痛が来る前に子宮収縮を起こして分娩を開始させる作用、または自然陣痛が不十分で出産が進まない場合に子宮の収縮を促進する作用のことだ。実際の使用にあたっては、薬の必要性、利点、使用方法、副作用とその対応策など、医師から十分に説明を聞き、納得の上で選択することが重要とされている。子宮の収縮が強くなり過ぎ、母体や胎児が危険になることもあり、医師側でも量と使用に関しては気を尖らせて処方する。


「最初から弘子の子供を狙うつもりだったのね」


 そうだ。弘子の腹にいた、胎児を狙った。弘子をこの時代に釘打つものを、繋ぎ止める存在を、消すために。子供など産めば、ますます弘子はこの王家から離れられなくなる。

 返事をしようにも、口を開いて出ていくのは声になり切れない吐息だけだった。乾いた喉は声を出す機能を俺から奪ってしまう。


「……見たの」


 俺の返答を待たず、相手の口が動く。北極大陸に投げ出されたのではないかと思うくらいに小さく震えていた。


「弘子の、子供」


 俺の肩が本能的に跳ねるのを感じながら、初めて視線を真っ直ぐ彼女に投げた。


「私とヨシキが殺した、弘子の赤ちゃん」


 数メートル離れた俯く彼女も顔を上げた。その目に涙の膜が張っていた。足元へと流れる女官の服を、両手でぐっと握り、長い皺を織りなしている。


「弘子、泣いてた」


 としか呼んでいなかったメアリーが、弘子の名を呼んだ。初めて口にしたような不自然さがある。


「昨日、目覚めてからずっと死んじゃった赤ちゃんを離そうとしなかった。泣き叫んで、狂ったんじゃないかってくらい泣いて……すぐにミイラにするからって、無理に引き離されてそれでも泣いて……」


 彼女は震わせた手を上へとやり、自分の両頬を覆った。その目元からみるみるうちに涙が現れる。手を過ぎて流れる雫は、何かに掬われることもなく床へと落ちていく。

 弘子は、泣いているのか。胸の奥が絞られるように苦しくなった気がして目を細めた。


「小さくて小さくて、この子を殺したのは私なんだって思った」


 メアリーの涙に赤らむ目元はこちらを向く。今まで失っていた己という存在を取り戻したように、表情は後悔の念と涙に濡れていた。


「私たちは命を殺した……」


 罪。過ち。それを覚悟で俺は薬を手にした。なのに、何を今気付いた風に言っているのか。


「私たちが消したのは尊い一つの命だった」

「メアリーは弘子とあの男を殺したいと願ってた」


 薬を手にした時の自分を忘れたかのように振る舞う彼女に腹が立ち、俺は喉に詰まっていた言葉を吐き出す。

 目前の彼女が泣くのは、それだけの覚悟ができておらず、思いが中途半端だっただけだろう。憎しみに我を忘れていただけだろう。俺に解説を求めることなく、自らアラバスタを手に取り勝手に都合のいいように解釈したに過ぎない。

 復讐をすると悟ったあの時の彼女は、弘子を殺せることに笑っていたのだ。それなのに現実を目の前にして自分の犯した行為に気付き、己に怯えるとはなんと愚かなことか。


「メアリーが望んでいたのはツタンカーメン、弘子、そしてその子供の三人の死だ。弘子が死んでいたら、その涙は無かったんじゃないのか。今頃声を上げて笑ってたんじゃないのか。赤ん坊だったから可哀想?命の重さに違いがあるのか」


 はっと、メアリーの眼は見開き、その口は噤まれた。

 弘子を憎んでいたのは俺ではなく、彼女だ。今回は彼女が思っていたことと違うことが起き、自分の行いの真意に気付かされただけの話。


「弘子は……確かに憎かった」


 メアリーは唇を噛み、千切られた言葉を細々と繋ぎ始める。


「でも、どんなに憎くても、どれだけ怨んでも、人を殺めて良い理由にはならない。どんな敵であっても愛さなければならない」


 祈る仕草か、両の指を絡め、俯く。彼女の中にキリスト教の精神が戻ってきたのか。

 汝の敵を愛せよ──そんな有名な文句がキリスト教にあったはずだが、聖人でもない俺たちの誰がそれをできるというのだろう。感情というものがある限り、喜びと悲しみが存在するように、憎しみも怒りもあって、すべてを愛することなど不可能だというのに。


