古代医術

* * * * *


 断末魔のような叫びが鼓膜を揺るがす。抑え込んだ患者が痛みに耐えかねて飛び跳ねるように動き、その反動で手術台が揺れて、慣れぬ形をしたメスを握る己の手先が震えた。

 視界がぶれて集中が途切れたのを感じ、一旦視線を離す。早く終わらせなければと思いながらもこんな振動の中では話にならない。助手代わりの若い神官とミイラ職人見習いたち4人が慌てて患者を抑え直し、俺の方を見た。彼らの視線を受けて、俺は荒い呼吸を続ける男の疾患部分に手を添える──。


 麻酔がないというのはなんて不便だろう。言うまでもなく患者が一番辛いのは分かっている。いくら神に祈っても身体に刃物を入れる事実は変わらないのだ、狂おしいほどの痛みが身体を貫いているのに違いない。だがこちらとて土台が揺れ、悲鳴が鼓膜を破かんと放たれるものだからたまったものではなかった。間違ったとところにメスをぶち込みそうになる恐怖を数えきれないほどに味わい、俺は開始時から冷や汗を流しっぱなしだった。


 この時代のオペは輸血が存在しない分、出血は少量で抑える必要があるために切り口は小さくする。加えて麻酔がない。痛みも度を過ぎると死の危険も伴うため、最短で行う必要がある。頼むから耐えてくれと心の中で唱え続けていた。

 今治療しているのは大腿骨骨幹部骨折──ただの膝骨折だ。本来、手術によって金属のプレートやワイヤー、ピン等の固定具によって骨を接合するだけのものなのだが今の状況では相当難しいものになっていた。

 骨折の診断も本来ならばレントゲンで膝の内部を十分に観察してからオペを行うのが従来のアプローチだが、X線も発見されていないこの時代では、症状と訴えでオペが必要か否かを判断しなければならない。必要だと感じて開いてみて、初めて体内がどうなっているかが分かる。恐ろしい時代だと思わずにはいられなかった。


 鼓膜を揺るがす悲鳴はすでに掠れ、患者自身は痙攣を起こし始めていた。ドイツの歴史書に麻酔の無い時代の手術を描いた絵があったが、まさにその中に今飛び込んだような感覚だ。どんな小さな手術にでも時間と忍耐が必要になる。

 これが俺の最近の日常。一月ほど続いている俺の日課だ。



「今日も凄い悲鳴だったね」


 手術を終えて医師の控室に戻るとナクトミンがいた。猫目を細めて俺に動物の革でできた水筒をよこしてくる。お礼を告げる声も枯れ果て、とにかく紐でぐるぐるに巻かれた水筒の吸い口を解いて水を口に含んだ。


「いい飲みっぷりだ」


 ナクトミンが小さく笑うのを聞きながら俺は椅子に座り込み、汗ばんだ額を前髪ごと掻き上げた。


「今日はこれで予定のものはすべて終わりだけど、明日も明後日も、ヨシキに治療してほしいって人でごった返してるよ。神様気分なんじゃない?王家じゃない神の誕生とも言えるね、これは」


 患者の名を連ねた石板を眺めて、ナクトミンは面白そうに肩を揺らしている。


「……俺はそんな大層な人間じゃない」


 俺の反応を、彼は楽しんでいるのだ。


「周りの医師たちをあれだけ驚かせて、この医療施設を自分の色に染めちゃうなんてさ、君って凄い人だよ。僕さ、これでも驚いてるんだ」


 俺が放り込まれているのは古代エジプトにおいて入院施設のある病院だった。王宮の傍に併設され、王に仕える代表医・侍医を始め、ミイラ作りのための職人見習いや、神官、侍医に師事する医師たちが集まり、日々治療や研究が行われている。言わば古代エジプトの最高医療機関だ。

 当初なめてかかっていた俺はここで働き始めて古代の医学がここまで現代のものに近いことに驚かされた。


 机にはパピルスの束が並んでいる。この施設の代表だという侍医から手渡された7つの書物――古代の医学書だった。このパピルスにはここでの治療法や処置法が記されている。外科、内科、耳鼻科、眼科、歯科等。産婦人科を除けば現代のものと同じ区分で存在している。それもその科ごとに担当の医師がいるのだ。例えば歯は歯科医だとか、目は眼科医だとか。現代としては当たり前だが、日本でこのように医師が分かれたのはこの時代より3000年後の江戸時代末期。解剖学が本格的に研究され始められたのも江戸時代だとされている。分野が分かれているということは、分けなければならないほどに医療が多様化しており、ある程度の知識と技術があることを意味していた。

