嫉妬となりて
* * * * *
頭上は、葡萄の実と蔓や葉の緑にどこまでも覆われている。葡萄酒は王家直売で扱っていることもあり、想像以上に葡萄畑は広かった。こうして眺めていると、ギリシャかどこかの庭園にでもいるような気分になる。そんな紫の庭を囲む壁に寄り掛かりながら俺の口先はあの曲を紡いでいた──グリーンスリーブス。緑の袖という題名を持った、哀愁漂うイギリス民謡。
歌詞の意味は何とも言い難い悲しい男の想いを綴ったものだとされている。悲恋を表しているらしいが、比喩が多すぎることと抽象的な歌詞でその説さえ定かではない。どんな歌詞だったかと唐突に考える。いつも鼻で旋律だけを歌っていたら覚えていないと思いきや、頭の中に歌詞がぽつぽつと浮かんできた。
「Alas……my love……you do me wrong,」
案外、人の身体は自分が思っているよりも賢いようだ。
「To cast me off……discourteously」
風が吹いて声もそれに流されてしまったかのように消えていく。頭上の紫の粒が揺れて自然の香りを沸き立たせ、ざわざわと揺れる大きめの葉に合わせるように俺の髪も揺れていた。
うるさい車の音も、けたたましい飛行機の音もない。ありのままの自然の音に溢れたこの世界を、時に憎くも、愛おしくも感じるのは何故だろう。
「──良樹」
微かに鼓膜を震わせた、風ではない音が吹き抜けた。久しぶりに聞いたその声に、脳が揺り動かされたような感覚が襲い掛かる。
俺の名だ。綺麗な日本語の、俺の母国の発音での俺の名前。
壁から背をはなし、声の主を求めて右へと首を動かすと、紫と緑の間に誰かが一人立っていた。
女だ。長い麻のスカートを向こうから流れてくる風にカーテンのように靡かせ、手首の黄金を煌めかせた長い髪の娘。
ああ、と小さく声が落ちた。儀式で見た時よりも身なりは質素だったが、一目で分かる。
「……弘子」
綺麗になった。髪も背中まで伸び、面立ちも大人びている。
そうだ、再会するたびいつも彼女は綺麗になって俺の前に現れるのだ。大人びて、一皮むけて、花を咲かせて。成長すると、女性は美しくなると言うが本当にそうだと思った。
あれほど不安に埋もれていた自分が嫌になる。どこからどう見てもいつも通りの弘子ではないか。変わらない、工藤弘子そのものではないか。
彼女との間に流れる空気さえ惜しくて俺は何も言わず駆け出した。彼女と俺を取り巻く紫を越え、緑を越え、手を伸ばしその身体を引っ張って我武者羅に胸に掻き抱いた。驚く彼女を抱き込み、腕の中に閉じ込める。腕に納まる存在が愛おしくて、彼女の髪に顔を埋めた。
呼吸が聞こえる。鼓動が聞こえる。ぬくもりがある。泣き出しそうなくらい、それが嬉しかった。同時に抱き締めて感じる彼女の熱が、こんなにも愛おしく思うのかと驚愕した。
「……本当に、良樹なの?」
しばらくして、辛うじて出せたというような掠れ気味の声で、俺の背に腕を回した彼女が問うてきた。
「俺だよ……良樹だ」
この腕の中の身体が僅かに動き、弘子が顔を上げて俺を見つめていた。
「無事、だったのね……会いたかった」
目頭が熱くなるのを堪えながら身体を離して頷く。彼女の変わらぬ瞳は大きく潤み、俺を映していた。俺だけを。
「でも、どうしてここに?私、ずっと王宮の外に良樹はいるんだとばかり……」
「話は後だ。ネフェルティティは?」
弘子を連れてくると言っていたあの美女がどこにもいない。
「外に……」
辺りを見回してネフェルティティのを探していると、弘子が戸惑った様子で教えてくれた。俺たちの様子まで監視するのかと思っていたのだが、そうではないようだ。今の俺は見張りもない自由の身だ、そして弘子がやっと腕に戻ってきた。逃げ出すならば今しかない。
「ここを出よう」
