予言

 俺が王宮に入って3日後に、ナイルの氾濫は起きた。神の恩恵とも言われる一年の区切り。この瞬間に誰もが一つ年を取る。

 恵みとして祭りも行われるこの自然の現象を王宮の端の部屋から眺めていた。文献では読んだことがあったが、こうして目にするのは初めてだった。


「驚いたよ、そんな立派な格好で来るなんてさ。それもネフェルティティ様の情夫殿じゃ殺すも何も出来ないよね」


 以前にも会った猫目の青年が、俺の前で爽やかに笑っていた。俺もまさかこんな形で再会するとは思ってもみなかった。


「ああ、相変わらず凄い水だ。溺れてる人とかいないのかなあ」


 軽い足取りで傍の柱へ行き、それに寄り掛かるようにして立つ彼は、王宮の門前で「邪魔をするのであれば殺す」と言い捨てた人物と同一だとは到底思えないくらいだ。

 彼の名はナクトミンと言う。涼しげな顔で外に溢れるナイルを眺めてはよく呟いているが、こちらに語りかけているのか、それとも独り言なのかは定かではない。何でも、ネフェルティティから逃げ出すことのないようにと見張りを命じられているらしい。


「何故お前のようなひょろひょろな男がネフェルティティ様の御目にかなったのか俺には全く理解できん」


 そう言ってホルエムヘブという名の将軍がこちらに迫ってきた。軍人らしい立派な体付きのその男は、彼女から命じられたからという訳ではなく、彼女の情夫となった俺を見物に遥々下エジプトから来たらしい。ナイルの氾濫の祝賀はそのついでだという。どれだけ彼女に執着しているのだろう。

 儀式のための着替えが済んだ今は部屋にこの3人が揃っていた。


「賢そうだが顔も平たく、これと言って俺に勝るものはないと思うのだが、一体どうして」

「さあ、俺にもさっぱりで」


 追いつめてくる眉の太い男に苦笑いで返す。


「謎だ……将軍という位のある俺の方がずっといい男だと思うのに」


 正直、馬鹿っぽいというのがホルエムヘブの第一印象だ。盛れる陽光で艶やかに光る上半身の筋肉は逞しいものだが、明らかに彼女の好みではないだろう。


「ホルエムヘブさん、そんな見つめ合ってもヨシキ様の顔になることはないですよ。それより僕と話しましょうよ。色々と教えてください」

「いや、少し待て!何か不思議な魔術が起きるかもしれぬではないか」


 俺の前から離れようとしない将軍にナクトミンがからかうように呼びかけるが、この男は一向に離れてくれる気配がない。


「むむっ、こうして見つめていればきっと俺も!!」


 見つめられているというよりかは、睨みつけられている気がするのは気のせいだろうか。こんな顔が近い状態で太い眉と馬鹿でかい眼球を見せつけられても何も生まれない。とりあえず顔が怖い。

 ホルエムヘブの顔を避けるために精一杯身体を反り、もう後がなくなったくらいで、ぞろぞろと部屋の入口から10人ほどの神官を後ろに連れたアイが入ってきた。

 アイは先日見た時よりも黄金を身体に巻いている。似合いもしないのによくもまあ、これだけの黄金で着飾れるものだと呆れてしまう。俺を含めた他の神官たちはサンダルに、踝まである長く白い腰巻とシンプルな首飾りだけだというのに。

 周りにいた二人が跪き、素早く老人に頭を下げた。二人の切り替えの速さに内心驚きながらも、俺も慌てて二人と同じ姿勢をとった。


「おお、ナクトミン。来ていたのか」

「はい、ヨシキ様の護衛を命じられまして、しばらくはアイ様の宮殿に就くこととなりました」


 アイに声を掛けられたナクトミンは涼しげだった顔にこれでもかとにっこりとした表情を浮かべた。張り付けたような笑顔だ。老人自身も相当可愛がっているのだろう、俺には決して見せないような笑顔を向けている。対してホルエムヘブに向かって老人は眉を顰めた。


