赤き河の王

 覚悟はしていたものの、当日は驚くほどに目が回った。頬の感覚がどこかへ吹き飛びそうだ。もう部屋へ戻って倒れ込んでしまいたい。だがそれを言えるはずもない。

 目まぐるしく過ぎて行った沢山の儀式や着替え、心配と不安で見ていられなかった獅子狩りもすべて終えた今、他国からの使者の謁見の最中だった。


「未来永劫のエジプトの繁栄をお祈り申し上げます」

「この良き日に正式に王妃殿を迎えられたこと、実にめでたきことであると我が主からの伝言を申せ遣ってまいりました」

「貴国と我が国との友好もより一層深いものとなるようお祈り申し上げております」


 耳にタコができるくらいに繰り返し聞いてきたそんな文句に、笑顔を作り、「ご丁寧に」と彼と一緒に返事をした。

 微笑み過ぎて顔面崩壊寸前の危機に直面している。彼はどうなのかと隣を見やったら、いつもとは見違えるような朗らかな笑顔を浮かべ、「そちらの国王に宜しくお伝えください」やら「お忙しい中感謝申し上げる」と丁寧に続けている。なるほど、これが王族スマイルというものか。やってみようと頬を動かしたら筋肉が悲鳴を上げてしまい、結局持っていた鳥の羽でできた扇で痙攣し始める口元を隠して誤魔化す作戦を取ることにした。このために扇なるものが発明されたのかもしれないと思わずにはいられない。


 一段落がついた頃、昨日まで空っぽだった宴の席を綺麗に埋めている様々な服装の人たちを眺めてみる。挨拶の仕方も、持ってきてくれた祝いの品も十人十色。黒い人もいれば、白い人も、宰相だという老婆から王妃だという10歳の少女、9歳の王子まで老若男女問わずやってくる。残るは私たちの正面に座るはずの例の大王だけという状態だ。

 そんな時、扉の方に立っていたラムセスが彼の傍までやってきて腰を屈めた。手元の葡萄酒を黄金の杯の中で揺らしながら彼は無言で耳を傾ける。


「ヒッタイト王がいらっしゃいました」


 彼の耳に打たれた声と共に、部屋の扉が大きく開くと、水を打ったように宴の席が鎮まった。誰もが息を呑み、入口に目をやる中、彼だけは「来たか」と意気揚々とした表情を浮かべた。

 そうしてナクトミンが頭を下げて引率してきた相手が広間へ足を踏み入れる。ヒッタイト兵らしき人間を両側につけ、長身のその人は堂々と宴の席に姿を現した。

 白髪が所々に模様のように混じった長い髪は肩に掛けられ、下に垂らしている。北方の国らしい厚めで長く、豪華でありながら威を損なわない王族衣装。眉の形は太く綺麗で、若い頃は見目麗しい人だったのだろうと思わせる秀麗な伏せがちの目元。髭に覆われた口元は不敵に笑っている。


「よくぞいらっしゃった。ヒッタイト王よ」


 誰もが息を潜めて視線を送る中で、素早く立ち上がった彼が低めた声を響かせた。


「エジプトを治める若き王よ、この度は大事な祭典にご招待いただけたこと、心より感謝申し上げる」


 相手も目を光らせながら口端をあげて見せる。


「どうぞ、そちらの席に座られよ」


 そう言いながら彼はまた席に寄りかかり、下に置いていた葡萄酒を手に取った。


「随分とご立派になられたものだ。最後にお会いしたのはあなたがまだ19の時に御座いましたな」


 大王も同じような雰囲気で言い返し、向かいの席に遠慮することなくどっぷりと腰を埋めた。それでも威厳というものは損なわず、周りの国々の使者を圧倒している。


「すでに王位はご子息にお譲りになっているのかと思っておりましたが、未だその御年でご健在とは驚きです」

「我が子らは未熟でしてな。間違えて王位を譲り、あなたのように無理な改革などをされてはただ事では済まぬのです」


 遠まわしにお互い嫌味を言い合う。それも眩しいくらい輝く笑顔で。


「私のような無理な改革とはどういうことですかな?」

「そのままの意味ととらえてくださって構いませぬぞ」


 あははと無理やりな王同士の笑い声が私の目の前で火花と共に弾け飛ぶ。

 大王の年齢はおそらく五十代前後。この時代であれば、大王にも彼くらいの年齢の王子が数人いてもおかしくはない。


「エジプト兵士たちの鉄剣、あれはもともと私の国の技術に御座いますな」


 ぐるりと見回し、大王はそう言って見せる。

 確かにエジプト兵が身に着けている剣や槍の先端は鉄製だ。現代のものよりは純度は低いが、最初見た時はこの時代に鉄というものが存在していたのかと驚いたものだった。もとはヒッタイト人の技術だったことも知っている。


