決別

「ファラオ、これなどいかがでございましょう。王妃様にお似合いになるかと」

「うむ、なかなか見事な品だ」


 次から次へと、沢山の黄金が私たちの前に運ばれてくる。

 この部屋の外には商人行列がこれでもかと続いているのだろう。あと何人で末尾が見えてくるのかも分からないまま、入れ違いに入ってくる商人たちをぼうっと眺めていた。


「東の国より取り寄せた美しい黄金に、我が国の腕の良い職人により掘られた王家の象徴ラーが象られております」

「ああ。これも良い。そう思わぬか、ヒロコ」


 彼は彼で品の良し悪しを見分けているようだけれど、私にはさっぱりだ。こんなにも煌びやかな世界は初めてで何だか気後れしてしまう。彼だけが楽しそうに次々と選んで行っているのに対して、私は終わりはまだなのかと徐々に上の空になり始めていた。


「ヒロコ、お前のために選んでいるのだぞ。ぼけっとするな」

「あ、はい」


 姿勢を正して視線を戻す。

 今商人を目の前にいろいろと装飾品の交渉をしているのは、いよいよ明日テーベに向かうという今日になって、婚儀に身に着ける装飾品を揃えてしまおうという話になったためだった。

 呼び寄せられた力ある商人たちが様々な品をここへ持ってきて長蛇の列を成している。

 本来なら侍女や宰相が対応するのに、せっかくだからと王自らが真ん中に座り、宰相たちを傍らに従えて指示していた。


「さあ、好きなものを選べ」


 私の肩に手を添えて、目が眩む黄金ばかりを目の前に並べさせる。どれもこれも見事なものばかりで、素敵だとは思っても自分に似合うかと問われたらよく分からない。


「あなたが決めていいわ。どれがいいかなんて私には分からないのよ」

「ヒロコの欲しい物を買ってやりたいのだ」


 そんなことを言われても。

 私としてはこんな大層なものはいらない、むしろ今あるもので十分だ。だがそれを言うと彼は気分を損ねてしまう。


「全部欲しいと言うのなら、それも良い」

「そ、そんな、全部なんていらない!」


 時折の発言に毎回のことながら驚かされてしまう。


「遠慮することはない。すべて買うことなど朝飯前だ」


 けらけらと笑う王子様育ちの彼は、やはり価値観が少しずれている。


「でもこんなにあっても全部身に着けられないわ、そうじゃない?」


 どうにか全部買わないようにと説得してみたら、顔を顰めてため息をついた。


「ならば何が良いのだ」


 悩む仕草をして、彼は綺麗に並べられた豪華な品々を再び見渡し始める。

 何が良いと言われても。どうしよう。


「このあたりなど良いのではないか?似合うと思うのだが」


 彼は首を傾げつつ、装飾品の一つを手に取って私に当てる。こんな煌びやかなものは自分に似合うようには思えない。私はそんな大層な人間ではない。

 苦笑して肩を上下に揺らして見せたら彼はますます顰め面になって唸った。


「気に入らぬか。ならば欲しい物を言ってみよ、作らせる」

「そんな手間を掛けなくても」

「セテム、この商人は駄目だ。次を出せ」


 前にいた商人が下がり、控えているセテムと兵士の指示でまた新しい商人が入って来て一礼する。そうして素早く新たな商品たちが並べられた。


「今度はどうだ?珍しいものもある」


 私が強請るまで彼はこの交渉行列を終わらせない気なのだろう。そうと分かるとだんだん焦りが募っていった。この商人の大行列の最後尾までやっていたら、テーベへの出発の日程まで遅らせることになりそうだ。


「ええと……そうね」


 どれか安そうなものを選んで終わらせてしまおうとあたりを見回してみる。視界一面が全てキンキンキラキラの中、一つのものに目が留まった。煌めく黄金の中に寂しくあった胸飾り。すっと惹かれたその色。


