友の供述

「弘子は変わったわ」


 そう言う右隣の彼女は痩せていた。以前はもう少し柔らかい雰囲気を持っていた記憶がある。外見もだが、何より彼女を取り囲むものががらりと変わった気がする。


「あの子はね、もう私たちの知っている弘子じゃないのよ」


 俺たちは床に隠れるようにして壁に寄り掛かり、膝を抱きながら話をしていた。もうすでに闇は深く、二人の潜めた声しか聞こえない。


「……あの子は私たちを捨てたの」


 彼女の声は暗いものに満ち、瞳は炎の色を宿している。憎んでいるとでも言いたげな様子だった。


「本当に、それを弘子が?」


 沈む空気に、固まっていた喉から声を出す。弘子が彼女をピラミッド付近で見つけ、一緒に帰ろうと言ったメアリーに「自分は現代を捨てた」と口にしたと言う。更には女官として働くことを強要されるメアリーを助けもしなかったと。


「ヨシキは私を疑うの!?」

「違う、そうじゃない」


 弘子のことになる度にヒステリック気味になる相手を宥めた。さっきから彼女は俺の腕を放してくれない。目に涙を溜めてしがみ付いたままだ。


「そうじゃないから」


 背中を擦りながら繰り返し否定してやっと安心したのか、彼女の腕の力が弱まった。

 現代を捨てるということは、そこに存在する両親や故郷とすべて縁を切ると言うことだ。あの弘子がそんなことをするとは到底思えない。一度行方不明になってからは何をするにも「お母さんが」「お父さんが」という言葉を外したことがないほどの両親想いの娘だ。


「私、弘子のこと許さない」


 何もない一点に対象を浮かべているように、彼女の瞬きが少ない瞳はそこを睨み続けている。


「私もヨシキも、弘子のせいでこんな所に落とされて、訳も分からない古代で辛い生活を強いられてきたのに、弘子だけここで王妃様で、恋もして、幸せに暮らしてただなんて」


 王妃に、恋に、幸せ。食べ物に飢え、何が何だか分からず四か月も彷徨っていたメアリーの生活と比べたら天地ほどの差がある単語だろう。


「ごめんねなんて、そんな軽い言葉で済まされることじゃない。だっておばさんもおじさんも必死になって、あんなに痩せるまで弘子を探してた!なのにおかしい!何でこの時代を選ぶのか、どうしてあんな男一人を選んでここに残ることにしたのか!!私たちの気持ちも知らないで!」

「でも、その話をした時にあのツタンカーメンも一緒にいたんだろう?」


 俺が返すと、メアリーはぴたりと口を止め、僅かの沈黙の後、立てた膝に顔を寄せて小さく頷いた。


「……いたわ、あの男も」


 弘子にアンケセナーメンの影武者を強いた黄金の男──やはり、そうだ。思っていた通りだ。


「俺は弘子は演技してるんじゃないかって思う」


 ぎょっとした様子で彼女は俺を見返した。


「だって、あの弘子が俺たちやおばさんたちを本気で捨てると思うか?」

「だからあの子は変わったって言ってるじゃない!!」

「ネフェルティティは弘子がアンケセナーメンの甦りだと言っていた。アンケセナーメンの存在がないと王権の行方が危ういとも。それを思えばツタンカーメンはアンケセナーメンの存在を欲するだろうし、丁度その時期に現れた弘子がアンケセナーメンと似ている顔だったなら、弘子はツタンカーメンにとって絶好の存在だった。だから弘子は頼まれて王妃を演じている。そうとは考えられないか?」

「それは……」


 言い淀んだ彼女は口を噤む。俺は一度息をついてから腰を浮かせて座り直した。


「それに弘子にはここ以外居場所がなかったんだろう。居場所を失った人間は生きてはいけない。弘子にとって、ツタンカーメンの命令を受けて居場所を作ることは生きるための苦肉の策だったとも取れる」


 家族であったり、職場や学校であったり、人は己の居場所に執着するものだ。それが無いと孤独で、急に弱気になる。ずっと彷徨い続けていたメアリーはそれを嫌と言うほど味わったのだろう。生きるはずのない、知り合いが誰もいないこの砂漠の大地で。


「だから弘子はきっと強要されて」

「親友の私にまで嘘をついたって言うの?違う!違う!!」


 メアリーは膝に流れる女官の服を握りしめ、その手に骨と血管が浮き出たせた。


「何も頼る術のなかった弘子ならあり得る。それに本気でツタンカーメンが困っていたっていうなら、憐れんで仕方なく引き受けた可能性だって大きい。少し言葉を交えただけで判断しては駄目だ。冷静になろう」