 外科のパピルスを読んでみれば機器等以外の手術の手順はほぼ同じだ。何故ここに機器と麻酔がないのかと苛立たしくなる。機器さえあれば現代に匹敵する医療技術を彼らは手にするだろう。おそらくこれらの発展はミイラ作りによる解剖がここに息づいてのものなのだ。現代のそこらの一般人より医学の知識は勝っているだろう。


「あとは、君が文字を5日で習得したことも僕はびっくりした。頭いいんだなあ」


 くすくすと壁に寄り掛かってナクトミンは笑う。


「言葉を習得するのは昔から苦にならないんだ」


 ヒエログリフの読み方は規則性を覚えてしまえばこちらのものだった。ネフェルティティが毎晩毎晩俺の質問に答えながら教えてくれた甲斐もある。形を崩されてしまうとなかなか読めないものもあるが、医学パピルスを読むには困らないまでになっていた。


「ホント、ヨシキの国って聞けば聞くほど随分おかしな国だよね……ニホンだっけ、変な名前」


 ころころと彼の話は変わっていく。

 日本は、今ではまだ稲作がやっと始まった頃で、この巨大な文明の足元にも及ばないのではないだろうか。


「あとあれ……この前悪魔の病、治したでしょ?あれにはみんな度肝を抜かれてたなあ。僕笑っちゃった」


 悪魔の病とは、手の施しようの無い病の総称だ。いくら人体の構造を知っていたとしても、この時代でもウイルスの存在は解明できていない。それらによる病気はすべてお手上げなのだろう。外科手術などは理論的に行っていても、この科ばかりは呪術的なものに頼っていて神官が2人ほど常に控えており、どうしようもない患者が来ると祈って祓うのだと言う。

 ただ、俺が来てからは、マラリアや黄斑病等の類はすべてバッグに入っていた薬で治すことが可能になった。薬が尽きれば治せないが、悪魔の病を一度治した一件は俺がこの施設で恐れられ、気味悪がられるきっかけになってしまった。


「そう言えば頼んでおいたものは?」


 飄々と続く話を切って彼に尋ねた。


「出来てるよ、ほら」


 彼の横の器具用の台に、現代のものに似せて作られた歪なメス等がいくつも並んでいる。古代のメスは大きめであまり手に馴染まないからと、先日ここを総括する侍医に頼んだのだ。


「アイ様がいくらでも欲しい物があったら言ってくれってさ。すっかりお気に入りだね」


 頭痛を感じつつ、頬杖をついてカルテ代わりのパピルスを眺めた。明日の患者の確認をしなければならなかった。ナクトミンのからかいとも取れる発言に一々反応していられない。

 カルテという診療録もこの時代に存在している。今まで担当してきた医師の名、その医師が下した判断とその理由。そしてその結果と経過の様子。他には出身年齢職業等、とにかくびっしり記されている。まさに現代のカルテと同じだ。


「ヨシキさ、周りの医師たちに気味悪がられてるみたいだけど、アイ様はすごく君のこと気に入ってる。ネフェルティティ様も君に首ったけだし、落ち込むことないんじゃない?……って、落ち込んでないか」


 周りの医師たちは変なことばかりやってのける俺をあまりよく思ってはいない。名医として名を上げていく俺を疎ましく思うのだろうし、アイやら侍医という位の高い人々に目を掛けてもらっていることが気に喰わないのだろう。面倒なオペが必要な患者を俺に回してくることもしばしばだ。俺の失脚でも狙っているのだろうか。だが、気にはしない。弘子に会えれば何でも良かった。


「後でいいから、一人女官を呼んでおいてくれるか」


 そう言うと、彼はわくわくさせたような顔を俺に近づける。


「女官?何かするの?」

「その器具の整理を手伝ってもらうだけだ」


 どうせ周りの奴らは手伝ってくれない。


「僕が手伝うのに」

「お前は雑すぎる」


 彼はふうんと返して、垂れ目を細め、その中に俺を映し出した。


「僕、ヨシキに期待してるんだよね、何かしでかしてくれるんじゃないかって。面白いことやるならいつでも言ってよ。駆けつけるからさ」

「分かったから。お前はもう下がれ。今日はあっちに帰るつもりはない」


 パピルスを丸め、次を取って開いた。


「ネフェルティティ様怒るよ?ヨシキ、情夫様なんだから夜のお相手しないと」


 情夫。望んでもないのにその名で呼ばれると自然と眉間に皺が寄る。


「いいから行けって」

「はいはい、従いますよ、情夫様」

 