混乱している様子の弘子の肩から手を離し、そのまま腕を掴む。早くこの向こうへ。紫の外へ。こんなところにこれ以上いられない。
だが、彼女を引いて歩き出そうとしても弘子は拒んで進もうとしなかった。
「どうした」
振り向くと思い詰めた彼女の顔がある。
「待って。良樹に、聞いて欲しいことがあるの」
戸惑うものの、彼女がここからの脱出を拒む理由は知っている。弘子はいつだって、頼み事は最後までやり切ろうとするのだ。
自分を落ち着かせて、両手を彼女の肩に乗せ、腰を屈めた。
「お前が強制されて王妃をやってるのは聞いてる。いくら似てるからって最後までいる必要はない。このままここにいたら、俺たちはあの男に引き離されるだけだ」
俺の言葉に、俯いていた弘子が驚いたように顔を上げて目を瞬かせた。
「あの男?」
「あいつだよ、ツタンカーメン。お前を手放すつもりはない、そう俺に言ったんだ」
その名を告げたら漆黒の瞳孔がますます開いた。
「アンクと、話したの?」
トゥト・アンク・アメンの真ん中の名。随分親しげに呼んでいるものだ。
「昨日呼ばれたんだ。弘子に会わせてほしいと頼んだら、会わせるつもりはないと言い切られた。だからネフェルティティに頼み込んでお前を呼び出してもらったんだ」
俺から視線を反らした彼女は丸い目のまま再び俯き加減になった。酷く戸惑っているようだった。
「聞いてなかった……良樹のこと。彼から何も」
「あいつはお前を手放したくないんだ。弘子を連れ帰ろうとしている俺に会わせたくなくてお前に何も言ってないんだろう。自分勝手な奴だ」
「そんな……」
「あんな我儘じゃ、早死にも無理ないよな。誰かに恨まれるのも当然だ」
貶したくなった。あいつのことが。あの眼も、眼差しも、仕草も、弘子と呼ぶ声も口元も、今思い出すだけで全てに腹が立つ。嫌いだ。
「だから行こう。今しかない」
それでも彼女は動いてくれなかった。
「……私、エジプトの王妃になったの」
「知ってる」
弘子があの男のことを口にするほどに苛立ちが募った。いつネフェルティティがやってくるか分からない。この機を逃せば、俺はもうあの女の下僕になるしかない。
「それは強要されてのことだろう。お前は王妃なんかじゃない。日本人工藤弘子、それだけだ」
「この時代で生きたいと思ったから私は彼の申し出を受けた。彼の傍にいたいと願ったの。……もう、私は工藤弘子じゃない。アンケセナーメンの名を背負ってる」
予想外の返答に、俺は思わずこちらを捕える真剣な眼差しをまじまじと見つめてしまった。
「それはどういう……」
「彼を愛しているの」
彼女は真っすぐ俺に向かってそう言った。目は大きく潤み、まるで祈るような眼差しがある。
槍か何かで頭を貫かれた気分になった。嫌な予感ばかりが的を射ていく。
「メアリーの、言う通りなのか……?」
掴んでいた彼女の手を握り締め、沈黙の中、俺は噛みしめるように問うた。出てきた親友の名に、弘子は胸の上で左手薬指を右手に包みながら視線を上げた。
「メアリーに聞いた。お前が現代を捨ててここで生きるって言ったって。アンケセナーメンの生まれ変わりで、あの男が好きだからって。でもそれは、あの男がいたからついた嘘だと俺は」
──考えていたのに。
弘子は何も言わず、瞼を伏せて俯く。
違うのか。メアリーが間違っていたのではなくて、俺が間違っていたのか。
「本当に弘子、お前……」
嘘だと。冗談だと。そういう言葉が聞きたいのに、その欲しい言葉を彼女の唇は発してくれない。
「馬鹿言うなよ」
「彼を死なせたくない、失いたくない、そう思ったの」
何が、失いたくないだ。
「失う時がいつか来ることくらい分かってるだろう」
吐き捨てるように言う。
「お前は21世紀の人間だ。ここで生きている人間よりもずっと高尚で、尊い存在……それが俺たちだ。ここにいるべき人間じゃない!」
