11章 神の都~テーベ
王の妃
* * * * *
物凄い歓声だった。肺が潰されるのではと思うくらいの人だかりで、進めば進むほどおしくら饅頭状態が悪化する。その中を爪先立ちしながら前へと進む自分の気力も捨てたものではないと思えるのはほんの一瞬で、あっという間にいくつもの手が目前に立ち憚り、上下左右に揺れて俺の視界の邪魔をする。
何が何だか分かったものではない。
花が四方八方から飛んでくるわ、興奮した人々に飛びかかられて押され足を踏まれ、よろめくわ。最終的に押し出され、最初の場所に戻ってしまう。
最も何が凄いかと言えば、人々の声の大きさの他に無い。「ファラオ」と。「王妃様」と。幾度となく繰り返されるその名前に何度耳を抑えたか分からない。
畜生、と自然と口が呟く。王がなんだ、王妃がなんだ。所詮皆同じ人間ではないか。
混み様に段々苛立ってきて内心悪態をついている間にも、正面から猪のごとくこちらに人々が突進してくる。
「ファラオはまだいらっしゃっていないのか!?」
ああ、まただ。ため息をつく暇もない。
「ユラ、こっちにおいで」
繋いでいたムトの妹の手を引き、突撃してくる人々の行く手を作った。見覚えのある顔がこちらに気づかぬままいくつか通り過ぎていく。
古代に来て半年以上が経った。こうして何の進展もないままに過ごしている間に、いくつか名前を覚えてしまった。職場の連中、暮らしている家の近所の人々。これがどんどん当たり前のものになっていく。その感覚がやや恐ろしくも感じた。
「……ありがとう」
「いいよ」
笑いかけると未だに恥ずかしそうに俯くが、仄かな笑みを見せてくれる可愛らしい小柄な女の子で、他のやんちゃな兄弟と本当に同じ母親から出てきたのかと疑いたくなるほど扱いやすい気性だ。
「ちょっとあっちに出よう」
このままでは二人もろとも踏み潰されてしまうと見越して人混みの中から脱出する。静けさが残る一角に逃れると、やっと緊張が解かれ、ユラの手を離して膝に手をつき一呼吸ついた。
「本当にどこに行っちゃったんだろう」
膝丈のスカートを握りしめ、ユラは心配そうな顔であたりを見渡す。それに続くように俺もそこらで遊ぶ子供たちの顔を窺うが、目的の顔を持つ奴らは見当たらない。
「ヨシキ!」
聞き覚えのある声と共に、ムトが駆けてきた。
「あいつら見つかった!?」
「いいや……そっちもか」
首を横に振ると、ムトも半分焦りをにじませながら口を尖らせ「そうだよ」とぶっきらぼうに答える。
いよいよ王が王妃を連れてテーベを訪れ、正式な遷都が行われるというこの日に、仕事で忙しい両親の代わりにその王族行列を見たいと言う兄弟全員を外に連れて来たまではいいものの、まさかこんなに混雑するとは想定しておらず、ふと目を離した隙に下二人の弟がどこかへ行ってしまったのだ。今はその二人を探している真っ最中でもあった。
「ああもうっ!!このままじゃファラオも王妃様も王宮に入っちゃうよ!」
ムトは地団駄を踏み、髪を掻き乱して不満を散らす。ムトとしてはその二人の姿だけはどうしても見たいらしい。
もう一度顔を上げ、ぐるりと視界を回した。本当にあの5歳と3歳の好奇心の塊のような餓鬼どもはどこに行ったのか。家に鍵がいらない、殺人も誘拐も滅多に起こらない平和な世であるのはありがたいが、かれこれ行方不明になって1時間が経過しているとなると、さすがに心配だった。
「でもムト、あいつらが見つかってもあの人混みじゃさすがに王様も王妃様も見えるほど前にいけないだろう」
「後ろからでも見えるよ」
「いやあ、お前のそのチビな身長じゃなあ」
「チビって言うな!俺はあとから成長すんだよ!!ヨシキのことだって抜かすんだからな!」
そんな会話をして笑い声を立てた次の瞬間、歓声が鼓膜を破くかと思うほどの大きさまで這い上がった。驚いた俺の肩は一度大きく上下する。
「ああっ!来ちゃった!!」
ムトが絶望的な声な声を上げて頭を抱えた。
「ファラオ!我らが王、我らの神の生ける方よ!」
「どうかお手を!」
人々が待ち焦がれた存在が、この都に到達したらしい。
「我らの王よ!」
「アメンの化身よ!」
なんて声だろうか。なんて歓喜に沸く世界なのだろう。天地が鳴いている、そんな感覚に襲われた。
「ああもうっ!全然見えない!!」
