間章

* * * * *


 ヤグルマの青の中を、彼と歩いていた。涼やかな風が心地よく、仄かに香る花の香りに胸が凪いだ。広がる青い地を歩いていると、飛んで行けそうなくらいに身体が軽く感じる。


「大丈夫か」


 私の手を引き、私の足元を気遣いながら進んでくれる彼の、何度も何度も振り返っては垣間見せてくれる柔らかな表情がじんと胸に沁みる。大丈夫だと答えれば、彼は私の手を握り直した。


「まずは名だ」


 握る手に優しめの力を加えて、彼が前を見たままたおやかに言った。

 「名前は何にしよう」、「生まれたら何をさせよう」、「儀式もやらなければならぬ」と、まだまだ早すぎる話なのに、妊娠が分かった一昨日からずっとそればかりだ。それとも、思う以上に10か月はあっという間なのだろうか。

 超音波検診が出来ないこの時代では、妊娠かどうかの判断を間違えることも多いと聞く。それでも葡萄園での最初の吐き気から昨日と今朝にそれが合わせて数回続いて、次第に重くなっている気がしたから、侍医の言う通り私の妊娠は間違いないのだろう。

 無事にお腹の中で育ってくれているのかと心配になることはあっても、確かめようがないからただ祈ることしか出来ない。勿論、この時代での出産に不安が無い訳ではなかった。


「王子の場合の名はもうまとめてあるのだ。あとで見せてやろう」


 前を行く彼が自慢げに笑う。いつの間に名前のリストの作成なんてしていたのだろう。


「あなたがこんなに喜んでくれるなんて思わなかった」


 手を握り返して伝えたら、彼が足を止め振り返り、顰めた顔をぬっと近づけてきた。


「何を言う。私とヒロコの子だ、喜ばないはずがない。夢でも見ているかのようだ」


 この人も、まさか子供を授かれるなどとは思ってもみなかったのだろう。「そうね」と微笑みを向けると、彼も笑って私の額にキスをくれた。私の髪を、その流れで輪郭を、頬を撫でて、額に落とした唇で「幸せだ」と言葉を象る。

 本当に、心からそう思う。つい先日までこんな幸せに浸れるなんて想像もしていなかった。

 腹部に可視的な変化はなくとも、自分の身体が着実に変化していることは分かる。すべてはお腹の子にとっての最高の環境づくりをしている証拠なのだと言う。少し辛くても、そう思えばなんとか乗り越えられる気がした。

 愛しい命をこの身に授かったのだと知ってから、とても不思議な感覚があった。この自分の身体に新しい命が息づいてくれていることが奇跡としか思えなくなる。命を生むことが出来ることはなんて素晴らしいことなのだろう。

 若干の胸焼けが残る身体を一掃しようと、青い空気を肺に詰め込む。昼間の明るい空を仰ぎ、風と花たちが擦れ合う音に耳を澄ませて、それらが私の髪を攫って行くのを感じていた。


「もう良いだろう、座れ」


 一年中咲き誇る花畑の真ん中まで来た時、私の両手を掴んだ彼がそわそわした様子で促した。

 何でも彼曰く、本当なら立っているのも危険なのだそうだ。今こうしてここにいるのは、運動は必要だと説得した私に、この庭だけならばと彼が折れてくれたからだった。

 懐妊を知ってからは寝台から降りるのも駄目で、つわりが起きる度、彼は顔を真っ青にして「侍医を呼べ」の大騒ぎを巻き起こす。安定期に入るまで流産の可能性は決して皆無ではないから、色々と気を付けないといけないのは十分分かっているつもりなのに、その過剰反応を見る程に、これからのことをを思うと、彼の方がだんだん心配になってくる。ただ、それが愛おしいと思える私がいるのも確かなことだった。


