どこへ

「──可哀想」


 耳のすぐ傍を、麻に沁み込む水ように音が流れた。人声のような気がしたのに、私の頭はそれを言葉と認識せず、風とか水とか砂とか、そんな自然界の音としか捉えられないでいる。


「──弘子」


 ああ、また音が。

 どこから流れているのだろう。そう考えて、しばらくしてからさっきのは自分の名前だったのではないかと思い至った。

 呼ばれたのなら応えなければと、瞼をゆっくりと開く。瞳を覆う瞼は、何千年も封じられていたような重みがあり、持ち上げるのが途中から億劫になった。


 開けたその向こうの、私を包む世界は暗闇の色だった。吸い込まれてしまいそうなほどに黒い、天井と床。違う。天井というものはもとから無いのかもしれない。星の輝きを失くした限りない宇宙に投げ込まれたように果てが無かった。


 何秒。何分。何時間。時の感覚なんて無い。ぼうっと、真上の黒に目を向けている。


 私は、ここで何をしているのだろう。私はどこにいるのだろう。何故、ここにいるのだろう。

 漆黒を瞬きすることなく見つめていたら、そういう疑問がふつふつと浮かび上がってきた。ついさっきまで自分がどうしていたのか思い出そうとしてもよく分からない。思考がそこまで深く入って行ってくれない。それでも確かなのは、この黒い空間が自分のいるべき場所ではないと言うことだった。

 彼は。あの人は、どこにいるのだろう。彼を探してみようと頭を動かさずに視線だけを回してみても、誰も視界に入ってこなかった。誰どころか、何もないようだった。そしてまた私は茫然と上を見ている。そうやっている内に、このままではいけないと感じるようになって、感覚のなかった指先に力を加えてみると、ぴくりと微動を起こした。神経が切れたようにだらりとしていた腕を黒い床に立て、時間をかけて身体を起こす。怠くて重い。関節と言う関節すべてが軋むような感覚だった。


「……可哀相に」


 また流れる柔らかい音。暗い中で私に差しこむそれに、虚ろな中で懐かしさを覚えた。

 嗚咽に、鼻を啜る音。誰かが泣いているのだと僅かな間があってから気づいた。

 黒い床についていた膝を立てて曲げ、力を入れて、人形のように座り込んでいた私は立ち上がる。立ち上がって見た世界もまた暗いと思った。


「……弘子」


 声に引かれて振り返った先に、部屋があった。どこかの舞台を思わせるようなぼうっと光る、テレビとソファを置いた9畳ほどのリビング。テレビは電源が切られていて、40インチの画面は私を取り囲む同じ黒に染まっている。下を覆うカーペットは記憶の隅にあるものそのままで、芝生を連想させるほどに青い。

