帰還した影
寝具に沈んだのが何時間前だったか思い出せない。身体の向きを何度も変えては目を瞑ってみても眠れるはずなどなく、徐に暗い宙を見つめていた。
命に別状はないとは言え、腕を負傷したと言う。切断はしていないにしてもどれくらい出血しただろう。本当に治療は済んだのだろうか。知りたいことは尽きないくらいあるのに聞いてみても詳しい情報は得られなかった。何も分からない。
心配で噛み砕かれそうで、うつ伏せになって麻の中に顔を埋める。やっと会えるのだと喜んでいたその日に、まさかこんなことが起こるとは思ってもみなかった。それに、彼に剣を向けたという裏切り者は一体何者だったのか。
この国は神に左右される宗教観を持つ。それを考えればこの国の人が神の化身とされているファラオを殺めようとするとは考えにくい。ただでさえ、彼は今アメンを取り戻した王として英雄視されているのだから。
『――互いの国を見張るために密偵を置いているのも暗黙の了解となっております』
ふと思い出したのはナルメルに教えてもらった密偵の話だった。身体を起こして額に手を添えて考えを巡らせる。
この国の者ではない人ならば彼を殺そうとするかもしれない。敵国なら彼を狙う理由などいくらでもあるだろう。何と言っても彼がいなくなればこのエジプトという大国は間違いなく崩れる。
エジプトの隙を狙っている国は目が回るほどある。思い出せる限りだとヒッタイト、アッシリア、バビロニア、リビア等その他諸々。
何度も毒を盛られたと言っていた。彼が毒の有無を判断できるのもそのためだ。そして今回は兵の中に潜んでいた謀反人に切りつけられた。これも初めてのことではないのだろう。多くの国から、多くの人から彼は狙われている。
また膨れ上がる不安にどうしたらいいか分からなくなって、剥き出しの腕を抱くようにして擦った。
明日になれば事件の詳細も分かるはずだ。考えに溺れて、このままでは悪い方向へと思考を暴走させても仕方がない。今の私に出来ることは明日無事に会えるようにと祈ることの他にない。自分の不甲斐なさに嫌悪を抱きつつ、麻の寝具を引き寄せてもう一度身を横たえ、目をぐっと閉じた。
どれくらい時間が経ってからか、ふと、気配がして目を開けた。
何かが、息を潜めてこちらに近づいているような気配がある。神経を尖らせて耳を澄ませれば、夜の闇に消え入りそうな足音が鼓膜を震わせた。
メジットだろうか。いや。彼女なら断って入ってくるだろうし、もっときびきびとした音を鳴らす。他に入ってくる人なんて、誰も。
こうしている間にも微かだった足音は私の鼓動と共に大きくなる。そろり、そろりと、朧だが確かに聞こえる。夢ではなかった。
王が襲われたなら王妃も襲われる。裏切り者が兵の中にいたのなら、王宮の中にもいるかもしれない。メジットからの言葉と自分の中で芽生えた可能性に恐怖が煽りを受けた。
何より、以前も寝ている最中に襲われたことがある。一回はアイにそそのかされた侍女に。もう一回は彼のことを噛んだコブラに。
助けを呼ぶにも、ここで声を上げては、声を上げた瞬間に飛びかかってくるかもしれない。寝台を降りて扉の方に逃げて外の兵と侍女に助けを求めた方が良い。恐怖で動転しつつある中でそう判断する。
心を決めて寝具を剥ぎ、勢いよく起き上がった瞬間、恐怖に何もかもが絡め取られた。
黒くて大きな影が寝具を越えたすぐそこに浮かんでいて、寝台の上に膝をつき、身を乗り出し、手を私に向かって伸ばしていた。
「……誰かっ!!」
咄嗟に伸ばされた腕を払いのけて叫んだ。震えあがった私の声は声と呼べるものではなかった。判断が遅かったのだと一瞬の内に後悔までもが湧き上がってくる。
払いのけた反動で手の主が怯んだ隙に寝具から飛び出すと、後ろから素早く腕を掴まれた。
「やっ……いや!」
引き寄せられてしまう。抵抗をものともせず、寝台の上に座る影は私を抱き込んで口まで大きな手で塞いだ。
このまま、殺されるのだろうか。剣でも喉に突き付けられて。彼にも会えずに。
