青い風

* * * * *


 一段落終え、王宮内に入ってようやく日陰に包まれる。強張った頬に手を当ててみると先程まで浴びていた日光のために熱くなっていた。


「なんだ、もう疲れたのか?」


 隣の彼が意地悪く笑って私を見下ろしている。


「疲れない方がおかしいのよ」


 本当に凄い数の人々だった。

 アケトアテンからメンネフェルに到着していた時も出迎えがあったが、これ程ではなかった。チャリオットに乗っている私はただただ圧倒されるばかりで、笑顔を向けるだけで精一杯だった。とにかく無事終わったことにただただ胸を撫で下ろす。


「まあすぐに慣れる」


 彼は近くにいるナルメルやセテムたちに大臣たちを呼び寄せるように命じた。これから彼はすぐに議会へ赴く。到着したからと言ってゆったりと過ごせることもなく、明日からは早速他国から王族や使者を招いての盛大な婚儀が始まるため、先程再会したばかりのネチェルも、メジットや他の女官たちと一緒にその準備であちこちと走り回っていた。


「ファラオ」


 ラムセスが一歩出て、彼の前に跪いた。


「私は一度下エジプトの方に帰還し、海の警備を固めてから後、残っているホルエムヘブを連れてまいります」

「明日の昼までには戻ってこい。諸国の王族の引率はお前とナクトミンに任せるつもりでいる」

「御意」


 ナクトミンという初めて聞く名に誰のことだろうと思う私の横を、重大な役を任じられたことに機嫌を良くしたのか、得意げな笑みを湛えたラムセスが過ぎて行った。いつも馬鹿にした笑いを向けてくるのにあれほど嬉しそうな顔を見ると、何だか妙な感覚だ。


「疲れたのならそこらで休んでいろ。すぐに終わらせて戻ってくる」


 彼が指差すのは、宴用に用意されたいつもより豪華絢爛なソファーだ。円形に渦巻くように綺麗に並べられ、いかにも「お偉方が座ります」という雰囲気を醸し出している。


「話し合いの後にこの宮殿を案内してやろう。しばし待て」


 流れで頷いたような私の反応を見届た彼は、そのまま他の人々を連れ、議会が行われる部屋へと向かって行った。




 テーベの王宮はまず、天井が高かった。彼の祖父アメンホテプ3世が造ったという王宮を仰いで見回しては、感嘆ばかりが漏れてしまう。10年近く放置されていたのに、そうとは思えないほどに立派で威厳がある。

 案内されるとなると相当な時間が掛かりそうだと考えながら、真ん中の席に腰を下ろした。ふわりと柔らかくて、触るだけで上等な生地だとすぐに分かる。

 明日はこの席で他国の王族たちとの謁見。今まで詰め込んできた知識をお披露目する場になるだろう。変なことを口走しらないように、色々と注意しなければ。


「ねえ、君、だれ」


 いきなり鼓膜を叩いた声にぎょっとして振り向くと、後ろの席にこれでもかくつろぐ男性がいた。男性、というよりかは私と同い年か一つ下くらいの男の子だ。少年の面影を残した顔だが、こちらに向ける表情はどこか大人びて冷たい。くるりとした猫のような目でじっと私を警戒するように見つめている。


「あ、あなたこそ……」


 初めて見る相手に警戒を高めた途端、だだだっと足音がこちらに向かって響いてきた。


「ひーめさまあっ!!」


 この声は、と思った瞬間にはすでにくるんくるんのくせ毛が目の前に揺れている。ぐっと両手を握ってぶんぶん降られた。


「ご帰還、実にめでたきことにございます!ああ、お会いしない間にまたお美しくなられて!もう眩しくて眩しくて直視できませぬ!!この興奮をどこにぶつけたらいいのでしょうか!もう溢れてどうしようもないほど!」

「カーメスも元気そうね」


 ぎゅっと握られた手がだんだん痛くなってくる。


「ファラオもご帰還され、都もこのテーベに!ああ、なんと素晴らしきことか!本来ならばすぐに姫の下へ参上したかったのですが、ファラオから王族ご帰還に興奮する民をなだめるよう命ぜられておりまして、今になってしまいました!どうかお許し……」