「お前がいくらこちらに足を運ぼうと、ネフェルティティはやらぬぞ。ムトノメジットなどどうだ、あれならばどうでも良い」

「い、いえ、ムトノメジットも素晴らしい姫君でいらっしゃいますが、姉君のネフェルティティ様には……」


 父親にどうでもいいと言われている点には引っかかるが、どうやらあの美女にはムトノメジットという妹がいるようだ。


「ヨシキ」


 がっくりと項垂れる将軍を傍らに、嗄れ声がこの名を呼んだ。それに合わせて顔を上げると、決して好きになれない威圧が降ってくる。


「これからナイルの氾濫をもたらした神へ祝福の儀が始まる。そなたは私について来ると良い」

「はい」


 王妃と知り合いだという俺を連れ、王妃に近づこうという。俺も弘子に会えるのなら、どんな手段でも構わなかった。彼女が近づいてきたらそのまま手を引っ掴んで、あわよくばこの王宮から脱出してもいい。


 アイの後ろに付き、女官や兵たちに礼を向けられながら宮殿内を歩く。終始無言無表情を貫き、歩幅を揃えてついてくる神官たちが背後に続く。何というか、まるで怪しい宗教団体の中に入ったような気分になった。

 前を向くと、現代には残っていない鮮やかな壁画がこちらを覆うように彩られ、太い柱の並木が広い天井を支えている。その一つ一つを飾る現代人顔負けのレリーフは素晴らしい。柱の間を見やれば、すべてがナイルに浸かっている。ハスの花が流れてくる所々でナイフのような煌めきが見えるが、あれは魚だろうか。ナイルの水位がここまで上がるのにも正直驚いたが、浸水しないようにと考慮されたこの王宮の構造にも感心した。

 目に映るもの全てが珍しく見回していると、王宮から別の建物に繋がる渡り廊下に差しかかった。俺たちが目指しているのは神を祭る神殿だ。進むにつれて王宮内とは打って変わって壁画は神々を描いたものがほとんどになる。神殿が迫り、香油と思わせる香りに支配された世界がやってきた。儀式で使う匂いだろう。古代では特別な香りを持つ香油を、お香のようにして儀式で用いたと聞いたことがある。

 やがて香油の匂いが溢れる神殿の入口に立ち、アイは両手を掲げ、神殿を守る4人の兵士に向かって口を開いた。


「ナイルの氾濫を神に感謝申し上げるべく参上した。道を開けよ」


 動こうとしない兵たちの様子にこちらが違和感を覚えた矢先、二人の男が神殿内から俺たちの前に割入ってきた。赤髪と黒髪の男だった。赤毛の方はナクトミンと同じ服装からして隊長だと見当がつく。もう一人は隊長と匹敵する身分なのだろうが、初めて見る身なりだった。


「ラムセス、セテム、この私が通ると言っている。早く道を開けぬか」


 すぐに通してもらえない苛立ちからアイの声は怒りを含んでいた。


「それは出来かねます」

「あなた方の参列はファラオの命により禁じられている。お引き取り願いたい」


 敵視に似た視線を俺たちに向け、二人は丁寧な口調で静かに告げた。


「馬鹿な。神官なくしてどうやって儀式と執り行うと言うのだ」

「アテンの時代よりアメンに仕え続けていた神官たちが御座います」


 アイの怒声に、セテムと呼ばれた男が一歩踏み出して言い返した。

 確か、アテンであった時代でもアメン信仰は密かに続いていたという。信仰はアメンに戻ったとしても、神官たちは最初からアメン派の者と、改革後からアメン派になった者の二つの派閥に別れてしまっているのだろう。


「私は最高神官であるぞ。神は私の祈りを求めているはず」


 アイは苛立ちを大きくして金の杖を床で打ち鳴らすが二人の表情が変わることはない。鋭い眼差しを放つ目元は険しく、俺たちを通さんと入口を塞いだままだ。自分の取り入った男がどれだけ警戒されているのかを今ここで知った。


「アイ殿、今やアテンではなくアメンの時代。唯一神ではない。最高神官と言えども今は王家でいらっしゃるということ以外、他の神官たちと同じ身分。最早何の意味もなさないのです」