「あの銀の首飾りを」


 この太陽の国ではあまり目にしたことがない、金より格下とされるもの。私にはそれくらいが丁度いい。


「銀とは、やはり王妃様はお目が高くていらっしゃる」


 商人がにこにこして侍女を介して私に渡してくれた。

 手の中に来たそれは、オシリスの妻であるイシスの翼を広げた姿を象ったものだった。周りにある何よりも値段が低そうだ。


「ねえ、アンク。私、これにしようと思うの」

「ヒロコも遠慮してはいても案外欲張りなのだな」


 銀だと言うのに、まさか欲張りと言われるとは思わず、彼の言葉に目を瞬く。装飾に凄い技術でも施されているのかと困惑気味の私に、彼はその胸飾りに手を伸ばした。


「銀は我が国でも外の国でも滅多に取れぬ。故に希少価値が格段に高い。値打ちとしては金の倍以上で取引されることがほとんどだ」


 ぎょっとして自分が選んだ品を見つめた。金が銀より価値が上だったなんて知らなかった。


「高いならいいわ。何か別なものにしましょう」

「これが欲しいのだろう。ならば良い」


 商人に返そうと彼に伸ばした私の手は見事に弾き返されてしまった。


「王家にとって金も銀も何も変らぬ。ヒロコは何故そこまで遠慮する」


 彼は私から首飾りを遠ざけ、ナルメルに手渡す。


「見分けよ」


 何を見分けろと言うのだろう。

 こちらの疑問を読み取ったらしい彼が口を開いた。


「銀は金より高いからな、商人たちは儲けを得るために金に銀を被せる加工の詐欺もする。そのために音などで銀のみで作られたものかどうかを判断させる必要があるのだ」


 メッキの疑いがあるということだ。金を銀で加工して売りさばくほど、銀の高価なことになる。思い返せばカイロ博物館でも、ルクソール博物館でも銀の装飾品を見た気がしない。


「ファラオ、間違いなく銀で御座います」


 ナルメルが微笑み、両手で丁寧に彼に返した。


「これを貰う。そうだな、あとこれも貰おう」

「黄金の胸飾りに御座いますね」


 彼が手に取ったのは、王位の象徴ハゲワシを表す女神ネクベトが描かれた黄金の装飾品。両の羽を広げたその鳥の姿は偉大さと神々しさがある。


「セテム、他の商人も下がらせよ。これで終わりだ」

「はっ」


 部屋にいたセテムと外にいたラムセスが指示をして、やっと部屋の人口密度が減って落ち着いた。息が詰まってしまいそうな環境だったものだから、ほっと息をつく。

 背もたれに寄りかかって隣に目をやったら、彼はさっき選んだ金のネクベトと私が買ってもらった銀のイシスを並べてじっと見比べていた。その顔はとても満足そうに綻んでいる。