「カーメスさん、もうやめてあげたらどうです?困ってますよ、彼女。てかこの人、王妃様なんですか」


 久しぶりのマシンガンに戸惑う私を見てか、猫目の彼が止めてくれた。


「ナクトミン!我が部下よ!こんなところにいたのですか!」


 私から手を離したかと思ったら、いきなりナクトミンと呼ばれた彼にソファーの背もたれを越えて抱きついた。


「迷子になったかと思いましたよ!!よしよし!」


 可愛くてしょうがないと言うように、腕に抱き込んでその髪をもしゃもしゃに掻き撫でている。それはもう、こちらが唖然とするくらいの勢いだ。はいはい、と呆れ気味に笑った青年は、やがて上司の顔をぐいと押しやった。


「何で僕が迷子になるんですか、僕だっていい大人ですよ」


 カーメスのことは扱い慣れている様子だ。ますます正体が気になってくる。


「姫、ご紹介いたしましょう。この者はナクトミン。私の部下、上エジプトの隊長を担う男です」


 私の気持ちを察してか、カーメスが青年の肩を抱いて示してくれた。

 この人がさっき彼の言っていた噂のナクトミン。隊長、ということはラムセスと同じ地位にいる人なのだ。


「ラムセス殿よりは年若いですが、この者の弓の技術で右に出る者はおりません!上司の私が保証いたします!武術も申し分ありませんが、頭も良いのです」


 将軍たちと言い、隊長たちと言い、若い人が多い気がする。神官や大臣たちが年配の分、若いのだろうか。


「実はですね!ナクトミンは隊長に任じられてから5年、このテーベを修復するためずっとここで建設指揮をファラオの代わりに取っていたのですよ。もう私の自慢の部下です!なので、姫様のお顔を拝見するのが初めてだったこともありとても無礼なことを……!ほら、謝りなさい」


 にこにこしながら、ナクトミンの柔らかそうな髪を鷲掴みにして二人一緒に頭を下げた。それと同時に可哀そうな呻きが響く。


「カーメス様っ!!こんなところに!」


 兵士の一人が焦った面持ちで入ってきた。それを合図に二人もやっと頭をあげる。


「ファラオがカーメス様がいついらっしゃるのかとお怒りです!」

「それはそれは大変だ」


 そう言いつつ癖毛の人は嬉しそうに笑った。どんな時でもこの人の笑顔は可愛らしくてこちらまでほんわかしてしまう。


「では姫様、またゆっくりお会いしましょう。ナクトミン、王妃様にくれぐれも無礼のないようにお願いしますね」


 飛び跳ねるように立ち上がると、カーメスは急いでその迎えの兵と共に扉の向こうへ走っていく。また彼らのいる場所で生活できるのだと思ったら、明るい未来しか思い描くことが出来ないでいた。


「へえ」


 横を見たら、ナクトミンが顔を近くまで覗かせていたものだから驚いて後ずさる。


「君があの黄金の光から甦ってきたっていう王妃様なの」


 観察するようにぐるりと回る丸い二つの目。


「なんかそんな感じしないね。フツーの人って感じ。もっと強い感じのがっつりした人かと思ってたよ。ほら、僕さ、生前のあなたにも会ったことがなかったし」


 へらりと笑って、またごろりとそこに寛ぐ。手元にはラムセスも良くがぶっている隊長を表す頭巾が握られていた。


「この席、すごく寝心地いいんだよ」


 まったりと初対面の私にそんなことを話し出す。


「ちなみに僕が寝てるところ、ヒッタイト王の席。覚えておくといいよ」

「ヒッタイト王の?」


 中心席の真向かい。私と彼が向かい合う形に置かれた席だった。ヒッタイトはエジプトに並ぶ大国なのだと席の位置だけで思い知らされる。


「明日から婚儀だなんてなあ、大変だ。忙しくて目を回さないようにね」


 面倒だなあ、と小さく漏らしながら眠そうにナクトミンが目を擦っている。話も行動も自分のペースでひょいひょい変えていく、かなりマイペースな人のようだ。


「そんなに忙しくなるのね」


 そんな受け答えをすると、片目だけを開けて私を見て、まあねと返した。


「着替えは数え切れず、獅子狩りの観戦に諸外国使者との百を超える謁見、神への婚儀ご報告、王位継承権授与の儀、神官の讃美歌……以下諸々。僕は使者の引率だけだけど、思うだけで疲れるなあ。ああ、やだやだ」


 聞き終えてため息に似た相槌を打ってしまった。着替えなんて一度するだけで大変なのに、百を超える謁見って、私の笑顔がもつかどうか分からない。神官の歌も、いつもいちいち長くて寝ないでいられるかも危ういところだ。これは相当な持久戦になりそうだと、気づけば肩に力が入っていた。


