指輪

 すべてが終わって、寝台に入ることができたのは夜がとっくに更けた頃だった。睡魔がこれでもかと私を襲い、頬の筋肉がとてつもなく痛い。彼が来るのも待たずに寝てしまおうと寝具にしがみ付くと、麻に触れた瞼は迷うことなく落ちて視界を闇に染めた。

 眠るか眠っていないかの境をたゆたっていた時、意識の端に足音が鳴った。黄金が生み出す鈴の音。こんなぼんやりとした頭でも誰だかはすぐに分かる。


「──ヒロコ」


 彼だ。


「寝たのか?」


 囁かれた声の後に、私の肩に彼のぬくもりが置かれた。やんわりと力が加わったのを感じ、重い瞼を押し開けて闇に浮かぶ相手を捉える。視界が霞んで、表情はよく見えなかった。


「起きてほしい」


 言われて不思議に思った。いつもならそんなことは言わない。無言で隣に潜り込んできて、私を抱き締めるようにして眠るのが常だ。


「……どうか、したの?」


 覗く淡褐色も、髪に触れる指も、どこか切なさを漂わせていて、急に心配になって起き上がる。それに続いて彼も寝台に腰を下ろし、ぎしりと軋む音が耳についた。


「これを」


 不安に煽られる私の前に出された手が開かれ、石でできた小さな指輪が顔を出した。

 白に近い緑。孔雀石の鮮やかな緑に成り損ねたようなくすんだ色を帯びた縦長の楕円には、何かヒエログリフが刻まれている。


「これは?」


 掠れてしまって、一度咳払いをしながら指輪を眺める。どこからどう見ても彼の指には小さすぎて、彼のものでないことは一目瞭然だった。


「王位継承権の証だ」


 何か思い悩むような、彼にしては珍しい眼差しで小さく答えた。


「おうい、けいしょう?」


 まだ夢見心地で頭がうまく回っていない。発せられた言葉の意味を掴めないでいた。


「王位を受け継ぐ権利の証だ」


 いつになく真摯な光が私を映す。


「手を」


 言われるまま右手を出すと、彼がそっと取る。いつもより熱い彼の手に触れられたところから身体が火照った。彼に差し出した自分の手さえ朧に見えて、空いた手で目を擦る。


「今日で、ヒロコは正式なエジプトの王妃となった」


 淡々と静かな声で彼は告げた。

 彼の言う通り、ヒッタイトの大王や他の近隣諸国は今日の婚儀で、私が王妃だと認識したことになる。


「王の妃となった者は、王から次の王権を受けることができる」


 触れる長い指が私の人差し指に流れ着き、ゆっくりとその指輪をはめた。何もなかったそこに初めての感覚が灯る。指輪など現代にいた頃もあまりつけたことがなかったから違和感があった。

 王位を受け継ぐ者であることの証。結婚指輪みたいなものだろうかと、ぼんやりと眺めて考える。


「もし、私が死んだならば」


 穏やかに、それでもはっきりと響いた声と共に手への力が増して、身体ごと抱き締められたような苦しさに陥る。


「お前がこの指輪を渡した者、その者こそが次のファラオの名を受け継ぐ者となる」


 手を握る相手が、自分の言葉を一字一字確かめるように告げていく。頭の中で今の言葉を何度も繰り返して、指輪の意味を知った途端血の気が引く。眠気が突風に吹かれたように無くなった。


「アンク、あなた」

「王位を握る権利、これが王妃に与えられる最も大きなものだ。夫の死後の権威の証」


 緑がはまった指に彼の指が絡む。


「い、いらない」


 声が震えた。

 この指輪は、彼がいなくなり、王位が彷徨うことを防ぐためのもの。次の王を決めるもの。彼は自分が死んだ後に、王位の決定権を私に譲渡すると言っているのだ。


「いらない……!」


 指から抜いて、悍ましいものに感じたそれを投げようと振り上げた手は、彼の手によって抑えられた。私を射抜く眼は真剣そのもので、捨てるなと、強く言っているのが分かった。