 一つの意見だけを本気で信じ込むほど俺も子供ではない。情報というのはいくつかを交え、本物を目にした時こそ初めて信憑性の得られるものだ。


「……ヨシキは、私のこと信じてくれないのね」


 こちらをじっと見つめていた彼女は鼻で笑い、また前に視線を投げた。


「そうよね、弘子が好きなんだものね、肩を持つのは当然だったわ」

「違う」


 荒げた声に隣の身体がびくりと跳ねた。

 何だか、メアリーの言い方に腹が立った。好きだからとかそういうことではない。得られるだけの情報を頼りにここまで俺なりに推理したものだ、一方的に何の根拠もないのに決めつけられるのは違う。


「何で、何で怒鳴るのよ。怒鳴ることじゃないじゃない!私はあんな辛い目に合ってきたのにヨシキまで私を責めるなんて酷い!」

「確かに彼女のことは好きだ。だからこそ今こうしてここにいる」


 メアリーの主張はまるで弘子を目の敵にしているかのようだった。人格というものがすっぽりと入れ替わってしまったのかと疑うくらいの変化だ。何があったのだろうと徐々に疑念が降り積もる。


「でも、それとこれとでは話が違う。弘子は昔から人の頼みを断れる奴じゃないってメアリーだって知ってるだろ。6歳の頃から一緒だったんだ、離れて時々電話していたくらいの俺なんかよりもずっと」


 ぐっと唇を噛み、相手は黙り込んだ。切れてしまうのではと思うほどに唇に出来た皺を伸ばしていく。


「弘子がツタンカーメンにお前に嘘をつくよう強要されていたなら、そう言ったのにも合点がいく」


 あくまで推測でしかないが妙な確証はあった。


「だから俺はここで弘子に逢う機会を窺ってる。判断を下すのは、会って話を聞いてからだと思ってるんだ」


 これに対する返事はなかった。余韻が消えた後は沈黙が辺りを制し、施設は静寂の塊と化す。

 隣の彼女は俺から手を放して立てた膝に顔を埋めた。小さく丸められた身体はとても頼りなく、つつけば倒れてしまうくらい儚げで、啜り泣く声は俺の心にも妙な虚無感を与えていく。


「……何か、あったのか」


 不意にそんな言葉が口から零れ落ちた。隣が小さく身じろぐ。


「確かに弘子のことでショックは受けたんだろう。でもそれだけで弘子をそんな風に言うなんて、あれだけ一生懸命だったメアリーらしくもない」


 口を閉ざした。変わったと言えるほど俺はこの相手を知らないのに、何を言っているのだろう。


「いや……何でもない、ごめん」


 大丈夫だとか、別にいいよだとか。そんな声が返ってくることもなく、また俺たちは夜の沈黙に浸る。


「そっちは、帰らなくていいのか?」


 間が開いてから、こちらを見ずにこくりと頭が動いた。


「じゃ、ここにいるといい。お互いに居場所無いよなあ、この時代じゃ」


 身を置く場所ならある。だがそれは本当の自分の居場所ではない。俺たちの居場所は、心の拠り所は、この世界のどこにもありはしないのだ。

 伸びをして息を吐き、よっこらしょなどと言って立ち上がる。控室にあった古い麻の掛布団らしきものを手にとって、未だに膝を抱いたままのメアリーに差し出した。


「夜は冷える」


 冷えるといっても20度前後だ。

 布団を渡しても反応してくれなくて、どうしようもなくそれを掛けてやった。自分ももう一つを羽織って、先程座っていた場所にもう一度腰を下ろす。

 余程辛い目にあったのか、それとも弘子からの発言が許せないでいるのか、彼女は声を失ったかのように黙って身動き一つしない。髪が陰ってその表情を俺に見せてくれなかった。

 何の音もしない中で次第に睡魔が忍び寄る。うとうとし始めたそのあたりで、そっと肩に触れる手があった。


「……ねえ、ヨシキ」


 瞼を開けて横を見れば、今にも泣きそうな彼女の顔があった。弘子に対する怒りをむき出しにしていた時とは正反対の、小動物のような表情だ。


「話してないこと、あるの」


 尋常でない雰囲気になぜか俺まで不安になる。


「何を聞いても、軽蔑しない……?」


 涙を滲ませた掠れる声で、彼女は問うてくる。


「私を、嫌いにならない?」

「どうした?」


 とにかく宥めようと、優しく声を掛けてみる。


「俺でいいなら吐き出した方がいい。溜めてたって、自分で自分の首を絞めるだけだ」


 一度下を見てから唇を噛む友人は、やがて震える声を絞り出した。まるでか細い煙のような声だった。


「盗みなんてしたことのない私が……それだけで四か月も食い繋げると思う?」


 確か、メアリーは他人の畑から野菜や果物を盗んでギザの三大ピラミッドまで行ったと言っていた。だが、エジプトでも金持ちの一人娘がそう易々と人の畑から物を盗むなど出来るのだろうか。よくよく考えてみれば、古代の地理がほとんど分からない彼女が、ギザまで一人で行けるというのもおかしな話だ。3300年の間、栄光と衰退を経験したこの国の風景は大きな変貌を遂げているだろう。