「いやはや、大国と恐れられるエジプトも我が国から方法を盗らなければ鉄も作れぬとは、黄金の大国の名が廃りますぞ」


 北の王は小馬鹿にするような笑顔を浮かべる。


「そちらとて我が国の兵を三人ほど拉致し、我が国の技術パピルスの製造を盗ったという話ではありませぬか。知らぬとは言わせませぬぞ。まあ、成功しなかったようですが」


 こちらの砂漠の王は同じく小馬鹿にするように鼻で笑って見せた。

 こんな会話もすべて笑顔で交わされる。二人の会話を聞く限り、互いの国の兵士を拉致して、互いの国の技術を盗り合っているということ。互いにこれだけのことをしておいて、よく戦争にならなかったものだと逆に感心してしまう。

 刺々しい話が繰り広げられ、互いに酒を飲みかわしていると、やがて大王の二つの目が彼の隣で呆けている私を捉えた。鋭い眼光に思わずたじろいだ。


「おや、随分とお可愛らしい王妃殿だ」

「自慢の妃です。怯えてしまいますのでその嫌に鋭い目で見ないでいただきたい」


 私を抱き寄せて、彼はにこりと笑った。人前でそんなことを言われては恥ずかしくて堪らない。咄嗟に顔を染めて身を竦めた私に、また大王は声を転がす。


「これはこれは眩しいほどの溺愛ぶり。さぞや、この王に目が腐るほどナイルやら砂漠やらに連れ出されているのでしょう。お気の毒に」

「は、はあ」


 緊張しすぎてそんな返事をしたら、すぐそこの彼が眉を寄せた。私の間抜けな返答にも大王は大声で笑い声を響かせる。


「ならば王妃殿、一度我が国にいらっしゃると良い。気晴らしに空に届かんばかりのハットゥシャの城壁をお見せいたそう」


 返答しようとした私を抱き込んで、彼は先程の大王のように不敵に笑い返した。


「生憎、妃をそちらの野蛮な王子たちの前に晒すつもりは私にありませぬ故」

「我が子らはあなたよりいくらか落ち着きもある。もしかすれば王妃殿も我が息子たちの方が良いと言うかもしれませぬぞ」


 他の国々の使者たちは怯えるように二人の会話に耳を立てていて、私までハラハラして眺める始末だ。この二つが敵対したら周りが巻き込まれるのだろうということは容易に想像できた。


「……あ、あの、シュッピルリウマ殿」


 彼の腕に抗いながら、身を乗り出して大王を呼びかける。これ以上この妙な口論が続いて、式典の雰囲気が悪くなってしまったら他国の使者たちも疲れてしまうと取った自分の行動に胸が破裂しそうだった。


「ヒロコ」


 気に入らぬと眉を顰めた彼を遮り、大王を目の前にした。


「ヒッタイトのお話で……その、伺いたいことがあるのですがよろしいでしょうか」


 あんな敵意剥き出しな会話なんて見ていられない。自分の国のことを聞かれて嫌に思わない人はいないだろう。


「おや、王妃殿は我が国にご関心があるご様子だ」


 嬉しそうにぱっと私に笑顔を咲かせてくれた。普通にしていれば優しそうなおじさまだ。


「それで、王妃殿がこの私に尋ねたいこととは?」


 緊張しすぎて用意していた質問がすべて姿をくらましてしまう。それでも慌てて何とか引っ張り出せたのは。


「あ、赤い河は何故赤いのでしょうか」


 彼が去年のナイルの氾濫の時に教えてくれた赤い河。エジプトのナイルと対になるヒッタイトの大河のことだった。この空気にこんなどうでもいいような話を持ち出した自分に嫌気が差す。相手もさぞや呆れているだろうと思いきや。