「民にお姿をお見せになられるファラオと王妃を西の宮殿からご覧になれます。どうぞそちらへ」


 彼らが頭を下げると周りにいた兵たちが俺たちを囲み、もと来た道へと誘導しようする。


「私にそのような扱いをし、そのままでいられると思うな」


 負け犬の遠吠えとも取れる文句を残し、アイは二人に背を向けた。


 ──従うのか。

 押し切って入らないのか。この神殿の中に入れば弘子に会えるというのに。


「神官様、戻るのですか」


 俺は慌ててアイに尋ねた。このまま引き下がっては弘子に会うことが出来ない。


「仕方あるまい、あの二人は応じぬ。私を最も警戒しているのだからな」


 歩き始めたアイに反論したが、相手は歩む足を止めない。


「ならば私だけでも」


 この肌を見せれば何とかして自分だけでも入れるような気がした。


「この私が会えぬのなら、そなたも会えぬ。決まっていよう。私を置いて行くなど許さぬ」


 アイが俺の腕を掴んで強く引いた。予想以上の痛みに襲われ、恐ろしいほどの握力に俺は咄嗟に黙り込む。


「戻るぞ」


 否応なく俺は引かれて、ラムセスとセテムと言う名の二人によって閉ざされた神殿の入口が虚しくも遠ざかって行くのを見た。一度息をついて目を閉じる。慌てるなと、自分の胸の内に唱えた。

 アイに逆らえばせっかく見出した可能性を無にしてしまう。もし頑なにアイを拒むあの二人にこの手を見せたとしても、アイのように易々と俺を信じて王妃に会わせてくれるとも思えない。アイと共にここまで来たというだけでもあの二人にとっての俺への危険意識は高いものとなったはずだ。ならば一度引き返し、また機会を窺ってからでも遅くはない。

 自分に言い聞かせながらも、弘子がいるという神殿の中に思いを馳せずにはいられなかった。

 







「もとは、私が後見だったのだ」


 血を継がぬ王家の住処、西の王宮の外に広く開けた空間に立ち、歯ぎしりをする隣のアイの言葉を虚ろに聞き流していた。俺とアイ以外は、皆後ろに一列に並んで東の宮殿を見据え、神殿での儀式の後に現れるという王たちの姿を待ち続けている。変な真似をしないよう見張っているのだろう、見知らぬ兵数人が、槍を携えて奥に立っていた。

 氾濫によって冷えた風が首筋を撫で、頭上の太陽と丁度良いくらいの環境を生み出す。蒼空には鳥が舞い、ここからは見えないが下からは大きな歓声が響き渡っていた。つい先日まで自分もあの中にいたのだと思うと変な感じがした。


「私が政治を動かし、この国は私の者になるはずだった……だというのに、祖父であるこの私を蔑ろに!」


 先程からそればかりだった。自分はツタンカーメンの祖父兼後見であり、王位は自分のものだと。うるさく思いながらも文句を言えるはずもなく、俺は何度か適当な相槌を打っている。


「それもウアジェトによって死にかけていたと言うのに復活し、あの神の力を持った娘を妻にまでした!何故あの男にばかりいつも幸運が降りるのだ!何故!」


 拳を握りしめ、また黄金の杖で床を打ったと同時に歓声が爆発的に大きく弾けた。来たかと踏み、向こうの東の宮殿のバルコニー部分に急いで視線を投げる。

 向こうの王宮から現れる黄金を身にまとった二人。大臣や兵士たちが頭を下げる敬意の中心に姿を見せた、王族と呼ばれる者たち。


──いた。


 遠い。とても、遠い。

 横顔だけで、笑っているのかも緊張で顔を引きつらせているのかも分からないほどに朧だ。

 だが手に取るように分かる。

 あれは弘子だ。俺と同じ時代の流れを生きる人間。


 急に目頭が熱くなった。今すぐ手を伸ばしてこの腕に抱き締めたい。俺はここだと、大声で叫んでしまいたい。ここからこの声で彼女の名を呼んでしまいたい。

 俺を探してくれているだろうか。心配してくれているだろうか。このまま一目散に走って飛び越えたら、あの場所まで行けるのではないか。

 様々な感情が行き交い、興奮の所為か鼓動が早まった。いたたまれず前に一歩踏み出した時。


「欲しい」


 地べたを這いずり回るような声が聞こえた。

 

