接吻を
ほとんど強制的に追い出された東の宮殿を抜けて俺は西の宮殿へ走っていた。周りは先程までいた部屋と同じくらい薄暗い。時が立つほどに焦りが募る。
何故俺は去っていくあの褐色の背中を追いかけなかったのだろう。もっと言うことも、聞くこともあったはずだ。なのに俺の発した言葉は「どうして」「何故」、馬鹿の一つ覚えのようにそればかり。愚かしい。あの男が醸し出していた雰囲気に臆したのか。
「ヨシキ!血相変えて走るのは話してからにしてくれないかな!」
後ろから床を蹴る音がついてくる。ずっと俺を待っていたナクトミンのものだ。だがそれに答えている時間さえ今の俺には惜しかった。
怖かった。弘子があの男に惚れていたらと思うと怖くて怖くて堪らなかった。もし、弘子があの男に何もかもを委ねてしまっていたら。もし、本当にメアリーの言う通り弘子が変わってしまっていたのなら。俺はどうしたらいい。メアリーは。不安に押し潰されそうだ。
焦れば焦るほど、あの男の声が耳の奥に響いた。
『──ヒロコを返せと言わなくなった頃、会わせてやる』
ふざけるな。そんな時などいくら待っても来やしない。今すぐにでも弘子に会って事実を確かめなければ、この気持ち悪い蟠りは消えない。真相を聞き出し、事によればすぐにでもここから連れ出さなければならなくなるだろう。
あの男は俺を会わせるつもりなどないのだろうし、あれだけ王族に警戒されているアイに頼んだとしても弘子に近づくことさえ出来ない。頼むのであれば、絶妙な立場にいるあの美女だけだ。先々代アクエンアテンの王妃であり、ツタンカーメンとアンケセナーメンの義理の母。
「ネフェルティティ!」
西の宮殿の奥に辿り着くと、そこに現れた大きな扉を両手で押し開く。開かれた空間に花の香りが舞い上がった。ネフェルティティの身に着けている香油の香りだ。
俺が部屋に踏み入れると同時にナクトミンの足音が躊躇いがちに背後に止まった。彼の隊長という立場では、王族であるネフェルティティの部屋へ勝手に踏み入れることを許されなかった。俺も同様の立場なのだが、今はそんな決まり事を律儀に守っている猶予はない。彼女なら入ったのが俺であれば許してくれるだろうという自負もあった。
奥の寝台にも椅子にも、ハスのレリーフのある木製の化粧台の前にもどこにも彼女の姿は見当たらず、あたりを繰り返し見渡す。冷静さはどこかに吹き飛んでしまっていた。
「情夫殿!?」
振り向くとネフェルティティの侍女がいた。いつも自ら訪ねてこない俺に驚きの表情を浮かべている。
「そのように慌てていかがなされました?」
「ネフェルティティは!?彼女はどこにいる!」
その侍女の肩を勢いで引っ掴んだ。
「姫君ならばただいま湯浴み中に御座いまして」
風呂場ならこの部屋の奥だ。足は侍女を除けて、彼女がいる場所に向かって歩き出す。
「お待ちを!情夫殿!」
慌てて飛び入った侍女に道を塞がれた。
「いくら情夫様と言えどそればかりはなりませぬ!」
「退け、時間がない」
否応なく侍女の肩を押しやって、奥の長方形にくり抜かれた風呂場への入口に向かった。湯気の白さがそこから限りなく溢れている。
「お待ちください!」
空間に踏み入れると白い湯気が俺の視界を覆った。
王族の風呂場はローマの大浴場を思わせる作りをしていた。宮殿に使われている白く磨かれた石が一寸の狂いもなく円形に並べられ、周りには神々の小さめの像が入浴する者を守るかの如く立っている。その中から現れる、長い髪の女。美しさのある曲線が漂う湯気の白にぼやけ、褐色の艶やかな肌は湯気が切れた隙間からいつも以上の輝きを放っていた。
「あら、こんなところにまで押し入るなんて随分大胆なのね」
俺を見るなり、驚きもせずに彼女は目を細めてくすくす笑う。
「私を襲いにでも来たのかしら」
彼女が身体から水滴を落としながら湯船からあがると、傍に控えていた侍女が一枚大きめの布を羽織らせた。侍女は主の入浴中に押し入って来た俺のことが気に入らないのだろう、これでもかと目を剥いている。
「どうしたの?ヨシキ」
恥じらいはないのか、一枚布を羽織っただけの彼女は堂々と胸を張って俺の前までやってくる。そのまま濡れた手を俺の頬に伸ばしてそっと撫でた。
「血相まで変えて……何か怖いものでも見たの?」
まるで子供を宥めるような声色に腹も立つが、いちいちそれに反応している訳にもいかない。
「弘子に会いたい」
女は唇に弧を描く。今までこんな女に頼るのが嫌で何かを頼むということが無かった。これほどの剣幕を従えて風呂場まで押し入り、頼み事をしてくる俺に、面白さを感じているのかもしれない。
「そう……だから?」
「あんたにその手引きをしてほしい」
分かっているくせにわざわざ問うてくる。俺の苛立つ様子を見て楽しんでいるのだ。
