名よ、響け

『──さようなら』


 蔑む目でこちらを見据えるのは私の親友。頬を染めた無邪気な笑顔はどこにもなく、仮面のような表情の引き結んだ口がゆっくりと動き出す。

 幾度となく繰り返された記憶を振り切り目を開けた。瞬間、葡萄酒に似た色を混ぜた夜の天幕の黒さが私の視界を覆う。

 耳には砂漠が風に乗る音と、オアシス独特の涼しげな水音が流れてくる。緑の都を出てしまったのだと実感が湧いて後に切なさが滲んだ。

 すぐ隣に視線を送れば寝具に半分埋もれる彼の寝顔がある。静かな寝息と一緒に漏れ出た小さな呻きが傍で鳴る。彼の様子を見てやっと肩の力が抜けた気がした。

 昨日の彼女とのやり取りが何度も頭の中に流れて、思考が止まらない。眠ろうと目を閉じては、また思い出して目を開けてしまう。それをいくら繰り返してきただろう。

 疲れを感じているのか重くなった身体を寝具から起こして、こするように両手で顔を覆った。


 私は、あの時代にもう戻らないとすべてを捨てた。失う覚悟を決めた。そのはずなのにメアリーに言われたことを思い返すと胸が軋んだ。

 どこにこの虚しさを流したらいいのか分からず、立てた膝に顔を埋め、視界を閉じ込めた。

 許してほしいとは思っていない。私が下したものは許される決断ではなかった。そして私を睨んだ彼女の目は、決して私を許しはしないのだろう。

 最初から分かっていたのに謝り続け、許しを請おうとする私は、彼女の言う通り都合のいい、利己的な人間でしかない。なんて醜い拒みだろう。初めて目の当たりにした自分の醜い甘えに嫌悪を抱く。

 小さい頃から一緒だった彼女との関係に終止符を打ったのは紛れもない自分自身だ。彼女のあの表情を生んだのもこの私だ。彼とこの国を選んだことで、私は絆を一つ、この手で切り落とした。犠牲のない選択など最初からないと、分かっていたつもりだったのに。


『──私たちは、変わったの』


 その通り、私たちは変わった。分かり合えるかどうかの答えは最早どこにもない。私と彼女は互いに背中を向け、正反対の道を歩き始めている。守るものも、愛するものも、恨むものもすべて。

 戻れはしない。戻ってはいけない。それだけの決意をして、それだけのものを捨てて、犠牲を払った上に今の私があるのだから。

 どちらかに伸ばした手は、もう片方には伸ばせない。落ちて消えていくのを見ているしかない。

 すべてを振り切ろう。両親へ想いも、好きだと言ってくれた良樹との思い出も、メアリーとの懐かしい日々も、私は見えぬ場所に封じよう。選べる道も選ぶ道も、ただ一つ。

 私は、捨てたのだ。その事実に、自然と一縷の筋を成して頬に落ちた。


「……眠れぬのか」


 はっと隣を見やると、彼が目を開けて身体を起こす私に眼差しを向けていた。


「大丈夫よ、何でもないの」


 慌てて涙を拭い、笑みを浮かべながら寝具に身を横たえた。泣いていたのを気づかれないように顔を伏せて目を閉じようとする。


「何か、あったのか」


 掠れた、寝起きの彼の声に続き、伸ばされた大きな手が寝具に広がった私の髪を撫でて、肩へと渡った。


「眠れぬのだろう」


 何でもないのと首を振って顔を隠すと、その人は「嘘をつけ」とため息を私の髪に吹きかける。


「あの娘に会ってから様子が変だ」


 彼には彼女とのことを言っていない。メアリーが去った後、私の様子にどうしたのかと尋ねてくれたけれど、機会をくれたことに対するお礼を言っただけで終わらせてしまった。


「何でも……」


 続くはずの言葉は、頬を流れた彼の指に遮られた。拭った涙の跡を正確に中指が辿っていく。

 この人は、私が泣いたことを知っている。そう思った途端、泣き喚きたい感情に襲われてしまう。


「何があった」


 さっきより静かな、諭すような声で言い、顎を掴んで上げた私の顔を覗き込む。その優しげな表情を見たら、またみるみる内に視界が霞んでくる。


「話せ」


 どこかに吹き飛んでしまいそうだった。彼の淡褐色を浴びたら、耐えていたものなんて木端微塵になる。

 私の顔が歪に崩れたのを見て、表情を固めたまま彼は私に腕を回した。手が、私の背を擦る。濃くなった彼の香りにわっと涙が溢れて私の下の麻にぼろぼろと両目から落ちて行く。止めようとしても止まらなかった。


