取引 

 目を開けると世界が変わっていた。

 背中には上質な麻布の感触があり、目前に広がる天幕らしき暗紫は、今が夜なのか昼なのかを分からなくさせる。嗅ぎ慣れたパンの香ばしさではない、花に似た香りが鼻孔をくすぐる。何より常に自分を取り囲んでいた土や砂の匂いがなかった。


 ここは、どこだろう。

 起きようと腕を立てて身体を浮かしたが、思いの外鉛のように身体が重く、結局すぐに元の位置に倒れ込んだ。頭を含めた身体の節々があまりに痛むものだから片腕で目頭を覆う。自分の置かれた状況を把握したい気持ちがあっても立ち上がる力が湧かない。身体が動かない。

 とりあえず何があったのか思い出そうとぐっと目を閉じて記憶を探る。ムトと一緒に建設現場に行って、柱を仲間と引いて、監督官に呼ばれて。怪我人のもとへ向かっている最中に倒れてそれから。

 あれから、何があったのか。

 吐き気がするほどの倦怠感が身体を支配していて、こんな大事なことを考えるのも億劫だった。


「あら……起きた?」


 声と共に、腕に誰かの髪が触れる。不思議に思い、腕を目元から離して開いた視界の向こうに、滑らかなシルエットが上から覗いていた。逆光ではっきり見えなかったが、俺の頬をそっと撫でながら妖艶に笑う一人の女が、長く波打った髪をこちらに垂らしている。


「──っ!!」


 頬を撫でていた相手の手を慌てて振り払い、がばりと飛び起きた。頭蓋骨の中で脳が暴れたような頭痛を感じながらも、改めて横に座る女から周囲へと目玉を動かし、突如出現した現実に息を呑んだ。

 天幕が開けた向こう側には高い天井があった。神々を刻んだレリーフや絵画の壁が広い空間を華やかに飾りあげている。夕陽に近い色の太陽を浴びた、見惚れてしまうほど美しい場所が自分を取り囲む。

 何だ。俺は一体どこにいる。ムトは。一緒に働いていた男たちは。


「慌てちゃって、可愛い人ね」


 寝台に腰を下ろす女は上品にそれでも艶めかしく声を揺らした。


「私のこと、忘れた?」


 目映いほどの美貌がすぐ傍にある。誇りを保ちつつもこちらの欲情を掻き立てるような仕草と声色を持ち、首飾り、耳飾り、髪飾りなど身を包むものはすべて黄金で埋め尽くした年若い女。自分を落ち着かせてやっと一つの名が出てくる。


「ネフェルティティ……」


 忘れるはずもない。後世にまで名を残すほどの美女だ。

 名を呼ばれるなり彼女は紅の乗った口端を上げ、こちらに身を寄せた。


「覚えてくれていたなんて嬉しいわ」


 何故この女がここにいるのだろう。俺はどうして。

 前髪を掻き上げて思い出そうと躍起になる。

 確か、熱疲労の症状で倒れて、それで弘子が。弘子が俺を──。


「彼女は」


 思い出したその姿を探す。俺に手を伸ばしてくれたのだからここにいるはずだ。だがどんなに見回しても彼女の姿はない。俺とこの女の他に、誰も。


「弘子はどこに」

「ヒロコ?」


 弘子の姿を見つけようと躍起になっている俺に、彼女は不思議そうにその名を繰り返した。


「あいつは?俺を助けてくれた……黒髪の、小柄な、」


 もしかして弘子とこの女は知り合いなのでは、という考えが浮かんだが、その後に響き渡ったネフェルティティの高らかな笑い声に撃ち落とされた。


「残念ね。倒れたあなたを助けたのはこの私。先々代ファラオ、アクエンアテンの未亡人ネフェルティティよ」


 若干肌蹴させた胸を張り、彼女はこれ見よがしに言い放った。組まれて覗いた脚が美しく光る。


「偶然訪ねた現場で騒ぎが起きていて、見物に覗いてみたらあなたが倒れていた。私の手を離そうとしなかったから、そのままここに連れてきたのよ」


 馬鹿な、と叫びかけた声は擦れていた。弘子だと感じた手はこの女のもので、俺はこの女に助けられたと言うことになる。ではあれは全部幻影だったのか。弘子は、いなかったのか。俺が彼女だと思ったのは、こんな男をとっかえひっかえする不埒な女だったのか。