 にっこり笑った彼は軽い足取りで去っていった。

 ナクトミンは変わった男だ。貴族生まれの所為か、言葉遣いは丁寧だ。頭もいい方、顔も中性的で悪くない。むしろ整った顔立ちだ。何気に目上であるはずのホルエムヘブよりアイに気に入られているようだったし、いつもにこにこ笑っては奇妙なことを言ってくる。それでも、俺がここから逃げようとしないことが分かったのか以前よりべったりついてこなくなったのだけは良かった。見張りの兵を二人ほど外に配置して、ある程度の自由をくれる。


 夕暮れの色が机の上の医学書を染めた。そこに頬をつけて目を閉じる。診療も終わったのだろう、他の医師たちの話し声も足音も聞こえなかった。俺が最後だったようだ。

 一人だ。最近は一人の方が何かと落ち着いている。

 か細い音色を鼻から鳴らす。何の歌だろう。最近こればかりが俺の鼻先を流れていく──ああ、そうだ。グリーンスリーブス。


 ぼうっと鼻歌を鳴らしている時、ふと何もない思考を横切ったのはムト一家のことだった。あれだけ俺を心配して、泣きそうな顔までしてくれた優しい家族は今頃どうしているだろうか。一応、心配かけて申し訳ないということと、王宮に留まる旨を綴った手紙はネフェルティティに頼んで送ってもらった。返事は来ていない。ただの一般人が王宮に手紙など書けるはずがないのだから返事が来ないのは当然だと分かっていたものの、やはり少し心配だった。

 元気だろうか。俺を取り返そうとかしてないだろうか。ムトなら考えられなくもない。

 曲が途切れると同時に考えもそこで切れて、俺は夕焼けの色から目を逸らし、今度は腕に顔を埋めて机に突っ伏す体勢になる。ムト一家の次に流れてくるのは弘子の姿だった。何度も思い浮かべるその笑顔。一月前の氾濫の時以来、彼女を見ていない。情報も何もない。まず、俺が籠の中の鳥と言わんばかりに自由がないというのも原因だった。見張りの兵は俺のいる部屋の外に必ずいる。用を足しにいくだけでもついてくる始末だ。どうやったら会えるのか未だに分からず、俺はここで生きている。情夫というのも、アイが俺を切り札とでも思っているせいもあるのだろう、閉じ込められているかのようにこの施設と部屋を行き来するだけの日々が続いている。ただ一人で、吸うはずのない時代の空気を胸に溜め、毎日のように自分が現代人であることを言い聞かせている。

 会える瞬間だけを、再会の時の喜びを思い描いてここまで来た。耐えてきた。涙ひとつ流さず、ただそれだけを。

 お前も一緒なのだろうか。いずれ死ぬと分かっている男の横にいて、もの悲しさを感じているのだろうか。俺は会いたい。どうしようもないほどにお前に会いたいのだ。






「──え、医者になるの?」

『うん。お母さんとお父さんがそうした方がいいんじゃないかって』


 電話の向こうの彼女はくすくすと笑う。その音に、これは夢なのだとすぐに判断した。

 これは、週1回のアメリカとエジプトを繋ぐ電話。時差を考えながらも、エジプトの彼女に電話を掛けるのが俺の楽しみだった。


『良樹が歩んでる道なら問題ないって太鼓判なの。工藤家の良樹支持率ってば凄いんだから』


 自分の進路がはっきりしないのに、医師になるということを親の勧めで決めた弘子。


『このままじゃ、良樹の方にお嫁に行きそうな勢いよ』

「え」


 思いがけない言葉に本気で驚く、まだ学生だった自分。


『ううん、私じゃなくてお父さんがお嫁行っちゃうかも。お父さん以上に良樹が好きな人いないよ?いっつも良樹。今日は電話来たかって毎日聞いてくるんだから。時間が合えば話したいって言ってたわ』


 こうやっていつも冗談を交える。こちらがどう想っているのかも考えず、平気でそんなことを。


『もしそうなったら心から祝福してあげるね』

「さすがにおじさんは勘弁だなあ」


 夜の大学の研究室で俺はパソコンを打つ。卒業論文に備える資料を隣に山積みにしながら、パソコンを使って実験結果を書き並べ、そこから得られたものを書き出してまとめていく。予想していなかった結果が得られてしまい、何故そうなったかを更に考察する。部屋には数人、汚れた白衣姿の研究仲間がまだ残っていて、電話している俺が気になるのかちらちらと見ながらも自分たちの担当部分を進めていた。