「この私に王妃との逢瀬の手引きをしろと?」
逢瀬なんて甘ったるいものではないと胸の内で反論しながらも頷くと、彼女は一歩俺の方に踏み出し、下からこちらを覗き込んできた。綺麗なアーモンド形の二つの瞳いっぱいに俺の顔が映っていた。
「頼む。近いうちにどうしても会いたい」
「出来なくもない話よ」
さらりとした声に息を呑んだ。
出来るのだ、この女は。俺と弘子を引き合わせることが可能なのだ。そうと分かったら心臓が早鐘を打ち始めた。
「会う、ということくらいなら。……でも、私の相手を一度もしてくれないあなたに頼まれても、やる気というものが出ないわ。私ばかりが損をしている」
見返りが欲しいと、彼女は言っているのだ。
「何をすればいい」
迷わず問う。食事の世話だろうが、掃除だろうが、この際なら愛がなくとも良いのなら彼女を抱くことも厭わない。
俺をじっと見つめ、彼女はまたにっこりと微笑んで口を開いた。
「外で待っていて。さすがにこの格好で話を続けるには寒いのよ」
返答を待ちわびている俺にとってここで会話を一度切られるのはやめてほしいところだが、女性の湯浴み中に踏み込んだ自分の行動を後悔している自分もいる訳で、悲鳴も上げず、非常識と罵ることもなく冷静に対応してくれた彼女に一先ず従って浴場を出た。
部屋に戻って鞄を床に下ろした。落ち着こうと思うのに、焦燥感に駆られて足をあちこちに進めて行ったり来たりしてしまう。足を包むサンダルが歪なリズムを刻んでいた。
歩いている内に床を照らし出す淡い光が見えた。上を仰いで満月だと気付く。柱の間から顔を出した月は、俺の知っている月より二回りほど大きく、神々しさがあった。現代の月と地球の距離は、昔より離れてしまっていると聞いたことがあるからより大きく感じるのも当前なのかもしれない。古代の月は、これほどまでに壮大だ。
「ヨシキ」
背後から放たれたしゃがれ声が、ネフェルティティではないことはすぐに判断できた。振り向くとぎょろりとした眼が現れる。
「神官様」
ナクトミンを横に従え、アイが立っていた。おそらく俺がファラオに呼ばれたのだとナクトミンが言いつけたのだろう。父親ならば娘の部屋に入ることは問題ない。
「そなたファラオに呼ばれたそうだな」
「……ええ、まあ」
こんな老いぼれと話すのは億劫で投げやりな返事をした。
嫌いだ、この目が。欲望に溺れるその顔が。どちらかというとあの悲劇の王の方が好感を持てたのだろうが、あんな対話をして好きでいられるほど自分お気楽な性格でもなかった。どちらも同じくらい、嫌悪がする。
「すみません、今日は気分が優れないのです。話ならまた次の機会にしていただけますか」
「何故私ではなくそなたが呼ばれたのだ!!」
前から去ろうとしたら、やぶから棒に腕を掴まれ引き戻された。見た目の想像を遥かに超える強い力に、気を抜いていた俺の身体は簡単に従った。
「いくらヨシキでも、アイ様にその態度は失礼だよね。駄目だよ、君はアイ様のおかげでここにいられるんだから」
度肝を抜かれてたじろいだ俺に、ナクトミンが呑気に声を転がす。
「何故王は王家でもないそなたを呼んだ!もしや、そなたの生い立ちが漏れたのか!?王妃と共に神に許された者だと!」
何としてでも正統なる王族に近づきたいのにも関わらず、王妃の姿を目にすることさえ許されないこの神官は、俺が一人呼ばれたことが気に喰わないようだった。
未来から来たことや、ツタンカーメンとの会話の内容をこの男に話すのは憚られた。弘子を狙うようなこの老いぼれに教えたくはない。それなのに他の言い訳が見当たらない。自分でも気づかないほど焦っているのか、掴もうとした言葉がすべて手をすり抜けて逃げてしまう。
「よもや、あちらに寝返ったのではなかろうな!?」
捕まれた腕に激痛が走る。血流が止まっている気がした。どれほどの握力をこの老人は秘めているのか。
「ヨシキは私のものだ!私の駒!切り札だ!もし裏切るような真似をしたというならば、今ここで殺してくれる!」
後ろに控えていたナクトミンは、音もなく腰の鉄剣を鞘から光らせた。細めた目と三日月形に象られた口元が妙に恐ろしく映る。命ぜられれば、この男は俺を簡単に殺せるのだろう。
「ファラオはヨシキの医術の噂を聞いてお呼びになられたそうですわ」
暗闇の先、俺の向かいにいた二人の背後にネフェルティティが立っていた。彼女はしなやかにこちらへと歩み、俺の腕を握ったままの血管の浮き出る父の手をそっと撫でて俺の隣にすたりと立つ。
「ティティ、どういうことだ」
父親は娘に剣幕を纏ったまま尋ねた。
「何と言ってもヨシキは悪魔の病を治した有能な医師。ファラオがお気になさるのも分からなくはないでしょう?」
状況を即座に把握したのか、彼女はこちらを庇うような台詞を並べていく。つくづく頭の回転が速い女だと思う。