この時代の人間のせいで、どれだけ俺やメアリーが苦しんで来たか。苦しめられて来たか。なのに、弘子はかぶりを振る。
「違う!みんな変わらない!現代人も古代人も想うことも、考えることも!ただ技術が無いだけ、それしか変わらない。どちらが尊いなんてない!」
「ここが古代で、あいつが誰だかお前も知ってるだろう!」
弘子は唇を噛み、悲しみと怒りと申し訳なさを織り交ぜたような眼で俺を見つめた。結んだ口元が震えている。今にも血が出そうなくらいに噛み締められている。
「あの男は死ぬ。あと2年半の内に、必ずだ。陰謀に塗りたくられた世界に埋もれてあいつは死ぬ!それが決まった未来だ!」
全部、推論上での話でしかない。あいつが陰謀に塗れてか、それとも不慮の事故で死ぬのかなんて誰も知らない。未来人の俺でさえ。だがこれだけは確実だった。
「俺たちにとってあいつは過去の人間で、もうすでに死んでる存在でしかない!愛しても、恋をしても、どうしようもない相手だってお前だって分かってるはずだ!」
「でも彼は今」
「お前だって現代で気にも留めなかった名前だろう!ツタンカーメンと言えば黄金のマスク、それで終わりだったはずだ!あの時に戻れよ!あいつはお前が人生を犠牲にするほどの相手じゃない!」
3000年の時を越えた貴重な財産。それが21世紀に残る古代エジプトのミイラの代名詞であり、「物」でしかない。俺たちはその傍を通り過ぎ、ただの歴史的文化財としか見てこなかった。遠すぎる時代の死体だから。弘子だって変わらなかった。
「あの男がミイラになるのを見たいのか!お前にそれが耐えられるのか!すぐ死んで、ミイラにされて、あのKV62に埋葬される!!それがあの男だ!お前が一緒にいたいと言った男の末路!」
「やめて!!」
今にも泣き出しそうな顔をして、弘子は俺の胸を叩いた。ふるふると首を振り、震えていた唇を開く。
「彼は生きてるわ……今を生きてる!死なせない、私が死なせやしない!!」
「だからってお前に何が出来る!口先だけだろう!簡単な気持ちで抗えるほど、歴史は単純じゃない!お前や俺も、ちっぽけすぎる存在だ!」
歴史とは偉大な物だ。今この状態に置かれた身であるからこそ分かる。俺たちがいた未来があるのだから、ここから起こることはすべて最初から決まっている。それを変えることなど誰に出来る。
歴史は流れる。絶え間なく、大河となり流れていく。俺たちはその中に放り投げられただけの存在でしかない。現代に戻らなければ流されて終わるだけなのだ。
「私はここで生きると決めた!この国の王妃になった!もう後には引けない!」
小さい頃は、すぐに言うことを聞いてくれた。
弘子の母親に頼まれ、公園まで迎えに行って「帰ろう」と言えば「帰る」と答えて、泥に汚れた頬に笑みを浮かべた弘子はこの手を取った。暴れ犬のいる家の前を通る時は「後ろに隠れていればいい」と俺は言い、「隠れてる」と怯える弘子は背後に回った。手を繋いで、夕陽が照らす道を歩いていた。
一つも不変ということは無いのだと知っている。世は無常だ。ただ、それを信じたくないと言う、諦めの悪い俺がいる。
「ああ……そうか。そう言うことか」
何とか意味を変えようと無理に辻褄を噛み合わせる。今度は声を荒げず、優しく諭すような仕草でもう一度彼女の瞳を覗き込んだ。
「帰る方法がないからそうしたんだろ?なら、ここを出て俺たちだけで暮らそう。そうすればいい。居場所なら俺たちの手で作れる。現代に帰れないならそれが一番の選択だ。こんな生きる時代の違う奴らだらけの国なんかにいないで、俺とメアリーと弘子で」
あいつは呪われた男だ。歴史に呪われた、不運な王。あんな男に弘子は渡さない。
「なあ、一緒に帰ろう。ここを出よう。今ならまだ間に合う。もしかしたらアンケセナーメンっていう名前の奴が後から出てきて、そいつが歴史の中の彼女になるのかもしれないだろう。お前がわざわざ悲劇の王妃の名を継がなくたっていいんだ」
