* * * * *


 持て余した手に銃を握りしめたまま、報告を待っていた。部屋に流れ込んでくる夕方の香りを乗せた風があたりに吹き込む。椅子に腰かけ、机に肘を立てて頭を抱え、何度もあの時の弘子の様子を反芻させていた。真っ青な顔で俺に怯えて蹲る彼女の姿が、瞼の裏に張り付いて離れない。


「あれは間違いなくご懐妊でしょうね」


 数メートル先の寝台に腰を下ろすネフェルティティが声を零した。


「だってファラオと王妃の仲の睦まじさは民も知っている最早常識。御子の一人や二人、できない方がおかしかったのよ」


 妊娠であると仮定して、弘子の症状は「悪阻」だと判断できる。悪阻は、はっきりとした原因が分かっているものではないが、最も有力な説として、子宮の将来胎盤になっていく場所から妊娠継続を促すホルモンが分泌され、嘔吐中枢を刺激して引き起こされるものだ。または母体が宿った胎児を異物とみなしてしまって起こる一種のアレルギー反応だとも言われている。どちらにしろ、身体が本格的に妊娠を受け入れた時期にきたということだ。それを考えれば妊娠2、3か月程度。

 だがこれはあくまで推測の域を出ない。間違いの可能性も十分にあり得る。俺の早とちりだということも。あの時の俺は相当動揺してしまっていたから。


「可哀想な人ね。同情するわ」


 同情など一つもしてないのだろう。


「あれだけあなたが一途に愛していた子猫ちゃんは今やしっかりファラオのもの。一緒に過ごして、やることやって子供まで授かった。残された男には辛い話ね」


 思いきり机に拳を叩きつけた。肘の近くにあった彼女の化粧道具の一つが机を叩いた拍子に机で小さく跳ね、音を立てて床に落ちて行く。それでも相手が驚くことはなく、足を組んでふうんと喉を鳴らすだけだ。


「随分、ご機嫌斜めですこと」


 女神像を象った化粧入れの頭と胴体部分が二つに割れて別々に転がっていくのを、頭を支える腕と腕の間から見ていた。


「私としては感謝してほしいくらいよ。私があなたをここに連れ帰ってこなかったら、今頃見つかって王妃誘拐容疑でも掛けられていたでしょうに」


 弘子と別れて走り出してから、やはり戻ろうとした俺を引き止めたのはこの女だった。確かにあの時戻っていたりしていたら俺は捕まっていたに違いない。あんな馬鹿みたいな取り乱し方、普段ならば絶対にしなかった。


 悔しさにぐっと目を閉じるとあの男が脳裏に浮かんだ。弘子を囲っている、この国の若き王。あの褐色の手が、あの長い指が、弘子の肌を這っていたと思うと、弘子の肌にあの唇を伝わせたのかと思うと、怒りで爆発しそうだった。あの腕で、弘子を抱いて、あの腕に抱かれながら弘子は眠ったのか。考えが止まらなくなって自分を失いそうになる。正気の在処を分からなくさせる。

 もし懐妊となればすぐにこちらに知らせがあるはずだ。王妃の妊娠、それがどれだけこの強大な大国で重大な出来事と成り得るか。このエジプトの世継ぎの誕生は他国にまで伝わる話となるだろう。その知らせを、ネフェルティティの部屋で俺は待っていた。


「でも王妃のご懐妊が事実で、それをもしお父様が知ったら」


 彼女がアイの話を持ち出しかけた時、部屋の扉が開いた。


「失礼いたします!!」


 開いた扉の先に、一人の女官が跪いている。血相を変えたメアリーだった。最近は西の宮殿を中心に、よく俺やネフェルティティの世話に回ることが多い彼女は驚きを隠せない様子で、身体を震わせながら平伏した。


「東の宮殿より、お、お知らせを!」


 メアリー自身も自分の持つ「知らせ」に相当動揺しているようで、息を切らして背中を上下させていた。嫌な予感しかしない。俺の手から、希望という名のものがすべて滑り落ちていくような感覚がある。