「どうして、こんな……」


 嫌だ。いらない、いらない。

 こんなもの。


 手に握り締めた小さな緑の指輪を、彼は再びこちらに向ける。そして私の右手を掴み、また。

 また、はめようと。


「やめて!」


 彼の手を振り払って、勢いに任せて彼の胸に拳を振り落した。その反動で彼の手から指輪が飛んで寝台の上に落ち、少し転がってから闇に納まる。覚悟していたというように目を伏せてから、彼は少し離れた所に光る緑を指先で摘まんだ。物悲しそうな眼差しを細め、手元の指輪を見据えていた。

 謝ろうと思っても、出来なかった。あんなことを話されて、戸惑いと怒りと悲しみで声帯が拒んでしまっていた。乱れる息が脳裏に流れていくのを聞きながら、向かいにいる相手を見つめる。熱さを増すその瞳に、私は射抜かれたように動けなくなる。


「これは、お前の身を守るもの」


 呼吸音以外の音が、厳かに強い響きを持たせて発せられた。容赦なく続けられる。


「この指輪がはめられている限り、私がいなくなろうともヒロコを蔑ろにする者はいない」


 歴史を変えたいとあなたは言った。どうして自分が死ぬこと前提でそんなことを言っているのだろう。


「そんなものいらない!」


 怯えるように首を振る私に、彼は真面目な表情を見せる。


「私は……!」

「ヒロコを想って作った」


 強めの声が彼から響き、はたと動きを止めた。


「どうか、受け取ってほしい」


 そう言って手を伸ばし、息を呑んだ私の左手を再び取る。熱い手に抑えられて拒むことが出来なかった。


「公のもの故ヒロコの名で彫れなかったが、私の手で彫ったのだ」


 凄いだろうと、彼は頼りなさげに肩を揺らす。

 あなたが。私のために。

 指輪の緑の淡い光は、今度は私の中指にはめられた。恐る恐る目をやれば、その指輪にはアンケセナーメンのカルトゥーシュが彫られていた。よくよく見なければ気づかない。私が持っているどんなカルトゥーシュよりも彫り方が均一ではないことを。職人の作ったものではないということを。

 戸惑う私に、相手は気まずそうに苦笑する。


「あまりうまく無いだろう。もともと彫刻の類は得意ではないのだ」


 はまったそれを指ごと包むように彼の手が重なる。


「だが、そうでないと受け取ってくれぬと思った。今まで受け取ってくれたのは私が手を加えたものだけだったからな」


 花畑も手紙も。この人が私のために自ら手を加えてくれたものだったから嬉しかった。本当に、本当に嬉しかったのだ。

 でもこれは違う。私が一番恐れている場合に力を発揮するもの。私が何より望んでいないものだ。それでも今ここにある指輪は、私が一番嬉しい、彼が私のために懸命に作ってくれたものだった。顔を上げると、似合わない自信なさげな笑みがある。


 私の、愛しい人。

 あなたは狡い。あなたが私のために彫ってくれたものを、私が捨てられるわけがないのに。


 拒む力を抜いたら、彼の手からも力が抜ける。捨てる訳にもいかず、彼が作ってくれたという嬉しさがあって、それでもこの小さな石の輪に込められた意味が嫌で、整理のつかない自分の思考を立てた膝に押し付けた。膝に流れる寝間着と、私の髪が擦れる。膝を持つ手に力を込めたら指輪の固い感覚が指の付け根で鮮明に浮き彫りになる。


「ヒロコ」


 小さく背を丸め、蹲る私に彼はそっと呼びかける。髪を撫でる指が優しくて、どんな顔を見せたらいいのか分からなくなった。

 はめたいけれど、はめたくない。矛盾した思いが駆けずり回る。


「……薬指に」


 ならばと。一つ思いついて彼に告げた。膝から顔を上げ、指輪が淡く光る左手を彼に差し出す。


「薬指に、はめて」


 せめて、結婚指輪だと思えるように。交換する訳ではなくとも捨てられないのなら、彼が心を込めてくれたものならば、こうした形で受け取りたい。


「私の時代では、夫婦になるとお互いに指輪を左手の薬指にはめるの。永遠に、変わらない愛の証として」


 彼がいなくなってからの権威の保証など、そんな寂しい証にしたくはない。


「未来か」


 理由に彼は納得したように頷き、指輪を厳かにはめ直す。いつか映画で見たこの瞬間はもっと素敵なものだろうと思い描いていたのに、なんて寂しいものだろう。虚しいものだろう。左の薬指に綺麗に落ち着いた緑は、私の胸の息苦しさを倍増させた。