「落ち着きくださいな。このままではヨシキの腕が千切れてしまう」
彼女の細い指がアイの手をほどく仕草をすると、驚くほど容易く離れていった。やっとのことで解放された腕には、暗い中でも分かるくらい5本の指の跡がはっきりついてしまっている。翌朝には痣になりそうだ。
「お父様も、状況やほんの少しの情報で彼を裏切り者扱いするのはどうかと。それではその気がなくとも、ヨシキの心は離れて行ってしまう」
彼女は俺に手を回して頬を胸につけた。「そうよね」と訴える横目に、俺は一回だけ首を縦に振って平然を装う。今はこの女の言う通りにしておいた方がいいのは分かっていた。
「まあ、それもそうだ」
ネフェルティティの自信に溢れた物言いと態度に、父親は納得したように呟き、怒りを治めた。
「恐れながら」
胸の前に小さく手を挙げたのは、鉄剣を鞘に戻したナクトミンだった。相変わらず穏やかな表情のままだ。
「何故、ヨシキ様は走ってまでネフェルティティ様の所まで向かったのでしょう。すごい走りようでしたよ?何かに焦っているような」
「ヨシキは初めて神と等しきファラオと謁見をした。もともと民の中にいた男がそれで取り乱すことなど十分に有り得ること」
迷うこと無く彼女から発せられた返答に、ナクトミンは内心が読みにくい笑顔を向けて頭を下げた。
「ヨシキは大丈夫。こうして私のもとにいますもの。あちらに寝返ることは決してない」
また俺に身を寄せ、背にその腕を這わせていく。風呂上りの濡れた髪から、香りを乗せた湯気が鼻孔をくすぐった。
「この人は私のもの。現に私の浴室まで押し入ってきた」
俺も冷静さを取り戻し、彼女の身体に腕を回して引き寄せると、如何にもその通りというような表情を前の二人に見せつける。このまま意味のない問答が続いて時間を浪費していくのが我慢ならなかった。
「お父様、ヨシキには私からよく言っておきますから今日はお引き取り下さいな。これからヨシキと色々とやることも御座いますの」
彼女が紡ぐ悠然たる声に負けた父親は呆れたように額を抑え、「分かった」と頷いた。
「こうなれば我が娘を止められる者はおらぬ。話を聞き、焦ってしまったようだ……ナクトミン、行くぞ」
「はい、アイ様」
白い歯を見せて返事をした隊長を傍らに、アイは部屋から去って行った。二人の背が扉の向こうに消え、音を成して扉が閉まっていく様子を見届ける。
緊張と共に舞い戻る静けさがあった。二人の姿が完全に見えなくなってから彼女から手を放し、薄く痣が出始めた腕を擦った。
「あなた、なかなか演技が上手ね。芝居小屋で働けそうだわ」
「……手引きの条件は」
俺に腕を這わせたままの彼女は、すぐに話を戻した俺の態度に少し不快を感じたらしく、口をへの字に曲げた。黙って彼女を見下ろしていると、「仕方ないわね」と小声で綴った唇が近づく。
「あなたに、この条件が飲めるかしら」
濡れた髪を肩に垂らし、目を細めて問うてくる。
「私の持つ情報では明日、ファラオは東岸外れの神殿に行く予定がある。神々の像を増築しているからそれの視察に赴くらしい」
東の外れ。それを聞いて思い浮かぶのはルクソールあの巨大遺跡──ルクソール神殿。
「正午には出発の予定よ。今回は重要な視察のはずだから、ファラオのお帰りはきっと遅くなる。その間に王妃とあなたが会えるよう、私が手引きする……それくらいなら私でも出来るわ」
王がいない間に会えと。好都合だ。
あの王は俺と弘子を会わせたくないとはっきり言ったのだから、あの男がいる限り俺が彼女に近づくのは不可能だ。あの男がいない間が絶好のタイミングだろう。
「ただ、これは私にとっても大きな危険性を伴うの。立場を危うくするものよ。だから、あなたからもそれ相応の代償を支払ってもらう」
「代償は」
ひるむことなく問い返した俺に、美女は身体を離して楽しくて仕方がないというように笑って見せた。
「あなたが死ぬまで私のものになること。つまりはあなたの魂」
俺の人生。この命。想定から幾分かずれた申し出に言葉が詰まった。
彼女は椅子に手を伸ばし、ゆったりと腰を下ろす。
「条件を飲み込むというのなら、私の足に服従の証を示しなさい」
足の甲への接吻は、服従を意味する。この時代にそんなキスの意味が成立しているのかは定かではないが、彼女が求めているのはそれだろう。壁画や像にそんな主従の姿が残っていた気がしないでもない。
迷いはない。俺は膝を折ってその艶やかな肌の張る足を手に取った。
弘子がこちらに戻れば怖いものはない。すぐにでも裏切ってやろう。古代での約束など、現代人の俺には守るにも値しないのだ。
顔を足に近づけ、俺は唇を落とした。
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