「知らせとは何か。早く申せ」


 ネフェルティティが手にしていた扇を閉じて、メアリーに向けて命じる。女官は大きく息を吸い、俺を見やってからもう頭を下げ直して口を開いた。


「王妃様、ご懐妊でございます……!」


──ああ。


 事実は残酷だ。非情で薄情。

 椅子から立ち上がった拍子に机が揺れ、上に置かれていた物のいくつかが落ちた。床とぶつかり、空間に残る余韻を茫然とした状態で耳で拾う。鼓動と呼吸が止まっていたとも思える感覚。そんなことは決してないはずなのに、俺は何もない一点を茫然と見つめ続ける以外何も出来ないでいた。


「残念だったわね」


 足を組み直して小さく息をつき、ネフェルティティは涼しい目を投げてくる。メアリーは俺を床に膝をつけたまま心配そうに俺に目を向けていた。


「……弘子」


 呟いた名に、手に握っていたものが落ちた。金属的な嫌な音が頭の芯に鳴り響く。それが銃だと分かったのは数秒経ってからだった。

 機械化したような身体を折り曲げてゆっくりと拾い上げる。もっと早く動けるはずなのに、今の俺にはそれが精一杯だった。夕暮れの橙がその黒を妖しく光らせる。指が黒を撫でる。艶のある触感は、俺の時代の物。この時代には存在しない物だ。


「ヨシキ……しっかり」


 メアリーの声だろうか。多分、そうだ。誇りに生きるネフェルティティはこんな生半可に優しい言葉は吐かない。

 分からなかった。頭がうまく回らない。おかしいだろう。どうして子供なんて。妊娠だなんて。こんな時代を。あんな男を。弘子、お前が何故選んだのか。

 ばらばらに言葉が散っていく。掬い取ることが出来ない。

 俺たちはここにいていい存在ではない。俺たちは高度な技術を持った人間で、こんな場所に埋もれていていい存在ではない。お前はあんな男に渡るべき存在ではない。

 頭が、割れそうだ。


「どういうことだ!ヨシキ!!」


 突如、怒鳴り散らす声が頭痛に追い打ちをかけた。視線を扉の方に向けると、メアリーを押しのけたアイが目尻を上げ、こちらを睨みつけている。その背後には10人ほどの西の宮殿の兵がいた。最後尾にはナクトミンもいつもの澄ました表情で立っている。

 王妃懐妊の知らせを聞きつけて俺を責めに来たのか。


「王妃は身籠らぬ、そうではなかったのか!!私に偽りを唱えたか!!ほら吹きめが!!」


 聞きたいのは俺の方だ。


 ──弘子があの男のものだと?あの男の子供を身籠っただと?ふざけるのも大概にしろよ。


 崩れた呼吸を何度か繰り返し、一旦唾をのみ込みんで治めた。右手の拳銃を握りしめ、伸びる影を従えて、怒りに顔を真っ赤にさせた相手に顔を向ける。アイの瞬きを忘れた目は渇き、鈍い眼光を刃の切っ先のように鋭くさせている。あの目玉に負けないくらいの眼差しを、俺も相手に投げているのだろう。この胸にある怒りに似た感情をどこかに向けなければ自分の中で破裂してしまいそうだった。


「この私に偽りを申した罪、許しはせぬ!!」

「お父様」


 寝台から立ち上がったネフェルティティが父親に向かって歩んだ。声は威厳があって、いつもながら美しさを滲ませている。


「ヨシキが今まで積み上げた医療における功績でお父様の名も上がったではありませぬか。今や病を癒し、完治した者たちはお父様を支持し、崇めている。ヨシキでも間違いというものは御座いましょう。ですから今までの功績に免じて」

