紫の向こう

* * * * *


 頬が撫でられている感触に、重たい瞼がようやく持ち上がった。

 開いた視界に射し込んだ光が眩しい。大きく息を吸い込み、開きかけた瞼を一度閉じる。自分の頬に触れているものに軽く手を置くと、穏やかなぬくもりがあって心地良かった。


「ヒロコ」


 名を呼ばれ、もう一度深く呼吸をして瞼を押し上げてみれば、視界の中に彼が現れた。自分の頬を撫でていたのはこの人の手だ。はっきりしてきた彼の表情はどこか気遣わしげだった。

 寝起きのために掠れた声で彼の名を呼ぶと、彼は身を乗り出して、私の頬を撫でながらそこに軽く唇を落とす。くすぐったさに身を捩ると、そのまま覗き込むように私を見つめた。


「大丈夫か。気分が優れないか」


 何故そんなことを聞くのだろうと不思議に思いながらゆっくり身体を起こし、周りを見回して驚いた。陽がずいぶん高く上がっているのだろう、部屋に差し込む日差しと影の位置が昼に近い位置にある。目の前の彼もすっかり着替え終わって身支度が済んでいた。自分がどれだけ寝ていたかを知って唖然とする。


「ごめんなさい……随分寝ちゃってたみたい」


 数か月前まで彼より先に起きて、ナルメルに文字等を学んだ後に彼を起こしに行くくらいだったのに、ここ数日は彼に起こされることの方が多い。寝不足ではない、十分に睡眠はとっている。むしろ彼より早く寝ているくらいだ。そう考えている内にも眠気が襲ってくるものだから呆れる。このまま寝具に戻ってしまいたくなる欲求は何なのだろう。


「眠っているのは構わないのだが、しんどいのか」

「そんなことはないのよ」


 ぐっと身体を伸ばして寝台から出ようとすると、彼が心配そうに私の身体に手を添えた。熱を確かめるように私を軽く胸に抱く。抱き寄せられている感覚の気持ち良さに身を預けた。


「ただ、眠気が強いだけなの」


 気分が優れない訳ではない。ただ凄まじい眠気で日中にうたた寝してしまうことがある。ようやくこの都に馴染み、これまでの疲れが今になって出てきているのだろうか。


「身体も熱っぽい気がするのだが」

「……そう?」


 目を擦りながら首を傾げる。自分では熱っぽさは感じない。


「風邪でもひいたか」

「多分環境が変わって調子が狂ってるだけよ。目が覚めれば走れるくらい元気だもの」


 大げさに心配するものだから笑ってしまう。彼から身体を離し、奥に控えているネチェルを呼んだ。これ以上寝ている訳にもいかない。


「だがヒロコ」

「小さい頃もそうだった。環境が変わるとすぐに体調を崩してお母さんによく心配かけて………でもすぐに良くなるから大丈夫。心配しないで」


 環境の変化に弱いのは昔からだ。気分が悪いわけではないから格別気にすることでもないのに、彼は私を寝台に戻そうとする。


「最近食欲もないではないか」


 食べる量は減ってはいても、どうということはない。


「暑さにばててるのよ。時期戻るわ」


 何を言っても納得しない彼によって結局は侍医が連れて来られた。診察を受けても風邪をひいたわけではなさそうだということと、安静にしているようにとだけ告げられて終わり、その指示通り、私は彼からも部屋を出ないように言いつけられ、数日間自室と庭を行き来する日々を送ることになった。時折ナルメルやカネフェルに付き合ってもらい、知識を増やすことに専念した。

 侍女のネチェルはとりわけ私の身体を労わり、私が何をするにも自分が代わりにやると買って出た。心配しているというよりかは、そわそわして私の様子を窺っているようでもある。何かあるのだろうかと首を傾げてしまうくらいだ。