「万が一だ」


 指輪を胸に瞼を伏せた私を、彼は抱き込む。世界が彼の香りだけになる。

 万が一だなんて。そんな最悪な場合なんて考えたくもないのに。


「死にはせぬ」


 そう言いながらも、この人は自分が死んだ後のことをしっかりと見据えている。私が王権を握る者として大切にされるように。路頭に迷わないように。


「……私には」


 身体を離して彼を見つめる。彼も逸らすことなく、私の眼差しを受け止めてくれる。


「あなたの他に誰もいないのよ」


 乱れる心を必死に抑えて、両手で彼の頬を包んだ。包む指にはその指輪がある。私の魂の名を刻んだそれが。


「あなたがすべてなの」


 あなたは私のすべて。これ以上想える人に出会うことなんてもう二度とないと思う。私の一部であって、私自身。失ったら私はもう、私ではなくなる。


「お願い……消えないで」


 淡褐色が切なげに揺れる。潤む色はとても綺麗で、儚げで、闇の中だと今にも消えてしまいそうだ。

 ああ、と小さく頷いた彼の手が私の頬を掠めた。目線を合わせれば、すかさず顎に手を添えられた。嗚咽になり損ねた私の声を、彼の唇が塞ぐ。優しく触れるそれは無言の答えをくれているようで、腕を彼の首に回し、押されるまま寝台に倒れ込んだ。


「誰がこれほど愛しい妻を置いて逝くというのか」


 一度顔を離した彼は、切なげな、それでいて慰めるような表情でそんなことを言う。私より、先へ先へと考えて対処しているくせにそんなことを。本当に、狡い人。


「私の、最愛の妃」


 憎いようで愛しいその人を唇を噛んで眺めていたら、彼は困ったように眉を八の字にして触るだけの口付けを私に落とした。触れ合う柔らかな潤みは涙の冷たさに似ていた。

 小さく身を震わせると、彼の首に回していた腕が取られて敷布の上に両手を縫い付けられる。一本一本指を絡ませ、唇で更に深く熱を交わして互いの存在を確かめ合う。合間合間に私の名を呼ぶ熱を孕んだ声と共に、濡れた唇が私の唇から顎へ、それから首筋へと徐々に伝っていった。

 そうして彼の片手がゆったりと私の腕を辿り、胸元へ伝うと、衣の上から膨らみを包み込み、軽く押し潰し始めた。こちらの鼓動を確かめるかのように膨らみが柔く揺すられ、押される。大きく温かな掌の中でやわやわと形を変えられる感覚にどうしようもない心地良さを覚えて僅かに胸を反らせると、彼の唇が鎖骨あたりから乳房へ降りて行った。

 やがて、寝間着が身体の曲線を伝って落ち、追うように彼の指が走った。浮き上がってくる感覚に追い立てられ、自然と息が荒くなる。愛してるという言葉が熱い吐息と共に肌にかかって、その度に切なさと愛おしさがどこからともなく込み上げ、私を襲い、身体を震わせた。

 きつく絡んだ手が汗ばむ熱を上げていき、燻る想いに重なって次第に夜を燃やしていく。煩わしさというものを互いに消し合う。彼に溺れ、ぼんやりしてきた世界で、信じられないくらい甘ったるい自分の声を聞く。


 明日も、未来も、本当は何もいらない。

 私が望むのはあなた。ただただ、あなたが欲しい。


 それでも、幾度となく願っても彼が生き続けることの裏付けは何もない。死を綴るパンフレットの文字はそのまま変わることなく残っている。私は指で、腕で、身体で抱き締めることでしか、彼が今ここにいることを感じられないでいる。


 傍にいて。ずっとずっと、消えないで。


 朦朧とし始める意識の中でそう繰り返し、存在を確かめるために彼の背に回す腕に力を込めた。彼も応じるように私の身体を掻き抱く。

 愛する。愛される。狂おしいほどに。

 視界が途切れる前、小さな緑が仄かな光を私の指から零したのを、見ていた。

 王位継承権。


 私の、指輪。



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