「我が国の聖なる川をご存知か!」


 相手の顔が予想以上に輝き出していた。


「夫から赤い河があると聞きまして……」


 彼はつまらなそうにそっぽを向いてお酒を飲み始めてしまっていたけれど、私は視線を大王の方に向けて続ける。


「調べたのですけれど分からず……どうして赤いのかとずっと気になっていたのです」


 そうですかと嬉しそうに大王は髭を撫でる。


「あの川が赤いのは神が我らのために染めたからです。エジプトは命の色を黒としているようですが、我が国は赤色。故に神なるもの。神が住まいし場所なのです」


 土壌の問題だとかそういう地層があるとか、プランクトンだとか、そういう科学的理由はこの時代に存在しないことを思い出す。すべては神の為せる業なのだ。


「ヒッタイトにはどのような神々がいらっしゃるのでしょう」

「千を越す多くの神がいます。この国と同じように」


 ヒッタイトもエジプトと同じ多神教。一時期エジプトでも採用していたアテンという唯一神を奉ることはこの時代では非常に珍しいもののようだ。


「では、太陽などの自然や人間の感情を表す神、動物の姿をした神々もいらっしゃるのですね」


 私の返答にまた深く頷いてくれる。


「仰る通り。例えば嵐の神はテスブ、森の神はフンババ、竜神はイルルヤンカシュ、人の愛ならばイシュタルなど……この場ですべてを貴女に紹介することとなると夜が明けてしまうことだろう」


 そこから神話の話へと続いて行った。

 聞いているうちに、それが昔父から聞いた、メソポタミア南部を占めるバビロニアの南半分の地域に興った最古の都市文明シュメールの神話に似ていることに気づき、ヒッタイトはシュメールからの民族の子孫なのかもしれないという考えが浮かぶ。


 話は一つの軸を成しながら内容を変え、シュッピルリウマ大王は時間をかけて私に多くのことを話してくれた。

 ヒッタイトではエジプト王妃のことをダハムンズと呼び、ヒッタイト王妃はタワナアンナと呼ばれていること。首都ハットゥシャの素晴らしさ。自分が築き上げた首都を覆う城壁がどれだけ高く、天に届きそうなものか。その中で暮らす人々のこと。それに対する想い。時折冗談を交えながらも話してくれるその姿はどこかの学校の先生のようでもあった。その中にナルメルが教えてくれた知識もあったものだから、自分の中のものとぴたりと当てはまるたびに嬉しくなる。


「エジプト王は実に良い妃を持たれたようだ」


 宴が終わりに近づいた頃、黙って私たちの会話に耳を傾けていた彼に大王が声を掛けた。


「相手国の文化に自ら興味を持ち尋ねてくださるとは、実に素晴らしきこと。広い視野をお持ちだ」


 話を弾ませる私たちを見るたびむすっとしていた彼も、大王からの言葉に少しだけ頬を綻ばせ、「ありがたい言葉です」と返した。

 もしかしたら、彼とこの大王の間にはそれほど強くはなくともある程度の信頼の絆があるのかもしれない。同じ大国を治める、同じ王という立場にいる者同士として、国を守り、愛し、その民の幸せを願う者として、その中で何か通じるものがあるのかもしれない。そう思いつくと自分の我武者羅すぎる介入は余計なものだったのではないかと少し恥ずかしくなった。

 周りを見渡せば沢山の国の人々が笑っている。眺めているだけでこんなにも楽しくなる世界は広くとも一つなのだと、幸せな気分になる。

 彼と少し会話を交わした大王は満足げに頷き、私の手をそっと取った。


「エジプトの麗しき王妃よ」


 皺の出始めた彼よりも大きな手。優しいぬくもりを孕んだそれは、その人の内側からあふれ出る強さを体現しているようにも感じた。この手で、あの帝国を作り上げたのだ。


「何か困ったことがあったら私を頼ると良い。喜んで貴女の力となろう」

「ありがとうございます、シュッピルリウマ殿」


 私の笑顔を乗せた言葉に、赤き河の王は神に祈るように瞼を伏せ、髭に隠れる口から慈愛に溢れた声を奏でた。


「貴女とこの太陽の国に神の幸があらんことを」


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