愛しい命

* * * * *


「間違いありませぬ」


 一通り私の診察を終えた目の前の侍医が顔を綻ばせた。


「ご懐妊でいらっしゃいます」


 わっと、周りにいたメジットやネチェルを含んだ侍女たちの声が鳴り響いた。診断の結果に、私だけが取り残されたように呆然としてしまっている。


「おめでとうございます!」

「ファラオにご報告を!誰か遣いを!早馬を出して!」


 侍女たちに囲まれ、沢山の祝福の言葉をこの身いっぱいに浴びながら、もう一度侍医に告げられた結果を胸の中で繰り返す。

 ご懐妊。懐妊。それなら私は──。


「侍女たちの話や今回の兆候からするに、二月というところでしょうか」

「ならばナイルの氾濫の頃にお授かりになられたのでしょう!ああ、なんと素晴らしい!」


 侍医と侍女の会話が、自分の身に起きていることを徐々に明確にさせる。

 最近の風邪気味のような身体の怠さも、眠気のことも、生理が遅れていることも、環境が変わったせいで体調を崩しているからだと思い込んでいた。


「重ね重ね、祝福申し上げまする」


 周囲が丁寧に敬意を示してくれる様子を見て、どうにか状況を把握するまでに至る。嬉しさやら驚きやら、もう何が何だか分からないくらい胸が震え出した。


「あの、本当に、私……」


 夢のような話にたじたじとなっていると、侍医が顔を上げて柔らかな表情で頷いてくれた。


「最近食欲も無かったようですし、侍女たちから聞くところによりますと、今までのことも含め、やはりご懐妊の兆しだと。体調がおかしいようだとファラオからお知らせを受けた際、もしやとは思っていたのですが、今回のことで明確になりました」


 侍医の言葉を受けてネチェルが今にも泣き出しそうな笑顔を向けてくれる。


「私共も、近頃の姫様のご様子からご懐妊ではないかと思っていたのですよ」


 ネチェルがいつも以上に私の身を案じていたのは私の妊娠を勘付いていたからなのだ。今まで私に起きていたことすべてが妊娠初期の症状であると。

 まだ変化のない腹部をそっと撫でてみる。

 妊娠。赤ちゃん。彼と私の、赤ちゃんがこの身体に。


「ああ……」


 感嘆が漏れ、頬が自然と持ち上がった。自分のお腹に愛おしい存在が息づいているのだと知った途端、言葉にならない感情の濁流に飲み込まれる。

 傍の命を失ったらと怯えながらも彼と結ばれ、共に過ごしている内に彼の子を授かれたならと夢見ることもあった。授かれたらどれほど幸せだろうと、遠い夢のように感じていたのに。


「姫様」


 ネチェルが床に膝をつき、私の両手を柔らかく包んだ。目の前の彼女の瞳は大きく潤み、私を真摯に映している。


「何故あのような場所にいらしたのです。これほど大切な御身でありながら、西の王宮までお一人で」


 葡萄園で蹲る私を見つけた時のネチェルの真っ青な顔が思い出される。


「姫様のご懐妊を感じてからずっと御身のことを考えておりました。姫様のお姿が見えずどれだけ心配したか……万が一のことが御身にありましたらファラオに申し開きが出来ませぬ」

「……ああ、ネチェル、本当にごめんなさい。私、気づいていなくて」


 こんなにも心配させてしまったことに申し訳なさが募る。いくら良樹に会うためとは言え、安定しない妊娠初期の身体で軽率な行動を取ってしまった。あれほど彼やネチェルから安静にしているように言われていたのに。


「本当に、何事もなくよう御座いました」


 ネチェルの姿に自分があの場所へ行った理由を話そうか散々迷った挙句、開きかけた口を噤んだ。良樹のことを話すのは憚られた。このことはまず、良樹と話したという彼に言うべきだ。


「身籠られると召し上がりたくて仕方がなくなるものが出てくると申しますものね。きっとそれだったので御座いましょう」


 メジットが涙を浮かべるネチェルの肩を擦りながら言った。


「ネチェル殿も感傷的になりまするな。身重の王妃様がお困りになってしまいますもの。今日は本当にめでたき日です」


 メジットの声に続いて、他の侍女たちが大きく頷く。


「王妃様、改めてご祝福申し上げます」

「ようございました!本当に!」

「ファラオのお帰りが待ち遠しい限りです」


 盛り上がってくる歓びの中に、紫の世界での良樹の顔が蘇る。

 胸やけがせり上がってくるような吐き気に座り込んだ時、良樹が何に動揺しているのか分からなかった。けれど自分の妊娠を知った今なら、あの時の吐き気が一般的に言う「つわり」であり、良樹はそれで私の妊娠を悟ったのではと考えつく。少なくとも、可能性として考えたのではないだろうか。だからあれほどに動揺していた。