「人は人を殺すことで自らの魂を削る。己の中に蠢く罪を、人は誠意を持ち絶たなければならない」


 棒切れのように立ち竦んでいた彼女は、よろよろと足を動かし、こちらへと歩み始めた。


「ヨシキ」


 俺の足元に屈んで縋る。膝の上に垂らしていた俺の手を取り、涙に濡れた目で俺を見る。彼女の手は氷のように冷たかった。


「謝りに、行かなくちゃ」


 発せられた台詞にどっと、胸の奥から嫌悪という感情が溢れ出した。虫唾が走る。


「弘子とあの人に会って、謝って、罪を償うの」


 弘子とツタンカーメンに会って、自分たちが殺しましたと懺悔しろというのか。それこそ今更だろう。そんなことをするくらいならば最初からやってはいない。王族殺しは死罪だ。真実を告げ、謝っても殺されるだけに終わる。俺の目的は、それではない。


「謝るつもりはない」


 彼女の手を払い、昨夜から浮かさないままでいた腰を寝台から引き剥がした。踏み出した足はずっしりと重かった。


「ヨシキ!」

「俺は弘子を守るためにやったんだ」


 すべては弘子のため。計画が成功した以上、ここで引き下がるなど許されない。古代人の子供を産まずに終えた弘子を連れ、王宮から去る。これが俺の目的だ。

 古代人と現代人の間に子供が生まれたら未来に繋がるこの歴史はどうなる。弘子がこのまま古代に留まり、アンケセナーメンとして歴史の歯車の一部にならざるを得ない状況になったら、彼女はどうなるのだ。


「私たちが犯したのは殺人でしょう!?」

「そうだ。それが俺の望んだことだ」

「現代なら確実に警察に捕まること!犯罪なの!私たちは償わないと……」

「ここは古代だ。現代じゃない」


 強く言い捨てると、彼女の眼は大きく揺らいだ。


「違うでしょう!?」


 駆け出す音の後に、冷たい手が俺の左腕に巻きついて締め付ける。


「古代も現代も人を殺したことの罪の重みは変わらない!行かなくちゃ駄目よ。私とヨシキがしたことは絶対に許されることじゃない!謝って罪を償いに行かなくちゃ……」


 メアリーも間違いなく殺人の意思があり、実行に移したのだ。なのに何故、自分を棚にあげるようにして「あれは罪だ、いけないことだ、謝れ」と俺を諭すのだ。お互いのどこに諭し合える資格があるというのか。


「行きたいなら行けばいい」


 冷たい感触がびくりと動いてずれていった。


「俺は行かない」


 今メアリーと行けば、後悔に苛まれることになる。蓋をした感情に、俺は確実に負ける。そうなると分かっているのに後悔などしていたら俺はただの馬鹿だ。


「弘子を繋ぎ止めるものはなくなった。アンケセナーメンの道など歩ませない。嫌でもここから連れ出す。俺がするのはそれだけだ」


 返答を許さないくらいの鋭さを伴い、彼女に言い返した。相手の手は、俺の腕からずるりとすべり、ついに感触が消えた。沈黙が走る。それは亀裂を生むように俺たちの間を駆け抜けていく。


「……変よ」


 ぽつりと落ちた声に応じたように、瞼を伏せた。


「変だわ。人を殺して何も思わないなんて」


 何も思わないのではない。思わないようにしているだけだ。ここでもし、弘子の心情やメアリーの気持ちを汲み取ってしまったら、今の俺は間違いなく崩壊する。すべてを見失い、崩れ堕ちる。


「私が好きになったのはこんなヨシキじゃない、ヨシキはもっと優しくて……」

「あの時の俺も、今の俺も、同じ中村良樹だ」


 俺は俺でしかない。

 そもそも今は、泣き叫ぶほど取り乱したという弘子に会う気にはなれない。会うのは、もう少し時間が経ち、様子を見計らってからだ。自分自身も、この決意を繕い直す必要がある。


「俺は一人でも構わない」


 誰もいらない。誰も。

 弘子さえ、戻ってくるのならば。



 その時、軋んだ音と共に兵たちによって固く閉ざされていた扉が動いた。開けた入口から溢れた光に闇にあった目は慣れず、視界は屑む。


「元気そうだな、ヨシキ」


 白い背景の中にどす黒い影が浮かび上がる。目を凝らすと、豹の毛皮を斜めにかけた短身の老父が緊張の走る面持ちでそこにいた。手に持った似合わぬ黄金の杖はその煌びやかさで俺の網膜を焦がす。俺をここに放り込んだ張本人、最高神官だった。

