父親
2年前、ツタンカーメンの姉アンケセナーメンが病のために他界し、その葬儀の真っ最中、黄金の光と共に一人の娘がエジプト王の上に落ちてきた。数千年後にあるはずの復活を死の直後に許された唯一の娘。
「それが、弘子」
時期的にも現れ方も、そして消え方も、間違いない。すべて辻褄が合う。ツタンカーメンの真上に落ちたのは弘子だ。信じられない事実に目を見開き、宙の闇を見つめている俺にネフェルティティは頷いた。
「あなたが恋しがっている本人かは知らない。ただ、私が初めて見た時アンケセナーメン様ではないと思ったのも事実よ。なよなよしていて生まれたての子猫のような……正統な王家の血を引く者とは到底思えなかった」
当たり前だ。弘子はごく一般家庭の娘だ、こんな誇り高く生きる王族の中に放り込まれたらちっぽけ過ぎて逆に浮くに決まっている。
「以前それとなくファラオに指摘してみたけれど、あれは本物だと言い切られたわ。まあ、私には関係ないこと。どうでも良かった」
偽物だろうと本物だろうと、ファラオが受け入れたならそれまでなのだ、と彼女は付け足した。
王は神なる者。王が口にしたことに、神がすべてのこの国の人々がどうして反論すると言うのだろう。
両の指を組んで額に押し当てる。月光が差し込むただっ広い部屋で冷や汗が背中を伝っていく。どれほど長い時間彼女と話していたのか、辺りの闇は恐ろしいほどに濃くなっていた。
「でも彼女が現れてくれて私としては助かったわ。あんな自由の利かない王妃になるなんて、もううんざりだったのよ」
「弘子が現れなければ、あんたが王妃になって王位継承権を受け継ぎ、その父親が得をしたということか」
「そうよ、あの強欲の塊は私を利用しようとしたの。今も昔もね」
父親のことを出すたび、彼女は美しい顔を歪ませ吐き捨てた。
娘に王位継承権を持たせ、王が死んだ後王位を得ようとしたこの美女の父。時々嘲笑を混ぜる彼女の仕草が、心から嫌っているという事実を現していた。
「その強欲の塊は王になるため弘子を殺そうとした?」
「私の知っている限りでは、朝食に毒を盛ったり、首を絞めたり、寝具に毒蛇を忍ばせたり……まあ、全部そこらの人間にでたらめな神の言葉を吹きかけてやらせたようだけど」
しかし、それらはすべてツタンカーメンによって阻止されたと聞いて不安が緩んだ。弘子を亡き者にしようとした男──そんな奴が野放しになっていると思うと虫唾が走る。もしこの場にいたのなら迷わず殴っていた。
「これで私の知る限りの王妃の情報はすべて話したわ」
散らばっていた情報を繋ぎ合わせるのに十分な量だ。今までの話をまとめ上げようと片手で目元を覆った。
「あの子猫ちゃんが好きだなんて、ヨシキは貧相な身体の方が好みなのね。物好きだわ」
前屈みだった身体を起こせば、ネフェルティティの色香を乗せた笑みが迫る。夜の闇に陰ったその表情に、つい見惚れながらも頭にいるのは弘子だった。
「子猫はあんたよりはずっといい女だよ」
俺の言葉に彼女は楽しそうな反応を見せ、腰を浮かせて座り直した。他にも言いたいことがあったのだが面倒で妥協する。ついさっきまで彼女にこちらの話を数時間強要されていたために、話す気力が残っていなかった。
「兎にも角にも、あなたの愛しい子猫ちゃんは婚儀も終え、今やファラオのもの。最愛の妃なの。もう諦めて私にしてみたらどう?」
「いや」
身を摺り寄せる彼女を無視し、自分の足先を見つめてきっぱりと否定した。おそらく弘子は頼まれて王妃の座に立たされている。それが今までの話をまとめあげて導き出した結論だ。
「弘子は戻ってくる」
昔から人の頼みに嫌とは言えない性格だった。ちびちびと文句を零しながらもしっかりとやってのける、俺の知っている彼女はそういう人間だ。
アンケセナーメンが死んでネフェルティティを王妃に迎え、王位が彼女の父に流れることを恐れたツタンカーメンは、突如現れたアンケセナーメンと瓜二つの弘子にその影武者になるよう命じた――おおよそそんなところだろう。
それにこの第18王朝時代はエジプト史の中でも最も政治が混乱していた時期のはずだ。降って湧いた娘を王家として仕立てあげる他ないほど切羽詰まっていたと考えてもおかしくはない。両親を大事にする弘子がツタンカーメンに現を抜かすということはまず考えられないし、そもそもここが古代で自分が現代人という区切りも付けているだろう。自分がいてはならない存在だと言うことにも。本気で古代の王妃になろうなんて思うほど馬鹿な女ではない。