「私は、穢れたのよ」


 はっとした。彼女の告白に浮かぶのはただ一つの事実。


「身体を……」


 俺の声は芯が抜けたように揺れていた。彼女は自分の身体を抱きしめ、ぽろぽろと目から涙を零していく。

 どうして気づかなかったのだろう。若い娘が一人で放浪していれば、十分に考えられることだ。


「身体を売って収入を得る……これがどれだけ悍ましいことか。穢れた私はもとには戻らない……私はとても大事なものを失った」

「メアリー、」

「最初は盗んでいたけれどすぐにバレて、泥棒呼ばわりされて、逃げて逃げて……餓死するんじゃないかって思うくらい彷徨って……その時に誘われたの。自分がどこに行けばいいのかも、どうすればいいのかも何も分からなくて、このまま死ぬんじゃないかって思ったら怖くなって……」


 茫然とする俺の前で、自分を抱く彼女の手がその肩に痛々しいほど食い込む。後悔と悲しみが入り混じった表情がじわじわと憎しみに変わっていく。


「きっと弘子もそんな思いをしてるんだと思ってた。だけど違った!あの子は好きな人まで作って幸せに暮らしてたのよ!私が苦しんでいる間に!私ばかりが辛い目に合っていたの!!私だけが!!」


 恐ろしいほどに低まった声だった。

 自分が辛い思いをしていたのに、ちやほやとされながら弘子は王妃として守られ暮らしていた。その事実と、現代を捨てるという言葉がメアリーの中にあった感情を噴火させたのだろう。


「弘子が憎い!!」


 頭を抱え、髪を握りしめ、メアリーは叫ぶ。

 これが原因。根本的に彼女を変えた理由だ。


「辛いながらも私は生きた!そんな思いをしてやっと再会したのに!弘子とまた一緒に暮らして、現代に帰ったら全部夢だったって忘れようと思ったのに!なのにあの子は帰らないって……!私じゃなくてあの男を選んだ!あんな、恋しても仕方のない過去の人間なんかを……!」


 そこまで言って、自分に怯えたかのように彼女は口を噤んだ。瞬きせずに宙を見つめて小刻みに震えている。


「私は……変わったわ」


 何も言えないでいる俺に、メアリーは言葉を零していく。


「本当なら、ヨシキの前にいられるような人間じゃない。私は、穢いのよ」

「メアリー」


 そのまま立ち上がった彼女の手を、俺は咄嗟に掴んで引き止めた。一人にしてはいけない。


「俺は」


 声が、喉にまとわりつく。立ち上がって彼女と向かい合い、もう一度口を開く。


「俺はメアリーが穢いとは思ってない」


 やっとのことで出た台詞。指の触れる彼女の手が、また小さく動いて、あちらに向けられた涙に濡れたその表情が躊躇いがちに俺を向いた。


「男の俺がこんなこと言っても、どうしようもないかもしれない……何の支えにならないかもしれない。でも、これだけは言える」


 伝わるようにと握る手に力を込めて、雫が覆う向こうの瞳を見つめる。


「どうしてメアリーを俺が嫌いになる?生きて、ここまで来て、やっと会えた。俺はそれが嬉しい」


 本当に、俺の言葉というのは何故かいつも偽善に聞こえてしまう。嗤ってしまうくらいに拙い。だが今口にしたことは嘘ではない。思ったことを、俺なりの言葉で真っ直ぐ伝えたつもりだった。


「……なら私を抱いて」


 彼女の嗚咽に乱れた声が、暗い部屋に鳴る。


「私、ヨシキなら、いいよ」


 彼女が俺の背に手を回してしな垂れかかった。その彼女の肩に手を置き、身体を離す。


「メアリー、しっかりしろ。自分を嫌いになるな。大事にしろ」


 自分を大切に出来なかったら人間はすぐに駄目になる。彼女が羨む幸せはやってこないまま終わってしまう。それではいけない。こんな時代で、俺たちが不幸になる必要がどこにあるというのか。酷い目に合わなければならない理由など、どこにあるというのか。