 幸せな夢だ。懐かしくて、暖かい。

 そうだ、俺が帰りたいのはこの世界。彼女がいて、電気とか紙とかコンクリートだとか、そういう進んだ文明があって。そういう世界が、俺の居場所。


『良樹、それでね』


 彼女から綴られる日常に耳を傾け相槌を打ちながら、肩をつついてきた金髪の仲間から新しい資料を受け取った。目を合わせるなり、「ガールフレンドか?」と小指を突き出してにやついてくる。その手を払って、俺があっちへ行けとジェスチャーをすると、彼はアザラシのような笑い声を立ててウィンクをしながら自分のディスクに戻っていった。ただでさえこの男はよく担当教授に叱られているのだから、そんなことをやっていないで早く論文をまとめればいいのに何をやっているのだ。


『良樹、聞いてる?』

「あ、うん。聞いてる聞いてる。それで?」


 いつの記憶だろう。すごく、懐かしい。

 こんな夢を見るなんて俺も相当追い詰められているのだろうか。


『ねえ、良樹──……』


 夢は、ここで切れた。近づく足音に現実へ引き戻され、意識は一気に浮上した。





 呻きを漏らしながら顔を上げれば、周りの明るさは陰りを見せ、太陽がほぼ沈んでいることを教えてくれていた。更に視界持ち上げると、女官が一人入ってくるのが見える。


「遅くなり申し訳ありません。ナクトミン様より仰せつかって参りました」


 頼んでいた女官が来たのだと分かった。あまりにいい夢だったものだから、もう少し遅れて来てくれても良かった。身体を動かしたと同時に小さな頭痛が目の奥で響く。


「ああ、じゃあ……そうだな」


 重い身体を脚で支えて新しく来た器具の方へと動かした。待たせては悪い。


「これとこれ、この箱に分けてくれるかな」


 2種類の器具を指差し、木製の箱を手渡そうとするのに女官の手は動かない。聞こえていないのだろうか。


「あの」

「……キ?」


 返答の代わりに発せられた震える声には違和感があった。相手が何を言ったのか聞き取れず、俺は彼女を見つめる。目覚めたばかりの視界はやや霞んでいた。


「ヨシキ、だよね?」


 何故、女官から名を呼ばれるのか分からなかった。ネフェルティティとアイとナクトミン以外は俺のことを情夫様やら、医者様と呼ぶ。本名で呼ぶ人間は数えるくらいしかいない。


「私よ……?」


 目を擦り、改めて向かいにいる女の姿を確認する。頬には浅い小さな笑窪。エジプト人特有の褐色の肌。背中にまで達した長い波打つ焦げ茶の髪。


「私よ!私っ!?分からない……!?」


 腕を掴み揺さ振られ、彼女の姿を把握するなり、俺の口は小さく「まさか」と象った。

 信じられなかった。驚きすぎて息が止まるかと思った。相手を映していた瞳孔が、大きく見開く。思いもしない再会に身体が震え出す。夢かとさえ、思うほどに。


「……メアリー」


 名を呼んだ途端、みるみる内に彼女の目から大粒の涙が零れ、俺の腕に落ちた。表情が崩れて雫に浮かぶ俺の顔も一緒に下へと消え失せる。


「本当に、メア……」


 彼女は飛びつくように俺の胸に縋りついた。よろめくのを防ごうと足に力を入れ、どうにか持ち堪える。


「ヨシキ!」


 彼女の涙が落ちて行く。量を増して、声を増して咽ぶように。今まで枯れていたものがいきなり噴出したようだった。ヨシキ、ヨシキと何度も俺の名を繰り返し、離すまいとするかのように縋り付く力の強さが、俺に現実を伝えてくれる。


「ずっと会いたかった……!ずっと!!」


 その声は、夜に沈みかけた施設に響き渡る。

 嗚咽が鼓膜を震わせるたびに現実味が増し、俺の呼吸も乱れた。俺と同じ時代を生きる人。同じ境遇を持つ人。ようやく会えたのだ。恋しかった故郷の面影が、彼女によって鮮明になっていく。綺麗で美しい、排気ガスに埋もれた故里が。

 再会の喜びの促すまま、「会いたかった」と声にならない言葉で返しながら俺は彼女を抱き締めた。


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