愛した男

 太陽の昇る東の王宮を、ラムセスという隊長と他の兵たちに囲まれて歩いていた。いくつものサンダルと床の擦れる音が耳を掠めていく。柱の間から西の壮大な太陽が垣間見える。俺の顔も鮮やかな橙に染まっているのだろう。


 それにしても何故、ツタンカーメンは王宮の端にいるような俺なんかを呼んだのか。弘子が俺を探すよう彼に頼んだのか。それとも変わった医師だからと興味が持たれたか。色々と引っ掛かる点があるものの、掌の色を確認したと言うことは前者の可能性が高い。

 今向かっている場所に弘子もいるということだろうか。彼女に会えるとなれば、ほぼ1年ぶりの再会になる。それを思うと鞄のストラップを握る手に自ずと力が入った。

 しばらく歩き続けて長い廊下を抜けた先、ある部屋の前で先頭のラムセスがついに足を止めた。


「武器の有無の確認を」


 彼の声に二人の兵が俺の身体を調べ始める。バッグを開いてから銃の存在を思い出したが、彼らの目には武器として映らなかったらしく何も指摘されぬまま終えられた。銃も立派な文明機器だが、彼らにとっては武器と認識されなかったようだ。


「扉を」


 隊長の命令に二人の兵が扉を開ける。厳かな音が、俺の張りつめた胸を高鳴らせた。開いた途端、周りの兵やラムセスが同時に跪き、向かう先にいる存在の偉大さを物語る。


「ファラオ、連れて参りました」

「入れ」


 この声の主が、現代で謎の王と呼ばれるファラオ。この中にいるのがあのミイラ。肩に掛けた荷物を握りしめ、俺が中へと入ると扉は閉ざされた。

 部屋の中は薄暗い。四つの柱は高い天井を支え、聳え立つ。この高さと奥行きがあるからか、自分の呼吸音さえ小さくこだましているようにも感じられた。灰色の世界の中でもレリーフは躍り、色が舞う。これがアマルナ美術により高められたというエジプト芸術。数千年後、世界でモナリザを越える美術品とまで評価されているものだ。

 アイやネフェルティティの住む西の宮殿とは格段に違った美しく壮大な宮殿だということが、この一室を見回すだけでよく分かる。ここが正統王家の住処。エジプトの繁栄が視点を動かすほどに見て取れた。


「……ふむ」


 壁に共鳴する声に振り向くと、部屋の奥、大きな二つの鳥型の像を両脇に従えた人影があった。


「お前がヨシキか」


 黄金の椅子に座り、黄金のサンダルを足にはめた男がじっと俺を見据えている。頬杖を突き、足を組んで、いかにも王という貫禄だ。顔は影になり、窓から洩れる光がその首に掛かる黄金の禿鷹を照らし出していた。


「まさか我が王宮内で医師として働いていたとは」


 悠然と立ち上がり、階段を降りて俺の方へと足を踏み出す。履物が黄金で作られているために鈴のような音が転がった。


「肌が黒い故、我が従者たちも気づかなかったようだ。探し出すのに随分と時間が掛かったぞ」


 香油でも塗っているようで相手が近づくほど香りも増した。好きも嫌いもない自然な芳しさを持つものだ。ネフェルティティもよく身体に塗っているが、王家の身嗜みなのかもしれない。

 まだ影を被って見えないその顔に、目を凝らす。


「シャシンで見た通りの顔……間違いない」


 7歩ほどの間を残し、影を越えて互いの顔を確認した俺たちの目はかち合った。俺の濃褐色とは違って、淡褐色は薄暗い中でよく映える。


「医師であり、ヒロコと兄妹の如く幼き頃より共にいたという男……ナカムラ、ヨシキ」


 射抜くような切れ長の美しい瞳は、しっかりと俺を見据えている。


「……ツタン、カーメン」


 その名を呟くのに相当の根気が必要だった。この声で、この口で呼んでいいのかと今までに感じたことのない戸惑いを越えなければならなかった。目前の人物から発せられる何かが俺にそうさせたようにも感じられる。


「いかにも」


 相手は強い声と共に頷いた。

 これがあのミイラか。名前も忘れられ、治績さえないとされ、王墓の財宝のみで有名になったファラオなのか。遠くから見ていた時も感じていたが、どこが病弱の美少年だというのか。

 時間が止まっていた。声どころか身動き一つ生まれなかった。内心を探り合うかのように言葉を発さずにいる中、ふと思った。自分はこの男に会ったことがあるのではと。直感というものが細い稲妻のように脳をめがけて走って行った。