なのに。
「二人が現代に戻れるように宰相と話し合ってるの……必ず、二人のことは私が責任を持って現代に帰す。でも、帰れるようになったとしても、私は帰らない。ここに残る。死ぬまで彼の傍にいたい」
彼女は俯いて静かに俺に告げた。
恐怖が、俺の背筋を這っていくような感覚があった。ちかちかと、あの男の顔が脳裏に蘇る。
「目を覚ませよ、弘子!!」
恐怖を紛らわせるかのような、荒い声が喉から飛び出した。風が吹いて葡萄の実の擦れる音にさえ、不安と恐怖が大きく煽られた。
「彼はこの時代で私に居場所をくれた人!私を救ってくれた人よ!その人を見殺しにするなんて私には出来ない!」
「馬鹿言うな!忘れればいいだろう!人は死んだらそれで終わりだ!魂も甦りも生まれ変わりも決して現実に起こることはない!」
「それでも3300年の時を越えてこの砂漠の国で彼は私を呼んだわ!私の魂は彼の声に応えた!だから」
「言うな!!」
こちらの怒声に相手は怯み、言葉を切った。俺自身も途切れた呼吸を耳で聞いている。
何に対して怒っているのか、どうして怒鳴ったのか、自分でも分からなかった。生きてきて、こんな大きな声で怒鳴ることなど滅多になかった。怒りを覚えても自分の中で留め、消化するのがいつもの俺なのに、この止まらない怒りに似た感情は何なのか。
メアリーと同じで、恋までして呑気に過ごし、時代を捨てた彼女に向けてのものなのか──違う。
小さな肩を掴んで、大きく見開かれた相手の目を見て気づく。これは嫉妬だ。あの男を選んだ弘子への。彼女の情熱的な目を生み出したあの男への。弘子が俺の言葉に耳を傾けず、あの男のことを話すのが堪らなく嫌だ。この眼に俺は映っているが、本当に映っているのが自分ではないことに、腸が煮えくり返る思いがする。
「良樹、痛い……」
力を入れ過ぎて自分の指が彼女の肩に食い込んでいた。痛みに弘子は身を小さくし、俺の腕を掴みながらその肩を震わせている。制御が利かなかった。どうすることも出来なかった。高ぶって、すべてをぐしゃぐしゃにするような激情でどうにかなりそうだ。
「……ふざけんなよ」
やっと出た、上擦った声だった。
「あんな男なんか見るなよ!なあ!」
弘子を引き寄せて、これでもかと顔を近づける。大きく見開かれた瞳は俺を恐れるかのように揺れていた。ここに映っているのは俺なのに、俺ではない。彼女の瞳の向こうにあの男の目があるような気がした。エジプト人には似つかわしくないあの淡褐色が。
「現代なんてどうでもいい!帰れなくたって俺は構わない!」
あの便利に満ちた機械の時代でもなく、揃った医療機器でもなく、俺が欲するものは。
「俺だけを見ろ!俺を選べよ!」
弘子だけだった。
弘子さえいれば良かった。弘子が俺に着いて来てくれさえすれば良かった。それだけを支えにここで生きて来たのだ。会える時を、再会の瞬間を、そしてこの良く分からない時代から共に抜け出す瞬間を。ただそれだけを望んで来たからこそ、この時代で希望と正気を保って生きてこられた。会えたなら、この手を迷わずとってくれると信じていた。信じていたのに。
「……お前が好きだ」
喉が震えた。弘子の驚いた顔が目の前にあった。
当たり前だ、彼女にとって俺は兄のような存在だったのだ。以前告白をしたときも冗談に思えていたのだろうし、今この状況でこんなことを言われるなど思ってもみなかったのだろう。
もっと大切に言いたかった言葉を、こんな形で伝える結果になったことに自然と虚しい笑みが漏れる。
どうしたらいいか分からないというように後ずさった彼女の腕を掴んだ。離さない。離して堪るか。
「弘子、俺と一緒に生きよう。ここを出るんだ」
「わ、私は……!」