死ぬわけにはいかないと、腕を、足をばたつかせて可能な限り暴れて巻き付く腕を払おうと我武者羅になっていたら。
「呆れたものだ。お前は夫の腕を忘れたのか」
耳元に聞こえた一つの声に、極度に達していた恐怖と不安がぴたりと停止した。口を覆っていた手が緩んで頬を撫でるように落ちて行き、押さえつけていた腕が動いて後ろから私の身体を強く包んだ。
「たかが二月会わなかっただけでこれとは、悲しいものだ」
この腕も。声も、手も。今感じるもの全部。
全部、私は知っている。
「ヒロコ」
身体が反応するまま振り返った。肩に垂れた髪が身に着けた服に擦れる音の後、夢でも見ているのかと疑いばかりが大きくなる。
暗い中にぼんやりと浮かぶ褐色の肌。腕には闇を物ともしない黄金の輝き。何度思い浮かべたか分からない淡褐色の瞳には目を見開いたままの私が
「今、帰ったぞ」
穏やかに綻ぶ表情がふわりと笑う。
慣れた暗い闇の中に、ずっと会いたいと願っていたその人が今私の前にいた。
「ヒロコは驚かせる甲斐というものがある……だが、もっと早めに私だと気付いても良いと思うのだが」
喉を鳴らして、驚愕で停止したままの私に腕を伸ばして抱き寄せる。
「それよりあの手紙は何だ。元気ですなどと……元気でいてもらわなければこちらとて困る。それに海での様子はホルエムヘブやラムセスから腐るほど書簡で知らされていたというのに、何故お前からもその話を聞かねばならぬのだ」
幾度となくつらつらと綴って送った私の事務的な返事に文句をつけながら、髪を撫でて頭の頂に口づけた。
「私は己の気持ちを正直に書いたと言うのに何故ヒロコの手紙はあれほどそっけなかった」
「ま、待って」
何が何だか整理がつかなくて、腕を回してくるその人に小さく抗って身を離した。後ずさり、本物なのかと相手を凝視してしまう。
「どうした、ヒロコ」
そんな私に彼は小首を傾げてまた引き寄せようと腕を伸ばしてくる。
「待って、どうしてあなた……」
「どうしてとは?」
「だって兵の中の裏切り者に切りつけられて、それで、帰りは明日だって……だからラムセスが……」
私のまとまりのない言葉の羅列を理解したのか、彼は思い出したようにああ、と声を漏らして右腕を前に出してきた。
「これのことか」
肘の上、上腕の部分に、麻布が包帯のようにぐるりと巻かれて手当てが施されている。
「不意を突かれただけだ」
今度は自慢げに肩を揺らした。
「これくらいで何故私が予定まで狂わせて休息を取らねばならぬのか」
及び腰で傷があるという腕に顔を近づけてみる。巻かれた布の大きさから15センチほどの縦に長い傷だった。そっと指を這わせた麻の白の上に赤い染みがうっすらと広がった。
「周りが騒ぎすぎなのだ。ちょっと血が出ただけで休みましょうやら侍医を呼べやら、あれはうるさかったぞ」
呆れたと小さく息をついて彼は首を横に振る。
「……痛むの?」
「痛まぬ」
そんな風に言っていても、これだけ血が黒っぽいとなるとそれなりの深さがあるだろうに。
「手当はちゃんとしてもらった?」
「ヒロコが気にすることではない」
心配になって尋ねたら、言葉を奪おうとするかのように抱き込まれる。腕に力が入ったためか、その麻布に滲む新しい赤がじわりと広がったのを見た。
「血が滲んでるわ」
「構いはせぬ」
さらに息が止まってしまうくらい身体を締め付けられて、視線が傷のある腕から外れる。彼の熱い吐息が首の付け根に落ち、久々の感覚に身体の芯が震えた。
「ヒロコに、会いたかった」
そんなことをその声で言われたら、もう何も。
何も言えなくなってしまう。
「ヒロコは違うのか」
そんなことはないと、胸が高鳴って仕方ないのだと伝えようとするのに何も口から出て来てくれず、首を横に振りながら、彼の背に腕を回して肩に頬をつけてもたれる。
この腕に抱かれていることがもう、例えにならない感情を溢れさせて私を窒息させた。言いたい言葉も、話したいことも沢山あったはずなのに、肝心な時に何も言えなくなってしまうのは、なんて歯痒いものだろう。
「……本当に」