 ムトたちと見た時ではない。もっと、もっと前の話だ。


「私が誰かを知って頭も下げぬとは、やはり未来の民と言うものは特殊な思考の持ち主のようだ」


 思い出せないまま、意識は声に引き戻される。相手は王でこちらは呼ばれた下々の人間だ、頭を下げて敬意を示すのが当然の習わしなのだが、何故か俺の身体は言うことを聞いてくれないでいた。


「まあ良い。弘子という名の女を知っているな」


 口にされた名に思考を引き戻され、息を呑む。例えようの無い緊張が身体を貫く。


「……弘子はどこに」


 俺は返答せず問いを投げ返した。当たり前のことに答える余裕などなかった。弘子に会いたい、胸はそれで蒸し返されていた。


「私とお前以外、ここには誰もおらぬ」


 確かに見渡しても俺とこの男以外に誰もいない。警戒して目を細めた俺の傍を、ツタンカーメンは黄金を鳴らしてゆっくりと歩き始める。


「どうして俺を」


 ここに呼んだのか。そう聞こうとした声は掠れて途切れた。喉が乾燥しきっていた。


「お前を探し、ここへ呼び出した理由か?……ヒロコが一緒に連れて来てしまったお前を探したいと私に頼んだ。それで探させてみたら、それらしき人物を見つけたと報告があったからだ」


 ホルスだと思われる像のくちばしに手を乗せ、俺に小さな笑みを向ける。

 やはり、弘子は俺を探していてくれたのだ。


「なら何故、俺と弘子を会わせない」


 彼女が俺を探しているからこの男は俺を探してここへ呼んだ。ならば弘子もこの場にいるのが道理だろうに、何故この男しかいないのだ。


「今日はそれらしい男がいるとの報告を受け、確認のためだけにこの場を設けた。それ以上のことをするつもりはない。ヒロコもお前が見つかったとは知らぬ」


 相手は腕を組み、唇を綺麗に一文字に引く。だがその眼はどこか挑戦的で、俺の中の何かを読み取ろうとするように鋭く光っていた。まさに褐色の胸に光る禿鷹のようだ。


「それに、私は弘子を手放す気など毛頭ない。あの女のように未来へ連れ帰るといきなり取り乱されても困るからな」


 あの女とはメアリーのことだろう。弘子を連れ帰ろうとした時にこの男に首を絞められたとも言っていた。

 焦っても仕方がない。せっかく悲劇の王と対面したのだ、情報を集めなければ。


「お前に、聞きたいことがある」


 面白いと口だけ動かして相手は不敵に笑った。


「申してみよ」


 瞳が乾くくらい、俺たちは眼差しをぶつけ合っていた。握り締めるショルダーの肩紐が、俺の手のせいでだんだん汗ばんでくる。


「……王妃になることを、弘子に強制したのか」

「まあ、最初は半ば強制だった」


 やはり、そうだったのだ。自分の推測が当たっていることをまず一つ確認する。


「弘子が未来の人間だというのは?」

「聞いている。3300年後に生まれるはずの娘だと。ヨシキ、お前もそうなのだろう?」


 この男は未来からのタイムスリップを理解しているのか。なのに弘子を自分の傍に置いている。おかしな話だ。


「弘子を呼んだのは、お前か」


 弘子は誰かが呼んでいると言ったのだ。それも二度。「あの人が呼んでいるの」だと。


「そうだ」


 頭を何かで殴られた感覚だった。


「私が二度、ヒロコを呼んだ」


 この男が犯人。弘子を攫い、俺たちまで巻き込んだ張本人。


「3300年……お前たちの越えた時というものは、気の遠くなるような時間だな」


 小さい四角の窓から見える落陽の様子を眺めて、彼は穏やかに笑いを含んで告げる。その余裕な笑みに、ふつふつと怒りや苛立ちに似た感情が湧き上がった。

 どうしてそんな笑いが出来る。俺は苦しんだ。メアリーは辛い目にあった。この男のせいで。


「会わせろ」


 鞄を掻き開き、この世にあり得ない武器を手に取って相手の頭に突き付けた。

 お前が余裕でも俺は余裕ではない。時間というものはこうしている間にも刻一刻と近づいている。歴史的にも、精神的にも、肉体的にも。一刻も早く、俺たちはこの時代から離れるべきなのだ。


「弘子に会わせろ!」


 勢いだった。この男と弘子は繋がっていて、この男が許せば俺は彼女に会えるのだ。

 ここで殺してしまってもいいのではないだろうか。そんな考えまでが頭を過る。どうせ、もうすぐ死ぬ男なのだ。俺や弘子の越えた時間を考えれば死期の誤差などちっぽけだろう。弘子を取り戻せるのなら歴史が変わろうが何だろうが、気にはしない。この腕に彼女が戻るのなら何だってする覚悟だった。