 アイは、その背後に口に弧を描くナクトミンを従えてまた一歩こちらに踏み出した。


「女官は下がれ」


 アイのぎょろりとした眼差しに怯みながらも、メアリーの眼はもう一度俺を見た。ヨシキと、俺の名をその唇が声無く呼ぶ。何かを求めるように。


「下がれと言っている!」


 杖が床に突かれ、鈍い黄金の音があたりに響いた。メアリーは目に涙を溜めたまま一礼して逃げるようにその場から走り去った。

 もう会うことはないかもしれないとメアリーの姿を見届けてから、少しの距離を置いて突っ立っている老いた男を見据えた。


「何の御用です」


 思った以上にこの口から出た声は低く、掠れている。

 疲れていた。なんだか、とても。倒れ込んで眠ってしまいたい。


「王妃が御子を流したのは知っているか」

「ええ……兵たちが話しているのを聞きました」


 淡々と返す。俺は平然と言う名の仮面を被り、素顔を隠す。


「ナクトミンがそれをお前の仕業ではないかと言っている」


 思いがけない言葉に、表情が崩れそうになった。眉間に皺を寄せ、視線で疑問を投げかける。


「御子を殺したのはお前ではないかと言っているのだ」


 どういう所以で牢に閉じ込められていた俺の仕業になったのか。

 身を固めていると、後ろにいたナクトミンが猫目を細め、軽い足取りで俺の隣へ歩いてくる。怖いくらい爽やかな笑みだった。


「身に覚えがなくても頷いときなよ」


 アイに聞こえないくらいの声で青年は囁く。ナクトミンを一瞥してから、改めて正面にいるアイを見た。


「母体を救い、子だけを殺すことは我らにできぬ。そういう毒も呪術も存在せぬ故だ。だが、お前は不思議な技を手にしている。これらを含め、真実を聞かんとするためここへ来た」


 アイは訝しむ表情で、また黄金の杖を一回だけ鳴らした。


「真を答えよ。お前が神の力で行ったのか。御子を流し、私が望む通り王妃を生かしたのか」


 俺の隣でナクトミンはにこりと唇を引いて笑っている。

 この男が何故俺の肩を持つようなことをアイに吹き込んだのかは分からない。だが、ここで頷けば、この老いぼれの味方だと見なされ、それなりの扱いに戻ることができるだろう。最高神官に気に入られているナクトミンは読めない男ではあるものの、こちらに不利なことはしない奴なのは直感的に感じている。

 俺の最優先は、この牢からの脱出。そしてこの二人が言うことは、紛れもない事実だ。

 迷うことはない。否定することもない。

 膝を折り曲げ、背を丸め、俺はアイの足元へ跪いた。深く、忠誠を誓うと言わんばかりに額を床に押し付ける。そんな俺の姿を肯定と見てか、しばらくの沈黙の後に、老人が安堵したように小さな息と含み笑いを漏らした。


「やはり我が味方であったか」


 黄金の杖が俺の傍の床に突かれ、下げていた視線を上へと動かし、老いぼれの顔を拝んでやる。


「お前の医術における名声を、ここに閉じ込めておくには惜しいと感じていたのだ」


 醜く笑う二つの水晶体に映るのは、虚ろな自分。


「王妃と同じ、神に蘇りを許されし者よ。ここを出て、これからも神力を持つ医師として、我が力となれ」


 サンダルの音がすぐ傍を横切り、アイが杖を突きながらこの汚い部屋から出ていったのを感じた。

 完全に去ったのを見計らい、ゆっくりと頭を上げると、床に無造作に置かれていた鞄が視界の端に入る。俺の、武器。切り札。


「行こうよ、ヨシキ」


 ナクトミンが俺へと褐色の手を伸ばした。差し出されたそれを払いのけ、鞄を掴むと同時に立ち上がる。浅い息をつき、開く扉の向こうへ足を動かす。猫目の青年は、くすくすと背後で声を立てている。


「感謝くらいしてくれてもいいのになあ。アイ様にヨシキの開放を進言してあげたのは何を隠そう僕なんだから」


 ちらと彼を一瞥して、何も言葉を返すことなく俺は外へと出た。


 久しぶりに感じた牢外の空気は涼やかで、白い光が、自分に似つかわしくないほどに眩しかった。


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