「いいか、気を付けて座れ。そっとだ」


 今までにないくらい、それはそれは丁寧に座らせてくれるから何だかおかしくて笑ってしまう。花を掻き分け、随分と時間をかけて腰を下ろすと、彼はほっと大きな安堵の息を落としてすぐ傍に座り込んだ。花との距離が近くなって、私の好きな香りがふわりと宙に舞う。


「あとは王女であった場合なのだ」


 また繰り広げられる名前の話。とにかく縁起の良いものと言って、私を抱き寄せながら必死に頭を捻らせている。


「女の子……」


 後ろから肩に腕を回されながら、どんな名前があるのかと私も考えを巡らせた。

 この時代の名付けはよく分からない。欧米のように家族の名や、昔の王族や聖人たちの名から取る訳でも、日本のように響きや漢字から選ぶ訳でもないらしい。彼自身「アメンの生ける似姿」という意味であるし、他の皆の名を思い返しても、私にとっては変わった発音のものが多い。


「アメンの名をつけるか否か、それを由来とするものが良いか……」


 神の名はやっぱり欠かせないようだった。

 私を抱き込んだまま、赤ちゃんのいる腹部を撫でて試行錯誤を繰り返している。そんな少年のような彼の表情を見て、嬉しさと共にふと良樹との記憶が胸に過った。

 まだ、彼に良樹のことは話せていない。

 良樹は私に、彼と会ったと言っていた。会っていたならば、私を抱く彼は良樹がこの王宮にいることを知っていたということだ。良樹を見つけたらすぐにでも知らせてくれると言ったこの人が、私にそれを教えてくれなかったことには、それなりの理由があるのではとも考えた。けれど、どうしても心に靄が残る。

 あれから言うか言わまいか迷ってきたけれど、ここで聞かなければいつまでも聞けないままに終わってしまう。それではいけない。


「……あのね、アンク」


 意を決して、彼の手をそっと取ってどかしながら身体を離し、向かい合う体勢を取る。

 近くに咲く揺れるヤグルマギクに少し風が強めに吹いて、周りに青い波を作った。


「どうした?もしや、気分が悪くなったのか?ならば」


 違うのだと首を振ると、彼は焦燥を治めて不思議そうに首を斜めにする。静かに一呼吸を置いてから真っ直ぐ相手を見つめた。


「良樹に、会ったの」


 僅かだけれど、その瞬間に彼の瞳孔が大きくなる。それを見て、良樹の言っていたことが本当だったのだと確信した。この人は良樹の存在を知っていて、私の知らぬ間に会っていたのだと。


「私の妊娠の分かったあの日……私が葡萄園にいたのは、良樹がいたから。ネフェルティティがそう教えてくれたから、誰にも言わないであの場所へ行ったの」


 あの時の良樹の顔は、懐妊の幸せを肌に感じている今でも脳裏から離れない。


「良樹はあなたに会ったって言っていた……でもあなたは」


 言葉を濁らせた、緊張と走る無言の時間の後、彼は浮かべていた驚愕を消して一度目を伏せてから私を見つめ返した。被り物を剥いだかのように、彼の雰囲気は大きく変化を遂げる。


「ヒロコの思う通りだ」


 淡褐色の眼差しは真摯さを増して、彼は私から続きの言葉を奪う。


「先日呼び出し、二人で会ったのは事実だ」


 真実を彼の口から聞いて、力が抜けていくのが分かった。あの時の良樹とのやり取りが生々しく戻ってきて、遣り切れなくなり、視線を反らしてしまう。


「近頃、民の間でアイの名を支持する者が増えている。調べさせてみればその根本にいたのがヨシキだった。我が王宮の医療施設で医師として働き、アイの下で不治の病を打ち払う者として存在していた。おおよそ、ネフェルティティが連れてきたのだろうが、どういう経緯でそこに流れ着いたかはあまり定かではない」