 私を見下ろす見開いた目や震える手も、掴まれた肩の痛みも、無理に押し付けられた唇の感触も、まだこの身体に残っている。今までに見たことがない取り乱した良樹が怖くて堪らず、突き放してしまった。良樹に会えたならこちらで保護して、もとの時代に返さなければと考えていたはずなのに、私は去っていく良樹を引き止めることが出来なかった。それどころか自分が良樹にされた行為に恐怖し、良樹がネフェルティティに連れられ、自分から離れて行ったことに安堵さえ感じてしまったのだ。


 自分の身体を両腕で抱いて擦る。良樹とは言え、彼以外の男性にあんな風に触れられるのは今の私では耐えられなかった。

 ネフェルティティと一緒に去ったということは、良樹は彼女と一緒に西の宮殿にいる可能性が高い。私がツタンカーメンの子を妊娠したと知って、良樹は何を思っただろう。怒り、悲しみ、落胆──恨んでいるだろうか。


「王妃様?どうかなさいました?」


 黙ったままの私を心配して侍女たちが覗き込んでくる。


「もしやご気分が?」


 周りの侍女たちが一斉に心配してきたものだからたじろいだ。


「大丈夫。違うのよ」


 要らぬ心配をかけまいと笑って返す。

 胸やけはまだ感じてはいても葡萄園の時ほど酷くはない。あの時はいきなり自分の身に何が起こったのか分からず、半分パニックになってしまっていた。重い病気にでも罹ったのかとさえ思うくらいだった。


「ご出産の際は私どもが付き添わせていただきますので、どうぞご安心ください」


 メジットがいつもより頬を染めて、にこやかに声をかけてくれる。声も興奮のためかいくらか抑揚が増していた。


「体調が安定するまでご気分が優れぬことも多いでしょうが、どうかご辛抱くださいませ。私どもがお支えいたします故。さ、お身体をお休めください。無理はなさりますな」


 同意で頷く周りの侍女たちに心強さを覚え、お礼を述べた私はほっと息をついた。

色々なことが目まぐるしく起きたせいでどこか身体が重い気がする。この身に起きたことを彼に伝えたくても今日の帰りは遅くなると言っていたから、帰って来るのは早くても数時間後だろう。今は大事に、安静に、授かった命を守っていかなければ。

 まだ信じられないような不思議な感覚に覆われながらもほんのり胸が暖かい。小さな幸せが身体の奥に灯っているような温もりを覚えつつ、寄り掛かるように寝台にもたれかかった。


 私の妊娠を知ったら彼はどんな顔をするだろう。喜んで笑ってくれるだろうか。それとも突然で驚くだろうか。泣いたりするだろうか。それでも彼が感情をむき出しにして喜ぶ姿が想像つかなくて一人で小さく笑ってしまう。王には相応しくないと言って、あまり人前で感情を表に出すことをしない人だから。

 侍女たちの話声を聞きながら天井を見上げていた時、部屋の扉が大きな音を立てて開き、続いて黄金の音がした。


「ヒロコ!!」


 声に、胸の奥が揺り動かされ、自ずと寝台から身体が持ち上がる。

 突然の王の帰還に、周りが驚きながらも恭しく頭を下げていく。侍女たちの頭が下がり、道が開けられて、その先に彼の姿が見えた。驚いたように見開かれた淡褐色の眼差しは、寝台の上の私にまで十分に届いた。


「アンク……帰ったの?」


 黄金を鳴らして彼がずんずんとこちらへ歩んでくる。寝台に乗り出し、私に手を伸ばしてきて、私が伸ばした腕に、褐色の手が伝い絡んで肩を掴んだ。


「急いで戻ってきた」


 よく見れば彼の額には汗が滲んでいる。呼吸も荒かった。そっと腕を伸ばして、彼の固い髪を撫でる。


「こんなに早く……どうしたの?」

「どうしたもこうしたもあるか。侍医には診てもらったのか」


 慌てたように、彼は私を覗き込んで尋ねてきた。


「もう知っているの?」


 私の身体に起きていることを。伝えるのはもっと遅くなると思っていたのに。懐妊の知らせはさっき使者を使わせたばかりだろうから、てっきりまだだと。


「大丈夫なのか。ネチェルからカーメスを通じて知らせがあったのだ、お前が重い病かもしれぬと」


 寝台に腰を降ろし、彼はまだ焦燥を隠せない様子でそう言った。話が噛み合わなくて首を傾げてしまう。そんな私にますます奇妙だと、彼も同じように首を傾げる。二人して首を傾けている姿はきっと周りから見たらさぞ滑稽だっただろう。


「……病、ではないのか?まあ、見た所今朝と変わらぬようだが。少々頬が赤いだけか」


 小さな戸惑いを浮かべた表情が目の前に迫り、長い指が私の頬を撫でる。


「もし何かの病なのであればすぐにでも医師たちを集めなければならぬだろう」


 思い返してみれば私を葡萄園で発見した時のネチェルの慌て様は目を見張るものがあった。きっとその時にカーメスを遣って彼に知らせてくれたのだろう。そうでなければ、彼がこんなに早く来てくれるはずがない。懐妊の知らせとは行き違いになってしまっているのだ。