「……自分の」


 耐えきれなくなった声が雫と一緒に零れ落ちた。


「自分の失ったもののを重さを知ったの」


 気づけば声をあげて泣いていて、それ以上何も言えなかった。彼も何も聞かなかった。そうかと呟いて、子供をあやすように抱き締めたままの私の背中を叩く。

 一言を言ってしまったら、あとは少しずつ涙が引いて、残った不定期に出てくるしゃくりだけが空気の上に散乱していくのを聞いていた。

 目元に当たる麻の生地が涙で冷たい。目を強めに閉じたらまた一粒、白を濡らした。


「もとの世界に」


 眠りに落ちる前、無意識に口からそんな言葉が流れる。


「帰す方法を見つけなくちゃ」


 私の髪を撫でる指を止めて彼が聞き返す。


「あの時代に、帰してあげなくちゃ」


 彼女は必ず帰るのだと言った。ならばこれがせめてものの罪滅ぼし。あの時代に帰す方法を探し当てることこそが今の私に彼女のために唯一できること。


「分かった」


 私の泣いている理由を察したのか分からない。でも彼はそんな返答をして眠れと促すように残る涙の筋を払った。

 もしかしたら、決断という重さや、その苦さを一番知っているのはこの人なのかもしれない。父と兄を犠牲にして民のために神様を変えるという大きな決断を下したのだから。

 触れる手のぬくもりに誘われて、私の瞼は次第に閉じていった。








 目覚めた空は、素晴らしいほどの晴天だった。

 もともとこの国では晴天でないという時の方が珍しいのだけれど、今日の空はそれ以外の表現が見つからないくらい綺麗な水色を広げている。


「さあ、これでテーベへ向かう準備は万端整いましたわ」


 メジットに鏡を渡されてそれに写る自分を見つめる。

 ずっしりと重い黄金の冠に耳飾り、そして銀の胸飾り。孔雀石の深緑のアイメイクが目の縁を踊る。この正装でパレードのような形態でテーベへ入るとのことだった。


「民も皆、王妃様の美しさに感服しましょう」

「ありがとう」


 神の地テーベに都が戻ることにメジットを含む女官たちは興奮を隠せずにいた。女官だけではない、一緒にきた兵士も、大臣たちも今まで以上に笑顔を輝かせて口々に都の名をと繰り返している。


「では、参りましょう。王妃様」

「ええ」


 メジットの微笑みに、孔雀の羽でこしらえた扇を手にして頷き、椅子から立ち上がって天幕の入り口前に進む。後ろにいる専属の侍女たちが腰を落として私に頭を下げた。


「王妃様のご準備が整いましてございます」


 メジットの張り上げた声と共に天幕の入口が引き上げられた。両端に並ぶは兵士の列が深々と頭を下げ、一本の道を成す。道の先に、跪くセテムとラムセスを両側に着かせた彼が、ネクベトとウアジェトを額に乗せた王権を表すメネス頭巾とあの黄金の胸飾りを身に着けて立っていた。勿論、目元には鮮やかなスカラベの緑色が躍る。


 私は一本のその道を踏み出す。

 兵士の向こう、女官の集団の中に頭を下げながらも私をじっと見つめる二つの目があった。憎いと悲鳴を上げているような棘を湛えた眼差しだ。

 彼女が、私を見ている。裏切り者の私を、細めたその眼で。

 もう揺らぎはしないと唇を噛みしめ、彼が差しだす褐色の手に迷わず手を伸ばす。私の手をしっかりと握った彼の手は熱かった。

 この手。これが私の選んだ手。私は、この人を追っていくと決めたのだ。


「行こう、ヒロコ」


 勇ましい決意の表情に私も口を一文字に結んだまま頷いた。

 黒と黄金を散りばめたマントを翻した先、彼の後ろに見えたのは二人乗りほどの大きさの黄金の戦車チャリオットがある。白い馬に繋がれたそれは馬の白さと対照的な煌めきを宿していて、言葉に出来ないほどの品格を露わにしていた。


「出発する!」


 彼に抱えられてそれに乗り込み、続くようにセテムやラムセスがそれぞれの物に乗り、他の兵士たちは馬に跨る。


「いざ、テーベへ!!」


 彼の声が轟いた同時に、皆が都へと異口同音で奏でた。手綱を引かれた馬たちは一斉に走り出し、あっという間にオアシスを抜け、緑のない壮大な茶色の大地に私たちは躍り出る。

 風と砂が鳴き、太陽が昏々と私を照らしていた。

 砂を混ぜた風が乱す髪を耳に懸け、チャリオットの縁に手を乗せて身を乗り出す。自動車のように安定のないそれは、がたがたと激しく揺れながらも迷うことなくテーベへの道を走っていく。