「ネクベト、でしょう?」


 私の声に淡褐色がこちらを捉えた。


「あなたが選んだの、ネクベトっていう上エジプトの神よね?」

「見ただけで分かるようになったのか」


 少し驚いたような面持ちで尋ねてきた彼に胸を張ってみる。これでも彼がいない間、勉強に勉強を重ねてきたのだ。今までの無知の私ではない。


「どちらも尊い色だ」


 金と銀。華やかさをもつ光と、幻想的な煌めき。対照的な二つの色が彼の手に揺れている。


「ヒロコは何故、黄金が我が国で崇められているか知っているか?」


 彼がいきなり私に質問を投げかけた。

 エジプトは黄金で成り立っている国。だが、どうして崇められているのかと聞かれるとよく分かっていない。

 悩む私に彼は微笑みを向け、金の胸飾りを手渡してくれる。思ったよりもずっしりとしていて、間近で見ると本当に見事だと感嘆が漏れた。


「銀がどれだけ高価であろうと人々が金を選ぶ理由は、これに関係している」


 銀が金を上回るものだとしても、銀を欲する王族ならばどれだけ高くても迷わず銀を購入してあたりを銀で埋め尽くすはず。それなのに金ばかり。


「神に関係しているの?」


 何とはなしに答えると、相手は深く頷いた。


「黄金は太陽、つまりラーを表す色。神に近いものとされているのだ」


 太陽の色。確かに太陽は黄金だ。


「この色を身につけることによって神に近づく」


 だから銀よりも金。神に近づくために。


「ヒロコの選んだ銀はそれに対して月を表す夜の象徴。トトの色だ。太陽の代わりに夜に世界を見守る」


 トト神は“聖なる言葉の主”という意味の名を持つトキ科の鳥の神、ラーの息子だ。


「だが、人々は皆再生する太陽を目指す故、銀ではなく金を欲す。また、金は不変だ。決してくすむことがない。永遠の意味を成す」


 再生の象徴、太陽神。金は永遠。

 死んだとしてもまたこの世を生きたい、太陽のように何度も黄金に光り輝きながら昇りたい。金を選ぶという行動の中にも、エジプト人独特の思想が込められている。

 永遠の復活。それこそが古代エジプト死後の輪廻。永遠の命。


「何だか、これだとあなたが太陽で私が月みたいね」


 嬉しくなって笑えば、彼も口元を緩める。


「その通りだろう。私とヒロコは互いに対であり、互いに一つでもある。王は民にとっての太陽であり、王妃は月でなければならぬのだ」


 そう言いながら私を引き寄せ、手を回して銀の胸飾りをつけてくれた。

 彼の言葉で知る。この人はそれを狙って黄金の似たような胸飾りを選んだのだと。


「やはり、月の色もなかなか似合う。さすがは我が妃だ」


 私たちは対でもあって、一つでもある。

 私たちは、太陽と月。

 手にあった黄金のネクベトを彼の胸にそっと当ててみたら、それの反射する大気中の光が眩しくて目を細めた。本当に、あなたは太陽の人だ。


「……あなたの方が似合うわ」


 この色以上に似合う色なんてきっとない。


「そう思うならばその手で付けよ」


 甘えるような少年の表情を垣間見せ、私を引き寄せる。ほらと迫ってくるから腕を伸ばしてそれを彼に胸にそれを付けた。胸に輝く黄金を見て、彼は嬉しそうに笑う。それを見たら、こちらも自然と笑顔になる。私もあなたのようにこの銀が似合う人間になりたい。


「ファラオ、よろしいですか」


 声がした方を向くと、部屋の入口にメジットが跪いて頭を下げていた。

 テーベへ明日出発するということで、彼女は朝からずっと忙しそうにあちらこちらに走り回りながら私の衣装や荷物の箱詰めしていたのを覚えている。今回はたくさんの国の王族の方々がテーベに集まるから、彼女を先頭に侍女も一緒にテーベに向かうことになっていた。


「仰せになられていましたこと、整いました」


 彼女はにっこりと笑って頭をもう一度下げた。


「今行く。その場所に連れて行け」


 彼は何のことか分かっているらしく、すっくと立ち上がった。


「ヒロコ、行くぞ」


 彼一人が呼ばれているのかと思っていたら、座ったままの私を促すものだから少し驚いた。


「私も?」

「お前のために整えたのだ、行かなくてどうする」


 立ち上がるや否や、ほとんど抱えられるような体勢で私はその部屋を出た。

 





 連れてこられたのは、木漏れ日が落ちるメンネフェルらしい緑の庭だった。そこに一人、女官の姿をした女の人がこちらに背を向けて佇んでいた。

 向こうにいる人がその後ろ姿だけで誰だかが分かって彼を振り返る。驚きと困惑が私の中でせめぎ合っていた。


「会いたいと言っていただろう」


 苦笑いに近い顔で、彼は口端を上げる。


「メジットがもう会わせても大丈夫だろうと言っていたからな。テーベに行く前にと思った」


 彼に続いて、後ろに控えめに立つメジットも頷いた。


「彼女はとても成長致しました。仕事も上手くこなしますし、以前のように取り乱すこともありません。冷静に考えて行動する、今や有能な、テーベへ連れて行くことになった女官です」

「会って来ると良い」


 メアリーに。


「会って、思う存分話してくると良い」


 泣き出しそうになる。どれだけこの時を待ち望んだことだろう。


「ありがとう……!」


 それだけを振り絞るように言い放って、庭に向かって私は駆けだした。

 脚を絡め取るスカートが邪魔で、捲りあげる格好で必死に足を動かし、庭にいる彼女の方へ走る。早く行きたいと、やっと会えるのだという嬉しさで心が満ちていた。


「メアリー!!」


 私の掛け替えのない友人だ。

 ずっと手紙を書き続けてきた。それでも言い足りなかった。


「メアリー!」


 私の叫びに似た声に反応して、背後だけだった彼女がこちらを振り向き、それを合図に地面を蹴って、飛びつくように親友を抱き締めた。小さいころから感じてきた彼女の体温を腕全体で力の限り抱く。身体が震えた。