茫然と声たちを聞き流す俺の傍らで、ムトが苛立たしげに地団太を踏んで叫んだ。兄妹は俺を挟み、頑張ってぴょんぴょん跳ねているが、150にも満たないその身長ではいくら頑張ってもあの人の波は越えられない。
「ヨシキ!見てないで俺を担げよ!その身長生かせ!」
「ヨシキ!私も!」
ついに二人はまだ身長のある俺にそうねだってきて、仕方なく二人を両腕に抱えて出来るところまで上げてやる。
「お、重い……」
さすがにいくらどちらも小柄だと言っても12歳と9歳を両腕に抱えるとなると負担が大きかった。
「もっと高く!!見えない!」
「俺だって見えないんだけど」
この身長があっても、行列の巻き上げた砂煙が宙の水色に茶色を乗せて、消えていく様子しか分からなかった。
「もういい!下ろして!俺、前に行ってくる!」
ムトがいきなり暴れ、素早く地面に足をつくと人込みの中に駆けていってしまう。
「ムト!」
呼んでも無駄なようで、その少年は雑草のように生い茂る人々の列の中へ呑み込まれていった。
「お兄ちゃん、行っちゃった」
「行っちゃったな」
見るのを諦めたユラと一緒に、舞いあがっては最高潮に達していく歓声を聞きながら、煙のように浮かぶ砂を眺めていた。辛うじて王が操っているであろうチャリオットが小さく見えたが、乗っている人間の顔など見えるはずがなかった。
ひと月前ほどに見たツタンカーメンがあの場所を走っているのか。自分の未来も、数千年後にどんな名で呼ばれるかも知らずに。最愛で唯一の王妃だったという妻を連れて。
ため息に似たものが口から漏れた。ぼんやりと人の後頭部と砂煙を眺めている内に蛇のような行列の最後尾が現れ、やがて人混みもそれについていくようにぱらぱらといなくなっていく。地面が見えるようになってほっとした。もともと混雑している場所は苦手な性分なのだ。
そろそろかと思って周囲を見渡していると、ムトがとぼとぼと首を垂らしてこちらに歩いてくるのが見えた。
「どうだった?」
問えば、ますます垂れた首の角度が大きくなる。
「全くだよ……せっかくの機会だったのに」
ぼそぼそと呟いている。がっくりというのはこういう状態のことを言うのかと妙に納得してしまった。
「先頭は側近殿と隊長殿のはずだったのに。あのお二人も見たかったなあ」
兵役か。隊長も将軍もいるとこの前仕事仲間に教えてもらった気がする。
「ムトは隊長とかにも興味あるのか」
「うん、書記官が駄目だったら兵士になって国を守るんだ」
「へえ、立派なんだな」
鼻先を擦ってから誇らしげに胸を張る少年の姿が微笑ましかった。王家に仕えるのが何より高尚な使命というのが民の認識なのだろう。
「あとはあの二人か」
車輪の跡や馬の足跡が残った道に目を凝らし、行方不明の幼い二人の姿を探す。
「いいよもう、あいつらは」
行列の行進に間に合わなかったという恨みがあるせいかムトは投げやりだった。
「そういう訳にはいかな」
「ヨシキー!」
二つの物体が俺の両脚に突撃して、その衝撃によろめく。どうにか踏ん張ってまさかと自分の足元を見下ろしたら、あの好奇心の塊たちが自分の足に巻き付くようにしてしがみ付き、にこにこ笑っていた。
「楽しかった!」
さっきは探しても探しても見つからなかったのに、こんなあっさり、それも自分から現れるなんて。視線をずらせば案の上、ムトが弟たちを睨みつけている。
「はい、帰ろう」
喧嘩になる前にと思い、2人を両脇に抱えて怒り爆発寸前の兄の視界からその標的を奪った。
「前に進めー」
ぶつぶつと文句を重ねるムトとくすくすと笑うユラを帰路へと促していると、王家の行列が終わって家々に帰ったはずの人々が王宮に向かって走っていくのが見えた。
「遅いぞ!早く!」
「急げ!」
ぱたぱたと地面を跳ねる裸足から小さな砂埃が躍っている。何だろうかと首を傾げていれば、俺たちの傍を近所の知り合いが過ぎていく。いつも酒を飲んでいるあの酔っ払いだ。
「おじちゃん!どこいくのさ!」
ムトが透かさず呼びかけた。思う疑問は同じらしい。
「おお、ムト兄妹とヨシキじゃねえか!」
足踏みをしながら、顔が真っ赤の中年男性は俺たちの方へと後退してくる。
「ねえねえ、王宮で何かあるの?」
「ファラオと王妃様が王宮の上から顔をお出しになられるんだとよ!おめえ、見に行かないのか?」