もう一度確かめたくて、顔をあげて淡褐色を覗く。伏せがちの目で彼も私を見つめていた。
「本当に、あなたなのね」
手を相手の背中から離してその頬に添えたら、間違いないぬくもりが指先から伝わってきて夢ではないのだと教えてくれる。
「他に誰がいる」
その手の上に褐色の大きな手が被さって、目の前に彼の笑みが迫って。額にキスが落ちて、そのまま瞼から左の頬へと沿って流れて行った。その感触が、この存在が夢幻ではないと私により深く刻み付ける。
「会えぬ間ずっと、こうしたくて堪らなかった」
彼の熱い手が背中を下から上へとゆっくりと辿って、芯が熱を持って言うことを聞かなくなった私の身体を腕の中に閉じ込める。
もう一度互いに抱き締め合って、ぬくもりを感じとって、顔を近づければまた唇が降ってくる。会えなかった分を埋め合わせるかのように、少し激しさを交えながらも愛おしむように、慈しむように繰り返される。
すると、ふっと潤みが肌から離れてその代わりに手が流れた。腕力が緩み、身体が解放されて、別なものに思考を取られているような彼の顔を覗く。
「どうしたの?」
尋ねると、眉を顰めながら私に額を寄せてきた。
「……ヨシキ」
ぼそりとあの人の名を乗せた吐息が私の潤んだ唇にかかった。
良樹。彼が探してくれると言っていた私の大切な幼馴染。
「色々と探ってみたのだが、見つからなかった。今も探させてはいるが見つかるかどうかは正直分からぬ」
すまぬと、額を離してまた薄い唇から残念そうに告げた。
見つかってほしいとは願っていたものの、やっぱりという気持ちの方が勝っていたと思う。
彼が探してくれていたのはテーベのみであって、良樹がいくつもの都市のある中、テーベにピンポイントで落ちた確率なんて目が飛び出るほど低いものだった。
「落ち込まぬのか?」
様子を窺うように顔を覗かせてくる彼に、笑って見せる。彼の苦労を知っていながらここで拗ねるほど私だって子供ではない。忙しかったこの人が私のことを気にして良樹の行方を探そうとしてくれていたことが、どれだけありがたいことか。
「あなたが無事で帰って来てくれたからいいの。それだけで十分よ」
手を伸ばして感じる髪の固さは私が愛したものそのもの。無事という二文字がどれほど嬉しいものか。
それでも彼は納得いかないような顔をする。良樹が見つけられなくて私に対して申し訳ないと思っているからなのだろう。
「襲われたと聞いて気が気じゃなかった。あなたがここに帰って来てくれたことが私は何より一番嬉しい」
大事に至ることなく、これだけで済んで本当に良かった。
「そうか」
指を私の輪郭に伝わせ、顎を掴んで引き上げる。視線の先には苦みを混ぜた微笑みで、私の名を呼び、しっとりと唇を重ねてくれた。
「それより」
口先が離れて互いの鼻が触れる程度の距離を持った時、咄嗟に私の口が開く。今までよりもずっと彼の熱を帯びた唇が少し重たい気がした。
「あなたがまた襲われないかが心配だわ」
大丈夫だ、と根拠もない答えをして、彼は私の後ろ頭に手を添えて別の角度から顔を近づけてくる。
「そんな簡単な……襲われたのよ?」
近づいてくる相手の顔を手で止めたら鼻先にある相手の表情がつまらないと言って拗ねた。
「これからもこんなことがないとは言い切れないのでしょう?」
「今回は無事だったのだからいいだろう」
「首謀者は分かってないって聞いたわ。なら一層気を張らないと」
身体を反らせながら言い切れば、今度は彼の口から色の違ったため息が漏れた。
「そこまでもう聞いているのか」
「ええ。首謀者を取り逃がしたって。だからね、隣国の密偵かもしれないって考えてみたの……ほら、ヒッタイトとか」
あくまでど素人の私の憶測でしかない。それでも可能性をあげて警戒を強めていかなければ。
「ラムセスとセテムに調べさせてはいるが、他国の者ではないだろう」
片腕に私を抱きながら、もう片腕は立てた膝の上につけて頬杖をつく。
「こちらに非がない限り、今やエジプトを敵国に回すような馬鹿な国はない。賢いヒッタイト王ならば尚更。あれほど軽佻な行動は起こさぬ」