「どうか、どうかお身体をお労わりください」


 これが最近のネチェルの口癖だった。体調を崩した訳でもないのにこの心配様には困惑してしまう。

 ネチェルや彼だけではない。他の侍女を含め、カーメスやセテムたち臣下のほとんどが私の行動を制限した。おかげで眠い時は部屋につながる小さな庭でうたた寝をしてしまう始末だ。一人で勉強をしようと思っても、文字を追っていくだけでうつらうつらし始めて全く勉強にならなかった。



 そんな日常が一週間ほど続いた頃、いつも忙しく政務に追われている彼が午前中ゆっくり出来る日があった。その日ばかりは眠気もなく、部屋に繋がる庭に腰を降ろして彼が持ってきてくれたパピルスに目を通していた。


『香油を塗って踊り祈ってみる』


 香油は宗教的な意味を持つものだから、儀式の厳かな雰囲気ならば案外時空を超えるという超常現象を起こしてくれるかもしれない。そう考えて、持っていた木製のペンで印をつけてから次の項目へ視線を移す。


『神を祝福しながら神殿より飛び降りる』


 これは奇抜すぎるからやめておく。落ちて怪我をしたら元も子もない。

 印をつけたものだけを改めて眺めてみたらため息が漏れた。これで未来に繋がればいいのだけれど、確実そうなものはない。とりあえず試さないことには始まらないから、時間を見つけて試してみようと心に決めた。

 パピルスを眺めている内にあれ以来会えていないメアリーを想った。女官でしかない彼女には簡単に会うことは出来ず、時々メジットに様子を尋ねてみても、深く関与している訳ではないらしく、曖昧な情報しか得られなかった。最近では西の宮殿の方で仕えているという話もある。もしかしたら、私を恨んで敵対するアイの方に自ら付いたのかもしれない。それならそれで仕方のないことだと肩を竦めた。私にとやかく言う権利はない。もうすぐ見つかると言われていた良樹の行方も分からないままだ。

 割り切ったはずのものばかりに気持ちが沈んで、これではならないと振り切り、空を仰いだ。真上の晴天に広がる薄い雲がある。胸で浅く息をして耳を傾けると、すぐそこのナイルを溜めた池のせせらぎが聞こえてきた。


 隣にはヌビアから送られてきたという書簡に目を通している静かな彼が腰を下ろしている。囲む木々の木漏れ日がその肩に揺れていた。彼は十代の時にヌビアとシリアに視察に行って、それ以来この二つの国とは友好関係がとても良好なのだと言う。

 彼を眺めながらもう一度息を吸い、視線を動かしてすぐ傍のナイルを覗く。池に私の顔が映った。風がその上を走って、像を歪ませ、また元通りに映し出されるのを見届ける。

 私だ。アンケセナーメンと瓜二つと言われた私の顔。


「……アンケセナーメンって、どんな人だったの?」


 ぼうっとしていたら、急にそんな質問が口を突いて出てきた。拍子抜けな質問だったのか、顔をあげて彼は小さく笑う。


「どうした、いきなり」


 理由は見つからない。本当に何となくだった。


「前は呼ばれる度に嫌だと連呼していたではないか。泣くわ、喚くわ、言うたび失敗したとどれだけ頭を抱えたか」


 昔は嫌で仕方がなかった。私の人格が否定されているようで、呼ばれるほどに無くなってしまいそうでその名を拒んだ。だから彼も彼女の話は最低限にしかしなかったし、私も聞かなかった。


「知りたいと思ったの」


 古代に来てからの1年の内は何度か自分の意に反して口や身体が動いたりしたけれど、今はもうほとんどない。消えてしまったのかとも思った。けれど、胸の奥にまだ眠っているような気がする。出てくる時期を、息を潜めて待っているような。

 胸に手をやると、何かを数え上げるかのように定期的に音を生む鼓動がある。

 目を覚ます時がいつか来るのだろうか。私の中の彼女が、いつか。


「強い女だった」


 手にしていたパピルスをまとめて、やや瞼を伏せた彼はそう言った。掛けられた声に顔をあげて彼に視線を送る。


「顔はヒロコと少しも違わぬが中身が違う。何をしても涙を見せず、根が真っ直ぐしていて決して弱音は吐かぬ。王家と国のことを何よりも考えていた神々に愛された王女……女のくせに武闘にも長けていたぞ。男をよく負かしていた。もっとあるのだが、ありすぎて言い切れぬ」