強引だった。相手の答えを待たず振り払われそうになっていた腕を回して抱き込み、彼女の髪と首筋に顔を埋め、唇を肌に押し付ける。腕の中にある身体がびくりと大きく動いて、こちらの力に抗った。
「い、嫌!やめて!!やだ……!」
彼女をそのまま傍の壁に押し付けて、頬を掴み唇を奪う。相手が声を上げようと緩ませた唇を割って、自らの熱を押し込んだ。身を震わせた弘子は俺の顔を押しやって、必死に抵抗する。ここから逃れてどこへ行こうとしているかなんて分かってる。あの男のところだ。行かせたくない。
抗う弘子の腕を掴み、乱暴に引き寄せ、彼女を抱き上げようとその身体に手を伸ばした。大事な存在だ。何よりも。
「いやっ!!」
俺の手から彼女の手がすり抜け、こちらの頬へ落ちてきた。弾ける音と共にやってきた痛みに、反射的に弘子を押さえ込んでいた力が弱まる。
「わた、私は……!」
逃れ、涙目になった弘子は咳き込みながらもそこまで言って、急に顔色を変えた。口元を抑え、真っ青になった表情のまま、壁にもたれかかるように沈み込む。
「弘子!」
突然の事態に、咄嗟に屈み込んで彼女に手を回したが、やめてと弱々しい仕草で払われた。精一杯に送られてくる視線は、間違いなく俺を警戒するもの──怯えるものだった。だがそれは一瞬で、弘子はまた屈んで小さな乱れた呼吸を落とす。
彼女に何が起きたのか分からず、思考を整えて状況を整理する。精神的に追いつめられてのものか。精神と身体というものは呼応するもので、こういう場合もある。
いや。何かが違う。直感的なものが一瞬走ると、嫌な予感が思考を横切って止まらなくなった。
弘子は自分の身に何が起こっているか分からないと言うように、青ざめたまま口元を抑えている。不規則な呼吸を落としながら、今にも吐きそうな状態だった。
その姿に、一つ。一つだけ原因が浮かぶ。浮かんだ可能性に俺の身体は脳震盪でも起こしたかのように硬直した。
「弘子、お前……」
嫌だ。嘘だろう。
「あの男と……!」
彼女の肩を引っ掴んで叫び、揺さ振った。悲鳴が彼女の口から漏れ、小さな身体が大きく揺れた。
「よ、良樹、やめ……いや」
蒼白の彼女は、腕で俺の胸を押しやろうともがいているが、吐き気に邪魔されてほとんど力が入っていなかった。
まだ、可能性に対する確証はない。単なる何かしらのアレルギー反応や、風邪などの症状の一つかもしれない。けれど、こんな時になってアイの言葉が脳に反復される。
『──問題は、王妃が身籠らぬかどうかだ』
あり得ないと思っていた。ツタンカーメンに後継ぎがいなかったからこそ、王位継承問題が起きたのだから。
それでも今はそれしか考え付かなかった。もともと弘子はアレルギーを持つ体質ではない。それに時期的なものを考えても。
「……そんな」
こちらの身体まで震え出して、俺は弘子を放して立ち上がり、彼女を茫然と見下ろした。吐き気が治まりつつあるのか、彼女は怯えながらも俺を見上げている。互いの視線がぶつかっていた。
お前は、あんな男に身体を許したのか。将来を何も考えずに、その身を委ねたのか。
「王妃様!?」
響いた声にはっとして背後を振り返った。
「どこにいらっしゃるのですか!!王妃様!」
遠くから侍女と思われる声が迫っている。嫌がられたら担いででもここから弘子を連れ出すつもりだったのに、俺の身体は所有者を失ったように動かなかった。
「ヨシキ、もう時間よ」
いつの間にか俺の横に、ネフェルティティが立っていた。一瞬弘子を見やってから俺を見据える。
「王妃がいなくなってることに侍女たちが気づいて探してる。見つかったら私たちの立場が危ない」
茫然と立ち竦んでいた俺は、美女に腕を引かれ、地面に座り込んだままの彼女を残してその場から走るようにして去った。弘子の頭上に広がる葡萄の紫が、やけに美しかった。
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