「欲しいのだ……あの娘が、この手に欲しい」


 ぞくりとして隣を見やると、アイが震えた声を並べていった。

 向こうに立つ二人を貫かんとする二つの目玉に人間の醜さというものを見た気がした。欲望、憎しみ、苦しみ、怒り……何より、生にしがみ付く哀れが滲み出ている。不死の薬を求めた古代中国、秦の始皇帝もこれに似た色を己の目に宿していたのだろうか。いかつい老人の手に握られた杖が、ぎりと悲鳴を上げるのを聞いた。


「……ヨシキよ」


 こちらには目をくれず、顔の見えない王と王妃を見つめたまま俺を呼ぶ。


「見えるか。王妃の指に光る緑を」


 視界を細め、周りの光を遮りながら彼女の指を見つめる。

 左の、薬指ほどの位置。何か微かに緑に光るものがあるが、あれは。


「指輪?」


 問いを交えた返答に、そうだとアイは頷いた。


「王の死後、あれを手にした者こそが王となる権限を得る。王位継承権の証だ」


 王位継承権。ツタンカーメンは王家にとってそんな重要なものを影武者でしかない弘子に与えているのか。


「あの王さえいなくなれば良いとお考えなのですか」


 弘子を見る目とは対照的な、王への悍ましいアイの眼に、俺は無意識に尋ねていた。


「そうだ」


 本気で恨んでいると言いたげな身震いさせる響きが返ってくる。


「あの男さえ、あの王さえいなくなれば良いのだ。私を蔑ろにしたトゥト・アンク・アメン、あの男さえな」


 未来、王殺しと称される男のものらしい台詞だった。


「死後、私があの指輪をこの手にすれば、王位も王妃も我がものとなる」

「……なるほど」


 あの男がどんな風に死ぬかなどどうでもいい。王位の行方も関係ない。歴史はそのまま、その通りに流れていくのだから。


「力になりましょう」


 そう言って笑い、味方であることを主張する。この古代において丸裸同然の俺には、強い後ろ盾が必要なのは変わりなかった。俺にとっての問題はどうやって弘子とコンタクトを取るかと言うことだけ。そしてどうやってこの老人から救うかだ。


「だが、その前に一つ問題がある」


 歓声は風の音をかき消すほど大きいのに、どうもこの男の声だけは耳に迫る。嫌な緊張感を生む。


「問題とは?」

「王妃が身籠らぬかどうかだ」


 思いがけない返答にアイを見返した。

 王妃の妊娠──つまりは弘子の妊娠だ。咄嗟に向こうの愛しい姿を確認する。


「王妃となり、あと数か月で一年が経つ。いつ身籠ったとしてもおかしくはない」


 弘子の腹部に膨らみがないのを見て不安が影を潜めた。だからと言って妊娠していないとは考えられないが、弘子が何の考えもなしに誰かと関係を持つとは思えなかった。


「王は殺すとして、もし御子が誕生したなら王位継承権は王妃ではなくその子供に受け継がれる……王妃でなければ意味がない。私はあの王妃と王位が欲しいのだ」


 子供が生まれれば、妃に譲られた権利はそのまま子供に譲渡される。王の死後、王妃と結婚できたとしても王位はついてこないのだ。


「故に私があの王を殺す前に王妃が御子などを……」

「あり得ません」


 言い切って、遠くにいる弘子の姿を眺めた。隣から訝しむ声が聞こえたが気にはしない。当然のことだ、悩むものではない。


「王との間に子供は生まれない」


 ツタンカーメンに子供がいなかったからこそ、死後の王位があやふやになって国自体が不安定になったのだ。エジプト史第18王朝王位継承問題。これが勃発するのは間違いない。


「何故そう言い切れる」


 身を乗り出し、険しい顔で老人は問うてくる。


「甦る前、神が私にそう告げたからです」


 言うまでもなく、でたらめだった。神など俺は信じていない。だが、この男に信じてもらうには『神』という単語を出すことが一番手っ取り早い。


「神が、だと?」

「ええ」


 意地でも張るかのように俺はアイに意固地になって答えた。彼女にまた視線を戻してゆっくりと繰り返す。


「王妃が身籠ることは決してありません」









 ナイルが氾濫した夜の景色は、昼間とはかなり違うものだった。足元まで黒い波が押し寄せる。そんな光景を眺めてながら俺は柱に寄り掛かり、遠くに揺れる灯りを視界に映していた。空気が澄んでいるせいか、こちらが暗いせいかは不明だが、その灯りがとても美しいものに見えた。微かに流れてくる音楽や人々の笑い声。向こうの王宮内でナイルの氾濫を祝う宴会が開かれているらしい。あの灯りのもとに弘子もいるのだろう。