 落ちて行く陽に顔を染めていた男は、息を荒くする俺をゆっくりと振り返った。銃口は後頭部から、こめかみへと自動的に移動する。


「会わせるつもりはない」


 身じろぎひとつせず、静かにそれだけを放った。銃を見て怯みもしない態度に俺が逆に戸惑う。戸惑うと同時に気づいた。男はこれが何だか分かっていないのだと。この引き金を人差し指で引けば、命などすぐに吹っ飛ぶことなどこの人間は知らないのだ。


「……何故」


 弘子に俺を会わせないのには、メアリーのように取り乱すからという理由以外のものがある気がした。低めた俺の声は、まるで地の底を這うような響きを孕んでいる。


「私の我儘だな」


 そう答えると、向けられていた銃に関心があるのか、銃口を少し撫でて上部に指を伝わせた。我儘などと言う思いがけない返答に唖然とする俺を目の端に、彼は添えていた手に弱く力を入れて銃を降ろさせた。自然な動作に俺の腕も素直に従った。


「お前の瞳。ヒロコの名を紡ぐたび熱が篭る」


 銃へと向いていた淡褐色が、俺の視界の中に帰ってくる。


「お前がヒロコをどれだけ好いているかが分かった。故に余計嫌だ。会わせたくない」


 急に胸が騒めいた。もしやと、ある憶測がが俺の中に生まれる。


「……弘子が、好きなのか?」


 漠然と尋ねた。それに彼は柔らかい笑みを俺に見せた。慈愛に満ち足りたその表情に、好きなのだと悟る。嫌でも悟らざるを得なかった。


「本気で、愛して……」


 これにも相手は表情で答えてくる。なんて美しい笑みを浮かべるのだろう。人間の表情とは、愛情でここまで柔らかくなるものかと。切なげな美しさ。この言葉が一番相応しい。どれだけ彼女を想っているのか、面と向かって突き付けられた気さえした。


「……弘子は」


 取り乱し始める胸を抑え込み、もう一度低めた声を向ける。


「弘子は、お前の知る通り未来の人間だ。3300年、時代も情景も、思想もすべて変わった時代に生まれた女だ。あちらには弘子を探す父親も母親もいる。お前と一緒に生きるなど神がまず許さない」


 神と言えばそそくさと差し出す。この古代では神がすべて。それがこの古代においてのエジプトの宗教観だと、そう思っていたのに、男はその独特な色の瞳を俺に向けた。


「ヒロコの魂は悠久を流れしもの。もとより私のもとに帰るはずのものだ。神が許したからこそ、今私の妃としている」


 決意を秘めた、胸に突き刺さる表情だった。

 魂。神。悠久を流れしもの。馬鹿馬鹿しい。そんなものが存在しているのなら現代は古代人の魂だらけだ。

 世の中に存在を得ているありとあらゆるものは無常である。常に同じであることはなく、すべて栄光と衰退を繰り返し、姿を変えて滅びゆく。このエジプトという巨大文明もそうだ。どれだけ医学が進んでいようと、建築技術が、制度が発達していようと、文字を失われた後は誰の記憶にも留まることなく忘れ去られていく。永遠という名の悠久など、ありはしない。


