12章 接近

朗報

* * * * *


『――生命と繁栄、そして健やかであることを!』

『――神々の王アメン・ラー神にご加護を得ていることを!』

『――我ら讃えん、神の化身その御身!』


 今もまだ、ナイルの氾濫の儀式で神官たちによって歌われた讃歌が続いている気がする。耳から離れなくなり、ついには私の唇も記憶を辿って紡ぎ始めた。

 本来ならあと数か月間は19歳の私は、7日前の氾濫で20歳になった。彼は22歳。彼と船の上から水に浮かぶハスを眺めたのはこれで2回目になる。来年も再来年もこの美しい神の恵みを一緒に見ることができたらいいと願いつつも、指輪のことが脳裏を横切らなかったと言えば嘘になる。目にする度にどうしようもない不安に苛まれ、何度彼の腕を掴んだか分からない。

 今年も無事でありたい。何もないまま、幸せに。平和に。


「姫、これはもう摘んでも宜しいのでしょうか」


 カーメスに呼ばれ、その指が示す花を見てから首を傾げた。


「それはもうちょっとね……もっと開いたものがいいのだけれど」

「なるほど、これはもうちょっとなのですね!」


 楽しそうに笑って、癖毛を揺らしながらカーメスはまたヤグルマの青の中に腰を埋めた。

 空を仰いで、花の香りを胸いっぱいに吸い込む。綺麗な澄んだ空気で胸が満たされるのを感じた。

 ネチェルとメジットが宮殿に飾る花を摘むというからカーメスと一緒について来て、4人で良い時期に来ている花を集めていた。あと少しで枯れてしまいそうな、満開を迎え終えたものだけを選んで積みつつ、蕾を持った若い花に水をやって回っていた。


「王妃様、これはいかがでしょう」


 花の様子を見ながら水を撒いていると、今度はネチェルが尋ねてくれた。


「それならもう摘んでも大丈夫よ」


 確認を得た彼女は花を摘み取り、腕の花束にまた一輪加えていく。


「姫様と花を摘むなど、何年ぶりに御座いましょう。姫様のご生前もよくこうやって花たちに囲まれながら遊んだものに御座います」


 懐かしい、懐かしいと今にも泣きそうに目を潤ませてネチェルが繰り返す。


「まことに!私もそう思いますよ、ネチェル殿!昔に帰った気分になります!」


 楽しそうに同意するカーメスは、摘んでもいい時期に来ている花を見つけようと躍起になっている。その笑顔は「本来の任務は放っておいて大丈夫なのか」という現実的な言葉を忘れさせるくらいだった。

 他の三人と自分の腕にある花の量を確認して、あともう少しだろうと大体の見通しを立てながら、青の草原に腰を屈めると視界にその色が迫った。気分を和やかにする清潔な香りが鼻をくすぐる。時間と言う止まらぬものの存在を忘れさせてしまう。


「王妃様」


 そっとメジットが傍らにやってきて微笑んだ。


「ファラオがお帰りになられました」


 振り返ると、言葉通り彼がこちらにやってきているのが見えた。後ろにナルメルやセテムを連れて、あたりを満足げに眺めている。建設途中のホルス神殿の方に行くと言っていたのに、もう帰ってきたのだろうか。

 嬉しくてつい駆け寄ると、彼ははにかんだような笑みを浮かべてくれる。


「お帰りなさい」

「出迎えに来ぬと思えばまた花を摘みに出ていたのか」


 彼は少々呆れ気味だ。


「水やりなど女官どもにやらせれば良いだろう」

「自分で世話をしたかったのよ。ほら見て、綺麗でしょう?部屋に飾ろうと思うの」


 彼は含み笑いをしてから私が差し出した一輪を手に取って私の髪に挿した。皆の前でさらりとやってのけるその仕草に未だ私だけが頬を染めてしまう。

 ナイルから吹く強めの薫風が私たちの間を吹き流れていく。揺らめく微笑の間を青い風が行き交い、さらさらと花同士が掠れる音が光る。そこにいる皆が、咲き切った花弁のいくつかが空に舞い上がっていく様子を見上げていた。生まれていく音がすべて声になって聞こえてくる気すらした。