 昼間のアイとのやり取りを思い返しながら残りの葡萄酒を飲みほし、口を拭った。飲み込んだ後の吐息に葡萄を乗せたアルコール臭が混じる。案外、アルコール度数が高いようだ。


「お父様に、王妃のご懐妊はあり得ないって言い切ったんですって?」


 背後の寝台にくつろぐネフェルティティから不満が投げられる。アルコールに強い体質なのだろう、さっきから何杯も葡萄酒を含んでいるのに彼女は一向に顔を染めたり、呂律が回らなくなったりということがない。


「どうしてそんなことを。本当に当たるの?もしもの場合、お父様はあなたを殺すわ」


 神の声なんて聞こえないくせに、と彼女は零す。


「ヨシキが殺されるなんて嫌よ。私はヨシキが欲しいのに」

「確実なことだ」


 彼女の方を振り向くと夜風が火照った頬を撫で、熱を冷ましていく。


「弘子は安易に関係を持つような人間じゃない」


 ただでさえ真面に恋愛をしたことがない弘子が、やすやすとそこらの男に身体を許すとは思えなかった。たとえ間違えて恋心を抱いたとしても、古代の男と結ばれるはずがないことくらい分かっているだろう。分別はつけているはずだ。


「あなたが言い切るならそれ以上は言わないけれど、どうかしらね」


 彼女がまた酒を口に含むのを見てから、俺は自分の足先に視線を落とした。ナイルの氾濫で増した水が俺の顔を映し、水面下にいる魚が跳ねて水紋を広げていた。


「一つ、予言でもしようか」


 酔っているのかは知らない。自分は現代人であり、周囲には分からないことも知っているのだと言うことを見せつけたくなった。全身が酒独特の熱気を帯びていた。


「あら、面白い。できないのかと思ってたのに」


 本日初めて見る美女の微笑みはやはりいつ見ても見惚れるほどの美しさと魅力が浮き彫りになる。


「それが本当になったらヨシキが未来の民だと信じてあげる。さあ、どんな予言?」


 自分の足に今にも届きそうな黒い夜のナイルを見つめ、ゆっくりと口を開く。


「アイの望み通り」


 水面の揺れる虚像も同じく唇を開くのを見る。


「あの王は数年内に死ぬ」


 まだ酒が残っていないかと手の杯を口に当て、逆さにした。一滴舌に落ちて、一瞬の風味だけを残して消える。


「恐れ多いこと言うのね。ファラオが亡くなる?まさかお父様が?」


 彼女にしては珍しく、驚きと、肝を抜かれた様子を混ぜて笑った。その反応に俺の口端も自然と上がる。


「ファラオは賢い御方よ。今でもお父様を警戒して近づけようとしない。毒だって容易に見破れる。病に伏したことがないくらい丈夫なの。何故あの方が?」


 父親があの王を殺せるとは思っていないようだ。実際俺も同感だった。あんな男に殺されるほど馬鹿な王ではない気がする。それでも。


「アイか、それとも別の誰かが殺すのか……事故か病死かは分からない」


 ここで思う。これが現実になる前には弘子を奪還して、現代へ帰りたいと。


「ただ、美しく儚い悲劇の少年王ツタンカーメン。3300年後の未来、あの男はそう呼ばれている」


 これが俺の唯一出来る予言。そして21世紀の科学がやっとこのことで導き出した王家の過去。必ず当たる。科学は揺らがない。

 美女の疑うような表情を視界の端に、俺はまた向こうの灯りを眺めた。あの中にいるだろう彼女を想う。

 下手に動き、殺されては元も子もない。もし王の死の前に何かしらの機会を作り、彼女をここから連れ出せれば吉。それが出来なければ最悪、王の死後未亡人となった彼女を連れ帰ろう。観察も洞察も得意だ。その『時』というものを、俺は息を潜ませ見計ろう。

 テーベ──この神の都で。


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