「アンク、あのね、病気じゃなくて」

「顔色を悪くして屈みこんでいたというのに、病でなければ何だと言うのだ。病を甘く見るな。兄も姉も父もそれで死んでいる。お前を易々失ってなるものか。侍医、いるのならばこちらへ来い」


 心配してくれるのは嬉しいけれど、事情の分かっているネチェルは暖かな笑みを浮かべ始め、他の侍女たちに関しては申し訳なさそうにあたふたしてしまっているから、早く間違いを訂正しなければと焦ってしまう。


「ねえ、アンク」


 呼びかけるのに聞いてくれない。そわそわして侍医に早くこちらに来るよう、私に腕を回したまま急かしている。仕方ないと言えば仕方のない反応だった。彼は家族のほとんどを病気で亡くしているために、病気というものにとても敏感なのだ。命じられてこちらにやってくる侍医の顔は、微笑みに微笑みを重ね、空から見守る神様のような表情を浮かべていた。


「侍医、妃は何の病なのか。もし、父と同じならば一刻を争う。すぐに医師を集め、薬を作らせなければならぬ。施設の優れた医師たちを直ちに集めよ」

「だから違うのよ。お願い、聞いて」


 服を引っ張って話を遮る私に、彼は眉間に皺を寄せる。


「ならば一体何だと言うのだ。私は今侍医とお前の」

「赤ちゃんよ」


 ぴたりと彼の口が止まった。表情も動きも、見事と言う他ないくらい、テレビのリモコンで一時停止ボタンを押したように止ってしまった。


「私のお腹に、赤ちゃんがいるの」


 彼が私を驚いたように見つめてから、侍医の方を向く。侍医もにっこりと笑って、「左様です」と恭しく返事をした。そしてまた私をその淡褐色に大きく映し出す。


「私とあなたの赤ちゃんが、私のお腹にいるのよ」


 彼はしばらく呆然としていた。その表情が、どんな感情を表しているのか読み取れず、ただ彼を見つめ返していると、やがて彼はぽかんとした表情のまま、力を抜いて広い肩を下ろした。

 広がる沈黙がある。その中にひとつ、息を呑む音が落ちていく。

 何の返事がないものだから今度は私が戸惑ってしまう。もしかしたら、私の空回りだっただろうか。彼はあまり子供や妊娠を考えていなかったのだろうか。そもそも、授かれたらとは思ってはいても目の前のことに精一杯で今までそういう話をしたことがなかった。

 私だけが大げさになってしまったのかもしれないと思い始めた頃、黙り込んでいた彼がぴくりと動き出した。


「……ほん、」


 ぽつりとした彼らしくない声が落ちてくる。


「本、当に……」


 言葉を詰まらせることが滅多にないその人が言い淀んでいた。やがて彼の手が動き、私の腕を辿って両肩を優しく掴まれる。彼の目がとても綺麗で、肌から伝わる熱に、どうしようもなく私まで言葉に詰まった。


「本当に、子が?」


 声を出して返事をしたいのに、彼の例えようの無い表情に感極まって何も言えなくなる。胸の奥から何かがこみ上げて止まらなくなる。だからその代わりに、両手で彼の頬を包んで頷いた。そうなのだと、出来る限りの頬笑みを湛え、一回だけゆっくり首を縦に振った。

 淡褐色の視線が私の目から私の腹部へ移動し、彼の手が静かにそこを包むように触れた。


「ここに……」


 恐る恐る撫でる彼の手は、泣き出したいほど暖かかった。


「ここに、いるのだな」


 そう。ここに宿ったのは、あなたの子。あなたと、私の赤ちゃん。

 小さかった幸せが突然大きくなって、咽かえりそうになる。

 お腹にあった手が私の頬に動いて流れ、髪を撫で上げる。労わるように、慈しむような彼の手に自ずと目頭が熱くなる。私の頷きに彼は小さく笑みを乗せ、今にも泣き出しそうな優しい笑顔を向けてくれた。彼が喜んでくれているのだと知ったら一気に涙が込み上げて堪えきれなくなる。

 そのまま褐色の腕が私を包んだ。それはもう、息が止まるのではないかと思うくらいの強さだった。私の肩に顔を埋め、彼は掠れた声で「そうか」と一言耳元に囁いた。それから私の髪を何度も撫で、抱き締める腕に力を込めた。この人が感じているものが触れ合っているところから伝わってきて、彼の首に腕を回し、思いのまま抱き締め返した。彼の身体は僅かに震えていた。


 嬉しかった。言葉で言い表せないくらい、嬉しかった。

 授かったこの子が、彼の何よりの生き甲斐になるといい。死を傍にしている彼に、死を忘れさせてくれるくらい幸福に満ちた、愛おしい存在になってくれるといい。

 私を抱く彼も、私の中に宿った存在も、どちらも掛け替えのない愛しい命なのだと噛み締めたら、暖かなもので胸が満ち溢れて自然と頬に熱い涙が伝っていった。

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