話を聞く限りでもツタンカーメンの方も弘子を守ってくれたのだから、あまり心配するような人物でもないようだ。これについては会えるまで一先ず置いておいてもよさそうだ。
ただ、残る疑問が一つ。歴史ではツタンカーメンの正妃はアンケセナーメンただ一人。夫に先逝かれ、悲運の人生を辿るとされる彼女が夫より先に死んでいるとはどういうことだ。事実が数千年の内に食い違ってしまい、歴史と異なる事象が史実として未来に伝わっていたのだろうか。
「そんな難しい顔してないで食べたらどう?お腹が空いたでしょう?」
ネフェルティティの手が俺の目前に何かを突き出してきた。受け取ってパンだと知る。ふと見れば他にも葡萄などの色とりどりの果物や、野菜、肉料理がテーブルの上に並べられていた。女官たちが持ってきた夕食のようだ。
「ヨシキって一度考え始めると没頭して抜け出せなくなる人なのね」
「研究職なものでね」
「研究?医学の?」
ああと頷きながら、むしゃりと食いついて初めて自分が空腹だったことに気づいた。今まで話に夢中になっていたせいか、まったく身体の状態を把握してなかった。
「あなたも相当驚いたようだったけれど、私も同じよ。ヨシキが未来の人間だなんて」
ただ黙ってこちらの話を聞いてくれた彼女の熱心さには正直驚いている。すっかり笑い飛ばされるか、嘘つくなと首を絞められるかのどちらかだと思っていたのに。理解力と分析力の高さを考えれば、彼女に研究なんてさせたら、とてつもない実力を発揮しそうだ。
「疑わないんだな」
「本気で信じた訳ではない。けれど、信じてない訳でもない」
ネフェルティティは意味深な言葉を連ねながら、向こうに燃える電灯代わりの炎を見つめていた。その揺れる橙が俺たちを暗闇から掬い上げる。
「何故否定しない?」
「薄っぺらな男を選ぶようなヘマはしない。それとも嘘をペラペラ吐くようなどうしようもない男をこの私が誘うとでも思っているの?」
馬鹿にしないでと鼻で笑われた。彼女は誰それ構わず選んでいるわけではなく、自分なりの基準を持って男を連れ込んでいるようだ。そういう基準で選んでもらえたなら悪い気もしないかもしれない、なんて考える俺はどうかしている。
「ヨシキの荷物に入っているものは見たことがないくらいすべて精巧……世界をまたぐこのエジプトの職人を以てしてもこれほどの物は作れない。すごく、綺麗」
さっきまで寝台の上に一つ一つ出して解説した薬品を手に取り、彼女はうっとりと漏らした。
綺麗だと言っているのはガラス容器のことだ。古代エジプトでも装飾品として二酸化ケイ素の表面を融かして作製したビーズがあるはずだが、これほど歪みのない綺麗な円を描き、光が前から後ろへと通りぬける光景は古代人の目にはさぞや素晴らしい物として映っているのだろう。
「それに、北方の魔術は人を過去に戻すものがあると聞いたことがあるわ、その類で来たと思えば不思議なことでもない」
魔術というものは長い歴史の中を生きぬいた言葉の一つだ。しかし、それらはすべて非科学的な如何様、科学を知らない人間たちが自分の脳をどうにか捻って生み出した幻影にすぎない。魔術なるもので現代に帰ることが出来たなら喜んで飛びつくのだが、そんなことはないのだろう。
「未来だなんて言っても誰も信じない……最悪なら詐欺罪で監獄行きよ?嫌なら、王妃と同じく神から許されて甦った人間だと名乗ることね。その肌がそれを証明してくれるはずだわ」
自分の掌を眺めながら頷く。
唯一日焼けせずに残ったアジアの色。最初から王家として迎えられ、建物内で過ごしてきた弘子は未だその色を肌に保っている。ほぼ同じ容姿をしたアンケセナーメンとは決定的に違うのは肌と身長であり、それは甦った証拠とされていると言う。同じ肌を持つ俺は、弘子と同じ存在―神に生を許された者に成り得るのだ。
「俺も聞かれた疑問にはすべて答えた。これで弘子に……」
「まだよ」
寝台に座る俺の隣に腰を下ろし、彼女はせせら笑った。
「未来から来たということは、過去を知っているのよね」
嫌な予感が走る。
「何か、予言してみなさい。それが当たったらあなたが未来の人間だと魂を以て信じてあげる」