「弘、子……」


 私の腕の中で彼女は戸惑うように呼んだ。メアリーと私も呼び返し、腕を緩めて二人で見つめ合う。


「ごめんね」


 彼女の黒い瞳は揺れていた。


「今まで一人にして、本当にごめんなさい……ようやく会えた」


 乱れる呼吸に邪魔されてしまう。


「会いたかったのよ、ずっと。これからは一緒にいられるわ」


 唇を軽く噛んで、目を見開いている彼女にもう一度腕を回して抱きしめた。相手の身体が強張り、だらりと垂れた二本の腕が僅かに動いた。


「私、私ね、メアリーに会いたくて、」


 何から話せばいい。何から伝えればいい。この掛け替えのない友人に。


「話し合いたくてずっと」


 耳元で彼女の息を止める音が聞こえた。


「……放して」


 小さな声で彼女は言った。


「放してよ」


 私の手を強く払いのけ、髪を耳にかけながら彼女は第一声を放った。払われた左手の甲がひりと痛んだ。


「分かってるから、もういいの」


 伏せた瞼をゆっくりと開き、徐々に顔を見せ始める瞳で私を静かに捉える。その表情に戸惑った。


「聞かなくたって分かるから。あなたと話す必要なんてどこにもない」


 彼女は微笑を湛えている。けれど何かが違う。何かを見下すような冷めた眼差しに言葉が消えた。


「あなたはあの人を選んだ。私たちの時代を捨てて、おじさんとおばさんも、私もヨシキも捨てて」


 そうよね、と私に微笑んでみせる。抑揚のない平坦な声はどこかよそよそしい。


「何度私が説得しても、どんなにヨシキの気持ちを知っていても、あなたはこの時代で王妃として生きるって言うつもりなのよね」


 メアリーのこんな表情を今までに見たことがなかった。間違いなく今目前にいる彼女はその彼女であるはずなのに、別人なのではないかと無意識に疑う自分がいる。


「あの時、私に言った言葉をもう一度言うつもりなんでしょ?自分はあの人が好き、戻るつもりはないんだって」


 違う?と彼女はまた私に笑って首を傾げる。

 決して違う訳ではない。私は、もう一度きちんと話して、自分がこの決断に至るまでを知ってほしかったのだ。


「私も馬鹿だった。あなたがくれた手紙で気付いたの。帰る方法がないなら私もここで生きて行かなくちゃいけないのよね。嫌々言ってないで早く適応しろって話だわ」


 相手は自分の女官の服を掴んで広げて見せた。


「凄いでしょ?今では女官としてよく大臣様たちに褒められるようになったの。それまでにいろいろと苦労もしたけれど、私の適応能力も捨てたものじゃないみたい」


 まるで私に何も言わせないようにするかのように、すらすらと言葉を並べていく。


「方法も分からないのに現代に帰ろうと喚いていた時の私、弘子から見たら相当馬鹿馬鹿しかったわよね。そう感じていたなら言ってくれればいいのに」

「そんなことないわ」

「今思えば弘子が私にくれた手紙だって、笑っちゃうくらい慰めの言葉ばかりで馬鹿な私をひとつも責めてなかった。弘子は昔からそういうところあったよね。馬鹿だと思っていたらならはっきりそう言ってほしかった。弘子のそういう甘ったるいところ大嫌い」


 両腕を胸の前に組んで、彼女は薄い嘲笑を湛えた。


「メアリー、聞いて」

「いいの、気にしないで。私もあの時の自分はとても無様だったって思ってるから。慰めばっかりで読んでて吐き気がしたけれど、わざわざ手紙をありがとう。王妃様が時間を割いて書いてくれたんでしょうから一応お礼は言っておくわ」

「メアリー」

「弘子と話すことはこれ以上何も無い。だから、これで終わり」


 私に背を向け、王宮の方へと歩き出す。

 駄目だ。このままでは、駄目だ。


「待って!」


 決死の思いで腕を伸ばし、彼女の手を掴んだ。彼女が変わったというのなら、その原因は。


「話を聞いて」


 原因は私だ。


「メアリー」


 反動で立ち止まった親友は私を振り返らない。


「……私を怒ってるのよね?」


 掴んだ手から、彼女がびくりと動いたのが伝わってきた。


「分かってるの、怒られたり憎まれたりしても仕方ない決断を私はしたんだって」


 全部、吐き出さなければ向き合えない。


「酷いことしたと思ってる。謝っても許してくれないことも分かってるつもりよ。……でも私、もう一度ちゃんと話したくて……今はメアリーが現代に帰れるよう手段を探しているの。良樹のことも今探してもらってる。手紙が迷惑だったなら謝るわ。ちゃんと思い遣れなくてごめんなさい。でも」