「もう、泣かぬのか」


 しばらくして、馬を走らせながら砂漠を見渡す私に彼が尋ねた。チャリオットの黄金をぎゅっと握る。


「もう十分なほど、私は泣いたわ」


 沢山泣いた。決断を下すたびに、何度も何度も。でも、それを越えると必ず毎回新しい自分がここにいる。強い何かを抱いて太陽を浴びている。

 これからも私は歩いて行ける。彼がいるならば。


「テーベで方法を探してみよう」


 彼を振り向くと、手綱を握り直しまた唇を開く。


「歴代の王たちがいた場所だ、何か分かるやもしれぬ」


 私を抱き寄せ、彼は戦車の車輪の音に消えないくらいの絶妙な大きさで言ってくれた。彼がメネスをいじりながら向けた柔らかい表情に、また胸が暖かくなる。

 どんなに蔑まれようと、憎まれようと私はこの時代に彼女がいる限り、彼女のためにできることを成し続けよう。この時代で私という人間が、彼女のために出来ることを。親友と名乗っていた人間として最後の最後まで。これが、けじめというものだろう。


「ああ、そうだ。都に入る前にこれを読んでおけ」


 どこから取り出したのか、突然一つのパピルスが彼から手渡された。話が突然ころと変わるところは、出会った時から変わらないのだと小さく笑ってしまう。何だろうかと風を浴びながらパピルスを見つめる私に彼は前を見据え、優しげに口元を緩ませた。


「父の碑文だ」

「お父さんの?」


 アクエンアテンの碑文。改めてその薄い黄色の巻物に目をやった。


「アケトアテンに、都を遷した時の書記官が綴った光景だとされている」


 都を遷し、神を変えた時代、つまり10年以上前の記録だ。相槌を打ちながら戦車に上下に揺らされながらパピルスを開き、並ぶ文字に目を通す。



『──王が琥珀金製の大きな戦車に登ると、その姿はさながらアテン神が地平線から昇ってきて大地を慈愛で満たすかのようであった。そして始まりの地、アテンが自らのために作りたもうたアケトアテンへと向かう道を進んだ。天も地も彼を注視し、全てが喜びで満たされ、王の名は世界に轟いた』



 壮大な文章だ。この碑文を作ることでアクエンアテンは自らが崇拝した唯一神と自らの存在を示そうとしたのかもしれない。


「私も父のようにテーベに入りたいと思っている」


 私が読み終わったのを見計らってか、彼はメネスからはみ出た髪をなびかせて私に静かに言った。


「私は天と地に祝福されるような王でありたい」


 もちろん民にも、と付け加えて、珍しく自称気味に笑った彼の横顔は父親への尊敬の念で溢れていた。どんなに異端者と虐げられても彼にとっては父は父で、憧れであって越えるべき存在であり、それ以外の何者でもないのだ。


「大丈夫よ」


 そっと身を寄せて、微笑む。


「あなたなら大丈夫」


 彼ならば出来ると言う自信が理由もなく私にはあった。


「ヒロコがそう言うのなら、なれる気がしてくる」


 はにかみながら私の腰に手を回して、そう言うと手綱を握り直し走る速度を落とした。


「見えたぞ!!」


 兵の誰かが声をあげた。


「我らの都だ!!」


 目を凝らしてみて初めて、砂漠の向こうに見えてきた山並みが地平線を辿る長い城壁と大きな門だと知った。彼もいよいよだと私を抱き寄せたまま身を乗り出す。


「テーベだ」


 あれが、テーベの門。空に聳えるほどの入口の大きさに言葉を失う。

 近づくにつれ、周りの兵士たちの顔が輝きだし、歓声が生まれてくる。右を走るセテムは顔を紅潮させ、左を行くラムセスはついにと意気込むように口端を上げている。このまま突撃してしまうのではと心配するくらいの距離になった時、ラムセスがその手を、閉じた門に向けて掲げた。


「開門せよ!!」


 どこから出したのかと不思議に思うほどの大きな声が轟いた。門の前に並んでいた幾人もの兵士たちが、動いて重そうなその門を押し出すようにしてゆっくりと、それでも厳かに開いていく。見え出した門の隙間から溢れんばかりの人々が現れた。門に塞がれていた黄金色の歓声に鳥肌が沸き立つ。空に、大地に鳴り響く歓喜の渦に私たちは飲み込まれる。セテムとラムセス二人を前にし、彼も目を輝かせ、私を抱く手に力を込める。


「入るぞ、神の都へ!」


 耳元に響いた彼の意気揚揚とした声に、私はおのずとこくりと頷いて握っていたパピルスを抱き締めた。

 神の都テーベ。いよいよその地に私たちは降り立つ。不安と期待から生まれる鼓動の音と比例して、門が迫る。黄金の声に絡まりながら、天か地か、そのどちらかから落ちてくるようにすっと耳に飛び込んできたのは大勢の人々の祝福の声。


「──ツタンカーメン様!」


 紛れもなく響き渡る、王の名だった。


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