無理難題だった。考古学を専攻していたわけでもない俺が、何を予言できると言うのだろう。謎に包まれたこの時代の予言など、考古学者でも難しいはずだ。もしかしてこの女は取引を守るつもりなどないのだろうかとさえ考えてしまう。
「ティティ、良いか」
躊躇っていると、初めて耳にする嗄れ声が、向こうから這い上がるようにやってきた。厳かで、何か妙なものを感じさせる響きに、身の毛が逆立つ感覚が湧く。
「お待ちしておりましたわ、お父様。わざわざ足をお運びくださり、ありがとうございます」
ネフェルティティが立ち上がり、入口に立つ腰が曲がり始めた老人を労った。
あれが美女の父親。弘子を殺そうとした男。
彼女と同じように俺も立ち上がり、目を凝らして暗闇をかいくぐると、その中に光る眼光が睨むように俺を捉えているのが見えた。
「話があるというからわざわざ足を運んだが、またどこの馬の骨とも知れぬ汚らわしい男を連れ込んだか」
歩み寄った娘を傍に、卑しい物を見るような目つきで俺の全身を眺める。そんな父親の言葉に「どうかしら」と返し、彼女は俺にこちらに来るよう手招きした。
近づいてようやく老人の顔が明らかになった。傍の橙に照らされて右半分がその色に浸り、左半分からは気味が悪いほどの漆黒が伸びている。はっきり言ってしまえば不気味だった。
「ヨシキ、紹介するわ」
俺の肩ほどの身長で丸坊主の年老いた男は、あちらこちらを似合わぬ金で埋め尽くし、豹の毛皮の一部を肩から腰へと斜めにかけていた。顔に刻まれた深い皺は欲の深さを示しているようにも見える。髭はないものの、良いとは言えない鋭い目つき、魔女のような鷲鼻、への字に結ばれた色のない唇。本当にこの美女の父親なのかと疑う容姿だった。
「王妃を殺めよう目論んだ男。アイ最高神官よ」
その名を聞いた途端、以前呼んだ本の文章が浮かび上がって俺の脳内を駆け抜けて行った。
知っている。アイとは第18王朝テーベの最高神官。若くして即位した少年王、その後見人となった男の名だ。唯一神アテンから多神アメンへの宗教改革もアケトアテンからテーベへの遷都も、現代ではこの男がツタンカーメンに命じたものとされている。ツタンカーメン殺害の容疑にかかっているうちの一人。
「やめぬか、人聞きの悪い」
アイは凄味をきかせて娘の声を払った。それでも慣れているのか娘は怯むことを知らない。
「だって本当の事ではありませんこと?お父様は王妃を殺めようとした」
「それはあの娘が悪しき神セトの化身だと思う故だった。そのような娘をファラオのお傍に置くことなど出来ぬであろう。私はファラオをお救い申し上げようとしたのだ」
言い方からして胡散臭い。本気で言ってるのか、この男は。
「良いか、我が娘よ」
まるで俺など見えていないという素振りで娘を諭そうと、その掌を向ける。
なるほど、卑しい人間は見るにも値しないらしい。
「王妃は私に幸運をもたらすためにあの世から戻ってきたのだ」
さも崇めていると言いたげな神父を思わせる滑らかな声音。
「お前も見たであろう、あの神の光を。そしてウアジェトに噛まれたファラオを助けたあの神の力を」
弘子は蛇に噛まれた王を救い、ますます甦った貴重な娘とされたという。多分それは、一度戻ってきた際、彼女が肌身離さず持っていたコブラの解毒剤の成し得たものだ。
「ええ、あの光には神が降りられてきたのかと思いましたもの」
「今、私はその力を崇めている。そしてあの娘を手に入れれば、あの力も我がものとなり、我らはいよいよこの国の頂点となるのだ」
弘子を、手に入れればと言っているのか。殺すはずだった弘子に神の力があるからと自分のものにするつもりなのか。寒気がした。
アンケセナーメンは血は繋がっていなくとも自分の孫娘に当たるはずだ。その娘を手に入れる、つまりは結婚を望んでいることになる。祖父と孫娘の婚姻が許されるエジプト王家にぞっとした。俺でも権威のためにばあさんと夫婦になろうとは死んでも思わない。
「故に私に王妃を狙う理由など最早ない」
「ええ、そうですわね」
淡々と続く会話の中で、ネフェルティティは俺に笑って見せた。この会話から何か察しろとでも言っているようだ。一体、この男を俺に紹介して何をさせようというのか。殴れということだろうか。それとも要はこの男が弘子を手に入れる前に連れ戻せというメッセージだろうか。言われずとも最初からそのつもりだ、こんな変な男に弘子は渡さない。守らなければ。
「今夜お呼びしたのは、この男をお父様に会わせるため」