 何が何だかまた分からなくなって、もう一呼吸を置く。このままでは整理がつかない。まずは場所だ。自分の置かれた状況の把握が最優先だ。

 自分の額を抑えて、足元に流れる寝具の皺を食い入るように見つめた。


「……こ、こは」

「テーベ西の王宮。血を受け継がぬ王家の家。正確にはその中の私の部屋」


 王宮。ということは、俺は、弘子のいる王宮の中にいるのか。あの境にあった巨大な城壁を越えて。

 次々と紡がれる現状に、どうにか頭の思考を追いつかせる。途端に妙な興奮が湧いてきて腕に鳥肌が立った。ここがあの王族の住処ならば。


「王妃も……いるのか」


 自分の左腕を右手で掴みながら美女に尋ねた。声が緊張で震えた。


「そりゃあ、王宮ですもの。ファラオと王妃はここから随分遠い東の宮殿だけれど、ちゃんといるわよ」


 へらりと返された答えに心臓が止まるくらいに緊張が高まった。勢いのまま、細い腕輪が光る女の手を引っ掴む。弘子との距離が縮まり、それも自分が彼女と同じ建物内にいるのであれば、ここで呆けている時間などない。


「会わせろ」


 引き寄せ、若干見開かれた瞳を見据えて声を低めた。


「ツタンカーメンの王妃に会わせろ。王の義母のあんたならそれくらい朝飯前だろう」


 いきなりの俺の頼みに彼女は目を細めたが、やがてふっと小さく笑い、上目づかいの視線を向けてきた。


「確かに私は王の義母だわ。あの方は私をそういう存在として見てはいないけれど」


 見る限りあの王と年が近すぎて母という感じはしなかった。この女も三十代に差し掛かったところだろう。


「それに私の父は王妃殺害未遂の首謀者にされているの。つまり私たちは警戒されている立場。だから私にそんなことを頼んでも無駄よ」


 軽くあしらわれ、俺は眉を顰めた。

 彼女の発言を言い換えると、この女の父親が弘子を殺そうとしたということだ。弘子は命を狙われたのか。


「それはどういう」

「私の父はね、王位を狙っているのよ。とにかく私たちは認められない嫌われた王家という訳」


 意味が分からない。だが、彼女はそれ以上のことを話すつもりはないようだった。


「なら一人で行く。答えろ、王妃はどこだ」

「嫌よ」


 寝台から立ち上がろうとした俺の腕を、今度は女が掴んだ。


「私はあなたを助けた。その分を返してもらわない限り、私はあなたを離さない。あなたは私のものよ」


 いきなりの宣言に唖然とした。


「あなたは私に奉仕するの。私が満足したら帰してあげる」

「あんたが勝手に俺を連れてきただけだろう。そんな話は知らない」


 構わず寝台から足を降ろして立ち上がろうとしたその時、俺の脚はものの見事に崩れ落ちた。ぐらりと視界が回り、まるで糸の切れた操り人形のように床に座り込んだ俺は呆然とした。気づいていなかったが、身体の筋肉が引攣を起こしていた。


「そそっかしい人ねえ。会えないって言ってるじゃないの」


 背中に笑い声が降ってくる。


「身体、動かないでしょう?まだ寝てなきゃ駄目よ」


 苛立つ笑い声だったが、自分の見事な崩れ様に驚いてそれどころではなかった。熱疲労の影響が残っているのか立つのもままならず、へばりつくように寝台に戻る。なんて様だ。見られたことが恥ずかしい。


「念の為に言っておくけれど、自分の恰好ぐらい見た方がいいわ。そのまま出たらちょっとした騒ぎになってしまうもの」


 指摘され、起きて初めて自分の姿に目をやってぎょっとした。


「ふ、服!!」


 あまりの衝撃に上擦った声が飛び出した。素っ裸だった。慌てて寝台にあった寝具で隠すべきところを隠して彼女をまさかと見つめる。


「あ、あんたが……」


 この女ならやりかねない。俺は襲われたのではないだろうか。


「違うわよ、侍女たちに洗うよう頼んだの。あなた、相当汚かったのだもの」


 呆れ気味に肩を竦め、彼女が答えた。自分の身を改めて確認すると、水で洗われたように身体は見違えるほど清潔的だ。建設現場で働くと全身砂埃まみれになるというのに。


「まあ、身体付が好みだからちょっとだけ触らせてもらったけれど」


 色気を持たせた瞳が俺を捉える。そろりとこちらに近づき、俺の肩にしなだれかかり、手が背中に回る。


「あなたがここを出ようとしても無駄。入口もこの部屋の周りも逃げ出さないように兵士や女官で埋め尽くしてみたの」


 視線を投げれば、向こうの四角に切り抜かれた出入り口のような場所に兵らしき影が揺れている。直接見える訳ではないが、覗く明るい緑の庭からも囲まれ監視されているような変な感覚があった。異様な気配に身体の芯が震えた。