 プタハホテプの言葉に「自然の声に耳を傾けよ」とある。それはもしかしたらこういうことなのかもしれない。


「どうだナルメル、美しいだろう」


 声に引き戻され、彼の方に目をやると隣の宰相に自慢げにそう尋ねていた。尋ねるとは言っても、完全に否定を許さない口調だ。


「ええ、これほどの場所とは思ってもおりませんでした」


 目を細め、感嘆を漏らしながらナルメルが頷いた。


「王妃が長い時間ここで過ごされる理由も分かります。御自ら、ご自分の他に王妃の気を引いてしまわれるものを作ってしまわれたようですな」


 高らかに笑いながら白髭を揺らした宰相に、彼は決まりの悪い顔をしながらもすぐに持ち直して咳払いをした。さすがの彼もナルメルには適わないようだ。


「ファラオ!」


 呼び声と共にくせ毛の将軍が何の躊躇いもなく飛び込んで来た。


「カーメス、いないと思えばヒロコについていたのか」


 名を呼ばれるなりぱっと顔を輝かせ、跪いて腕に抱いていた花束を彼に差し出す。


「はい!ファラオ!これをご覧ください、とても美しく健気でございましょう!すべて私が摘んだのです!姫様に何度も教えていただき、だんだん摘んで良い物といけない物の区別がつくようになりました!もし、もし!これを姫様とのお部屋にお飾り下さったのならこのカーメス、もう思い残すことは御座いま」


 言い切る前に彼とカーメスの間に彼についていたセテムが割入って現れた。


「将軍がのほほんと花摘みなど!自覚がなさすぎる!」

「いやいや、セテム、これは王妃様と共にあらんという私の心の表れであり、」

「ぬるい!」


 言葉が叩き切られた。


「ではファラオ、私どもはこれで失礼いたします。この者を叩き直してまいります故」


 セテムに連れ去られ、「ああ~」というカーメスの声が余韻となって私たちの間を吹き流れて行った。その様子にネチェルとムトノメジットと並んでくすくす笑っていると。


「ヒロコ、覚えているか?」


 未だにカーメスが消えた方向に目をやる私を彼が呼んだ。何を、と尋ねる前に彼とナルメルの影から一人の人物が前に出る。


「王妃様、お久しゅうございます」


 この朗らかな表情を、私は以前見たことがある。


「カネフェルさん!」


 アケトアテンにいた頃に、一度だけ尋ねた学校にいた彼の王宮付家庭教師だった人。幼少時代の彼を教育した人で、柔らかな微笑みは仏様を思わせる。


「覚えていてくださいましたか」

「ええ、勿論です」


 カネフェルは私の両手を取るなり、深々と頭を下げてくれた。


「お元気そうでなによりに御座います」

「あなたも」


 どうしてこの人がここにいるのかという疑問を通り越して嬉しくなる。


「これからこの二人を含め、お前に話すことがある。ここでは何だ、中に入ろう」


 彼に背を押され、私たちは王宮の中へと向かって歩き出した。







 今までの記録などを書き連ねたパピルスが並ぶ書庫に入ると、椅子が一つとその前に資料を広げるための大きめの机が置かれていた。まるで他人に聞かれてはならないことでも話すような妙な雰囲気が辺りを包んでいる。


「この二人は、もうお前のことを全て知っているのだ」


 不思議に思っていると、彼が腰を下ろして私にそう告げた。


「え?」


 何を告げられているのか把握できず、聞き返した。


「話したのだ。お前が未来から来たと言うこと。魂だけがアンケセナーメンであり、そのものではないということ。私に対する未来のことについても」


 彼は椅子の肘掛けに肘を置いて頬杖を突く。

 誰も信じないようなその話を、この二人にしたのかと私は目を見開いた。


「ナルメルは最初の頃よりすでに気づいていてな、ヒロコが一度あちらに帰った時に話していた。私の死についてはつい最近だ」


 ナルメルは片手を胸に置き、瞼を伏せて私に軽く礼をする。


「カネフェルにはメンネフェルからテーベへ視察に来ていた時。実はアケトアテンから一度メンネフェルに遷都した方が良いと助言してくれたのもこの男なのだ。頼りになる故に選んだ。今はこの二人で十分だろう」