「そう言えば王妃様は、下エジプトの方にいたんでしょう?ホルエムヘブさんに会いました?」


 よっこらしょと身体を起こし、興味津々にナクトミンが身を乗り出してきた。身体を反らしながらもこくりと頷く。


「ええ、それはもうしょっちゅう」


 あまり好きではないから会話という会話はしていないけれど。


「いいなあ。僕さ、出来るならあの人の下に就きたかったんだ」


 背もたれに寄りかかり、ナクトミンは息をつく。


「ホルエムヘブと仲がいいの?」


 ラムセスはあれほど能無しだと言って嫌っているのに。

 私の問いに相手はうーんと唸った。


「仲がいいっていうよりは興味かな。あの人は馬鹿に見えるけど、秘めているものは興味深い。だから観察してると面白いんだ」

「秘めているものって?」

「馬鹿だな、言葉通りの意味だよ。人の裏側っていうのかな。ホルエムヘブさんに比べてファラオやカーメスさんは表しかないから面白みに欠けるんだ。馬鹿真面目って言うのかな。立派な人だけどさ」


  馬鹿だなんて、初対面の人に言う言葉ではないだろう。


「裏こそが人間の醍醐味だと思うよ、僕は」


 話していると、相手の流れに巻き込まれてしまう感じがする。


「じゃ、もう行こうかな。ラムセスさんと比べられてあーだこーだ言われるのも嫌だし」


 手にしていた頭巾を頭に被り、再び私を振り返って垂れ目を細めながら笑った。


「御機嫌よう、王妃様」


 猫のような人はすたすた足を鳴らして行ってしまった。不思議だと思わせるところがありながらも、どこか不気味さも持っていて、その垂れ目の柔らかい微笑みは何かを中に隠している着ぐるみのようでもある。妙に曇ったものが胸に蟠っていた。




 太陽がまた夕暮れへと角度を変えた頃、彼が議会から戻ってきた。


「カーメスから聞いた、ナクトミンと話したのか」


 彼は隣に腰かけると足を組み、痒いのか目を擦った。


「ええ、ちょうどそこに眠っていたの」

「どう思った。あの男を見て」

「……よく分からない人ね。読めないの。話してると巻き込まれる感じ」


 正直に言ってみると私の答えに彼も頷いて、頬杖をつきながら低い声で唸った。


「あの者は軍事の才はあるが、裏では何を考えているか分からぬのだ」


 この人にもそんなことがあるのかと目を丸くしてしまう。いつもなら人の性格を掴むように理解してうまく利用するのに。


「まあ人間色々、ああいうのがいてもいい。それにカーメスの愛弟子だからな」


 また自己解決したみたい。あのカーメスがあれほど可愛がっている部下なんだからきっといい人、なのだと思う。ただ、ちょっと風変わりなところがあるだけで。


「さあ、行くぞ」


 ソファーから立ち上がり、彼が背伸びをした。これからこの王宮のどこかへ連れて行ってもらえるのだとすぐに気づいて私も腰を浮かし、彼の隣に足を進める。


「覚えているか?あの夜、お前に話さぬとしたこと」


 案内を始めてしばらく経ってから、唐突に彼が聞いてきた。


「夜?いつの?」


 初めて見る大きな柱の装飾を眺めながら行く。

 夜だなんて抽象的すぎていつの夜なのだか分からない。何か約束でもしていただろうか。

 聞き返しながらも興味津々であたりを見回している私を、彼がきまり悪そうに見た。


「ヒロコを妻としたあの最初の夜のことだ」


 言われてぱっと甦った。

 ここに残ると決めて、宗教改革の声明を出した日の初めて彼と過ごした夜、緊張していた私を残して彼は軽く仕事を熟していたのだ。何をしているのか尋ねても悪戯っぽく笑って結局は何も教えてくれなかった。