「だからそういうところが嫌いなの!」


 彼女は叫んで私の手を振り払った。


「弘子」


 短い三文字の呼びかけが、私の言葉を断ち切った。切れた語尾の先で、彼女はゆっくりと私を振り返り、瞬きの少ない目で見据える。


「私はただ変わっただけよ。あなたと一緒」


 相手が一歩、こちらに踏み出した。


「あなたがあのツタンカーメンで私たちを忘れるくらい変わったと言うのなら、私もあなたに捨てられて変わるのも当たり前じゃない?」


 彼に出会って、色んなものを得て、変わった。けれど変わらぬものもある。しっかりとこの胸に抱いている。


「彼は大切な人よ。これは変わらない。でもメアリーのことも大切なの。お母さんもお父さんも良樹も。この気持ちは一つも変わってない」

「都合のいいこと言わないでよ。私たちを捨てたくせに」


 氷の棘のような声だった。喉が突き刺されたように、呼吸が苦しくなる。全部本当のことだ。


「あなたはもう私を捨てた人。裏切り者、それでしかない。私が大事だと言うのなら、おじさんやおばさんや、ヨシキを大事に思うのなら、どうして捨てたの。所詮口だけじゃない」


 どうにか聞いてもらおうと縋る思いで懇願するのに、彼女は構わず口開く。


「私がこうなったのは全部あなたのせいよ。心の荒んだ今の私があなたの言葉を素直に受け入れると思う?」


 彼女は冷笑を浮かべた。


「あなたは助けを求める私ではなく、あの男を選んだ。私を追いかけもしなかった。あの時の私の気持ち、あなたに分かる?ここであの人に愛されてのうのうと王妃として崇められて過ごしてきた弘子なんかに何が分かるの!?」


 何も言えなかった。茫然としたままの私は、何も。


「助けようとしたあなたにこの時代に引きずり込まれて、やっと会えたあなたに見捨てられて、誰も知らない空間に閉じ込められて、おまけにやったことのない女官の仕事をこれでもかと押し付けられて……弘子に会えば帰れると信じていたのに、それだけを希望にいたのに……あなたは私を見捨てたのよ」


 帰ることを夢見て、ただそれだけに縋って。


「知ってるわ。弘子のことだから本当はあの後会えるよう取り次いでくれたんでしょう?でも王にあれだけの無礼を働いた私に、王妃のあなたが会いに来るなんて到底無理だった。許されなかった。だから手紙をくれた。私を気遣った言葉で溢れた手紙。何通も何通も。でもそんなあなたの気遣いは正直迷惑でしかなかった。苛立ちが募るばかりでなんの気休めにもならなかった。王妃であることを自慢したいの?いつか私を現代に返す?そんなこと出来るの?出来るかもわからないこと言わないでよ。あなたのことだからそんなつもりなんて無かったかも知れないけれど私はそう感じたわ。だから全部、全部破ってやった。あんな手紙、捨ててやったわ」


 私を映す眼差しが憎しみという名のものだと、ここで確信する。


「私は裏切り者の弘子とは違う。時代も、両親も友達も捨てない。あの時代に必ず帰る」


 何かが二人の間で崩れ落ちていったのを感じていた。

 もっと前に、メアリーが私に手を伸ばしたあの時から彼女の中で崩れていたのかもしれない。


「私たちは変わったの」


 お互いにね、と続けてまた口に弧を描く。


「私は私の好きなようにする。もうあんな手紙、送ってこないで。迷惑だわ」


 彼女は巻き付いたままだった私の指を払い落とす。


「弘子、私たちはもう、戻れはしないのよ」


 彼女は私に背を向けて歩き出した。彼女を止める気力は残っていなかった。そして相手は私から離れる途中一度だけ振り返って私に軽蔑の視線を向けた。


「さようなら」


 これが緑の都での最後の出来事だった。


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