「好きだわ、この身体。たくましくて勇ましくて」


 彼女のたゆたう手が肩から背中へとまわり、滑らかに触ってくる。


「そんなことより王妃に会いたい」


 こんなところで遊んでいる暇はない。すぐに弘子に会い、メアリーを見つけてもとの時代に帰らなければならない。いきなり3人の人間が失踪しているのだ、現代ではそれなりに騒ぎになっているはずだ。


「弘子はどこにいる」


 肩を掴んで引き離すと、彼女は苛立ったように眉を吊り上げた。


「馬鹿ね。本気であなたみたいな人が王妃に会えるとでも思っているの?」

「弘子は王妃なんかじゃない。俺と同じ、ここにいるべき人間じゃないんだ」


 ぼそりと出てきた本音に、綺麗な緑に彩られたアーモンド形が細まる。


「確かにファラオは王妃のことをヒロコと呼んでいるわ。本名のアンケセナーメンではなくてね。でもどうして王家に仕えてもいないあなたがそれを知っているの」


 あの男がその名で呼んでいる。ヒロコという名がこの国に少ないということを考慮に入れれば、これでより確実になってくる。王妃は間違いなく、俺が探している弘子だと。工藤弘子なのだと。

 やっと見つけたという嬉しさと、どうしてアンケセナーメンの居場所にいるのかという困惑が俺の中で渦巻き出した。


「ねえ、何故そこまでして王妃に会いたいの?王妃に何があるっていうの」


 凛々しい顔つきで美女は俺に問い質す。それでもこちらに答える義務はなかった。


「あんたには関係ない。それに俺はあんたの情夫になるつもりはさらさらないし、どんなに兵に囲まれようが、ここを出て弘子に会……」


 言い終える直前、不意に体重を掛けられて、はっとした時には、柔らかい麻の上に押し倒されていた。唖然としていると身体の上に心地よいくらいの重みが加わったのに気付く。

 重みの正体は彼女だ。俺に跨り、不敵な美しい笑みを浮かべて見下していた。


「私はあなたに興味があるけれど、あなたの言い分なんてどうでもいい」


 まだ感覚を取り戻せていない身体は妙な痙攣を伴っていて、女の体重さえ押しやることが出来なかった。慌てた俺とは対照的に落ち着いた表情で、美女はそのふっくらとした唇を開く。


「現場監督たちから聞いたわ。作業時に起きた骨折やら怪我を、妙な薬と手術で治したって言うじゃない。そのせいで、あなたの名はある程度知られるものになっていて見つけやすかった」


 俺に顔を近づけ、緩やかに走っていた彼女の指が顎から首へ、鎖骨から胸板へと流れていく。


「あれから色々と調べさせてみたのよ。そうしたら急に湧いて出てきたようだって言うから驚いたわ。身元も出身国も何もかもが不明。今はテーベの都の一家に居候している。優秀な遣いに頼んでもこれしか情報を得られない謎の男……この結果にはぞくぞくした」


 身体上で手を舞わせながら、ずらずらと挙げていく俺の不明な点。相当分析力のある女で、これほどの詳細を調べさせる権力がある人間なのだ。


「やっとのことで手に入れたあなた。一緒にあった荷物は知らない文字に見たこともない物ばかり。精巧な容器に、奇妙な白い粒、透明な水……医師だという話もあったから、あなたを診た侍医に見せたけれど何一つ分からなかった」


 そう言えば、俺の鞄はどこに。頭をずらして視線を泳がせてみて、彼女の曲線の向こう、部屋の隅の小さなテーブルに命の次に大事な自分の荷物があった。こんな状況なのに、ほっとしてしまう。


「謎に包まれた男って好きよ。それにこの私の誘惑に乗らなかった意思の強さにも惹かれる。平伏させたくなる」


 手が胸の上に止まり、力が加わったと同時に美貌に溢れた顔がぬっと近づいてきた。鼻先が触れ合うくらいの距離しかない。緑の化粧を施した眼差しは艶を増して、下に組み敷かれる俺を大きく映し出す。