 まさに文武両道な女性だったのだ。私の想像では佇まいが舞台女優のようで、射抜くような強い眼差しを持った女性。私より輝いて見えたというのは、きっと彼女が持っていた内面的なものによるものだ。私も彼女のようになれたらいいのだけれど、自分の持つ不安を自分で処理できない私はまだ彼女の足元に及ばないのだろう。


「私の父を始め、兄もカーメスあたりも……とにかく周りの男どもが惚れるほどだった」

「カーメスが?」


 少し抑揚のついた声に、彼はくすりと笑った。体勢を楽にして淡褐色を遠くに投げる。


「あの者はこそこそ隠れてはアンケセナーメンを見ていた。身分が違うのもあって想いを打ち明けたことはないのだろうが、誰よりも彼女を想っていたのもカーメスだろう。彼女が死んだ時、誰よりも涙を流していたのもあの男だ」


 何かに思いを馳せるように彼は空を仰ぐ。近くから吹き上がってくるナイルが彼の固めの髪を揺らしていた。


「姉が死んでも、カーメスがあのように王家に忠誠を尽くしているのは、姉が愛したこの国を守らんとするためでもあるのだ」


 いつも向けてくれている柔らかな笑顔の裏には、一途に人を愛した人格が隠れているのだと知る。


「……あなたも好きだった?」

「そういう感情よりかは憧れだな。本当に姉は姉でしかなかった。自分もあのような目が持てたらと何度思ったか知れぬ」


 嫉妬か、と彼は視線を向けながら答えてくれる。

 とても穏やかな心地で聞いていられるから嫉妬はない。ただ、とても不思議な感覚が私についてくる。


「兄と姉、幼い弟。二人は私のことを守ってくれていたのだ。今でもその記憶は忘れぬ」


 淡褐色の眼差しは空へ移る。そこに思い出が見えているのだと思った。兄と姉の間に挟まれて笑っていた王子だった頃の自分があの空の向こうに。


「この神の国はその二人が愛した国だ。だから今度は私がここを守る。そう決めて王となった。豊かであれ、幸であれと」


 それがあなたの願い。ならば、それが私の望みになる。


「外に出ると皆が笑っている。生き生きとした姿が心を打つ。それが嬉しい」


 この世界は命に満ちている。人は自然と共に一生を費やし、緑は豊かに天に伸びる。世にあるもの、それらによって生み出される音はすべてが声であり、絶えず私たちに語りかけているのだということも、草や岩、花にもそれ一つ一つに名前があり、想いがあって神になるのだということも、ここに生きるすべての人が理解している。だからこそ自然を偉大なるものとして崇め、大切にできる。自分たちがそれによって生かされて、それらがないと生きていけないことを、痛いほどに知っているからだ。