「えっ!?」
どうやら、その王族二人を見るために周りはあんなに必死に走っているという話だった。カツラを被った男や、ハスの花を零れそうなほど抱える女たちが俺たちを追い抜き、一つの方向へ足を必死に動かしている。
王宮の上からということは、高所から顔を出して手を振る程度だろうか。ならばさっき見た人もそうでない人も平等に見ることが出来る。
「なんなら一緒行くか?」
「行く!」
帰ってしまいたいという俺の気持ちを踏みにじり、ムトは小さく飛び跳ねて満面の笑みを咲かせた。
「ヨシキ!俺おじちゃんと行ってくる!先帰ってていいから!!」
「おい、ムト!!」
俺に3人の妹弟を残して、長男はおじさんと一緒に走って行ってしまう。
「……ヨシキ、私行きたい」
思った通り、残された兄弟たちが目を輝かせてこちらを見上げていた。その無邪気な眼に勝てるはずがない。子供の純粋な瞳というのはある意味最大の武器だと思う。
「ねえ」
もう逃れられないと悟って「行こうか」と呟いた。こちらの返答の後に子供たちの嬉しそうな歓声がきゃあっ続き、自然と俺も笑っていた。
ゆっくり歩いて向かったらまた人混みが広がっていた。
「さすが、混んでるなあ」
いつもなら閉じている王宮の門が開いていて、人の洪水に流されるように中に入った。俺たちでも遅い方だと思うのに次から次へと人は雪崩のごとくやってくる。
頭、頭、頭、時々手。まるで人の後頭部を眺めに来たかのようだ。このテーベにこれだけの人口がいたのかと思えてしまうほどの人で賑わってた。
ムトとあの酔っ払いの姿はもう見えない。しっかりしているムトなら放っておいても大丈夫だろうと、とにかく好奇心の塊の二人だけはがっちりと腕に拘束していた。
「早く!前に行こうよ!」
色めき立っているユラが前を行き、人混みの中を走る。王と王妃はもう出ているらしく、人々の声はすでに最高潮に達していた。声の嵐が向けられる対象を今からこの目に出来るのだと思ったら俺までいきり立ってきた。
あのツタンカーメンは今度はどのように映るのか。その妃であるアンケセナーメンはどのような女なのか。
ムトの学校の教師カネフェルから俺と同じ肌を持つと言われた王の妃。実はアジア人であったのなら、興味深い。未来人の知らない新たな歴史を知ることができる。
「あ!!見て!」
ユラの弾んだ声の先に王と王妃が現われたのは分かった。腕に抱えていたちびっ子を降ろしてやり、両手でしっかりとそれぞれの小さな手を掴んでから古代の王族夫婦はどんなものかと興味半分で顔を上げてみる。
見上げた空高くそびえる王宮の上に、目立つ二人の人間が、ずらりと並ぶ兵士に挟まれるようにして仲睦まじく身を寄せ合い、民に幸せそうな笑顔を向けて立っていた。背の高い、この前見たあの男は片腕を高々と掲げ、腕の黄金を煌めかせている。ほとほと黄金という色が良く似合う男だと思った。
「王妃様、すっごく綺麗!ねえ、ヨシキ!」
「ああそうだな、すごく……」
綺麗だなとか、王族はさすがだなとか。
ユラに返事をするはずだった俺の声は、王妃の顔をこの目で認識した途端に消えた。遠すぎるこの距離でも、頭上に雷が落ちて感電してしまったかのような衝撃が脳を貫いた。
言葉も時間も音も。
何もかもが意味という意味をなさなくなる。両手に握った子らの柔らかい感触だけが、俺にわずかな冷静さを繋げていた。
こういう時ばかり子供というのは敏感で、硬直した俺に二人は「どうしたの」と尋ねた。
答えられなかった。目が離せなかった。頭が真っ白だった。間違いかとさえ思った。求めすぎて幻影でも見ているのかと思った。
だが、俺が間違えるはずがない。
その黒髪を。その細めた瞳を。緩めた唇も小さな身体も全部。
好きだと思った、一生添い遂げてもいいと思えた相手の姿を誰が間違えると言うのだろう。何度も思い描いた彼女を、他の誰と間違えろと言うのか。
どんなにその身を黄金に飾り立て、化粧を施し、髪が思い出よりも長くなっていたとしても、俺には分かる。
あれは。
ツタンカーメンに肩を抱かれているのは。
王の妃と呼ばれ、歓声を一身に浴びているのは。
「──弘子」
ずっと探し続けてきた、ただ一人の人。
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