「じゃあ誰が……」
そこで彼はまた低く唸る。
「まだ推測の段階ではあるが、アイの差し金ではないかと思ってはいる」
出てきた名前に声をあげてしまった。
アイが邪魔に思っているのは私であって、彼ではないはずだ。彼に自分の娘を王妃にすることで、王位に近づけようとしていたのだから。
「あの人があなたを襲わせたの?今までアイの狙いは私だったはずでしょう?どうしてあなたが狙われるの」
「さあな」
本当に分からないというように息を上に吐いて前髪を揺らした。
「消去法で消していったら行き着いた。証拠も確証も何もない。まっさらだ」
現代からこちらに戻ってきたばかりの頃、一度だけアイに会った時のことを思い出す。今までと違った私への態度。そして彼を睨みつけていた悪寒が走るくらい恐ろしかったあの眼。
何か、あるのだろうか。
「年も年だからな、徐々に狂い始めているとも考えられる」
そのまま彼は寝台の上に横になった。ぎしりと木の軋む音が心なしか響く。
確かにアイはこの時代にしてはかなりの長生きでもう70に近い年。改めて考えてみればアイは彼の祖父にあたる人なのだ。認知症を発症していても不思議ではない。でもそんな簡単な話で終われるものでもない気がする。
「まあ、この私があのような老いぼれに殺される訳がない」
「でもこれは問題よ。また襲われでもしたら今度はこれくらいの怪我では済まないかもしれない。下手をすれば命だって危うくなるかもしれない」
今回負った傷も決して掠り傷のような軽いものではなかった。
「ねえ、真面目に聞いて」
天井を仰いで寝転んでいる彼を覗き込んで揺さぶった。
上から訴える私の垂れた髪を、彼の指が伝って巻き取っては解いて弄ぶ。
「それほど柔ではない」
私を見ず口を尖らせた人がそう言った。
彼の指に絡まった私の黒髪が滑らかに踊っている。
「ヒロコは私がそれほど弱いと思っているのか。見くびるな」
「人は誰しも柔よ」
何かがあってからでは遅い。もっと危機感を持ってもらわなければ。
「私は違う。神ラーの化身だ」
久しぶりに会ったら会ったでこの調子だ。
人は皆弱いのだと、神ではないのだとそれとなしに諭してみても、彼の頑固な意地と幼いころから植え付けられた宗教観に邪魔されてしまう。
どうやったら伝わるのかと唇を噛んで自分の知っている語彙を巡らせていたら、くいと弱く髪を引かれた。
「その話はもう良い」
髪で遊んでいた指が私の頬を撫でるように過ぎて、そのまま腕を強く引かれて私は彼の上に覆いかぶさるように倒れ込む。
「アンク、話はまだ終わってないわ」
「しばらく見ぬうちに美しくなったな」
身体を起こしながら口にした言葉の語尾は、髪を越えて私の頬へと流れた彼の手と声に奪い去られた。
「髪も、伸びたか」
今度はさらりと髪を指が梳く。
「美しくなった」
うん、と一人で満足そうに頷いている。
美しいなんて、私には縁のない言葉だ。言われ慣れていないものだから耐性がなくてすぐに恥ずかしくなり、視線を逸らしてしまった。
「からかわないで。私は本気で話をしているの」
「本当のことを口にしただけだ。お前は私の自慢の、最愛の妃」
強張る私の声を遮った彼は、微笑を浮かべて目を伏せていた。
「ずっとこうして触れたかった。この腕に抱きたかったのだ」
身体も顔も火がついたように熱くなる。
「今日はぎゃあぎゃあとうるさいラムセスとセテムを振り切って、ヒロコに会いたいがために馬を走らせてきたのだ。もう疲れた」
私を包み込んで、向かい合う形で寝転ぶ。
「このまま眠れ」
抗う気など無くなってしまい、されるがまま褐色の中に埋もれる。抱き込まれて隠れた彼の顔の代わりに、耳を打つこの人の鼓動が鮮明になった。それが私の心を和ませる。
襲われもした。心配も不安も感じた。でも彼は生きて帰って来てくれて今、私を抱いている。それが嬉しくてどうしようもなくて、縋り付いて目を閉じた。
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