「あれを今教えてやる」


 嬉しそうに頬を上げた彼は歩く速度を上げた。

 王宮の奥へ、奥へ。どこまで続くのか分からない夕暮れに近い光が差し込むその廊下を、黄金の音を奏で行く。

 追いつけず小走りになり始めた私を小脇に抱えるようにして、彼はまた大股で進み出す。その横顔はとても輝いていて眩しかった。

 やがて一つの四角に切り抜かれた一つの出口にたどり着く。王宮の裏側と思われる場所だが、逆光で出口の向こうは良く見えなかった。


「さあ」


 手を引かれて出口の向こうへ足を踏み入れる。風に吹かれて髪が後ろへ流れていくのを感じながら、私は現れた光景に目を疑った。


 限りなく青に近い青紫。一面、すべて。

 別世界に舞い降りたのではないかと思うほどの広い広い、花咲く庭だ。


「ヤグルマギク……」


 全部がその青い花だった。私の大好きな、あの花の色が限りない世界を織り成していた。


「ヒロコのために作らせたのだ。見事だろう」


 言葉を失っている私に彼は自慢げに腕を組む。


「……夢みたい。こんな景色、見たことないわ」


 咄嗟に口から出たのはそんな言葉だった。

 目を瞬かせ、興奮し始める私を見て、満足そうに彼は私の手を取った。


「当たり前だ。私が自ら設計したのだからな」


 そのまま庭に踏み出す。花を踏まないようにいたわりつつ、私たちは青い庭の中心に立つ。

 なんて青だろう。まるで海の真ん中に立っているように、自分の周囲すべてが青だった。


「これを我が妃に捧げよう」


 あまりに雄大で美しい、ヨーロッパでも思わせる光景にお礼を言うのさえ、忘れてしまう。息を呑んで、目を擦ってはもう一度足元から広がるように咲き誇る一面をぐるりと見渡した。

 エジプトの気候は一年を通してほぼ変わらない。温度が若干変わるくらいで、春も夏も秋も冬もない。いつも同じ季節。だからこそ、種を植える期間をずらせば、いつでも咲き誇る庭が得られる。この国で花が絶えることはない。

 これを半年以上前から私のために作ってくれていたのだと思ったら、どうしようもないほどに胸が高鳴った。


「ありがとう」


 こんな素敵なものを貰えるとは想像もしてなかった。胸が震える想いだった。


「本当にありがとう」


 紅潮しているだろう顔で笑って見せたら、その顔が見たかったのだと彼も私と同じような表情を浮かべてくれた。




 風が吹けば、花びらの嵐が私たちを包む。私の好きな色に世界が染まる。世界が一色になる。その中に歴史も何もない異空間を見つけたような心地に襲われた。


「……来たな、テーベへ」


 ぽつりと、青の中に寝転がる彼が呟いた。花畑の色によく映える淡褐色を空に投げている。


「そうね」


 手元のヤグルマギクで花冠を紡ぎながら私も隣に座って頷く。

 彼が近くの花を一本摘むとこちらに手渡し、それを使って私がまた一つ花を繋げていく。さっきからこれの繰り返し。ゆっくり、手元で完成に近づく冠は、私たちから時間という感覚を奪った。


「どうなっていくか……すべてはこれからだ」


 虚空に手を伸ばして彼はそれを細めた目で見つめる。陽はもう傾き、遮る光はないはずなのに、眩しそうに。

 作業の最後の仕上げをしながらその様子を視界の端で感じていた。


「ヒロコの言う歴史というものを私は変えたい」


 私も、それを切実に願ってる。

 変えられるだろうか、この手で。今花を摘み、紡ぐこの指で。

 不安を振り切って冠の出来倍を目線まで上げて確かめてみる。


「そのためにはまず健康からね」


 完成した青い冠をその顔の上にそっと置くと、淡褐色が伏せられて見えなくなる。


「健康?」


 落としたついでに彼の固い髪を撫でたら、くすりと彼は笑った。


「そうよ。病死が一番有力なんだから、ちゃんと身体を鍛えて免疫力を高めていかないと」


 顔面に乗せられた冠を手に取りながら、今度は私に目線を投げる。


「お酒はほどほどに。食事は偏りなくとって、夜更かしはなるべくしない、無理も駄目。狩りも危ない物は絶対に追いかけないで。戦争なんて以ての外よ。……あとは」


 分かったと彼は苦笑し、上半身を肘で抱えるようにあげて花輪を見つめる。


「分かってないくせに」

「分かっている、要はヒロコが私を守るのだろう?」


 どこかの猫のように、空いた私の膝にのそのそと頭を乗せながら彼は笑った。仰向けになり、淡褐色に空の色が混ざる。膝に重みを生む頭をそっと撫でると口に笑みを残したまま淡褐色が静かに閉じた。


「そうよ、私があなたを守るの」


 囁くように、自然と返答が口をついて出てきた。また前髪を払うように撫でながら顔を近づけたら、彼の手が動いて私の頭に冠を乗せる。頭上から柔らかな花の香りが落ちてくる。


「よく泣くお前に、そんな大層なことが出来るのか?」

「できます、やってみせます」


 意地になって言い返す。


「悪い気はしない」

「偶にはいいでしょう」


 くすくすと私と彼の間に笑う声がぶつかり合う。

 神の都に着いた私たちの間に、ヤグルマの青い風が心地よく吹き流れて行った。


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