 じっと観察して気づいた。これは以前、私が住んでいた家のリビングだと。

 生まれ育った、もう二度と戻ることのないと思っていた時代のものが遠くに、眩しくない程度に淡く光っていた。そこに置かれた黒いソファに隣り合う二人がいる。


「良樹が、まさかあんな……」

「よく考えるんだ。良樹はそんな酷いことをする奴じゃないだろう」


 女性が、背中を丸めて嗚咽を交えた声で泣いていて、その人を包むように男性が背を撫でて慰めようと言葉をかけている。


「それは単なる夢だ。弘子や良樹が古代にタイムスリップしているはずがない」

「違う、違うわ。夢だけど、現実よ。私には分かる」


 ただ、他人事のようにぼうっと眺めていた。話の内容も頭に入れず、紡がれる言葉たちはただの音として私の耳孔を通り抜けて行っていた。


「あの子は、この時代にはいない。時代を越えた先にいる」


 声を涙で濁らせていた女性が背中を伸ばして露わにした顔に、私の心臓は飛び跳ねた。どこか懐かしく感じていた理由を一瞬にして飲み込む。胸の沈黙がざわめきに変わる。

 強い確信を抱いた眼差し。私に似た二重の目元。きゅっと結ばれていた唇は再び開く。


「私の娘は古代にいるんだわ。第18王朝、ツタンカーメンの時代に」


 何を茫然と見ていたのだろう。私の向こうにいるのは。今、泣いているのは。


「私は夢で現実を見ている。あの子のいる世界を」

『──お母さん……お母さん!』


 闇の床を蹴って、私は走り出した。駆ける音がぱたぱたとしじまの中を響く。


「あの子は妊娠して、良樹にその子を……」

「それが現実に起こったことだと仮定しても、弘子を第一に考えてくれる良樹がそんな酷いことをするはずがないだろう。彼は医者なんだから」

『──お父さん!』


 二人の目の前に行き、膝をついて呼びかけた。どんな話をしているのかも飲み込む前に、とにかく自分の存在を気づいてもらおうと呼び続ける。それなのに、こちらに気づかないかのように返事をしてくれない。目も向けてくれない。見えていないのだろうか。聞こえていないのだろうか。


「良樹は優しい奴だよ。そんな命を粗末にするような……」


 父の言葉を否定するように母が首を横に振った。その反動で瞳を覆っていた涙が膝上のパジャマに散る。


「今すぐあの子の傍に行ってあげたい」


 私はここにいると示そうと手を伸ばしたら、その手は透明になって母の胸を突き抜けた。驚いて手を引き戻し、変わりない自分の両手を見つめてからもう一度、恐る恐る今度は父に触れようと伸ばして、やっぱり何も掴めず、すべてを貫通してしまう。

 何度も何度も繰り返して呼びかけるのに、まるで幽体離脱でもしたような私の身体はソファにも人にも何にも触れられなかった。唯一触ることができるのは、黒い足場だけだった。

 愕然とする。急なことが沢山積み重なるように私へと伸し掛かり、それに従うようにへたりと座り込んだ。もう会えないと思っていた両親に会えたのに何も伝えらない自分に落胆して、岩でも背負っているように身体は鈍さを増し、項垂れる。力が出なかった。身体が言うことを聞いてくれない。目の前で自分の母が泣いているのに、慰めることも、自分の存在を示すことも出来ない。

 どうして何も出来ないのかと考えて、自分が死んでいるからでは、という仮説が思い浮かんだ。死んだから、幽霊のような現象に陥っている。でも、何故。その原因を遡ろうとしたけれど、さっき寝転んでいた時と同じように思考が奥にいかなかった。悔しくてもどかしくて、この感情をどこに出したらいいかも分からず、涙が出てくる。ここにいるのに、何も届かない。届けられない。


「古代にいて、そこで幸せならば私を感じてくれるだけでいいと思ってた……でも」


 今まで耳に入らなかった言葉がやっと意味を成して私の中に入ってくる。母の言葉に、落としていた顔を上げた。祈るように膝の上に両手を組み、涙を伝わせる母を見つめる。

 母は気づいているのだろうか。私が古代にいることを。


「弘子……」


 名を呼び、下に座り込む私に投げられる。私のことは見えていないのかもしれないが、その眼差しと合った気がした。


「……どれだけ辛いか」


 涙が溢れてどうしようもなくなる。

 お母さん。私のお母さん。

 よく撫でてくれた手に、こちらの手を伸ばしても、やはり通り抜けてしまう。宙に止まった私の指先は寂しさに震え始める。触れない。

 遣り切れなくなって引き戻そうとした私の右手首を、横から素早く伸びてきた白が掴んだ。驚き、動かした右腕に見えたのは、黄金の蛇が巻き付く女性の細い腕だった。薄暗いこの世界で、この世のものとは思えない白さを放つ腕は夜の空を横切る流星を思わせた。