アイの演説が一息つくと、彼女は突然俺の手を掴み、黄色の残る俺の掌を父親に突き出した。
「これは!!」
掌を目にした途端にアイの表情が突然変わった。目玉が飛び出すほど見開き、俺の手を引っ掴んだ。老人とは思えない握力に思わず後ずさる。
「そうです、お父様のためにお連れ申し上げた、王妃と共に神に許され、甦った男なのです」
さっそく使われた俺の肩書。この男にはあまり関わりたくないというのが本音だが、弘子を狙うこの男をどうにかしなければという気持ちの方が強かった。
「それもお父様が望む王妃と知り合いだと言う話。王妃を我が物としたいと思っているお父様になら、損のない相手かと」
アイは俺の手を取ったまま身体を震わせている。まるで俺を神だと言わんばかりだ。
「明後日の儀式の際、王妃の目に触れさせてみてはいかがでしょう」
彼女の言葉にはっとする。アメン信仰は儀式を数えきれないほど行う宗教、王族は必ず出てくる。それも俺の目の前で黄金を妖しく光らせる老父は最高神官。この男について行けば、弘子に間違えなく会える。ネフェルティティはこの男に取り入れと言っているのだ。
「間違いない、この肌の色……そなた、神に許されし者か!神の力を持つ者か!!」
「王妃とは……神の下で知り合い、神の医術を学びました」
それらしいことを言ってみる。現代の医学はこの時代にとっては神と称してもおかしくはない。この時代で俺が披露できるのは21世紀の医術だけだ。
ネフェルティティと言う謎すぎる女を完全に信用した訳ではない、抵抗もある。それでも、まるで辿れと諭すかのように、弘子へと続く道がこの一本しか俺には見えないでいる。それを掴まず、利用せず、他に何をしろというのか。
「すべてとはいきませんが、死の病と呼ばれるもののいくつかはこの手で治せるかと」
俺の嘘を聞いた隣の女は、さすがねと唇を動かして無言で笑う。
「ならば!私の死を無くすことは出来るのか!王妃のように死に際に立つ者を救えるのか!?」
「いえ、死を無くすことだけは出来かねます」
その発言からアイの興奮が治まった。静かに俺の手を離し、機嫌を損ねたのか白の混じる眉が眉間に寄る。
「……まあ、所詮下賤の者では、甦ったとしてもそれほどでしか無いなのやもしれぬ」
小馬鹿にしたように鼻から息を吐き、老人は腕を組んだ。
「ティティ、そなたもなかなか面白い男を見つけてきたものだな。悪くはない」
自分より背の高い娘に、さも偉そうに告げる。
「お父様に喜んでいただけて光栄ですわ」
彼女の素顔を隠す仮面には脱帽だ。老人は、数十分前までは強欲の塊と連呼していたくせに今は輝かしいほどの満面の笑みを湛えている。
「神の医術を持つ男、それも王妃の知り合いとなれば私が王妃に近づく手段に成り得よう。まあ、様子を見てからにはなるが」
「この男のことは私が保証いたしますわ。僕とすれば、神の医術を持ったこの者の手柄はすべてお父様のものとなり、その御名も上がることでしょう」
俺を医者として使い、人を救わせ、その手柄を自分のものとする。それくらいならどうということはない。弘子を取り戻せるならば俺は喜んでこの強欲の塊にでも頭を下げよう。
「ただ、夜の間だけは私にお返しくださいませ。せっかく拾ってきた私の情夫なのですから」
「分かっている、こやつはそなたの男だ」
情夫とは何とも嫌な響きだ。俺はあくまでこの女に見初められてこの王宮に身を置いている。昼は父親の方で医師として働かされ、夜は娘の相手。もっといい手段がありそうなものだが、一刻も早く弘子と再会するという目的を考えればせっかく目前に現れた可能性を逃す猶予はない。
美女は俺の身体が欲しい。俺はこの老いぼれに取り入り、弘子との再会を果たしたい。俺がここに留まることの利害は一致する。心配しているだろうムトたちには申し訳ないが俺は俺の道を行く。
心を決め、膝を折ってそれらしい恰好で最高神官の前に跪いた。
目指すは王妃、ただ一人。
「神官様のお力になれることがありましたら、是非私めをお使いください」
へりくだった俺の様子に、老父はほくそ笑む。
「名は、何という」
名前。俺の名は。
「良樹、と」
珍しい響きに、アイは訝しげに聞き返した。顔を上げ、愛想笑いを浮かべて再度この名を明かす。
「中村良樹と申します」
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