 良樹がアイの下で。あんな恐ろしい目を持った人の下で。


「……私は、どうしようもなく弱い」


 少し彼ははにかんで、私の頬に指を走らせる。


「当初は約束通りヒロコにヨシキのことを知らせ、会わせようと思っていた。だが、あの男を見た途端怖くなった。取られるのではと。お前を失うのではと……あの男は、お前を女として愛しているのだと嫌でも分かった」


 良樹に触れられた感覚が蘇った。彼の言う通りなのだろう。あれを境に、良樹は私にとって兄のような存在ではなくなった。


「故にあの者にヒロコには会わせぬと言った。お前にヨシキのことを言わなかったのは、会わせなかったのは、私の単なる我儘でしかないのだ。ヨシキは、それに怒っていた」


 あなたが弱いだなんて、そんなことないだろうに。誰しもが人間なのだから、そういう感情を持って当たり前だろう。私も今までにどれだけの我儘を人に押し付けてきたことか。


「そこで告げたのだ。ヒロコが私のすべてであること。手放すつもりはないということを。突き放すように。あれには少し言い過ぎたかと今では感じている」


 はっと息を呑む。私が告げたことと、この人が告げたことが重なって、本来の良樹を崩してしまったのではないだろうか。だからあんなに取り乱して。

 あの時の私の言動は、良樹の感情に追い打ちを駆けたのではないだろうか。


「すまなかった。不安にさせただろう」


 彼が申し訳なさそうな顔をして、俯く私を抱き寄せた。頬に胸飾りが当たるのを感じながら、首を横に振って私もそのまま身を預ける。


「会って、何か言われたのか」


 黙ったままの私に疑問を持ったのか、彼はそう尋ねてきた。

 それで思い出すのは他でもない良樹の言葉だ。


『──あの男は死ぬ!あと2年半の内に!必ずだ!』

『──あの男がミイラになるのを見たいのか!』


 振り切って、首を振って否定した。何も聞いていないのだと自分に言い聞かせる。彼にはとても、言えるものではない。

 青い景色に揺れた私の黒髪を、彼の指が流れていく。ゆっくりとした仕草は不安を取り除いてくれているかのようだった。褐色の上腕に嵌められた腕輪が上下に行き来して放つ光を見ていた。


「話し合わなければならぬな」


 ややあってから、私の肩に回した腕から力を抜いて放たれた静かな声がある。


「お前が私の子を身籠ったことを、これからのことを。ヨシキや、お前の友に」


 頭を動かすと、仄かな笑みがそこにあった。


「どちらにしろ、ヨシキに会わせねばとは思っていたのだ。落ち着いたら正式に面会しよう。この身に宿った命、二人に祝福してもらえたならばヒロコも嬉しいだろうからな」


 泣きそうになる。あの二人に祝ってもらえたならどれだけ幸せなことだろう。でも決して彼が言ったようなことにはならない。私の選んだ道は、二人にとって許せないことなのだから。

 たとえそうでも自分の妊娠を知った今、これだけはという願いが芽生えたのも確かだった。

 私の中に宿った命。もし、何か一つ許してもらえるのであれば、形さえ見えない愛しい存在だけでも認めてもらえたならばと。

 頷き返すと、彼がまた私のお腹に手を乗せた。私もその上に己の手を重ね、後ろ頭を彼の胸につけて空を仰ぐ。


 私に、ツタンカーメンに子供がいたかどうかの記憶はない。

 もしいなかったというのが歴史であるならば、私の妊娠は歴史を変えたことで引き起こされたものだと希望が生まれる。彼との間に授かったこの子は私の掛け替えのない希望だ。


 上も下も、私たちを囲む世界は一色となる。強めのナイルの風が走り抜け、ヤグルマの花弁のいくつかが紫を混ぜた青となって吹き上がるのを二人で眺めていた。

 何もかも、無事に済むと良い。愛する人がそう呟くのを聞きながら。

 青いヤグルマの色に、満たされて。





【第Ⅱ部 ナイル 完】

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