 微動だにしない力の主を視線で辿り、そこで捕えた人物の姿に私はまた息を呑む。もう一人の私がいた。

 こちらを向く緑で彩られた美しくも鋭い二つの瞳は、王家の守り神ウアジェトの目を思わせる。それを見て私を掴むその人は私自身であり、同時に全くの別人だと悟った。


『――あなた』


 声を掛けても彼女は口を閉ざしたまま、私から手を離す素振りを見せない。母より、私と似ている顔を持つ人。似ていると言うよりかは、同じと言った方が正しいその顔。

 彼女は何も言わず、数十センチ離れた瞬きのない水晶玉に、食い入るように私を映し出している。何故彼女がここにいて、私の手を掴んでいるのか分からない。だがその中で、瓜二つの面持ちの中で唯一違うその瞳に確信を持った。

 いつだかナイルの水面に見た姿。もう一人の私。


『──アンケセナーメン』


 その名を呼んだ瞬間、彼女の茶色がかった瞳孔が大きく広がり、腕に巻き付く彼女の手に力が籠った。そして、下に引かれた。

 やめてと言う前に身体がぐらりと大きく揺れ、床にぽっかりと空いた黒い穴に、足場を失った私はそこへ引き込まれる。周りよりもずっと暗い、黒い、その世界に。


『──お母……』












 目を開けたら果ての見える天井があった。落ちたと思った私の身体は寝台の柔らかさの上に横たわっていて、身体がさっきの世界以上に重いという感覚があった。空間には薬草の独特な匂いが充満している。

 ここは、私が落ちた黒い穴の果てなのか。両親は、どこだろう。

 少し頭を動かしてみて、周りがすでに暗みを帯び始めているのを見て、時間は夕方近くだと大方想像がつく。

 アンケセナーメン、彼女もどこに行ったのだろう。一緒に落ちたはずなのに、腕には掴まれた感覚を残して、黄金の腕輪以外に何も繋がっていなかった。


「ヒロコ」


 いきなりこちらに影がかかって、私の名が弾けた。ぼやけた視線を凝らせば、視界の中に入って来たのは彼だった。


「……ア」


 こちらが呼び終える前にその人はもう一度私を呼び、腰を上げて私の髪を、頬を撫でる。私も手を伸ばして自分の頬を流れる彼の手を触り返したら、触れるという事実に自分は死んではいないのだと、ここは夢ではなく現実なのだと知った。ならばあれは全部、夢だったことになる。両親も。アンケセナーメンも。また腕を掴まれた感覚が手首に残っているのに。母の涙と声は、あんなにも現実的だったのに。


「良かった……!」


 彼は私を寝台から起こすようにして胸に抱いた。腕に閉じ込められ、私の視界は彼の肌の色一色に染まる。抱き締められながら、ゆっくりと周りの状況を把握する。変わらぬ彼と私の部屋。違うのは周りにいる人の数が普段より多いことと辺りを制する薬草の匂いくらい。


「ご無事でよう御座いました!」


 声の方向に目をやったらすぐそこに跪くネチェルがいた。他の顔見知りの侍女たちも同じように頭を下げている。


「一時はどうなることかと……」


 記憶を辿って、朝食の時にお腹に痛みを感じたことを思い出した。死ぬのではないかと思わせるくらいの激痛に襲われ、生まれてしまいそうだと言われて。生まれないでと祈るのを最後に、私はそのまま気を失ったのだと思う。

 無事という先ほど放たれた単語を理解し、何事もなかったということだと安堵して彼の腕の中で力を抜いた。


「お前まで失ったらどうしたらいいか分からぬ」


 彼が何度も優しくこちらの髪を撫でて、私の首筋に顔を埋めた。私も手を伸ばして受け入れる。この人がこんなにも闇雲に、人前で私に縋り付いてくることなんて今までなかった。


 ──良かった。痛んだだけだった。何もなかった。生まれないでいてくれた。


 彼の髪が私の頬に掠めるのを感じながら目を伏せる。安心したら、急に身体の中にどっと疲れのようなものが溢れてきた。それでも、つい癖でお腹を触ろうと手を伸ばした。失ったらどうしたらいいか分からない、私の愛しい子がいるお腹に。


「……え?」


 手に感じた違和感に伏せていた目を開いた。

 ない。膨らんでいたはずの、お腹がない。もう一度確認しようと触ると、僅かに膨らみはあるものの、確実に朝とは大きさが違う。まるでお腹に何もいなくなってしまったかのようだった。何度も何度も触って、彼の腕に抗ってお腹に目を向けても何も。