「黙れ!」


 自分の賢い娘の言うことも、予言を外した俺への怒りで耳に入らないと来ているらしい。


「王妃が無事に出産でもしたら王位はどうなるのだ!私の計画は台無しだ!!」


 権力にしがみ付く亡者なのだと思わずにはいられない。こんな奴にへこへこ頭を下げていた俺も、なんと愚かだろう。ここまで来ると自分に対する嘲笑が込み上げてくる。


「あの者を殺せ!あれは私に偽りを吹込みし邪神である!」


 殺すか。神の声と偽って、俺を殺すよう命じるか。遥か遠くの未来に生まれた俺を。お前よりもずっと尊い頭脳を持ったこの俺を。

 アイの背後にいた兵たちが槍を向け、こちらに詰め寄ってくる。円形に俺を囲み、逃げ場をなくす。メアリーの小さな悲鳴が遠くに聞こえた。


「ここは私の部屋!!血で汚すことは許さぬ!」


 俺を庇おうとするネフェルティティの張りつめた声に兵たちも怯むが、それをアイが許す訳がなかった。


「娘には部屋を与える!気にすることはない!殺すのだ!」


 10本の槍が持ち直され、こちらに向けて不気味に光を放つ。柱と柱の間から漏れる橙の陽光が、それを増倍させる。


──やってみろよ。


 右腕を掲げ、俺の人差し指は迷いなく天井に向けた銃の引き金を引いた。

 夕方の西に破裂音が響く。微かな銃特有の匂いが俺の頭上から降ってくる。浮世離れした音を生んだ銃弾は、天井に穴を跡を残して弾かれ、兵士たちの足元へ微音を響かせて落ちていった。

 現代人も戦くこれに、古代人は目を白黒させてぴたりと動きを止めた。兵たちは俺を恐怖が露わになった顔で見つめ、身体を震わせ、ネフェルティティも驚愕に息を飲み、ナクトミンは眉を上げて銃に目を凝らしている。


「……な、何故足を止める!!怯むな!殺すのだ!!」


 唾をまき散らす老人の顔は青ざめていた。

 まだ分からないのか。もう誰も俺に近寄る勇気を持ってはいない。特にお前の下に付くような底の知れた単純な奴らには。


「か、神が……」


 兵の一人が俺から距離を置いた。


「神の怒りだ!」


 また一人、今度は尻餅をつく。


「神が雷を落とされたのだ!!殺される!!」


 次々と、槍を捨てた兵たちが俺を恐れて部屋から出て行った。正しい判断だ。


「何をしている!」


 アイが歯を食いしばり、俺に目を剥く。その様子を表情というものを失っているだろうこの顔で、俺は見返した。


「ナクトミン!お前が」

「御意と申し上げたいところですが無理です」


 俺の様子を遠目から観察していた青年がアイの命を遮った。怯み一つ見せない、いつもと変わらない猫目で俺を見据えている。


「僕には無理です。どうかお許しください」


 飄々と彼は笑って、命令をかわす。その滑らかでありながら淡々とした声色はまるで道化師を連想させた。


「何を言うのだ!お前の腕ならば」

「見る限り、今のヨシキの気は、いつもでは考えられないほど立っています。このままだとあなたまで殺されてしまう。殺されたいですか?そうでないなら今は引き上げましょう」


 彼の返答にアイは顔を青ざめ、俺を見返した。恐怖と怒りを混ぜた眼差しがある。揺れて、揺れて、そいつの内側の弱さを垣間見る。

 そこに突くように銃をそいつの方向に向けると、アイはさっと顔色を変え、逃げるようにして去って行った。


「ヨシキってば、本当におもしろいもの持ってるよね」


 アイの行方を見届けたナクトミンが俺に一歩だけ近づいてにっこりと笑った。


「今度さ、僕にそれ、教えてよ」


 そう言い残したナクトミンがネフェルティティに軽く礼をして主の後を追って出て行くと、台風の後のように静まり返った空間だけが残った。

 陽の色だけが昏々と俺たちを照らし、徐々に闇へと変えていく。メアリーとネフェルティティと俺の3人しかいなくなった部屋で、2人の視線を感じながら俺は銃を握りしめたまま柱の方へと足を進めた。よろよろと、鉛になりかけのような脚を持ち上げて周りに転がる槍を踏みつけて前へ進む。柱に手を置き、東の宮殿を目の焦点に当てた。

 西に傾く太陽は東に影を落としている。西の太陽、東の影。あの中にいるのだろう。弘子が。そして、あの男が。


『──愛しているからこそ』


 苛立つほどの清々しい声が耳の奥に甦る。宮殿を見据えたまま、歯を噛みしめて拳を柱に振り落した。鈍い音がするだけでびくともしない古代建造物と、痛みと痺れを伝えてくる感触だけが鮮明だった。これらが生み出した音は、やり場のない怒りを響かせるだけに終わる。なんて虚しいものだろうか。