「ねえ、あなたは誰?あなたは何者?」


 囁く、濫りがわしい吐息交じりの声。


「あなたの全てを知りたいの」

「降りろよ」


 冷たく断ち切った俺に女の瞳が僅かに見開く。また断るのかと、相手の心が聞こえてくる気がした。けれどもそれは一瞬で、美女は一層俺に顔を近づけて滑らかに三日月を口元に描いた。


「本当に怖いもの知らずな男ね」

「それはどうも」

「私に逆らえばどうなるか分かってるの?」

「知るか」


 互いに一歩も引くかと目の間で火花を散らす。奇妙な笑いを衝突させ合う。多分、傍から見たら獣同士が唸っていがみ合っているような、とてつもなく異様な光景だと思う。そうだろうが違かろうが、負けるわけにはいかなかった。ここで折れてこんな女を抱いたりなんかしたら俺のプライドはズタズタだ。ましてや間違えて子供なんて出来たら大変なことになる。そういう関係も、愛情もここでは必要ない。持ってはいけない。居るべき場所へ帰る、その時のために。


「ヨシキはおかしな男ね」


 突然からかうようにそう言い、最初に目を逸らしたのは相手方だった。


「いずれあなたから手を伸ばさせるくらいの自信、私にだってあるのよ。今日はお遊びね」


 余裕な笑みを浮かべながら肩を竦め、俺から降り、手を小さく叩いて女官らしき女を一人呼んだ。


「この男に服を与えて」


 突拍子もない流れに固まっていた俺の周りを、命じられた4人の女官がやってきて取り囲んだ。すごく切迫した雰囲気に思えるのは俺だけだろうか。


「ヨシキさま、お召替えを」


 身構えて寝具を握り締める俺に声が放たれた。

 着替えを手伝ってくれるということか。一対一で相手が同じ姿ならまだしも、こんな集団の前で裸を曝け出すとなると凄まじく抵抗がある。


「さ、」


 さ、って何だ。


「い、いや、着替えくらい自分でやるので」

「ネフェルティティ様に見初められた殿方に一人で着替えをさせるなど以ての外です。さ、私共が手伝います故」


 怖いくらい無表情だ。身の危険を感じた。


「いえ、俺はそんな大それた殿方でないので」

「さあ!」


 拒否する手の甲斐もなく、8本の手が一斉に素早くこちらに向かって伸び、その後に俺の無様な悲鳴が上がったのは言うまでもなかった。







「なかなか似合うじゃないの」


 女官集団に何それ構わず触られ見られ、小っ恥ずかしさに苛まれて頭を両手で抱えている俺に、ネフェルティティは面白そうに声を掛けてきた。


「それはどうも」


 黄金の腕輪に胸飾りに、革でできたサンダル。上等な質の上着と腰巻。目元のアイラインまで完璧だ。

 凄く着心地は良かったが、まさかあんな目に合わされるとは。思い出しただけでげっそりする。


「どうしてあんなに恥ずかしがるの?またあなたに対する疑問が増えたわ」


 生きてきた時代も文化も違うからとは言えず、俺は大きなため息を返すだけをした。俺の前に豪華なレリーフが刻まされた椅子を置き、彼女はそこに足を組んでゆったり腰を下ろす。


「……姿を見るだけでもいいのかしら」


 いきなり問われたことに、取り囲む空気が変わる。はっとした俺に、彼女は挑戦的な眼差しを光らせ、低めた声で囁いた。


「王妃の姿を見るだけでもいいのかって聞いてるの」

「構わない」


 即答だった。姿を見ると言うことは少なくとも見える範囲に行けると言うことだ。運が良ければ会えるかもしれない。見えてきた可能性に、身が引き締まった。


「私はあなたに対する疑問を両の手に納まらないほど持っている。それにすべて答えてくれたなら、王妃の姿を垣間見るくらいの手筈は整えてあげてもいいわ」


 この女が求めるのは俺の事情なのだ。否応なく未来から来たということにも触れるだろう。今まで黙ってきた非科学的な情報を、彼女に話すか否か。


「あなたも王妃について聞きたいことがあるんじゃない?答えてあげてもいいわ」


 俺も知りたい。何故、弘子がアンケセナーメンと呼ばれているのか。ムトの学校の教師から聞いた、甦ったという噂についての真実も。


「こちらの話、あんたにとっては信じられないような話だがそれでもいいか」

「面白い話、大好きよ」


 女は笑った。それが取引開始の合図だった。


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