「ヒロコ」 


 彼の腕を払い、あたりを見回した。寝台の上。私の隣。彼の隣。ネチェルの腕の中。寝台の寝具をずらしてめくっても、いない。私のお腹にいた存在がどこにもいない。


「どこ……」


 胸のざわめきを覚えながら、必死にあちらこちらに視線を投げて探した。


「どこに……わ、私、の……」

「ヒロコ!」


 取り乱し始めた私を彼が無理に引き寄せて抱きしめた。強く、強く、何かを忘れさせようとするかのように、私を包み込む。その力にすべてが詰められていた気がした。あの痛みの結論が。


「……赤ちゃん、は?」


 彼の腕の中で震える声を出した。


「ねえ……ねえ、私の……私の赤ちゃんは?どこ?」


 彼の目を見て縋るように問うのに、腕を緩めたその人は悲しそうに目を伏せた。今までに見たことのないくらいの哀愁がそこにあった。口は何も言わなくとも、言葉にせずとも告げられる事実に心が大きく揺らいだ。


「嘘……」

「今は何も考えるな。身体が持たぬ」


 彼の声は悲しみを堪えるように低い。よくよく見てみれば足下にいるネチェルは、ついさっきまで泣いていたように目を腫らしたままで、少し離れていた侍医は頭を深々と下げて「お許しください」と口にした。


「嘘!」


 叫んで、私を寝かせようとする彼を押しやって、寝台から飛び出す。


「ヒロコ!」

「王妃様!」


 寝台を降りた途端にお腹に鈍い痛みが走って、その場に私の足は崩れ落ちた。小さな呻きを漏らしながら身体を丸め、持ち直して顔を上げる。使い物にならない足を引きずって手だけで前に進む。


「どこにいるの……!?」


 さっきもしたように同じ空間に視界を彷徨わせる。痛みなんてどうでもいい。自分の身体なんてどうなったって構わない。でも、あの子は。


「どこ!」


 私のお腹にいたあの子は。そうしているうちに、この広い部屋の隅に、5人ほどの女官たちが何かを囲んで座り、啜り泣いているのを見た。

 ──あそこだ。


「ヒロコ!」

「御子様を御連れ申し上げなさい!」


 彼とネチェルの叫びに侍女たちが動き、その間に箱のような、籠のようなものが見えた。

 ──そこに。

 震えが止まらなくなる。


「……連れて行かないで!」


 鈍い足と手を動かして、手前にいた女官たちの服を掴んだ。私の子を、どこに連れて行くのと。

 冷静さなんてどこかへ消えた。彼が私を止めようと後ろから伸ばす腕を払い、突き飛ばし、私は自分の子を見ようと無我夢中になる。

 圧倒されたような表情の女官を押しやり、その籠を覗いて、やっと。

 やっと、その子に、会った。


 耳も目も鼻も手も足もちゃんとある、小さな小さなその子は、息もしないで小さく丸まって、茶色くなって麻の白さの中にいた。

 呼吸が止まる。胸が張り裂ける。誰もが沈黙した空間で、私の身体に響くのは、上がった心拍の音と、何かが崩れ行く音だけだった。


「……あ、……あぁ」


 震えが止まらない手を伸ばし、その子に触れて、抱いた。両の掌に納まるくらいの大きさしかない私の赤ちゃんは、体温と呼べる温もりがなかった。小刻みに動く手の振動で、その子は私の手の中で揺れ動く。指先から伝わる感触と温度。撫でても、声を聴かせてくれることはない。


 守れなかった。産んで、あげられなかった。こんなに小さいのに。まだ自分で息も出来ないのに、私が外に出してしまった。まだ私の中で成長するはずだったこの子を、私が。


「いや……」


 涙がぼろぼろと落ちて、落ちて。腕を、その子を濡らした。


「いやああああっ!!」


 胸に抱いて、泣き崩れた。


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