 どこからかヤグルマの香りがして、風が躍って植物を揺らした。

 目を伏せていたら髪にそっと触れる手に気づく。髪を越え、頬へ流れて。瞼を開ければ視界を埋める彼の微笑がある。焦げ茶の髪が音無く吹かれている。


「ヒロコがいて、皆が笑っていれば良い。それ以外何も望まぬ。幸せだ」


 彼の微笑みはどこか儚げだった。

 自分の死について絶えず考えているであろうこの人が、死を考えられなくなるくらいに幸せになってもらいたい。そう願ってやまない。

 彼に何がなんでも生きていきたいと思わせるような特別な何かがあれば──。


「ファラオ、失礼いたします」


 セテムが部屋から庭の方へやってきて頭を下げた。


「そろそろお時間です」


 太陽の位置を見てもうすぐ昼だと分かる。彼が出発する時間だ。彼が立ち上がるのに合わせて私も腰を浮かせた。


「今日は神殿の視察よね?」

「ああ、祖父が作ってきた神殿にまた像を立てているのだ。帰りは少し遅くなる予定だ」


 侍女が数人寄ってきて、彼の身支度を素早く整えた。腕輪を付け直し、肌を守るための上着を羽織る。


「完成したらお前に見せよう」


 また彼と共に外へ出られるのだと思うと胸が弾んだ。


「楽しみだわ。でもどうか気を付けて」


 愛おしげに私の髪を撫でている彼に言葉を贈る。

 彼が赴くのは工事現場であり、決して事故がないわけではない。


「ああ、ヒロコも無理はするな。まだ調子も戻っていないのだから、部屋を出るのは許さぬ」

「分かっています。大丈夫よ、いってらっしゃい」


 私に笑いかけて、彼はセテムを従えて部屋を出て行った。




 一人になった空間を見渡し、机に積み上げていた呪術関係の資料パピルスをまとめて、さっきの池の近くまで運んだ。これだけあれば一つくらいは未来に繋がる方法が見つかるのではないかと、宮殿の奥に設けられた図書館から借りて来てもらったのだ。

 古代の図書館と言えば、今から1000年後のプトレマイオス1世が作らせたアレクサンドリア図書館が最も有名だけれど、この時代でも十分な巨大施設らしく様々な蔵書があるようだった。

 そのまま腰を下ろして一つのパピルスに手を添えた時、ふとナイルに映った青い自分にまた目が行った。

 今日のナイルは綺麗な水色をして、まるで鏡のようだ。身を乗り出して像を眺めていたら、瞬間的に風に煽られ、揺らぎ、また水面に元通り映った顔に声を失った。

 ナイルに映る私の像は、私ではなかった。瞬きすることのない綺麗な瞳は私を静かに見据えている。

 眼が、違う。顔は私なのに、私ではない。

 飛び込めば別の世界が存在しているのではと感じてしまうほど、彼女の青の向こうは澄んでいて美しかった。恐怖と、言葉に出来ない不思議な心地に飲まれて私は像に向かって手を伸ばす。像と同じように瞬きを忘れて、何度か躊躇いながらも近づける。それだけ張りつめた緊張の上での行動だったのに、指先に水面が触れた途端、円の水紋が広がり、敢え無く崩れ去った。

 幻だったのか、その他の何かだったのか。それを確かめる術はない。網膜の残像を水面に落とそうとするかのように私はナイルを凝視していた。ただの水だ。濡れた指先がひんやりと冷たい。透明なナイルの上に浮かべられる像は、いつもと変わらぬありのままの私だ。王宮の端から侍女が流したと思われるハスがいくつか横切っていくだけ。