「ま、待って。どうして」


 カネフェルが頭を下げるのを見ながら、慌てて彼に尋ねる。頭がついて行かない。


「決まっていよう。これからのことに備えるためだ」


 今から勝ち戦にでも出陣するような面持ちだ。彼は隣に立つ私の髪を撫でながら、前にいる二人に目をやる。


「共に考えを巡らせる第三者というものが必要だとテーベへ来る前から考えていた」


 テーベに来て以来、いつ、何が起こるのかと不安だった。未だに歴史が変わっているという実感は得られていなかったし、私一人でどこかまで出来るかと悩みもしていた。でもまさか彼がこんな手段に出ているとは思いもしなかった。この指輪と同様、彼は私に相談もせずにあれやこれやと決めてしまう。

 現実が伴わず、唖然とする私の前にナルメルが顔を覗かせた。杖が静かに床を突く音は、石を打つ水を思わせる透明な響きを広げる。


「ご安心ください、我らは王の死後のためにいるのではありませぬ。ファラオをお守りするため、ここへ集ったのです」

「王妃に何も仰られていなかったのはあなた様に要らぬ心配を掛けたくなかった故でしょう。ファラオなりの御心遣いなのです、お許しください」


 カネフェルが続けた言葉に彼は表情を顰めたけれど、すぐに緩めてため息をついた。


「言うと反対されると思っただけだ。ヒロコはすぐに泣く。友人がどうしたやら、私が死ぬやら、ちょっとしたことでびーびーびーびー。泣かれるのは好きではないと何度言っても聞かぬのだ。この指輪を贈るのにも相当骨を折った」


 確かに何度も泣いてはきたけれど、びーびーだなんて、私そんな酷い泣き方なんてしたことないと思うのに。


「でも、本当に?ナルメルたちはあの話を、本当に信じて?」


 3300年も後の未来から来て、それも彼の死についての未来の話など、頭の切れるこの人たちが簡単に信じてくれるとは思えない。今はこうして信じてくれている彼でも、最初は戯言やら嘘やらと言っていたのははっきり覚えている。そんな私に彼らは揃ってほろ苦い笑みを零した。


「実は私共も最初は信じるか迷いました。いくらファラオのお言葉とは言え、あまりにも突飛なもの。どこからか流れてくるような噂のように掴み所がない、今にも消えてしまいそうなお話でありました故」

「ですがファラオがそのような戯言を仰るとも思えない。今までに起きた不可思議な出来事を踏まえ、我々は考え直したのです」


 私の隣で「ここまで説得するのに大変だった」と彼が苦笑する。この人がこう言うのだから相当骨を折ったのだろう。


「姫君」


 ナルメルが私を呼んだ。


「最後に、あなた様のそのお声で確かめたく存じます」


 宰相の穏やかな目つきが鋭いものに変わり、私を見据えた。息すら止まる強さに身じろぎそうになる。


「あなた様は本当に未来から来た御方なのか」


 お父さん、お母さん。私の故郷。それらを振り切り、鋭さを跳ね除けるくらいのありったけの誠意を以て見つめ返す。

 私の反応で、これが嘘か真か宰相は見定めようとしているのだ。宰相として、もし私が嘘をついていたのなら、王を騙した者として罰する覚悟で聞いている。

 21世紀を示す物証はもうない。だからすべてを懸ける思いで言葉を発す。決して嘘だと言わせない。私は、エジプトの王妃であると、その誇りを胸に抱く。


「私は」


 もう一度息を吸い、身体の前に組んだ指に力を入れて前を向く。


「私は、本当の名を工藤弘子と申します」


 低くて、自分のものとは思えない声の広がり。水を打ったように静まりかえった世界に私の声は響く。


「ここから約3300年先の未来から呼ばれ、父と母を、故郷を捨て、夫トゥト・アンク・アメンの未来を変えようと決意した人間です」


 すべてを白状した、法廷に立つ証言人にでもなった気分だ。今まで隠し通してきた事実を言い切って、緊張が頭部から足先へと抜けていく。


「その意思を貫かんとする凛々しい御顔」


 宰相の柔らかい皺が深まる。


「あなた様は間違いなく我らの王妃であらせられる」


 そう告げて、深々と礼をした。それに続き、カネフェルが崩れ落ちそうな表情で頭を下げる。


「まさにあの姫君の魂が宿りし御方。強い瞳はあの方そのものです」

「我ら、真実を知る者として持ちうるすべての知恵と力を合わせ、この魂に代えてでもあなた方お二人をお守り申し上げましょう」


 私は二人を前に、指輪のある左手を右手で包んだ。

 王の右腕としてこの国を支えてくれている宰相と、彼の土台を作り上げた知識人が味方になってくれた。私を信じ、共に歩むと言ってくれた人がいる。それだけで一握りの勇気が湧いてくる。胸が大きく揺さ振られる。不安定で崩れそうだったものが、しっかりと地盤を踏みしめ、前進し始めた瞬間だった。