「ツタンカーメン」


 一歩踏み出して告げる。


「お前は死ぬ。早死にだ」


 驚く顔を目の前にするのだろうと予期していた。なのに、相手は俺を見てただ悲しそうに笑うだけだった。


「お前も同じことを言うのだな」

「……知っているのか」


 まあなと相手は苦笑する。

 死ぬと分かっていながらどうして弘子を手放さない。好きになっても、愛しても仕方がないというのが分からないのか。


「悲劇の少年王。それが私の呼び名なのだと聞いた」


 それも知っていながら。


「殺人か、事故死か、病死かは分からぬが王妃を遺して私は死ぬらしい」


 それをも知っていながら、何故弘子を。


「ふざけるな!」


 感情が燃え上がって、金色の腕輪が光る腕に掴みかかった。相手の身体が大きく揺れ、一歩だけ俺の方によろめく。


「好きな女を未亡人にしたいのか!嫌ならすぐにでも弘子を手放せ!未来へ帰すべきだ!」


 怒りなのか、憎しみなのか。それとも苛立ちなのかは判断できない。


「俺たちを帰せ!!あの時代へ!!3300年後の未来へ!」


 こちらを捕える淡褐色に力の限り叫んでいた。

 俺をじっと見つめていた相手は小さく息を吐き、真っ直ぐな眼差しのままその薄い唇を開いた。


「残念だが、未来への帰し方は私でも分からぬ」


 返された言葉の衝撃に手の力が緩み、褐色の腕が離れた。


「弘子は一度帰ってきた!それはお前が!」

「私はあちらから呼ぶことが出来ても、こちらから戻すことは出来ぬ」


 意味が分からない。何も返せず、俺は茫然と相手を見ていた。俺から目を背けた悲劇の王は、沈みかけた太陽にその顔を染める。


「それに、ヒロコは私を守ると言ってくれた。未来を変えてやると」


 弘子が、こいつを。まさか。

 いや、違う。そんなことを彼女が言うはずがない。弘子は歴史など変えられないということくらい十分分かっているはずだ。

 こいつは俺を貶めようとしているだけなのだ。


「弘子に、お前を救えるだけの知識はない」


 医学部一年の知識などたかが知れていた。なのにそいつは落ち込む様子も見せず、「そうなのだろうな」と頷く。またその顔、その表情。穏やかでいて、それでも悲しそうをする。それを見ると、燻っていた感情の糸が不思議にも解けてしまう。


「なら、何故」


 手放さないのか。

 ほとんど呼吸の音と一緒に吐き出された言葉に、淡褐色が微笑む。


「愛しているからこそ」


 遊びでも、面白半分でも、簡単に好きだからというだけでもなく、響きわたる柔らかい深い音色で愛故だと。


「死ぬのはもうすぐか、それとももう少しあるのか……もう、時間はないのか、そう考えるたびに共にいる時間が愛おしくて堪らなくなる」


 俺よりずっと真っ直ぐな心を打つような声で、相手は自分の手を見つめて続けた。己の手に何を見ているのだろう。


「この命が尽きるまで共にありたい。いや、尽きようとも一つでありたいと願う。この想いが、お前に劣るとは思わぬ」


 ぶれることなく見据えられた瞳で、唐突に不安に駆られた。弘子は、この男に惚れてやしないだろうかと。こんな熱い目をした男など、あいつは見たことがないだろう。俺でさえないのだから。

 もし、弘子が惚れてでもしていたら。時代の隔たりなど忘れ、この男に本気の恋をしていたら。俺は──。


「……お前、死ぬぞ」


 彼女は分別をつけている、そう言い聞かせて反論した。きっと、弘子はこの男の抱く想いを拒んでいるはずだ。断っているはずだ。


「必ず死ぬ」


 もう一度、この先に起きるはずの残酷な未来の予言を繰り返す。それでもやはり、穏やかな視線がこちらを捉える。


「たとえそうだとしても、私はお前やヒロコの言う歴史に抗うつもりだ。私にとっては歴史ではなくまだ見ぬ未来。変えられると思っている」


 形のないものと、何の保証のないものと戦うのか。それがどれだけ取り留めのないものか理解しているのか。


「人はいずれ死ぬだろう。私だけではない。ヒロコもお前も私の民も。来世があろうとも、限りある今だからこそ大切なのだと、未来を話されて気がついた」


 人の命もまた無常。限りがあり、遅かれ早かれ死ぬ。それを知っているか否かが、この男とアイの違いであるのかもしれない。


「生きようと、より良いものにしようと、人はだからこそ前を向くことができる。私も一つとしてそれとは違わぬ」


 考えているのだろう。死ぬという瞬間のことを。本来なら恐ろしくて目を背けるような予言と、この男は面と向かって見つめているのだろう。

 これがツタンカーメン。存在を忘れ去られる王の姿。

 扉に向かって歩き出した褐色の背に、噛みしめていた口を開き、俺は声を絞り出す。


「歴史は決まっている。俺たちみたいな未来人にとって、お前の人生は過ぎ去った時間内に起きた、たった一つの出来事でしかない。未来に生まれた弘子をそれに巻き込むな」


 扉に手を掛けた男はこちらを振り返る。


「お前がどれほど返せと言おうともヒロコを手放す気はない。これが私の答えだ」


 何故か、床に言葉をばら撒いてしまったかのように、声も何も口から出てくれなかった。その口が、その声が、彼女の名を象るのがひどく嫌に思うのに、俺は何も。


「ヒロコを返せと言わなくなった頃、会わせることを約束しよう。時間を取らせた」


 扉が開き、ラムセスと王の声がした後、王は部屋から去った。俺は部屋に一人佇み、銃を持った己の伸びきった影を見ていた。


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