「メアリーのことは好きだ。でもそういうのとは違う」


 負けじと見つめた言葉に相手の眼が大きく揺れ始めた。さっきより倍の涙がその大きな目から溢れて、顔が崩れていく。


「一緒に帰ろう。帰ればきっと何もかもが上手くいく。すべては帰ってからだ」


 そのまま彼女は再会の時のように俺の胸にしがみ付いて泣き出した。しばらくは座り込み、彼女を抱き込むような形で啜り泣く声を聞いていた。


「……弘子に、まだ言ってないんだな?」


 啜り泣く声が治まった頃に、彼女に尋ねた。

 この様子では俺に話したのが初めてなのだろう。案の上、間が開いてから彼女はそうだと首を振った。


「メアリーに起こったことを知れば、すぐにあいつは戻ってくる。あいつはいつだってメアリーを想ってた。唯一無二の親友だって俺にだってよく言ってたんだから」


 メアリーの乱れる髪を撫でて告げる。彼女は何度も前髪を俺に擦り付けるだけで、俺の言葉に頷くことはなかった。それでも俺は弘子を思い浮かべて自分に言い聞かせるかのように続けて呟いた。


「弘子は俺たちを捨てたりなんかしない。連れ戻したら三人で話し合おう。三人集まれば何とでもなる。絶対に、帰れる」


 弘子は、きっと戻ってくる。


「三人で帰ろう、俺たちの時代に」


 彼女の嗚咽を聞き続け、その夜は次第に明けて行った。






 それからメアリーは時々俺のいる施設に顔を出すようになった。

 完全に立ち直ったわけではないが、前のような柔らかい笑みを零すことも多くなった。ナクトミンには手伝ってもらうだけだと断って出来る限り傍で過ごすようにした。

 仕事を終えた俺と少し話を交わす。彼女はネフェルティティに言い寄られる俺の身を心配し、弘子への憎しみを吐き、俺がそれを宥めることをしていた。女官である彼女が持ってくる情報は俺だけでは決して得られるものではなかったから助かった。王妃と呼ばれる弘子に近づけるのは、女官の中でも侍女と呼ばれる数少ない人々のみのようで、メアリーはそれに当てはまらないという。そうなると弘子に近づくのはやはり難しそうだ。ただ、弘子の話になると、メアリーの表情は怒りを潜ませるように陰るのは気がかりだった。

 そんなある日の夕方のこと。


「ラムセス隊長、こちらです」


 侍医に案内され、治療を終えたばかりの俺の前に、見たことのある赤毛の男が現れた。

 初めて目にした時、アイに「ラムセス」と呼ばれていた男だ。くり抜かれた窓からの赤い光が、二人の影を床に長く伸ばしている。


「ヨシキ、こちらに」


 名を呼ばれ、小首を傾げながらも俺は二人の所へと向かった。俺に用があるようだ。


「手を、見せてくれるか?」


 いつも温和な侍医の顔は少し険しめで、それを妙に思いながらも俺は自分の両手を前に出した。出した瞬間にもしやと思って掌を返すと、侍医とラムセスが互いに目を見合わせ、ラムセスが俺の手を取った。


「この者だ、ファラオがお探しになられていたのは」


 ラムセスの驚きを隠せていない表情と共に、俺も彼の発言に耳を疑う。

 ファラオ──ツタンカーメン。遠目でしか見たことのないあの黄金の男が、俺を探していたと言う。


「あの、それはどういう……」

「何用ですか、ラムセスさん」


 俺の声を遮って背後から現れたのはナクトミンだった。睨まれているラムセスは構わず俺に口を開く。


「名はヨシキと?本名か」

「え、ええ、そうです」

「いつからここにいる」

「ひと月半ほど前から」


 質問はこれで終わりなのか、一つ息を吐き、エジプト人らしからぬ緑眼は改めて黄色の掌へと戻ってくる。


「まさか王宮内にいるなど思いもしなかった……」

「ラムセスさん!」


 俺と同様、話について行けていないナクトミンは苛立った様子でラムセスに詰め寄る。最初王宮の門前で出会った時と同じ、脅すような口調だった。


「何だって言うんです。ちゃんと理由を説明してくれないと僕だって黙っていませんよ?下エジプトの隊長が勝手に……」

「ファラオのご命令だ。口出しするな」


 ナクトミンを黙らせたラムセスは、その二重の鋭い緑を俺に光らせた。何を言われるのかと固唾を飲み込む。


「ヨシキ、お前にファラオとの謁見が許された。すぐに支度を整えろ」


 王との謁見は、あまりに突然だった。


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