「こうなりました今、」


 ナルメルが素早く立ち上がり、しんみりと空気を一瞬にして打ち破って話し出した。


「お怪我で御命を落とすことがありませぬよう、私は王の今後のご予定、怪しい者の動向などを探り把握し、カネフェルは王のご病気を防ぐため、食事の管理、そして王宮の診療所の方に回ってもらうことになっております」


 ナルメルがそこまで管理してくれるのなら安心だ。私一人ではどこへでも駆けていってしまうような彼を抑えることができなかっただろう。


「今は施設の方で様々な病に聞くとされる妙薬を製作中に御座います」


 このテーベの王宮には民のための診療施設が設けられている。そこでこの名高い医師兼教師のカネフェルと侍医がいてくれるのなら、もう百人力のような気がしてきた。どれだけ心強いことか。


「この二人のやる気は凄まじい。人選を間違えたかと少し後悔しているくらいだ」


 いきり立つ彼らに、当人は頭を抱えている。


「いいえ、素晴らしい人選よ」


 これほど熱心になってくれる人がいるということだけでも、とても素敵なことだ。

 彼もそうだなと結んだ口を解いた。


「今はお前と共に生き抜き、この国をより豊かにする。それだけだ」


 断言するその声に、明るい未来しか見えなくなる。

 大丈夫だ。歴史はいい方に向かっている。これだけ彼を想って動いてくれる人がいるのだから。私を信じてくれる人がいるのだから。

 未来は、きっと変えられる。

 そんな余韻に浸るのも束の間。


「もう一つ、ヒロコに朗報がある」


 私を引き寄せて、にっと唇を引いた。


「カネフェル、話せ」


 彼に目配せされ、カネフェルが私たちの方に一歩踏み出す。


「テーベにて子供たちの教育と医学の勉強をしていた数か月前、私はそこで一人の青年に会ったのです」


 数か月前と言うと、私がまだメンネフェルにいて、彼がテーベに来ていた頃。


「陽に焼けていたのか肌の色が私共とほぼ同じだったのですが、唯一焼けてないと思われるその者の掌が姫君と同じ色だったのです」


 はっとして息を呑んだ。

 私と同じ──黄色人種の青年。もちろん黄色人種の一人や二人くらいは流れてきているかもしれない。けれど、私の中に浮かぶのは、ただ一人だった。


「……良樹」


 私の落とした名に、隣の彼も頷いた。


「ファラオから王妃のご友人のことをお聞きしてからまさかと」

「何歳くらいの、人でしたか?」


 声が震える。


「ファラオほど……いやそれより2、3つほど上の男だったかと。身長は私より頭一つ出る程度の、若い方でした。確かにヨシキと、隣にいた少女もその青年を呼んでいたと記憶しております」


 今回の氾濫を考えれば良樹は今、25歳だ。年齢も身長も一致する。


「異国から来た者だとも口にしておりました。故に肌が違うのだと」


 やはりいたのだ、この時代に。この古代に。

 このカネフェルが目にしたのは、私の幼馴染。メアリーと一緒に私が連れて来てしまっていた大切な人。


「現在は行方が分からなくなっているため、数日前よりラムセスに命じて探させている」


 祈るように指を組む私の肩を彼がそっと撫でた。あと少しで良樹に会えるかもしれない。心臓が口から出てきてしまうのではないかくらいに鼓動が胸を打った。


「見つかり次第ここに連れてくるよう伝えてある、おそらくすぐに会えるぞ」


 もうすぐ、もうすぐ会える。生きていてくれて良かった。心を同じくする人たちが増えて良かった。何もかもがいい方へと進んでいるようにしか考えられなかった。


「良かったな、ヒロコ」


 私の傍に浮かんだ彼の笑顔に頷き返し、感謝し、何事も無く良樹と再会できることを、私はただ強く、願っていた。


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