 同じ時代の人間だったのなら、まだ許せた。諦められた。だが、弘子が好きなのだと言った相手は、その眼の先にいた男は、時代に消される悲劇の王。

 あの王と共にいたから王妃は不幸になったとも言われている。アンケセナーメンが弘子の中に眠っていようが、魂というものが存在しようが、彼女は21世紀の工藤家に生まれた人間であることに変わりはない。彼女を悲劇の舞台に立たせる訳にはいかない。


『──ヒロコの魂は悠久を流れしもの』


 何が悠久だ。そう言って弘子を手籠めにしたお前が許せない。弘子をあれほどに変えてしまったお前が、弘子を身籠らせたお前が、殺してしまいたいほど今は憎い。


『──神が許したからこそ、今私の妃としている』


 神が許そうが何だろうが俺は別だ。所詮、神や魂という実証不可能なものは、弱い人間の心が生み出した創造物でしかない。

 弘子の顔が浮かんだ。感情は怒りから絶望のようなものに移ろっていき、弘子の顔を飲み込んでいく。そうしたら、見る見るうちに足から力が抜けて、俺は柱に沿って座り込んだ。夕暮れの光は恐ろしいほどに赤く、眩しい。

 未だ痛みの残る拳を握りしめ、陽が昇るはずの東を見据える。影のかかった夕暮れはその宮殿を飲み込んでいくかのようだった。












「……しっかりなさい」


 呆然と闇の中に座っていた自分に声が投げられた。自分がどれだけそうしているのかは分からない。時間が消滅してしまっている。夕暮れの光はとうの昔に沈んで消え、周りは闇に覆われていた。

 声の主に顔を向ける気力はなかった。ただ、ネフェルティティが傍にいることだけは確かだった。


「今のアイは何をしでかすか分からない。ここで寝れば、あなたを殺そうとやってくるかもしれない……部屋を別に用意させたわ。そこで今夜は過ごしなさい」


 そうだ。ここで呆然としている場合ではない。何か対策を練らなければならない。弘子をあのままにはしておけない。あの男のことも。

 ふらふらと立ち上がる。今は一体何時だろうか。


「一人では行けないでしょう。私の兵をつけて案内と護衛をさせるから、少しお待ちなさい」


 彼女がそう言って侍女を呼んで俺から離れて行き、俺はまた一人になった。

 兵などどうでも良かった。弘子ともう一度話がしたい。あの男の子供が腹にいても構わない。そのまま連れ出してここを脱出したい。アイに襲われようが何だろうが、それどころではなかった。

 これからどうするべきか。どうやってあの男の子供を身籠った弘子を取り戻せばいいのか。疲労を感じながら自分の荷物を持ち、拳銃があることを確認すると、ネフェルティティの部屋を出た。


 頭を抱えながら夜の廊下を進んでいく。弘子がいるであろう東の宮殿の方へ重い足を進めた。風は思いの外冷たく、時折身を震わせては柱の間から覗く大きな月に目をやった。何もかもを浮き彫りにしそうな月光に恐ろしさを抱いた。呼吸をするのも、手足を動かすのもしんどく感じる。このまま石化してしまうのではないかと思うくらいだった。

 その時、初めて背後に蠢く気配に気づいた。一人二人ではない。複数人。弾かれたように振り返ると、数人の影が俺に飛びかからんとしているところだった。咄嗟に逃げようと進行方向に身体を向けると、すでに行く手は塞がれており、鞄から銃を出すと同時に影たちは音もなく俺に飛びかかり、あっという間に俺は上から抑え込まれた。

 腹這いで床に頬を押し付けられ、鈍い痛みと共に呻きが自分の口から洩れる。抗う間もなく後ろで腕が縛られ、口に布か何かを詰められて助けが呼べなくなった。一体何人に抑え込まれているのか、抗えば抗うほどに身体は拘束される。頭を強く一度殴られ、荷物まで取られた。痛みが酷く、意識が朦朧とした。

 もう一度上から拳を食らい、口内に血の味を感じた頃、聞き覚えのある含み笑いと共に足音が目の前に響き、誰かの足先が視界に現れた。


「殺すでない。この男には使い道がある」


 嫌な声に聞き覚えがあった。ネフェルティティの言うことを聞くべきだったと今更ながらに後悔が押し寄せる。


「牢へぶち込め」


 辛うじて動かした視線の先に、ナクトミンに灯りを持たせたアイが、悍ましいものを見るかのような目で俺を見下ろしていた。

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