「──どうかしたの?」


 突然背後にかかった艶やかな声に驚いて振り返った。


「お魚でもいたのかしら」


 背後に、輝かんばかりの美しさを放つ女性が立っていた。

 丸い耳飾りを揺らし、首を傾げて笑んでいる。


「ネフェルティティ……」

「そんなに驚かないで。私はあなたの母親よ?昔一緒に遊んだじゃない」


 波打つ髪を靡かせ、胸と腕に黄金をつけた彼女は、近くで見れば見るほど視線を反らすことを惜しく感じさせる美しさを放っていた。

 この人は彼とアンケセナーメンの義理の母に当たる。アンケセナーメンとして居る私が「お母さん」と呼ぶべき人だ。


「あ、あの……どうしてここに?」


 立ち上がって恐る恐る彼女を見据えた。背は、私より5センチほど高い。

 どうしてこの人がここにいるのだろう。ここは彼と私の部屋の一角で、その奥の小さな庭だ。私の侍女や彼の側近以外が入ってくることは滅多にない。


「あの、侍女は?」


 私の体調を気にかけているネチェルや他の侍女が近くにいるはずだ。


「侍女たちの目を掻い潜るのは得意なの。だって扉の前に2人、廊下に4人だけ。簡単よ」


 彼女は秘密裏にここへ来たのだ。

 妖艶な笑みからどこか危険な香りを漂わせ、一歩、一歩、こちらに歩んでくる。自信に漲った彼女に対してどうすればいいのか判断がつかない私は思わずたじろいだ。


「可愛い子。相変わらず子猫ちゃんね」


 私の様子に彼女はくすくすと喉を鳴らす。


「前々からあなたと話してみたかったの」


 観察するように視線を私の足元から頭のてっぺんにまで回して、顔を近づけてきた。


「あら、嫌かしら?あなたに会わせたい人がいるのだけど」


 吐息が掛かるほどに寄った彼女に、心にもなくどきりとしてしまう。


「会わせたい、人……?私に?」

「あなたも会いたい人だと思うわ」


 すっと、こちらに差しだされる滑らかな指先がある。そこにはめられた指輪が日光で反射し、私の網膜に黒い跡を残す。掴め、ということだろうか。

 彼女の妖しさを持った魅力を怖くも感じて、私は首を横に小さく振った。


「いえ、すみません、私……」

「名を、ヨシキと言う」


 耳元への吐息に乗る声に、はっとして顔を上げた。聞き間違いかと思い、すぐ傍のスカラベ色が流れる相手の目元を見返す。


「良樹……?良樹と、言ったの?」

「そうよ。彼がね、あなたを探しているの」


 ヨシキという名の人が私を探している。まさかと、焦りと緊張とが入り交ざって感情が急く。胸の動悸が煩い。


「会わせてあげるわ。皆には内緒。さあ、一緒に来て」


 差し出された手を取り欠けて、我に返った私は思わず自分の手を引き戻した。

 無断でここを出て騒ぎになったりしないか。誰かに断った方がいいのではないか。出発前の彼に、安静にしていろと言われたばかりだ。あれから身体の調子も戻らないまま、更には怠さも出て来て、さすがに自分の身体に異変を感じていたところだった。


「そんなに警戒されたら悲しいわ。私もアイのことを憎いと思う内の一人。あんな男にあなたを売り渡すことなんかしない」


 ネフェルティティの父親はアイだ。だが、彼女はまた違った雰囲気を醸し出している人で、彼も一目置いている。侍女の間でも悪い噂は聞かない、父親とあまり会わないという話だった。


「あの、ヨシキというのは……背丈は、あの、顔立ちは?」


 まずは確認だと思った。慌ててはいけない。胸に手をやって、呼吸をして、自動的に浮かんできてしまった肖像を引っ込める。もしかしたら同じ名の人という可能性だって十分に有り得る。


「肌があなたと同じ。あなたに会いたいとうるさいほど訴えてくる、整った顔立ちの男よ。私より背は高い。長身で逞しい身体つきをしている。……確か、本名はナカムラ、ヨシキだったかしら」


 聞かれるのを分かっていたと言うようにすぐさま口を開いて紡がれた言葉に、良樹だと直感した。

 ──良樹。中村、良樹。

 声が出なくなった口でその名を呟いた。身体が震え出すのを感じる。


「どこに……良樹はどこにいるの!?」


 叫ぶと言っても過言ではない声で、彼女の腕を掴んで尋ねた。

 王宮の外のどこかなのだと思っていた。もしかしたら良樹は古代に来ていないのかと思うこともあった。けれど、まさかこんな近くに。同じ王宮内にいたなんて。それもこのネフェルティティの下に。


「良樹はどこに……」


 美女のすらりとした指が一点を指し示す。ここからではあまり見えないあちらの宮殿。西の方角だった。


「あの向こうよ。私の宮殿付近、葡萄園の中」


 西の宮殿の周りには、葡萄酒の原料として栽培されている広めの葡萄園があったはずだ。季節によっては紫に満ちた美しい空間になるのだと侍女がいつか教えてくれたことがある。

 紫の向こう。そこに良樹がいる。


「さあ、行きましょう」


 彼女が私の手を自分の腕から剥がし、そのまま私の手に指を絡ませる。手に絡み付く細い指と、にこりと引かれた唇の赤。それらを見届け、うるさく鳴り始めた胸を抑えて私は彼女に頷き返した。

 歩き出し、見上げた太陽に眩暈を感じた。


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